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2016年10月23日 (日)

細川高国政権が崩れるキッカケとなった神尾山城の戦い

大永六年(1526年)10月23日、細川高国が反旗を翻した波多野稙通・柳本賢治討伐のため、細川尹賢を大将として軍勢を丹波へ向かわせました。

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細川高国(ほそかわたかくに)は、細川一門である備中(びっちゅう=岡山県)細川家の細川政春(まさはる)の息子で、応仁の乱(5月20日参照>>)の東軍の大将として有名な細川勝元(かつもと)の息子の細川政元(まさもと)の養子となっていました。

義父である政元という人は、将軍を補佐する管領(かんれい)であるにも関わらず、先の将軍を排して自らの思いのままになる将軍を擁立するという「明応の政変」・・・言うなれば、戦国の幕を開けるクーデターをやってのけた人であり、室町幕府管領として一時代を築いた人でありますが、

実子がいなかった事から、3人の男子を養子にする事に・・・

Hosokawasumimoto400a 予想通り、ともに養子であった関白九条政基(まさもと)の子供=澄之(すみゆき)と、阿波(あわ=徳島県)細川家の義春の子供=澄元(すみもと)との間で後継者争いが勃発!!(8月24日【船岡山の戦い】参照>>)

てか、そもそも義父・政元の死そのものが、彼らの後継者争い絡みによる暗殺なのです(6月20日参照>>)

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とは言え、高国は、当初は澄元に味方して、ともに澄之を倒しているんですが、案の定というか、やっぱりというか・・・結局は、澄元とも対立し、高国は、周防(すおう=山口県)の戦国大名・大内義興(よしおき)を味方につけて、澄元&彼に味方する三好之長(みよしゆきなが)を追い落とした(5月5日参照>>)、その澄元が阿波で病死した事で、事実上の一人勝ちとなった永正十八年(1521年)、第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)を擁立して、自らの政権を確立したのです。

大永四年(1524年)には、息子の稙国(たねくに)に管領職を譲り、自らは剃髪(ていはつ)して、隠居という立場から実権を握り我が世の春・・・と言いたいところですが、残念ながら、その息子が間もなく病死してしまい、あわただしく管領に復帰しています。

そんなこんなの大永六年(1526年)7月事件は起こります。

高国の従兄弟にあたる細川尹賢ほそかわ ただかた)が、高国の重臣である香西元盛(こうざいもともり)について、ある事無い事(実際には無い事&無い事=まるっと嘘だったようですが)吹き込んだところ、それを信じた高国が「元盛が敵対勢力=澄元らに内通している」と思いこみ、充分な取り調べもせぬまま、彼を上意討ちにしてしまったのです。

これに怒ったのが、元盛の二人の兄=波多野稙通(はたのたねみち)柳本賢治(やなぎもとかたはる)でした。

事件が起こった時、たまたま京都にいた波多野と柳本・・・高国への挙兵を決意した二人は、「嵯峨(さが)にて夜川狩りをする」と称し、夜の闇に紛れて宿所を脱出し、密かに、領国である丹波(たんば=兵庫県)へと戻り、それぞれの居城、波多野は八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)、柳本は神尾山城(かんのおさんじょう=京都府亀岡市)に入って籠城の構えを見せたのです。

その後、黒井城(くろいじょう=兵庫県丹波市)赤井五郎(あかいごろう=時家?)を味方につけた波多野と柳本は、事件から3ヶ月後の10月、いよいよ挙兵します

驚いた高国は、大永六年(1526年)10月23日、かの細川尹賢を大将に、池田弾正(いけだだんじょう)瓦林修理亮(かわらばやししゅりのすけ=河原林修理進?)内藤国貞(ないとうくにさだ)薬師寺九郎左衛門(やくしじくろうざえもん=国長)らといった面々、合計80余組からなる軍勢を丹波へと派遣したのです。

すでに1部の先発隊は10月18日から神尾山城への攻撃を開始するも、20日には城から撃って出た柳本の兵が、高国方の一部の陣所を攻撃して20ほどの首を挙げるなど、一進一退の攻防戦が続きますが、そんなさ中の10月30日、黒井城の赤井が3000の兵を率いて登場し、神尾山城を包囲する高国勢に背後から襲いかかりました。

自身が波多野の八上城へと向かっていた途中に、この情報を聞いた尹賢は、早速、軍のうちの13組を、赤井への対策に当たらせましたが、赤井の兵を200余り討ったものの、自らの兵も300以上失う激戦となり、神尾山城への包囲も破られてしまいます。

そこに神尾山城の城兵が反撃を加え、形勢不利となった高国軍は崩れるように敗退し、兵の多くが京都方面へと我先に逃走し始めました。

その後、「神尾山城攻め失敗」の一報を聞いた尹賢は、八上城へ向かっていた足を止めてUターン・・・自らも京都方面へと戻るのでした。

一方、未だ激戦続く神尾山城周辺では、戦況を見た池田弾正が柳本側へと寝返り、敗走する高国軍に矢を射かけます。

実は、この池田弾正・・・阿波にいた、亡き澄元の息子=細川晴元(はるもと)と、すでに通じていたのです。

そうとは知らず、いきなりの奇襲を受けた形になった高国軍は、ますます崩れてしまい、もはや軍の形を成さない状態で京都へ逃げ帰るという、まさに惨敗の中の惨敗となってしまいました。

とは言え、池田弾正が、ここで敗走する兵を深追いする事はありませんでした。

そうです。
波多野と柳本が主君の高国から離反したのは弟の一件が主たる要因かも知れませんが、池田弾正の離反は晴元との内通・・・この後に、高国VS晴元の「因縁の直接対決が展開するのを待っていた?」という事なるのでしょう。

そして、管領職の後継者として雌雄を決すべく、その晴元とともに阿波からやって来るのが、これまた、今は亡き三好之長の孫(もしくは息子)三好元長(みよし もとなが=長慶の父)、同じく之長の甥っ子である三好勝長&政長(かつなが&まさなが)兄弟たち・・・

そんな両者がぶつかるのが「桂川原の戦い(かつらかわらのたたかい)・・・という事になるのですが、そのお話は、戦いのあった2月13日【畿内に三政権~天下分け目の桂川原の戦い】のページでどうぞ>>
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