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2016年12月 7日 (水)

南北朝~新将軍京落での佐々木道誉の風流と楠木正儀

正平十六年・康安元年(1361年)12月7日、挽回を計る南朝軍が足利将軍のいる京都に進撃を開始しました。

・・・・・・・・・・

日本に二つの朝廷があった南北朝時代・・・ここまでの経緯のくわしくは【足利尊氏と南北朝の年表】>>でご覧いただきたいのですが、とりあえず、かいつまんでお話させていただくと・・・

元弘三年(1333年)に鎌倉幕府を倒して(5月22日参照>>)建武の新政(6月6日参照>>)を行った後醍醐(ごだいご)天皇に反発した足利尊氏(あしかがたかうじ=高氏)が、京都へと攻め上り(6月30日参照>>)光明(こうみょう)天皇を擁立して(8月15日参照>>)開いた室町幕府・・・こちらが北朝

この尊氏に京都を追われた後醍醐天皇が吉野(奈良)に入って開いたのが南朝(12月22日参照>>)です。

その後、延元三年(歴応元年・1338年)に尊氏が征夷大将軍(8月11日参照>>)となって、続く延元四年・暦応二年(1339年)に後醍醐天皇が崩御される(8月16日参照>>)中で、たび重なる合戦で南朝の中心である
北畠顕家(きたばたけあきいえ)(5月22日参照>>)
新田義貞(にったよしさだ)(7月2日参照>>)
楠木正行(くすのきまさつら=正成の長男)(1月5日参照>>)などが次々と討死した事で、おおむね北朝が有利に駒を進めるも、

北朝は北朝で、観応の擾乱(かんおうのじょうらん)と呼ばれる内紛に関連して、尊氏の弟=足利直義(ただよし)(10月25日参照>>)や、執事の高師直(こうのもろなお)などを失った(2月26日参照>>)うえ、そのドサクサで、後醍醐天皇の後を継いで第97代天皇となっていた後村上(ごむらかみ)天皇(後醍醐天皇の皇子)が京都を制圧したり(3月24日参照>>)、尊氏の次男=足利直冬(あしかがただふゆ)が抵抗(6月9日参照>>)したり・・・

しかし、その尊氏も正平十三年・延文三年(1358年)に亡くなり(4月30日参照>>)、時代は、その後を継いで第2代室町幕府将軍となった三男の義詮(よしあきら)へと移っていきます。

そんな中で、問題は、父の尊氏時代からの重臣たちの間での勢力争いが、ここに来て目立って来た事・・・将軍を主人と仰ぎながらも、その主人に対抗できるほどの力を持ちつつ、一方で政権の主導権を握る事に躍起になる彼らに対し、29歳の2代目は彼らとどう向き合い、将軍としてどのように自身の地位を確保していくのか・・・目を光らせる事になります。

そんなこんなの正平十五年・延文五年(1360年)、足利政権下で執事の座についていた仁木頼章(にっきよりあきら)追い落とされて没落しますが、その翌年には、その仁木追い落とし作戦の一翼を担っていたであろう管領(かんれい)細川清氏(ほそかわきようじ)謀反の疑いを掛けられて失脚(くわしい経緯は9月23日参照>>)・・・弁明叶わず若狭(わかさ=福井県)へと逃れた清氏は、そのまま南朝へと身を転じたのです。

それから、わずか3ヶ月・・・吉野を訪れた清氏は、
「南朝軍の諸将の協力あれば、1日で都を落として、これまでの苦難を晴らしてみせます!」と宣言したのです。

これを聞いた後村上天皇が、忠臣の誉れ高き楠木正成(くすのきまさしげ)の三男=楠木正儀(まさのり)に、清氏の言葉の実現性を尋ねてみると、
「京都から朝敵(ちょうてき=国家の敵…この場合は北朝の事)を追い出すなんて事は、清氏さんの力借りんでも、僕だけで充分できる簡単な事ですわ…問題は、一旦制圧した京都を、どう維持していくか?ですが、今のこの時点では、維持し続けるのは難しいと思います」
と正儀は答えます。

しかし、「一刻も早く都に帰りたい」と思っていた中で、北朝でもトップクラスの重臣=清氏がコチラに降った事に勢いづく南朝は、軍議の結果、清氏の策を採用する事となり、南朝方の錚々たる面々をズラリ揃えて出陣し、住吉天王寺(すみよし・てんのうじ=大阪府大阪市)に陣所を設けつつ北上し、正平十六年・康安元年(1361年)12月7日都の間近まで進撃しました。

迎え撃つ義詮は、一旦東寺(とうじ=京都市)に進んで陣を置きますが、南朝軍が間近に迫ると、迎撃する事なく、アッサリと陣をたたんで後光厳(ごこうごん)天皇(北朝4代=光明天皇の甥)とともに近江(おうみ=滋賀県)へと逃れます。

こうして、翌12月8日の夕方・・・南朝軍は都へと入り、将軍の御所を焼き払ったのです。

『太平記』によれば・・・
この時、都に入った楠木正儀は、すでにもぬけの殻となった北朝方のとある屋敷に侵入します。

もちろん、上記の将軍御所と同様に、敵方の屋敷として焼き払うべく訪れたわけですが、その屋敷の邸内は、まるで高貴な客人を迎えるが如く、客間や書院には高価な品々が並べられ、書斎には貴重な書物、寝所にはお客様用の緞子(どんす)の夜具が敷かれ、警備員の詰所にはおいしそうな酒の肴とともに、竹筒いっぱに満たされたお酒が・・・

Sasakidouyo600a 実は、このお屋敷は、あのバサラ(婆娑=派手で奇抜な恰好をして傍若無人に振舞う)の中のバサラ大名佐々木道誉(ささきどうよ)(10月12日参照>>)の屋敷だったのです。

戦う事無く都を落ちる事になった道誉は、
「我が屋敷には、この屋敷にふさわしい名将が入るに違いない」
と考え、邸内すべてを見事に美しく飾り付けた後、ここに留まる二人の僧に、
「この屋敷の来客は、どんな者であっても、丁寧にもてなしたってくれよ」
と言い残して去っていたのです。

先の失脚事件の際、おそらくは自らをハメて蹴落としたであろう道誉に怒り心頭の清氏は、
「アホか!敵の屋敷は全部焼いてまえ!」
と息巻きますが、当の正儀は、
「兄さん、メッチャ風流な事しはるやん!かっこえぇ」
と感動しきり・・・

結局、正儀は、清氏の言葉は聞かず、庭の木1本、畳1枚、傷つける事無かったばかりか、逆に、詰所の肴を、より豪華にし、寝所の枕もとには秘蔵の甲冑と太刀を飾った後、再び都を去ったのです。

まもなく、正儀と入れ換わるように都に戻った道誉・・・多くの屋敷が焼かれた中で、自宅が無傷だった道誉は
「ウマイ事やりやがった…ホンマ、ずる賢いやっちゃで」
と囁かれる一方で、結果的に甲冑と太刀を、道誉に譲ってしまった形になった正儀の事を、
「古ダヌキに手玉に取られよったで」
とバカにする者もいたのだとか・・・

いやいや、正儀さんは、ちょっと純粋なだけです~

・・・て、何?
「まもなく、正儀と入れ換わるように都に戻った道誉…」って

そうなんです。
上記の通り、12月8日に京都に入った南朝軍でしたが、わずか半月後の12月26日、やっぱり一戦も交えぬまま京都を退去し、その3日後に再び義詮が将軍として戻って来て、すべてが元通り・・・チャンチャンっとなるのです。

なんじゃそら!

って、思いますが、実は、京都って、攻めるにたやすく、守るに難しい場所なんです。

そう、最初に清氏がやって来て
「1日で落とせます!」
と言った時に、正儀が
「維持し続けるのは難しい」
と言いましたが、正儀さんのおっしゃる通りなんです。
(さすが!正成はんの息子ヽ(´▽`)/)

ご存じのように、京都は山に囲まれた盆地で、都の中心部には高い山が無く、比較的高い山はその外側にあります。

なので、外側を囲まれると非常に弱い・・・先の仁木の没落も清氏の失脚も、都内にいる彼らが、周囲からの攻撃に屈して退散したような物で、ここは一旦、都を放棄してから態勢を立て直し、改めて周囲を囲んで攻撃を仕掛ける方が得策なのです。

もう少し後の時代に登場する剣豪将軍=足利義輝(よしてる)も、何度か都を明け渡しては奪回する日々を送っています(11月27日参照>>)

・・・で、その事を重々承知の豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、都全体をお土居で囲って、その守りの弱さを払しょくするわけですが、それは、もう200年ほど後のお話・・・
6月25日【秀吉の京都改造計画と鴨川の納涼床】>>
12月3日【北野天満宮「御土居=もみじ苑の公開」】>>

今回は、その守り難さを知っていたからこそ、義詮は、一旦アッサリと近江へ退去した後、すぐに軍勢を整えて、再び周囲を囲む・・・という策を取り、

一方の南朝も、1度目は清氏の案を採用しながらも、さすがに、このまま維持できない事に気づいて、次は、アッサリと明け渡したというワケです。

この後、細川氏の地元である阿波(あわ=徳島県)に戻って再起を計ろうとする清氏と、今回の一件の縁からか?道誉を通じて北朝に南北朝合一を働きかける正儀の姿がありますが、そのお話は、また別の機会にご紹介させていただきたいと思います。
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コメント

こんにちは、実は道誉は好きです。
おまけに道誉と父方の祖父母の先祖は親戚です。こんな時代に趣深い武将がいたなと感心します。楠木も何でも観世家と親戚ですね。能楽の教養があったのかなと思います。正儀と観阿弥はいとこ同士と聞きますので案外能楽だけでなく南北朝の和解協議をいとこ同士でしてたのかなと思いました。

投稿: non | 2016年12月17日 (土) 13時42分

http://www.afpbb.com/articles/-/3008144
茶々さん、上の記事を見たら日本は昔から風雅な国だと思いました。欧州は西郷でないですが野蛮ですね。

投稿: non | 2016年12月17日 (土) 21時42分

nonさん、こんばんは~

う~~ん???
でも、日本も、マグロの解体ショーやって、その場で食べたりしますからね~
相手が動物の場合の線引きは難しいです。

私も牛や豚を食べますが、それも、どこかでどなたかが、私の見えない所で、私ができない仕事をやって下さってるおかげで、自分はスライスした物を食べる事ができるわけですから…

投稿: 茶々 | 2016年12月18日 (日) 19時10分

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