« 細川高国政権が崩れるキッカケとなった神尾山城の戦い | トップページ | 安宅水軍の衰退を招いた内紛~安宅一乱 »

2016年10月29日 (土)

明智光秀の丹波攻略・前半戦~籾井城の戦い

天正五年(1577年)10月29日、織田信長の命を受けた明智光秀が、丹波の諸城を攻め、籾井教業の籾井城を攻略しました。

・・・・・・・・・・・

ご存じ、織田信長(おだのぶなが)による丹波攻略戦です。

室町幕府15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき)との不仲(2月20日参照>>)により、俗に言う「信長包囲網」を敷かれて、周りが敵ばかりになった信長さんですが、元亀四年(天正元年=1573年)の7月には、その義昭を追放(7月18日参照>>)、続く8月には越前(えちぜん=福井県)朝倉(あさくら)(8月6日参照>>)北近江(おうみ=滋賀県)浅井(あさい・あざい)(8月28日参照>>)を倒し・・・そして、各地に起こった一向一揆も徐々に制圧していった天正三年(1575年)、いよいよ信長は丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)丹後(たんご=京都府北部)平定に乗り出し、配下の明智光秀(あけちみつひで)細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らに、その任務を命じます。

Aketimituhide600 一説には、当初、信長に好意的だった黒井城(くろいじょう=兵庫県丹波市)赤井直正(あかいなおまさ=荻野直正)が、信長に追われた義昭が毛利氏を頼る事を知って毛利派へと転じ、この天正三年(1575年)の10月に但馬竹田城(たけだじょう=兵庫県朝来市和田山町)を攻撃して占領・・・このままでは自らの但馬(たじま=兵庫県北部)を守りきれないと判断した守護山名祐豊(やまなすけとよ=宗全から5代目)が信長を頼った事で、信長が光秀らの派遣を決意したとも・・・

とにもかくにも、こうして信長の命を受けて出陣した光秀でしたが、初戦で奪った亀山城(かめやまじょう=京都府亀岡市)も、そのすぐ後の黒井城の攻略に手間取ってる間に奪い返されたうえ、明けた天正四年(1576年)の正月には、やはり、最初は信長に好意的だった八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)波多野秀治(はたのひではる)も毛利に転じたため、やむなく黒井城の包囲を解いて、一旦、光秀は近江坂本城(さかもとじょう=滋賀県大津市下阪本)へと戻ります。

この波多野の裏切りに関しては『籾井家日記』には「赤井との密約による物」との記述がありますが、この『籾井家日記』は江戸時代になってから旧臣の子孫が記した「殿さま賛美」の傾向のある史料なので、そのままを信じるわけには行かず、一般的には「原因は不明」とされているようです。

実は、この頃の丹波周辺の状況についての記録には、このような伝説的な物が多く、史料と史料を照らし合わせると辻褄が合わなくなったりする事もあるので、今回は、様々見つつ、諸説あるうちのそれぞれの落とし所を考えつつ、お話を進めて参りますので、その点をご理解いただければ幸いです。

・・・とまぁ、おそらくは将軍=義昭が毛利を頼った事の影響?もあって、赤井や波多野らの抵抗に遭い、上記の通り、第1次の丹波攻略は不発に終わった光秀でしたが、ご存じのように、この間にも、石山本願寺との天王寺合戦(5月3日参照>>)やら、雑賀(さいか・さいが)の陣(3月15日参照>>)やら、松永久秀(まつながひさひで)謀反(10月3日参照>>)やらに出馬していて、光秀はホント忙しい・・・

忙し過ぎて、天正五年(1577年=前年の説もあり)の6月(もしくは8月)には体調を崩して倒れ、病床にて曲直瀬道三(まなせどうさん)の治療を受けて何とか快復したのだとか・・・『兼見卿記』『御湯殿上の日記』など)

そんなこんなの天正五年(1577年)10月、いよいよ信長は、赤井や波多野、果ては松永久秀の謀反にも、そしてかの石山本願寺にも影響を与えたかも知れない将軍=義昭囲い込みのおおもとである西国の雄=毛利輝元(もうりてるもと)との決戦を決意して、羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)播磨(はりま=兵庫県南西部)への派遣を決定し、光秀には、その側面や背面を援助すべく、再び、丹波攻略を命じたのです。

10月初め、坂本を進発した光秀は、途中の老ノ坂で細川藤孝父子と合流し、一路、亀山城を目指します。

上記の通り、一旦奪ったものの、再び奪い返されていた亀山城ですが、ちょうど、この10月初め、波多野秀治らが、敵対する赤松氏との戦闘のために本領を留守にしており、守りが手薄になっているところを、5000を超える兵で以って三日三晩攻め続け、この亀山城を10月16日に落城させました

そして、この城を前線基地として、丹波の諸城を狙います。

まずは、溝尾茂朝(みぞおしげとも=光秀の家臣)細川忠興(ほそかわただおき=藤孝の息子)らを派遣して、波々伯部員次(ははかべ・ほうかべ・ほほかべかずつぐ)が守る篠山城(兵庫県篠山市)を包囲して攻撃を開始しますが、まもなく、近隣の援軍が駆け付けて、包囲している溝尾&細川勢を背後から襲撃したため、城は容易に落ちませんでした。

さらに、その援軍に、かねてより連絡を取り合っていた玉巻城(たままきじょう=兵庫県丹波市・久下城とも)久下(くげ)も加勢して来たため溝尾&忠興勢は窮地に・・・やむなく、光秀自らが残りの全軍を率いて参戦した事により、なんとか落城させる事に成功したのです。

かくして天正五年(1577年)10月29日、光秀らは、次なる標的籾井教業(もみいのりなり)籾井城(もみいじょう=兵庫県篠山市)に攻めかかります。

籾井教業は、「丹波の赤鬼」と呼ばれた黒井城の赤井直正に対して「青鬼」と呼ばれた剛の者だったようですが、この時は、光秀らの猛攻撃にやむなく城を捨てて逃亡・・・こうして、織田軍が籾井城を奪取したのです。

とは言え、実は生没年が不明な籾井教業さん・・・一説には、この明智勢との抗戦の時には、すでに亡くなっていたという話もあり、そこのところは、新たな史料の発見に期待したいところです。

てな事で、本日は籾井城の落城の日という事で、明智光秀の丹波攻略の前半戦部分をご紹介させていただきましたが、ご存じの通り、光秀の丹波攻略が完了して信長さんが大喜びするのは天正七年(1579年)の10月(10月24日参照>>)・・・

まだまだ、あと2年も戦いは続きますし、まだまだブログに書いてない=書き足りない部分はあるのですが、そのあたりの事は、
【八上城攻防戦】>>
【黒井城の戦い】>>
でご覧いただければ幸いです。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 

 


|

« 細川高国政権が崩れるキッカケとなった神尾山城の戦い | トップページ | 安宅水軍の衰退を招いた内紛~安宅一乱 »

戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/47570/68087704

この記事へのトラックバック一覧です: 明智光秀の丹波攻略・前半戦~籾井城の戦い:

« 細川高国政権が崩れるキッカケとなった神尾山城の戦い | トップページ | 安宅水軍の衰退を招いた内紛~安宅一乱 »