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2016年9月21日 (水)

筒井順賢VS古市澄胤~井戸城・古市城の戦い

永正元年(1504年)9月21日、井戸城を攻められた大和の筒井順賢らが、古市で古市澄胤父子と戦いました。

・・・・・・・・・・・・

ご存じのように、大和(やまと=奈良県)の国は、戦国の終盤こそ、六角承禎(じょうてい・義堅)(9月13日参照>>)三好三人衆(9月28日参照>>)を蹴散らして上洛を果たした織田信長(おだのぶなが)によって少し落ち着き(3月28日:【蘭奢待・削り取り事件】参照>>)、後に反旗をひるがえした松永久秀(まつながひさひで)(10月3日参照>>)が攻められた後に信長の傘下となった筒井順慶(つついじゅんけい)(4月22日参照>>)が治める事になって、やっとこさ平定された感が出て来ますが、それまでは、土地に根付いた地侍や国人・土豪(どごう)などが、時には入り乱れ、時は団結して・・・を繰り返していた場所でした。

そうなった原因の一つは、室町幕府政権下の三管領家(斯波氏・細川氏・畠山氏)の一つで、この大和の守護だった畠山氏・・・この畠山氏が内部抗争の末に、あの応仁の乱畠山政長(東軍)VS畠山義就(よしなり・西軍)に分かれ、その大乱の口火を切る御霊合戦(1月17日参照>>)をおっぱじめた事で、畠山氏の配下として働いてした大和の国人衆らは、どちらにつくのか?でお互いをけん制し合う混乱状態となっていたわけです。

京都での戦いが地方へと伝わっていく中、やがて応仁の乱も、東軍大将の細川勝元(ほそかわかつもと)と西軍大将の山名宗全(やまなそうぜん=持豊)(3月18日参照>>)両巨頭の死を以って終焉の色濃くなり、なんとなくの世代交代を迎える中での大和の国人の代表格は、畠山尚順(ひさのぶ・ ひさより=政長の息子)筒井順賢(つついじゅんけん)十市遠治(とおち・とおいちとおはる)、一方の畠山義豊(よしとよ=義就の息子)越智家栄(おちいえひで)古市澄胤(ふるいちちょういん)といった面々となってきました。

とは言え、やはり、ここに来ても、それぞれの派閥による小競り合いが続いていたのですが、そんな中で、大和から、そう遠く離れていない山城(やましろ=京都府南部)の地で起こった山城の国一揆(12月11日参照>>)を、明応二年(1493年)に鎮圧した事から、大和の約半分を支配するほどに大出世した澄胤は、華麗な古市城(ふるいちじょう=奈良市古市町)を築き、大和の国人衆の中でも一歩前へ出た雰囲気・・・

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奈良市古市町付近…古市城は現在の奈良市立東市小学校の位置にあったとか

そんな澄胤は、茶の湯村田珠光(むらたじゅこう=「わび茶」の創始者)に習い、謡曲尺八にも優れ、連歌もたしなみ、銘石(めいせき)の鑑定などもこなす文化人だったようで、古市城内には、茶室や見事な庭園などを設えて、度々茶会などを開いており、多くの文化人が集う古市城は、文化サロン的な要素を持った城だったとの事・・・

そんなこんなの永正元年(1504年)9月21日澄胤は、井戸氏の重要拠点である井戸城(いどじょう=奈良県天理市石上町)を攻めたのです。

この井戸氏は、後に、井戸茶碗(いどちゃわん=韓国李朝時代に作られた高麗茶碗)にその名を残す井戸覚弘(いどさとひろ)から、江戸時代を通じて旗本として生き残った事で、その家譜(かふ)では、藤原式家の流れを汲む藤原忠文(ふじわらのただぶみ)の末裔という事になってますが、どうやら実際には、もともとから大和に根づいていた土豪で、その時々に有力武将や有力国人を渡り歩きながら、しだいに力をつけて来ていた大和国人衆の一員であったようなのですが・・・

Idozyoufuruitizyou660 ★位置関係図→
(背景の地図は地理院地図>>からお借りしました)

そう・・・この頃の井戸氏は筒井氏の配下となっていて、まさに、この日は、筒井順賢の弟である筒井順興(じゅんこう)が、この井戸城に詰めていて、それを狙っての攻撃だったのです。
(ちなみに、この順興さんは筒井順慶のお祖父ちゃんです)

この日、平尾山と呼ばれる小さな山の頂上に築かれた井戸城を一気に攻め落とすべく押し寄せた古市の軍勢でしたが、必死に防ぐ筒井&井戸勢の守りは固く、なかなか落ちないばかりか、夕刻になって、逆に城から撃って出て来た筒井勢によって、古市勢は、あっけなく押し戻されてしまいます。

しかも、その勢いのまま押され続けた古市勢は、やがて一ヶ所が崩れ始めると、その乱れがどんどん広がり、結局、古市の兵たちは我先に敗走してしまうのですが、勢い止まらぬ筒井勢は、そのまま追尾し、澄胤が逃げ戻った古市城を攻め立てました。

しばらくの間、何とか抗戦を続けていた澄胤でしたが、その勢いに圧倒され、やむなく城を捨てて敗走・・・古市城は、筒井勢の手に落ちました。

さらに、勢い収まらぬ筒井勢は、古市の砦や統治する山村など、周辺を容赦なく焼き払ったと言います。

ちなみに、今回の戦いでは生き残った澄胤でしたが、この4年後の永正五年(1508年)に起こった河内高屋城(たかやじょう=大阪府羽曳野市古市)攻めに失敗して自害する事となります。

信長の力によって、この地が穏やかになるのは、まだまだ70年も先の事(11月18日【筒井城攻防戦】参照>>)・・・もうしばらくの間、奈良の乱世は続く事となります。
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コメント

茶々さん、すごすぎ!

マイナーなことがらを時代幅広くカバーされるその博識はいかにして?

お仕事じゃないんでしたよね?

投稿: ひろし | 2016年9月24日 (土) 12時30分

ひろしさん、こんにちは~

ハイ!
大阪在住で、京都や奈良にはたまに行きますので、行った事のある場所の歴史は、やはり興味が湧きます。

なので、関東や東北の事は、あまり知らなかったりします(*´v゚*)ゞ
お恥ずかしいですが…

投稿: 茶々 | 2016年9月24日 (土) 17時11分

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