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2016年12月12日 (月)

ドラマでは描かれない豊臣方~熊野・北山一揆in大坂の陣

慶長十九年(1614年)12月12日、大坂冬の陣に連動した紀州での大規模一揆=熊野・北山一揆での戦闘がありました。

・・・・・・・・・・

大河ドラマ「真田丸」残すところ最終回のみ・・・まさに1番の盛り上がりを見せていますね。

何年か前の「姫たちの妄想」「愛の兜の人」よりは、なかなかに見応えのある今年の「真田丸」ではありますが、個人的にちと残念なのは、大詰めを迎えた大坂の陣での場面のほとんどが大坂城内や浪人衆ばかりで語られていて、一般市民がほぼほぼ登場しない事・・・
(大坂の陣全体のアレコレについては「大坂の陣の年表」>>で、それぞれご覧あれ)

皆様もご存じの通り、本来の大坂の陣は、戦国屈指の市街戦で、多くの一般市民が関与もし、犠牲にもなった合戦・・・

確かに、にぎやかだった範囲は、現在の大阪ほど広くは無かったでしょうし、都だった京都よりは人も少なかったかも知れませんが、合戦の舞台となるのは、当時は首都にも匹敵する政治の中心だった大坂城なわけで、すぐそばに武家屋敷や一般の家屋が建っていたし、城の近くには、賑やかな市も立っていたわけですから、当然、一般市民も否応なく巻き込まれていく・・・いや、巻き込まれざるを得ない状況だったと想像しています。

Ca3e0035a800 新鴫野橋から見た大阪城天守閣

まぁ、そこのところは、
街中だと、合戦シーンが原っぱというワケに行かずセットを作らねばならない=予算の都合もあり、出演される俳優さんやエキストラさんの都合もあり、放送の時間の都合なんかもあって、どうしてもドラマで描かれる範囲は限られてしまうわけで・・・一般市民なんざ描きだしたらキリが無いですからね。

ただ、そのために、大坂城が孤立無援で、集まった浪人たちが「死に場所を探してる」的な描き方や、「負け戦に挑み鮮やかに散る事を望む」みたいな雰囲気ばかりがドラマの中で強調されるとしたら、私的にはちょっと・・・(;ω;)
まぁ、それも、
ドラマとしてはそっちの方が、文字通りドラマチックなので仕方ないですかねぇ~(*^-^)

とりあえずは物語として面白く、その世界の中で辻褄が合っていればドラマとしてはOKだと思いますが、やはり実際には、戦国武将という人たちは最後の最後まで「勝つ方法」を模索して戦いに挑んでいたんじゃないかな?と思ってます。(←あくまで個人の印象です)

そして、その、わずかながらの勝算の影には、歴史には記録されない&数も把握できない一般庶民という強い味方がいたわけで・・・

もちろん、そんな数を把握できない味方は城下に住む一般市民だけでなく・・・そう、この時、紀州(きしゅう=和歌山県)吉野(よしの=奈良県南部)で、豊臣方の強い味方となったのが、今回の熊野・北山一揆(くまの・きたやまいっき=紀州一揆とも)です。
(浅野家側の記録では、この後の夏の陣と同時発生の一揆と合わせて紀伊国一揆と呼ばれます)

以前、この後の大坂夏の陣での樫井(かしい=泉佐野市)の戦いのページ(4月29日参照>>)でも書かせていただきました通り、もし大坂城から出馬する武将たちが、この樫井で勝利し、紀州の一揆勢が北へ北へと進む事ができていたなら、ひょっとして大坂方の勝利になっていたかも・・・

ブログで、何度か書かせていただいております通り、身も心も大坂方な私=羽柴茶々としましては、この大坂の陣の直前でも、豊臣家が一大名に成り下がっていたとは思いたくないのですが(5月10日参照>>)、文献として残っている事は事実ですので、仮に200年後の徳川幕府がおっしゃる通り、この時の豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)さんの領地が、摂津(せっつ=大阪府北部)河内(かわち=大阪府東部)和泉(いずみ=大阪府西南部)の三ヵ国だけであったとしても、なんだかんだで紀州はその隣国となるわけですから、

いざ合戦となれば、大坂城のたった一つの弱点である南側(12月4日参照>>)から攻撃を仕掛けたい徳川家康(とくがわいえやす)にとっては、さらに南の紀州から北上する彼らは、もしかして挟み討ち?となるわけで、これはかなりの脅威・・・とは言え、世の中、そうそう予定通りにいかないので、ご存じの結果なわけですが(*´v゚*)ゞ

とにもかくにも、
おそらくドラマでは、描かれないであろう熊野・北山一揆・・・

熊野(くまの)というのは、ご存じ、世界遺産の「熊野古道」「熊野三山(くまのさんざん=熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)で有名な、現在の和歌山県の東西牟婁郡(むろぐん)新宮市(しんぐうし)田辺市(たなべし)など、他にも三重県の一部を含む、あの広範囲の地域の事。

北山(きたやま)は、現在の和歌山県と奈良県の県境にある奈良県吉野郡上北山村下北山村の北山で、当時も熊野は紀州に属し、北山は吉野に属していたわけですが、両者は、大台ケ原を源流とする北山川が途中で熊野川と合流し、紀伊半島南端の熊野灘(くまのなだ)に注ぐという関係から、かなり古くから良質な木材の生産&運搬という交易ルートが構築されており、ともに強い絆で結ばれた地域だったのです。

しかも、この一帯は、先日の「安宅一乱(あたぎいちらん)のページ(11月4日参照>>)に書かせていただいたように、長きに渡って地元の豪族や国人領主が群雄割拠していた場所で、豊臣秀吉(とよとみひでよし=羽柴秀吉)紀州征伐(きしゅうせいばつ)(3月28日参照>>)を終えた後も、太閤検地(たいこうけんち)(7月8日参照>>)などに反発して度々一揆を起こしていた反骨精神バリバリで、なかなかの武装集団だったのです。
(ちなみに、豊臣政権下の天正十四年年(1586年)8月にも大きな一揆が勃発しており、コチラも「北山一揆」という名称なのでご注意を…)

んん?って事は・・・
彼らは、自分たちが直で治めていた場所を、天下統一の名のもとに、秀吉に力づくで、その特権を奪われた形になっているわけなので、本来なら豊臣=大坂方の敵なのでは?

と思ってしまいますが、そこはそう・・・
彼らとて、もはや戦国の世も終焉に向かいつつあるのは重々承知で、今さら以前の群雄割拠の時代には戻れない事もお察し・・・

と、なると、自分たちが直で統治する事は無理でも、現段階で望める最も良い形で、何とか少しでも待遇が良くならないものか?と考えるのが人の常・・・

で、当時、紀州の統治を任されていたのは・・・
先の安宅一乱のドサクサで那智を掌握し(先の1月4日参照>>)、安土桃山=織豊時代に熊野水軍を率いた堀内氏堀内氏善(うじよし)が、あの関ヶ原で西軍についてしまったために没落・・・逆にその関ヶ原で東軍についたおかげで、戦後に紀伊国和歌山37万6千石を与えられたのが浅野幸長(あさのよしなが)で、この大坂の陣当時は幸長の死亡を受けて、その弟の浅野長晟(ながあきら)が治めていたのです。

つまり東軍=徳川方の武将が紀州を治めていた・・・

なので、現状を打開したい彼らにとっては、今を変えてくれそうな方に味方したいし、敵の敵は味方だしで、豊臣に気持ちが傾くわけで・・・まぁ、彼ら熊野&北山の国人たちの心の内は記録には残っていませんから、あくまで推測ですが・・・

そんな中、豊臣VS徳川の不穏な空気が出始めたタイミングで、先の関ヶ原での敗戦を受けて浅野家の配下に組み込まれていた、かの堀内氏善の息子たち=堀内氏弘(うじひろ=新宮行朝=兄・叔父の説あり)氏久(うじひさ=弟)兄弟が、浅野家を出奔(しゅっぽん)して大坂城へと入るのです。

ほどなく、大坂方の主将格である大野治長(おおのはるなが)(12月16日参照>>)が、ここ熊野&北山に援軍要請の使者を送るって来るのです。

浅野家の史料『浅野考譜』には、この時、大坂城内からの命を受けて、熊野&北山の村々の触れ状を回した者は堀内大学という者だった事が記録されていますが、状況を見る限り、この人物は上記の堀内兄弟の縁者でしょう。

もともとは新宮を本拠した国人出身である堀内の縁者が、おそらく、彼ら=紀州の国人たちが魅かれるような好条件をチラつかせて彼らを誘ったわけで・・・

かくして慶長十九年(1614年)12月、豊臣方となった熊野&北山の国人&土豪(どごう=半士半農の地侍)たちは進軍を開始するのです。

もちろん、対する浅野家も、この状況を、ただ見ているわけではありません。

浅野家としては居城である和歌山城(わかやまじょう=和歌山県和歌山市)を本城に、田辺城(たなべじょう=和歌山県田辺市)新宮城(しんぐうじょう=和歌山県新宮市)を支城として、それぞれに一族の者を配置して守りを固めますが、実はこの時、当主の浅野長晟も、そして新宮城を任されてる浅野忠吉(あさのただよし)も、すでに先月の11月から勃発している大坂冬の陣に出陣中・・・

Oosakanozinkitayamaikki
「大坂の陣~戦いの経過と位置関係図」
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は
 「地理院」>>よりお借りしました)

ちなみに、この頃の大坂冬の陣とは・・・
11月16日:【博労淵・野田・福島の戦い】>>
11月26日:【鴫野・今福の戦い】>>
12月4日:【真田丸の攻防】>>
などがありますが・・・もちろん、熊野・北山一揆の彼らからすれば、その手薄な所を狙ったわけです。

そんな中、まもなく一揆軍が迫って来る事を知った新宮城の留守を預かる城代の戸田勝直(とだかつまさ)は、とりあえず様子見ぃで、鉄砲隊の4~50名を最先端へ派遣しますが、彼らは、
「ムリっす!ムリっす!(´Д`;≡;´Д`)」
と、とても少人数で防御しきれないと、交戦せずに戻って来てしまいます。

この時、一揆軍を率いていたのは・・・
と、実は一揆という性質上、はっきりしたリーダーは不明なのですが、記録では、「大昔に役行者(えんのぎょうじゃ=役小角)(5月24日参照>>)の配下となった鬼の子孫」と称する五鬼前鬼鬼五郎鬼助などと呼ばれていた複数(もしくは一人)の山伏だったとされています。

彼らが仲間の山伏に声をかけると同時に、関ヶ原で敗れて浪人となっていた者も加わって、周辺の村々に
「勝利のあかつきには山林や田畑を分配するゾ!」
と宣伝して回り、また、村の中に一人でも参加しない者がいると
「こんな雰囲気の中で、お前らだけ参加せーへんって、アリや思てんの?」
と、ちょっと脅しをかけたりしたおかげで、おそらくは、かなりの人数が集まっていたのでしょう。

「これは…ゲロヤバやん!!!(゚ロ゚屮)屮」
と思った勝直は、熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ=新宮)社人を味方に引き入れたり、周辺住民から人質をとってその家族らを徴兵したり、新宮城下町の要所に柵を設けて防戦を張り、熊野川につないであった舟という舟をすべて城下に引き入れて・・・と、もはや、なりふりかまわず打つ手はすべて打って準備を整えました。

その間に一揆軍は、大里村(三重県南牟婁郡)に集結し、一路、熊野川を挟んでの新宮の対岸となる鮒田村(同じく南牟婁郡)に到着しますが、川を渡ろうにも舟が一隻もありません。

上記の「熊野川につないであった舟という舟をすべて城下に引き入れて・・・」という勝直の作戦が功を奏したわけですが、もちろん、一揆側もこの事は予想しており、仲間に、あらかじめ舟の手配をするよう命じていたのですが、その仲間が裏切って、舟の手配もせず、川に1隻も舟が無い事も伝えず、すでに逃げてしまっていたのです。

やむなく、対岸の浅野の守備兵に対して、川越しに鉄砲を撃つと同時に自力で筏(いかだ)など組みはじめる一揆軍・・・

そんなこんなの慶長十九年(1614年)12月12日、一揆軍が渡河の準備をしている間に、新たな援軍を得た浅野勢は、正面の対岸&海側&山側の三ヶ所から、一気に襲いかかり、完成寸前だった筏を壊して若干名を討ち取り、一揆勢を蹴散らしたのです。

多くの土豪や国人が一揆に賛同したのと同時に、現政権である浅野家の味方になった者も少なからずいたのですね。

もちろん、
「これで終わるか!」
と態勢を立て直す一揆軍でしたが、ご存じの通り、12月19日には大坂にて和睦が成立(12月19日参照>>)・・・大坂冬の陣が終結となってしまいます。

陣中にて熊野・北山一揆の一報を聞いていた浅野長晟は、この和睦が成立したと同時に、家康の指示を得受けて帰国・・・12月24日もしくは25日に、本隊を率いて本拠の和歌山城に到着し、休む間もなく、一揆の討伐に出陣します。

大きな戦闘があったのは12月27日、大沼村(東牟婁郡北山村)付近とされています。

山育ちの一揆軍の者たちは鉄砲のウデも確かな物ではありましたが、全神経を集中して追う浅野勢は、何たってプロの武装集団・・・しかも、その人数もハンパなく多く、結局のところ、一揆勢は散り々々になって山中へと逃げるのが精いっぱいでした。

その日、捕縛された者は360余名にのぼり、翌年の1月には全員が処刑されたのだとか・・・

こうして、大坂冬の陣に連動した熊野・北山一揆は、勃発から約1ヶ月ほどで終了してしまうものの、彼らは、翌年の大坂夏の陣に連動して、またまた一揆を繰り広げる事になるのですが、この時は、有田や日高をはじめとする和歌山城に近い民衆を中心に・・・となるのですが、そのお話は、4月28日【大坂夏の陣~樫井の戦いに連動した紀州一揆】のページ>>でご覧いただくとして・・・

最後に、今回の一揆の先導者とも言える堀内兄弟についてチョコッと・・・

この大坂の陣では、残党狩りが非常に厳しく、討死を免れるも捕縛された大坂方の武将はことごとく処刑されていたので、本来なら、処罰を受けるはずの彼らですが、実は、秀頼の正室である千姫(せんひめ=家康の孫・秀忠の娘)を連れて、燃える大坂城を脱出(大野治長の命であったとされる)したのが、この堀内兄弟の弟=氏久だった(2月6日参照>>)とされているのです。

そのおかげで、彼は大坂方だったにも関わらず、戦後に下総国内に500石を与えられ、おそらく、その弟の功績により、兄の氏弘も、一旦は捕縛されるものの、後に罪を許されて、藤堂高虎(とうどうたかとら)の家臣となって生きのびたという事です。
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コメント

なるほど城下まで戦火が出ていたんですね。
戦いによって火を放ったのもありますが、やはり海に近いという事もあって、海風によって燃え移るような感じですかね?
今の大阪とは違って400年前は寒いから冬の風と言う可能性もありますね。

ところで真田丸なんですが、最終回はサブタイトルがないんですよ。次回予告でも「最終回」としか出ていませんでした。
大河ドラマでサブタイトルがなしの回は平成では初めてかも。

投稿: えびすこ | 2016年12月12日 (月) 09時37分

茶々さん、こんにちは。
市街戦になっても疎開して命拾いできたhappy01な人もいれば、
他に行く所もコネもツテもありませんweepな人達もいるでしょうしね。


大河ドラマの一般市民のといえば、
風林火山では、乱取りや戦死者の遺体から金目のものを奪ってウハウハな市民達がいたり、
葵徳川では、関ヶ原で敵前逃亡したら斬ってやると、進むも地獄退くも地獄な足軽達の悲哀があったのが覚えています。
たった数秒だけの出番で、役者も無名のエキストラでも、ずっと印象に残るシーンを作るのは可能なんだなぁと思いました。

投稿: 禿げ鼠 | 2016年12月15日 (木) 10時44分

えびすこさん、こんにちは~

>城下まで戦火が出ていた…

と言うよりは、城下が戦場だったのです。
徳川方が大坂城内まで入って来れたのは、大坂の陣の最終日です。

もちろん、城攻めで城下町が戦場と化すのは当たり前かも知れませんが、大坂の陣の場合は規模が違うし、庶民も自分たちの損得によってどちらかにつき、水面下で調略など行っていました…つまり、戦闘という形とは別の形で合戦に参加していた人も多かったんです。

投稿: 茶々 | 2016年12月15日 (木) 17時58分

禿げ鼠さん、こんにちは~

風林火山でのシーンは覚えています。
確か初回の冒頭でそんなシーンがあったと…

また最終回を拝見させていただいてから、総合的な感想を書かせていただきたいと思っているのですが、「真田丸」の場合は、時間が無くなってしもたんやないか?と思います。

「真田丸」でも最初の頃の第1次上田合戦なんかは、城攻めの感じや庶民の関わり方なんかがうまく描けていて、「大坂の陣もこんな風に」って、このブログにも書かせていただきましたが、最終回が近くなってからは、はしょるはしょるww
幸村の1番の見せ場である大坂の陣なのに、はしょりまくりです。
たぶん、草刈昌幸さんにいっぱい使い過ぎちゃったんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2016年12月15日 (木) 18時09分

茶々さん、
これは話によっては今の大阪府、和歌山県、奈良県、京都府辺りが豊臣の土地になり、秀頼が関白になって、徳川との二重政治が行われたかもしれないですね。伊達政宗、最上なんかだと裏切ったかもしれませんね。これは浅野と手を組んだらもしかしてもあったなと思いました。

投稿: non | 2016年12月17日 (土) 13時29分

nonさん、こんばんは~

浅野家の豊臣恩顧っぷりはスゴイですから、常に「寝返った」とか「裏切った」とかの疑いをかけられたり、噂立てられたりしてますからいっその事…

とは言え、この浅野家が守ってくれたおかげで、豊臣政権時代の史料のすべてを徳川に隠ぺいされずに済んだ感があるので、豊臣ファンとしては感謝ですo(*^▽^*)o

投稿: 茶々 | 2016年12月18日 (日) 19時05分

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