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2016年9月15日 (木)

厳島の前哨戦~毛利元就の折敷畑の戦い

 

天文二十三年(1554年)9月15日、厳島の戦いの前哨戦の一つである折敷畑の戦いで毛利元就が宮川房長を破りました。(6月5日とも)

・・・・・・・・・・・

周防(すおう=山口県)大内(おおうち)出雲(いずも=島根県)尼子(あまこ)という二大勢力が、中国地方の覇権を争ってしのぎを削っていた中、永正十四年(1517年)の有田城外の戦い(中井手の戦いとも)安芸(あき=広島県)守護武田氏を破って(10月22日参照>>)初陣を飾った毛利元就(もうりもとなり)も、未だ地方の一国人に過ぎず、大大名の庇護無くしては生き残って行けなかったわけですが、そんな中で元就は、それまでの尼子氏から離れ(1月13日参照>>)、天文十年(1541年)、大内氏の傘下となります。

Mourimotonari600 しかし天文二十年(1551年)、その大内氏内で、重臣の陶晴賢(すえはるかた・当時は隆房)が、大内氏当主の大内義隆(よしたか)を自刃に追い込んで、自らの思い通りになる大友義長(よしなが=義隆の甥・晴英)を当主に据えて事実上実権を握ってしまった(8月27日参照>>)事をキッカケに、当時は毛利と同じような立場にあった(5月27日参照>>)石見(いわみ・島根県)の国人領主・吉見正頼(よしみまさより)晴賢に反旗をひるがえしたのです。

そのために、正頼と晴賢の両者から援軍要請を受ける事になった元就は、両者の動向とタイミングを見計らいながら、天文二十三年(1554年)5月12日、正頼に付き、晴賢に敵対する事を表明するが早いか、わずか数日の間に銀山城(かなやまじょう=広島市安佐南区)草津城(くさつじょう=広島市西区)など、安芸南西部の諸城を陥落させて、さらに、厳島(いつくしま・宮島=広島県廿日市市も制圧したのです。

この一連の行動に晴賢は怒り心頭・・・なんせ、すでに正頼の反旗から約3年ほど経っていますから、この間、なんだかんだで自身の立位置をハッキリさせずにいたものの、「意思表明しない」=「敵方に回る事は無い」と、イイ感じで元就を信じていた晴賢でしたから・・・

しかし元就は、厳島を占領しただけでは飽き足らず、配下の水軍を駆使して周防へと侵入し、晴賢の居城である若山城(わかやまじょう=山口県周南市)の近くにまで姿を見せて、ヤル気満々っぷりを見せつけました。

「もはや一刻の猶予もならん!毛利やったる!」
と晴賢が決意をするナイスなタイミングで・・・

この間にも居城の津和野城(つわのじょう=島根県鹿足郡)を攻められ、籠城戦を継続中だった正頼が、ここに来て蓄えていた兵糧も尽きたために耐えきれず、息子を人質に差し出して晴賢に降伏して来たのです。

晴賢は、早々に和睦を成立させ・・・これで元就に集中できます。

早速、配下の宮川房長(ふさなが)約3000の兵をつけて安芸へと派遣・・・途中に加わった兵も入れて合計=約7000となった宮川勢は、天文二十三年(1554年)9月15日、元就が本陣を置いていた桜尾城(さくらおじょう=広島県廿日市市)を見下ろす位置にある折敷畑山(おしきばたやま=同廿日市市)に布陣したのです。

これを受けて、元就は、すかさず本陣にて軍議を開きます。

「籠城作戦」を主張する武将が多い中、元就は、即時開戦=撃って出る作戦を主張しました。

なんたって、相手は大内を牛耳っている晴賢・・・その大内氏は広域の領地を保有する大大名で、なんなら、今いる、この場所だって大内の勢力圏内なわけで、

ウダウダと籠城して戦っても、どんどん新手は繰り出されるでしょうし、そんなこんなやってるうちに、せっかく陥落させた諸城が、またもや大内の物になってしまうかも知れないわけで、ここは一つ、奇襲作戦で一気にカタをつけようと・・・

こうして毛利軍は一斉に出撃するわけですが、「さぁ!行こう」となったその時、厳島神社の神主=佐伯房顕(さえきふさあき)からの使者が到着し、
(神主が)陶との合戦は毛利が勝利するという霊夢を見ました!」との報告・・・

まぁ、これは、兵士の士気を高めるための、元就の作戦・・・あの桶狭間(おけはざま=愛知県名古屋市)の時の織田信長(おだのぶなが)もやってるので、戦国武将の常とう手段だったんでしょうね。

・・・で、先の軍議での作戦通り・・・
まずは、
小早川隆景(こばやかわたかかげ=元就の三男)が水軍を率いて海岸沿いを行き、回り込んで上陸して西側から吉川元春(きっかわもとはる=元就の次男)は陸路で東側から折敷畑山に迫り、それぞれが側面から敵を突きます。

続く、宍戸隆家(ししどたかいえ=元就の娘婿)福原貞俊(ふくはらさだとし=毛利一族)らが、迂回して敵=宮川勢本陣の後へと回り、背後から攻撃を仕掛けた後、元就と嫡男の毛利隆元(たかもと)が率いる主力本隊が正面から攻撃を仕掛けるのです。

しかし、この主力本隊も、実は2手3手に分かれていて、一部の主力が本隊の先を行き、その時に悪口言いまくりの暴れまくりで敵兵の注意を惹き、それにつられて攻撃を仕掛けに出て来た敵兵を、左右に分かれた本隊が側面から攻撃するという、これでもか!の奇襲作戦を決行しました。

Mouriosikibatanotatakaizu
折敷畑の戦い関係図…(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

かくして天文二十三年(1554年)9月15日正午頃、思惑通りの見事な奇襲で、四方から宮川の本陣に襲いかかった毛利軍の勢いに耐えきれず、大将の宮川房長は討死・・・結果、750余りの敵兵が討ち取られ、この戦いは、毛利の完全勝利となりました。

さぁ、陶晴賢の配下と直接対決した以上、もう、後へは退けません。

この後の元就は、まずは、居城の郡山城(こおりやまじょう=広島県安芸高田市)へと戻り、陶との小競り合いを続けつつも、周辺の諸将を寝返らせる調略を張り巡らしつつ(4月8日参照>>)、やがて、あの戦国三大奇襲の一つに数えられる厳島の戦いへと向かって行く事になります。

厳島の戦いのお話は(少々内容がかぶっている箇所もありますが)
10月1日【決戦!厳島の戦い】>>
10月3日【厳島の戦い~勇将・弘中隆兼】>>
10月5日【大寧寺&厳島…晴賢の思い】>>
で、どうぞm(_ _)m
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コメント

(゚▽゚*)戦国時代に限らず、歴史は新しい観方が出てきたり、新しい資料の発見によって定説が大きく変ってきています。

・NHKのテレビ大河ドラマ「真田丸」にしても、新しい解釈が新鮮ですね。

投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2016年9月29日 (木) 10時38分

根保孝栄・石塚邦男さん、こんにちは~

そうですね。
「真田丸」に関して、個人的には、もっと女性が活躍して欲しいですけどね。

投稿: 茶々 | 2016年9月29日 (木) 17時01分

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