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2016年8月 5日 (金)

関ヶ原直前~石田三成&真田昌幸&上杉景勝の連携

慶長五年(1600年)8月5日付けの書状で、石田三成が真田昌幸に、恩賞の確約と西軍有利の報告と上杉景勝への協力を要請しました。

・・・・・・・・・・・

ご存じの関ヶ原ですが・・・
そもそもは、豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後に、五大老筆頭の座を良い事に、秀吉の遺言に背く行為をしていた徳川家康(とくがわいえやす)に対して不満を持っていた五奉行の一人の石田三成(いしだみつなり)・・・

一方の家康は、先の朝鮮出兵後のゴタゴタで決定的となった豊臣家臣団の亀(3月4日参照>>)をを利用して、豊臣家内の反家康派の一掃を画策します。

そんな中で、上洛要請に応じない会津(あいづ)上杉景勝(うえすぎかげかつ)(4月1日参照>>)に対して「豊臣への謀反の疑いあり」とした家康が、五大老筆頭として諸将に出兵を要請するとともに、自らも会津に向けて出陣しますが、その時に、留守となった伏見城を三成が攻撃・・・ここに、関ヶ原へ向けての合戦の火蓋が切られたわけです。
(さらに詳しい経緯は【関ヶ原の年表】で>>)

そんな中、その要請を受けて会津に向かう家康勢と合流するべく出陣した真田昌幸(さなだまさゆき)と息子の真田信幸(のぶゆき=後の信之・兄)真田幸村(ゆきむら=信繁・弟)父子のもとに、三成が反家康の挙兵した事を知らせるとともに、西軍へのお誘いの手紙が届くのです。

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犬伏にて真田父子が受け取ったとされる豊臣三奉行蓮署状(長野・真田宝物館蔵)

7月17日付けのこの書状は、4日後の7月21日に犬伏(いぬぶし=栃木県佐野市)にいた昌幸らのもとに届き、ここで父子話し合いのもと、父=昌幸と弟=幸村は西軍に、兄=信幸は東軍につくという決断をした真田父子は、有名な「犬伏の別れ」(7月21日参照>>)となるのですが・・・

以前のページにも書かせていただきましたが、一般的には、ここで父子の意見がの分かれ、刀を抜かんがばかりの激論になったとされますが、おそらく、それは今後の事を考えたポーズ・・・たぶん「例のどちらが勝ってもOK」の二股保険作戦(【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」事】参照>>) だと思われ、常日頃から、万が一の時は、娘を三成の義弟=宇多頼次(うだよりつぐ)に嫁がせている父=昌幸と、三成の盟友である大谷吉継(おおたによしつぐ)(7月14日参照>>)の娘を正室に迎えている弟=幸村は西軍につき、家康の重臣=本多忠勝(ほんだただかつ)の娘=小松姫(こまつひめ=稲姫)を正室に迎えている兄=信幸は東軍に・・・というダンドリが、すでに話し合われていたのでしょう。

てか、戦国の婚姻は、そのための婚姻でもあります。

で、この後、信幸はそのまま、会津征伐に向かっている家康と合流する事になるのですが、7月25日には、三成が伏見城を攻撃した事を知った家康が小山評定(おやまひょうじょう)に会津征伐中止の決意表明(2012年7月25日参照>>)してUターンを開始する一方で、領国へと戻る音にした昌幸らには小松姫による沼田への入城拒否(2009年7月25日参照>>)なんかもありながら、8月1日には西軍からの攻撃に耐えていた伏見城が陥落して城将の鳥居元忠(とりいもとただ)が自刃し(8月1日参照>>)・・・

と、めまぐるしく展開していきますが、この間の7月24日と7月27日の2度に渡って、家康は、兄=信幸に書状を送って、父弟と袂を分かってまで味方についてくれた事を大いに喜ぶとともに、「勝利したあかつきには父=昌幸の領地はソックリ君の物やからな」との確約をしています。

一方、伏見が落城した事で、一旦、佐和山城(さわやま じょう=滋賀県彦根市)(2月1日参照>>)へと帰還した三成は、8月9日には、3000ばかりの兵を率いて、美濃(岐阜県)垂井(たるい)に向かい、その翌日の10日には、関ヶ原の本営となる大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市郭町)(8月10日参照>>)に入ることになりますが・・・

この、一旦、佐和山に戻っていた8月5日の日付けで三成が書いた昌幸宛ての書状がコチラ↓です。

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石田三成書状(長野・真田宝物館蔵)

この手紙の後半部分には・・・
先の伏見城攻防戦の経緯をはじめ、細川幽斎(ほそかわゆうさい)田辺城(たなべじょう=京都府舞鶴市)攻防戦(7月21日参照>>)や、その息子=忠興(ただおき)の大坂の屋敷が燃えて家臣が自刃した事(7月17日参照>>)など、合戦の近況を、いかにも西軍有利のように報告するとともに、「頑張ってくれはったら、いっぱい領地差し上げまっせ」の約束もしたためてあり、この書状を手にした昌幸は、大いに奮起したと言います。

とは言え、歴史好きとして注目すべきは、前半部分・・・

そこには、
上杉の関東出兵に関して、真田家からも(秀頼の名前をチラつかせて)念を押すように、例え困難な状況であったとしても、人を雇ったり、真田の手勢をつけるなどして必ず飛脚を派遣する事」

また、
「小諸(こもろ=長野県小諸市:書状では小室)・深瀬・川中島(かわなかじま=長野県長野市)・諏訪(すわ=長野県諏訪市)など信濃(しなの=長野県)地方への出兵を、早々に実施する事」
が、書かれています。

そう、昔から囁かれている(関ヶ原における)三成と上杉の密約説』ですね。

厳密には、「三成×上杉」というよりは、三成と、当時、上杉の執政だった直江兼続(なおえかねつぐ)との密約ですが・・・

三成と兼続は同い年で、ともに、低い身分の出身ながら、小さな事からコツコツとやって来て殿さまに気に入られて出世してきたという、良く似た人生を歩んできたせいか、上杉が上洛した際、知り合ってすぐに二人は意気投合し、その後もかなり仲が良かったらしい・・・

現に、今回も、そもそもは兼続が、家康に対し、強気の直江状(4月14日参照>>)を送った事がキッカケで「会津征伐」が開始され、家康が出陣じたそのスキに三成が伏見城を攻撃・・・その3日後の7月22日には、兼続が越後(えちご=新潟県)にて一揆を扇動しています(7月22日参照>>)

また、『続武者物語』には6月20日付けの兼続宛ての三成の書状に「調略の通りに事が運んでウレシイわ」と書いてあったと記されてたり、『上杉軍記』にも「兼続が三成に賛同して、景勝に挙兵するよう説得した」と書かれていたりします。

もちろん、今回の昌幸への書状も、その『三成×兼続、密約説』に一役買っているわけです。

なんせ、書状の通りだと、真田は、三成と上杉の連絡役であるとともに、信濃周辺を押さえる役割なのですから・・・

とは言え、やはり、この『密約説』は、あくまで「説」止まりであって決定打に欠けます

伏見城攻撃からの一揆扇動は見事なタイミングですが、残念ながら、このタイミングで事を起こした武将は、三成と上杉だけではありません。

家康が西へのUターンを決意した同日には、すでに伊達政宗(だてまさむね)が東軍として動き始め(2015年7月25日参照>>)ていますし、伏見落城2日後の8月3日には、前田利長(まえだとしなが)加賀大聖寺城(だいしょうじじょう=石川県加賀市)を攻略(8月3日参照>>)、8月16日には苗木城(なえぎじょう)(2014年8月16日参照>>)福束城(ふくつかじょう=岐阜県安八郡)(2015年8月16日参照>>)に・・・など、様々な武将がそれぞれ同時進行しています。

つまり、西につくか?東につくか?・・・まさに、全国の武将が東西に分かれる天下分け目の戦が一斉に動き出したのが、この時期です。

そんな中で、家康が西へとUターンした時に上杉が追撃しなかったところを見ると、やはり「三成との密約」と言えるほどの連携感は無いように見えます。

確かに、家康Uターン時には、兼続が追撃を猛プッシュしたものの、景勝がガンとして承知しなかったと言われていますが、結局は、この後の9月9日に兼続が東北を制覇すべく出陣する(9月9日参照>>)のも、それは、他の武将と同様の「このドサクサで一発かましたれ!」の合戦であって、「密約」とまではいかない感じに見受けられます。

と言っても、今回の書状が現存する事でも明らかなように、頻繁に連絡をとっていた事は確かですが・・・

ただ、それは家康側も同じ・・・というより、この頃の家康が江戸城に籠って、味方になってくれそうな武将に、せっせと手紙を書きまくっていた(8月11日参照>>)のは有名な話で、だからこそ、家康の西へのUターンをキッカケに、あっちでもこっちでも動き始めるのですから・・・

とは言え、今回、この三成の書状を受け取った昌幸は、信濃周辺を制圧すべく・・・というよりも、結局、この後は居城の上田城(うえだじょう=長野県上田市二の丸)に籠って、徳川秀忠(ひでただ=家康の三男)の軍を迎え撃つ事になります(2009年9月7日参照>>)

ただし、これはこれで、おそらくは関ヶ原における東軍の本隊であったであろう秀忠軍=約3万8000の軍勢を翻弄して、8日間に渡る足止めを喰らわせ、結局は「本番の関ヶ原に間に合わない」という状況を作り出した(2011年9月7日参照>>)わけで、まさに、真田昌幸ここにあり!の見事な籠城戦でしたね。

まもなく、大河ドラマ『真田丸』は、このあたりの事が描かれるのでしょうが、おそらく、この第2次上田合戦が、ドラマ中盤戦の最大の山場になる事は間違いないでしょう・・・楽しみです(○゚ε゚○)
 .

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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

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コメント

広島、長崎の悲劇・・
一年一度と言わずに、このことを考えたいもの。歴史を学び、知恵を求めて。

投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2016年8月 6日 (土) 08時49分

根保孝栄・石塚邦男さん、こんばんは~

お返事が0時を過ぎてしましましたm(_ _)m
昨日は「広島平和記念日」でしたね。

投稿: 茶々 | 2016年8月 7日 (日) 01時43分

茶々さん、おはようございます。
昨日兵馬俑と大阪城を見に行きました。
凄かったです。
大阪城の大きさに改めて圧倒されました。
昨日櫓巡りをしたのですが、西の丸は広いですね。

投稿: non | 2016年8月 8日 (月) 07時21分

nonさん、こんばんは~

キングダム、読んでますww
秀吉時代の大阪城は、今の4~5倍はありましたよ。

投稿: 茶々 | 2016年8月 9日 (火) 01時59分

こんばんは、茶々さん。
暑すぎますね。こんな暑さだと政府は休養宣言を出してほしいなと思います。
三英傑だと出すだろうなと思いました。
キングダムはあまり見ていませんが面白いです。始皇帝は虐められっ子なので猜疑心が強いみたいですが、臣下の登用、政策は凄いですね。秀吉でも負けるだろうなと思いました。
豊臣の大阪城は徳川に比べて本丸、天守は小さいのですが、全体は今よりもはるかに大きいので一昨日にそこを歩いていたら倒れたなと思いました。
ところで家康の政策は信長、秀吉の延長線ですね。それなので三成は妥協できなかったのかなと思いました。大谷吉継もダメだと説得したのですが・・・

投稿: non | 2016年8月 9日 (火) 19時46分

nonさん、こんばんは~

秀吉の遺言を反故にする事が許せなかったのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2016年8月10日 (水) 02時08分

どうも西軍は秀頼を担げなかったのと作戦がバラバラですね。関が原で勝っても長期戦になったら負けたし、佐竹、長曾我部、前田利政、真田親子は裏切ったのではと思います。
家康の死後に決断した方がシミュレーション的にも良かったし、東西政権にした方が朝廷も困らなかったでしょう。

投稿: non | 2016年8月10日 (水) 18時09分

nonさん、こんばんは~

関ヶ原の戦いは豊臣政権の内紛なので、秀頼を担ぐとか担がないというのは違うように思います。

東軍・西軍、どちらの主君も豊臣秀頼です。

投稿: 茶々 | 2016年8月11日 (木) 01時53分

茶々さん、おはようございます。
形式上はそうですが、山内一豊みたいに豊臣の家臣なのに領地を家康に差し出すのもいますので、実質徳川VS豊臣になっています。三成はそれを見抜いたのですが、でも作戦が駄目です。関ケ原に集中させるべきなのに大津城は落城しない。近畿作戦で家康の方に有利になったと思います。九州も官兵衛に荒らされました。まるで頼長みたいに戦争を知らずに作戦を立てたのと似ています。ある意味保元の乱同様に負けたのも負けるべくして負けた感じがします。

投稿: non | 2016年8月11日 (木) 09時47分

nonさん、こんばんは~

>形式上はそうですが…

いえいえ事実上そうだと思いますよ。

戦い方に感じては、人それぞれの見方がありますし、時の運も相まって、何がベストなのかは、多種多様に意見があろうかと思いますが、
関ヶ原の戦いが豊臣政権内の内紛であった事は、おおよそ間違いがないというのが、私の見方です。

関ヶ原の時点では、家康も三成もともに豊臣家の家臣で、どちらも豊臣家のために戦っているのです。

>豊臣の家臣なのに領地を家康に差し出すすのもいますので、実質徳川VS豊臣になっています。

三成が本拠とした大垣城も、城主の伊藤盛親が三成に差し出した城ですので、この行為は一豊が城を差し出したのと、何ら変わりは無いし、この時点では、どちらに味方しようが、豊臣を裏切った事にはならないと思います。

家康が豊臣家の敵という感覚を持ってしまうのは、「この後に秀頼を倒して江戸幕府を開く事を知ってる(後世の)人」が陥る錯覚のように思います。

関ヶ原から12日後の9月27日に、大坂城へと入った家康が、秀頼に謁見して「戦勝報告」をしていますが、この時点で家康が豊臣家の敵なら、そんな戦勝報告を秀頼が受ける理由がありません。

投稿: 茶々 | 2016年8月12日 (金) 01時27分

茶々さん、家康は本当に秀頼の家臣と思っていたのでしょうか?
秀吉よりも石高が高い領地を持っていて、藤堂高虎みたいに豊臣に忠誠を誓っていたのに家康に忠誠を誓ったのもいるのでどうかなと思いました。
それと官兵衛です。本当に豊臣のために九州を平定したのかなと疑問です。
官兵衛は秀吉の参謀なのに嫌われました。本当に恩義があったのかなと思います。
ただ東軍にいた福島、田中、官兵衛の息子は豊臣のためにと思っているでしょう。特に長政は秀吉に命を助けられましたので恩義は強いでしょう。
ところで蜂須賀が微妙なのです。蜂須賀は領地を家政が秀頼に返上して高野山に行きました。でも家臣の大部分は大阪にいました。でも息子は東軍に参加しています。あそこは豊臣の一番の家臣なので何故そういう行動をしたのかよくわからないのです。ただ大坂の陣の時に家政は家臣が止めなかったら秀頼のもとに行ったし、蜂須賀が大坂にいったら浅野あたりも秀頼に味方しないといけなくなった可能性が高いです。それなので内紛ともいえなくもないのですが、家康は天下取りと考えたのではと思いますし、家康は秀吉、利家亡き後は三成が激怒するみたいにワンマンになりました。その時点で江戸時代が始まったと考えて良いのではと思います。
孝謙天皇が崩御後、奈良、長岡にいても実質は平安時代になっていたみたいな感じに似ているのではと思います。これは奈良の歴史ガイドの人も同じ意見でした。

投稿: non | 2016年8月12日 (金) 08時33分

nonさん、こんにちは~

先のコメントで書き忘れてましたが、9月27日に大坂城にて秀頼に謁見した家康は「関ヶ原の戦勝報告をするとともに、改めて豊臣家への忠誠を誓って」います。

心の底で天下取りを意識していたかも知れませんが、それはあくまで、今後の事を知っている後世の人間の臆測であって、少なくとも、ポーズとして、家康は豊臣の家臣である事をハッキリと見せているのです。

なので、家康に味方したから豊臣を裏切ってる事にはならないです。

話が重複しますが、関ヶ原の戦いは、豊臣家内の東軍VS西軍であって、家康VS豊臣家では無いです。

蜂須賀家だけではなく、前田家も真田家も…その他多くの家が父子や兄弟で東西に分かれてますが、それこそ、どちらも豊臣家に忠誠を誓っている豊臣家内の派閥争いなので、どちらが勝っても家が残るように東西に分かれているのです。

あと、平安時代とか江戸時代とかというのは、後世の人が、歴史をわかりやすくするために区分しただけですので、あまり意味が無いように思います。

いつの時代も、歴史は大河のようにゆっくりと流れて変化していく物だと感じます。

投稿: 茶々 | 2016年8月12日 (金) 14時45分

茶々さん、こんばんは。
茶々さんは豊臣になったら力を入れますね。
私はある観点と言いますと見たら面白いと思います。豊後に漂着した三浦按針、八重洲は日本の王と家康を呼びました。ある意味世界史的には徳川政権になったと言えるのではと思います。これは世界史的な観点ですので日本史では別でしょうですが・・・
それと命令をしているのは家康のを見ますとやはり豊臣内部の戦いでないと思った方が良いかなと思います。リーフラデ号の武器は家康のものになって関ケ原の戦いに使いました。やはり天下取りと位置付けたと思います。実際にその後豊臣の領地は一大名並みです。とても秀頼が家康の主君とは思えないです。
蜂須賀ですが中立です。確か日本の大名でただ一つだったと思います。

投稿: non | 2016年8月12日 (金) 20時42分

nonさん、こんばんは~

>茶々さんは豊臣になったら力を入れますね。

ハンドルネームを見て、最初からご理解いただいていると思ってましたが…
大阪城のすぐそばで生まれ育った豊臣チルドレンですので、ここは譲れません。。。てか、自分の意見を言いたいがためにブログやってますので、、、

ところで、
この時代に日本に来た外国人は、お世話になってる人の事を皆「王」と呼びます。
イエズス会は大友宗麟を「王」と呼んでましたし、スペインは伊達政宗の事を「王」と呼んでます。
特に按針たちは、命からがら見知らぬ国に漂着して、ヘタすりゃ殺されかねない状況にあるんですから、そりゃベンチャラも使います。
スナックのお姉ちゃんがお客さんの事を全員「社長さん」と呼ぶのと同じです。

現に、イエズス会の宣教師たちからは「按針たちを処刑しろ」の嘆願が出されてました。
なので「王と呼んでるから徳川政権だった」とはならないと思います。
(しかも「王」と呼んでいるのは、江戸時代になってから書いた回顧録←当然幕府も読む文書なのですから)

按針の回顧録にも、徳川の記録にも、最初に漂着した豊後の大友の記録にも、豊後から堺へ移送されて来た按針たちに、秀頼の指示のもと「家康が豊臣五大老の首座として彼らに謁見した」と書かれています。
そして、大友の記録には、その時に「家康に謀あって江戸へ連れて行った」と書かれています。

つまり、ホンモノの王である秀頼に会わせる前に、(按針たちには海賊の疑いもあったので)豊臣家臣の代表として家康が会ったわけで…

しかし、その時に家康は「彼らを豊臣の直属ではなく自分たちが抱え込みたい」と思ったので、秀頼に会わせず、すぐに江戸に送って江戸に屋敷を与えて、徳川家の配下にしたのです。
そういう意味では、みすみす家康に渡してしまって、豊臣としてはもったいない事をしたと思いますが、上記の通り、その時は彼らがどんな人物だかわかっていなかったのですから、まさしく、上に正しく報告しない家康が「謀を巡らした」って事です。

それは豊臣への逆心かも知れないし、単に彼らの武器弾薬が欲しかっただけなのかも知れないし、これから先のオランダとの交易の窓口となって大儲けしたかったのかも知れません。。。
さすがに心の内まではわかりませんが、とにかく、豊臣の直属にせずに徳川の配下にしたのですから、彼らに対しての命令が家康から出されるのは当然です。


>実際にその後豊臣の領地は一大名並みです。

この話は、このブログで何度も書かせていただいていますが、上記の情報は関ヶ原から200年後の徳川家の史料>>に初めて登場する話なので、私は豊臣の痕跡を消したい徳川幕府のミスリードだと思っております。
実際に、関ヶ原後の秀頼がその一大名並みの領地以外の領地の采配を行っている史料を示しながら、このブログで、そのお話をさせていただいております。

ところで、先のコメントに書いた「関ヶ原後の9月27日に大坂城にて秀頼に謁見した家康が関ヶ原の戦勝報告をするとともに、改めて豊臣家への忠誠を誓っている」話は、nonさんはどのように解釈されるのですか?
すでに徳川政権になっているのに、わざわざ謁見して戦勝報告と豊臣家への忠誠を誓うのは辻褄が合わないと思うのですが…

投稿: 茶々 | 2016年8月13日 (土) 00時49分

茶々さん、こんばんは。

世界史的に見たらという話で日本史を専門にしたら豊臣政権は続いていたことになるのでしょうね。
神聖ローマ帝国で皇帝は即位の時にローマに行きローマの教皇から帝位を授かったので臣下みたいになりますがそれに似ているのではという趣旨で書きました。
お怒りのようなのでこれでこの話は終わります。

さて石田三成が検知で成果をあげたのはよく知られていますが、特に九州ではチャンポンになっていたのをきちんとしたそうですがこれは近江商人の元祖かなと思いました。

投稿: non | 2016年8月13日 (土) 04時24分

nonさん、こんにちは~

>世界史的に見たらという話で…

それは、どの国の史料の、どの部分から、そう読みとれるのでしょうか?
確かに、元和の頃からの徳川についてはイギリスにも史料が残っているのは存じておりますが、今回のnonさんのお話は「世界的に見れば関ヶ原以前にすでに徳川が政権を握っていた」というお話なので、それがどのような史料なのかが気になります。
(世界史にはウトイもので…)

また、怒ってるわけでは無いですよ。
私自身が様々な史料を読んで、色々と考えて、到達した見解に対して、具体的な史料を示されず、また、nonさんのお考えに対して、「こういう史料があるので…」と私が提示した史料への見解も述べられずに否定をなさるので、
「その理由は何なのか?」
「どの史料を見て、そうお思いになるのか?」という事をお聞きしたいだけです。
史料があるなら、読んで再検討したいのですよ。
歴史好きとしては、ごく普通の事だと思いますよ。
今まで知らなかった史料をどんどん読んで、いろんな推理をしながら、自分の見解を詰めていくのが歴史の醍醐味だと思ってますから…
たった一つの史料で、それまでの見解が真逆になる事だってあり得ます。
だから、そのお考えの基となる物を知りたいのです。

投稿: 茶々 | 2016年8月13日 (土) 12時10分

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