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2016年10月16日 (日)

畠山義就×政長の応仁の乱前哨戦~高田城の戦い

文正元年(1466年)10月16日、翌年の応仁の乱の口火を切る事になる畠山義就の大和から河内への侵攻での高田城の戦いがありました。

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今回の主役=畠山義就(はたけやまよしひろ・よしなり)畠山氏は、室町幕府政権下において河内(かわち=大阪府東部)紀伊(きい=和歌山県&三重県南部)山城(やましろ=京都府南部)越中(えっちゅう=富山県)大和(やまと=奈良県)の一部などなどの広範囲の守護職を任され、細川(ほそかわ)斯波(しば)とともに、管領職を順番に務める三管領家(さんかんれいけ)の一つとされた名門です。

Hatakeyamayosinari400 ただ・・・実は義就の母親という人がかなり身分が低かった(遊女だったとも)ために、本当に自分の子供かどうか確信が無かった父の畠山持国(もちくに)は、義就がただ一人の実子(かも)であったにも関わらず、はじめ、義就を嫡子と認定せず、社僧として石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)に出す事とし、自らの弟である畠山持富(もちとみ)養子に迎えて後継ぎとしていました。

ところが、その後、12歳になった義就と初めて面会した持国は、やっぱ息子がカワイイ~~」とばかりに(きっと似てたんやな?ww)、文安五年(1448年)、突然、持富を後継者から外して義就を迎え入れ、後を継がせたのです。

「それはモメる要素投入以外の何物でもないやろ!」
とのツッコミ満載な中、予想通り一部の家臣が反発・・・家臣団が義就派VS持富派に分かれるのですが、当の持富が宝徳四年(1452年)に死去したため、嫡子の畠山弥三郎(やさぶろう=政久・義富)持富派の後継者となり、対立はどんどん激化・・・

さらに、そこに、当時の実力者である細川勝元(ほそかわかつもと)やら山名宗全(やまなそうぜん=持豊)やら、大和の国人の筒井(つつい)までが関与して来て、よりややこしくなって来ます。

両者がシーソーゲームを繰り返す中、享徳四年(1455年)に父=持国が死去した事から、第8代将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の許可を得て正式に畠山の家督を継ぐ事になった義就は、筒井氏に対抗する大和の国人=越智家栄(おちいえひで)らの支援を受けた事で勢いを増し、弥三郎一派の追い落としに成功します。

しかし、そのわずか2年後の康正三年(1457年)に起こった大和国内でのゴタゴタに、将軍=義政の許可を得ないまま軍勢を派遣してしまった事が義政の逆鱗に触れ、義就は所領没収となってしまいました。

その一方で、長禄三年(1459年)に弥三郎が亡くなった事を受けて、その弟の畠山政長(まさなが=つまり義就の従兄弟)持富派の代表として争いを引き継いで交戦状態を続ける事になるのですが、その翌年の長禄4年(1460年)、大和竜田(たつた)での義就VS政長が直接対決した戦いで、政長が見事勝利・・・大敗を喫してしまった義就の立場はますます危うくなり、将軍=義政は義就を敵視し、政長に家督を譲るよう命じます。

追われる立場となった義就は、やむなく居城の若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市)を捨てて、岳山城(たけやまじょう=大阪府富田林市)から誉田(こんだ)道明寺(どうみょうじ=大阪府藤井寺市)などを転戦するも、徐々に押され、高野山から、最終的に吉野(よしの)へと逃げ込み、しばらくの間引き籠り状態に・・・

その間に、政長は、幕府から畠山の家督を相続する事を許さればかりか、彼を支持し続けてくれていた細川勝元から管領職まで譲られる事になりますが、一方の義就も、ただ吉野へ引き籠っているわけではありませんでした。

義就を支援し続けてくれていた越智家栄のもと、中央政府を窺いつつ、挽回のチャンスを狙っていたのです。

そんなこんなの文正元年(1466年)、前年の恩赦(おんしゃ=刑罰を軽減させる制度)によって、義政から罪を許された義就は、細川勝元に匹敵する大物=山名宗全からの支持を得る事に成功し、上洛を果たすべく吉野を発つのです。

しかし、そこに立ちはだかるのが、筒井順永(つついじゅんえい)をはじめとする政長を支持する大和の国人たち・・・

もちろん、義就の味方は越智家栄ら、こちらも大和の国人たち・・・

両者譲らず、大和国高田(たかだ=大和高田市)の里を東西に横切る横大路(初瀬街道)を挟んで、北に政長方、南に義就方が対峙する中、9月25日、まずは越智勢が高田へと攻め入って集落に火を放ち、戦いの火蓋が切られましたが、大和平野にて実質的な合戦が展開されたのは、文正元年(1466年)10月16日の事でした。

『大乗院寺社雑事記』によると・・・
この日、善戦したのは義就方・・・まずは大和高田城を攻め落とした義就軍が、味方の越智勢の活躍により勝利し、負けた筒井勢を中心とする政長方は、高田城の北に位置する箸尾城(はしおじょう=奈良県北葛城郡広陵町)へと、我先に雪崩をうって逃げ込み、これを追う越智勢が、城を取り囲みつつ、周辺への放火を決行したと言います。

両軍ともに、一軍の将と呼ばれる武将を複数失う大きな戦いであったようですが、その後は籠城戦となり、こう着状態となった11月、大和十市城(とおいちじょう=奈良県橿原市十市町)の城主である十市遠清(とおち・とおいちとおきよ)の仲介により、越智氏&筒井氏が和睦を結び、大和での戦いは一応の落着となりました。

この『大乗院寺社雑事記』はお寺の記録なので、その中で
「これで大和も平和になった~ヽ(´▽`)/」
寺社が大いに喜んだ様子を記していますが・・・

が、しかし、お察しの通り、これは越智&筒井=大和の国人同志の和睦・・・義就と政長の抗争は、まだまだ続き、結局は、彼ら大和の国人も、またまた巻き込まれて行く事になるのですが・・・

しかも、この後、12月に上洛を果たした義就が、翌・応仁元年(1467年)正月に、将軍=義政に謁見するのですが、その時、義就は実力者=山名宗全を伴って義政の前に現れ、その場で宗全が猛プッシュした事から、義政は、義就の畠山氏の相続を認め、逆に政長に屋敷の開け渡しと管領職の辞職を命じたのです。

この先の事を知ってる私たちから見れば
「もう~、またまた争いの種をまくんかい!」
と義政の優柔不断ぶりに激おこプンプン丸ですが・・・

こうして、立場が不利になった政長が、挽回すべく挙兵したのが応仁元年(1467年)1月17日の御霊合戦(1月17日参照>>)・・・

これが、全国の武将を東西に分けて10年以上に渡って繰り広げられる大イクサ応仁の乱の始まりとなるのです。
【応仁の乱・勃発!】参照>>
応仁の乱~初戦は激しい五月合戦】参照>>
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