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2017年1月29日 (日)

アンケート企画「歴史人物・胸キュン!ワード選手権」~女性編

さて、本年初のアンケート企画といきましょう!

今回のテーマは・・・
「歴史人物・胸キュン!ワード~こんなん言われたいゾ選手権(女性編)という事で、アンケート募集したいと思います。

「女性編」とした限りは、いずれ「男性編」もするつもりなのですが・・・(*´v゚*)ゞ

とは言え、今回は、「歴史上の女性が発信した言葉」という事で、その性質上、どうしても、短歌や軍記物のセリフに選択肢が偏ってしまい、かつ、本人の好みもあって、『百人一首』や『万葉集』、『平家物語』などからの出典が多くなってしまいました~スミマセン

ま、お気軽なアンケートという事で、そこンところは、広い心でお許しを…o(_ _)oペコッ

で、男性は素直な気持ちで、女性は男性になったつもりで「こんなん言われたらジビれるわ~」てな感じの胸キュン!ワードを、一つ選んでいただけるとありがたいです・・・もちろんその他のご意見もお待ちしております。

ちなみに、今回、出典史料は『』で、出典史料からの引用部分は【】で、引用の歌は♪~♪で、その意訳は「」で表示しました。

ではでは、選択肢をどうぞ~

  1. 『古事記』より…垂仁天皇の后である沙本毘売が、天皇への謀反を企む兄から、【孰愛夫與兄歟】=「お前は夫と兄のどっちが好きか?」と聞かれた時の返答
    【愛兄】
    「サポリン…お兄ちゃんが好き!」
    「萌え~」が止まらん(*゚∀゚)…(参照ページ>>)
  2. 『万葉集』より…鏡王女が、恋人の天智天皇に詠んだ歌
    秋山の 樹(こ)の下隠り逝く水の
     われこそ益さめ 御思いよりは

    「落葉の下の隠れて流れていく水のように表に見えないけど、アナタが思ってる以上に私はアナタの事が好きなのよ」
    秘めたる思いはつのるばかり…(参照ページ>>)
  3. 『万葉集』より…額田王が、すでに天智天皇の恋人であったにも関わらず、野原の園遊会で会った元カレの天武天皇に詠んだ歌
    あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き
     野守
    (のもり)は見ずや 君が袖振る
    「夕陽に染まる野原を歩いていると、遠くであなたが手を振ってるのが見える…イャン!そんな大胆な事したら、誰かに見られてしまうやんか!」
    センテンススプリ~ング!むしろオフィシャルになるだけ…(参照ページ>>)
  4. 『万葉集』より…処刑された弟=大津皇子が二上山に葬られた事を受けて、伊勢から奈良に戻った姉の大伯皇女が詠んだ歌
    うすそみの 人なる吾や 明日よりは
     二上山
    ふたかみやま)を兄弟(いろせ)とわが見む
    「ぬけがらとなった私は、明日から、あの山をあなただと思って見ながら暮らすわ」
    実際には姉弟ではありますが、まるで恋人を想うがのごとく…(参照ページ>>)
  5. 『万葉集』より…宮廷官女の狭野茅上娘子が流罪になった恋人=中臣宅守に宛てて詠んだ歌
    わが背子が 帰り来まさむ 時のため
     命残さむ 忘れたまうな
     
    「あなたが帰って来る時のために、私は生きてるんよ…その事、忘れんといてな」
    有名な「…天の火もがも」にしようかと思いましたが、コッチの方がグサッと来るので~って重い!重いゾ…(参照ページ>>)
  6. 『後撰和歌集』より…皇后である橘嘉智子が自宅前で待つ嵯峨天皇に詠んだ歌
    言繁(ことしげ)し しばしは立てれ 宵の間に
      おけらむ露は いでてはらはむ  

    「メッチャ噂になってますから、人目が無くなる時間まで、チョットの間、外で待っててください。 その間についた夜露は、後で私がキレイにしてさしあげますよって…」
    毎晩、彼女のもとに通う嵯峨天皇の姿が目に浮かぶ…(参照ページ>>)
  7. 『後撰和歌集』より…小野小町が参詣したお寺でたまたま会った僧に詠んだ歌
    岩の上に 旅ねをすれば いと寒し
     苔の衣を われにかさなむ
      ♪

    「今夜、このまま一人で寝たら寒いやん、あんたンとこで団貸してくれる?」
    そりゃ、あ~た、掛布団でも敷布団でも肉布団でも貸しまっせ~(参照ページ>>)
  8. 『百人一首』より…病気になった和泉式部が恋人に詠んだ歌
    あらざらむ この世のほかの 思ひ出に
     今ひとたびの 逢ふこともがな

    「病気でしんどいの~私、もう死んじゃうかも…死ぬ前に、もう一回アナタに会いたいワ」
    「か弱い私」を演出する恋のテクニック女王ここにあり…(参照ページ>>)
  9. 『百人一首』より…前夜、意外に早く帰ってしまった藤原行成の、その言い訳を聞いた清少納言がちょっとスネで詠んだ歌
    夜をこめて 鳥のそら寝は はかるとも
     世に逢坂
    (あふさか)の 関はゆるさじ
    (函谷関の関守がニワトリの鳴きマネに騙され、朝だと思って関所を開けてしまったという中国の故事を踏まえて)ニワトリの鳴きマネして門を開けようとしても、私とあなたの逢坂(おうさか)の関は、そう簡単には開かへんからネ」
    「なんやかんや理由つけて、ソソクサ帰るなんて、もう会うたれへんからな!」と怒ってみる…(参照ページ>>)
  10. 『百人一首』より…恋を禁じられた斎宮=式子内親王の詠んだ歌
    玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば
     忍ぶることの 弱りもぞする 

    「命の糸なんか、切れるやったら切れたらえぇねん!
    どうせこのままやったら、あの人との事が隠し通せんようなって、皆に知られて引き離されてしまうだけやもん!」

    秘めた恋に身を投じる女性の思い~忍びあう恋、なみだ恋♪…(参照ページ>>)
  11. 『成尋阿闍梨母集』より…大陸に渡った僧=成尋の母が異国にいる息子に詠んだ歌
    もろこしも 天(あめ)の下にぞ ありと聞く
     照る日の本を 忘れざらなん
     ♪

    「そっちも、この国と同じ太陽が照らす空の下にあると聞きました…その同じ太陽が照らすこの国におる私の事、忘れんとってな」
    コチラも母子ですが、遠距離恋愛の男女のような切なさを感じます…(参照ページ>>)
  12. 『平家物語』より…平清盛の前で仏御前が初めて披露した今様
    君をはじめて見る折は
     千代も経ぬべし姫小松
      御前の池なる亀岡に
     鶴こそ群れゐてあそぶめれ 

    「あなたに初めて会うた時、あまりにもカッコ良くて眩しくて、私なんか1000年長生きするかと思うほどでしたわ」
    白拍子として雇うてほしいので、ちょっとベンチャラ入ってます…(参照ページ>>)
  13. 『平家物語』より…平維盛が都落ちする時に別れを惜しむ奥さん=建春門院新大納言局が言ったセリフ
    【いづくまでも伴(ともない)奉り、同じ野原の露とも消え、一つ底の水屑(みくず)とならんとこそ契りしに、さればさ夜の寝覚めのむつごとは、皆いつはりになりにけり】 
    「同じ野原の朝露のように消え、一つの海底のモクズとなるまで一緒にいようと約束してくれはりましたのに、あれはウソやったんですか?」
    悲しい別れのシーンです…(参照ページ>>)
  14. 『平家物語』より…小宰相が、一の谷の戦いで戦死した恋人=平通盛を追って入水自殺をする時に言ったセリフ
    【…本願誤たず浄土へ導き給いつつ、飽かで別れし妹背(いもせ)の仲らい、必ず一つ蓮(はちす)に迎えたまえ】 
    「心ならずも別れた二人…どうか、あの世では、同じ一枚のハスの葉の上で過ごさせてください」
    ホンマ、切のうて切のうて…(参照ページ>>)
  15. 『義経記』より…吉野にて源義経と別れる事になった静御前が、「この手鏡を僕やと思って大事にしてな」と手渡された時に詠んだ歌
    見るとても 嬉しくもなし 増鏡
     恋しき人の 影を止めねば 

    「あなたの顔を写さない手鏡なんか…見てもうれしい事ないのに…」
    あの「しづやしづ~」と迷いましたが…(参照ページ>>)
  16. 『今物語』より…かつて天皇と一夜を過ごした四天王寺の尼僧が詠んだ歌
    なかなかに 訪(と)はぬも人の うれしきは
     憂き世をいとふ たよりなりけり 

    「あなたが来てくれへん事が、むしろ良かったかも知れません。
    なんでって…それで世を捨てる決心ができましたから」

    好きな人を待つのはツライ…もう来ないのなら、いっそ尼になって諦めた方が~いや、現代やったら、完全な皮肉に聞こえるかも…(参照ページ>>)
  17. その他
    「やっぱ、アレでしょう」っていう項目がありましたらお知らせください
      

勝手ながら、このアンケートは2月28日に締め切りとさせていただきました。

このアンケートの投票結果&いただいたコメントは、コチラからどうぞ>>

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2017年1月20日 (金)

信長VS越前一向一揆~富田長繁の桂田長俊攻め

 

天正二年(1574年)1月20日、織田信長から越前守護代を命じられていた桂田長俊が、一向一揆と結んだ富田長繁に一乗谷を攻められて討死しました。(『朝倉始末記』より)

・・・・・・・・・・・・・

*桂田長俊の死亡は、『信長公記』では「19日に自害」となっていますが、本日は『朝倉始末記』に沿ってお話させていただきます。

元亀元年(1570年)、4月の金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)からの有名な姉川の戦い(6月28日参照>>)に始まる、織田信長(おだのぶなが)VS浅井・朝倉の戦い・・・3年の年月を経た天正元年(1573年)、小谷城北近江(おうみ=滋賀県)浅井長政(あざいながまさ)を倒した(8月28日参照>>)とほぼ同時に、一乗谷越前(福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)を破って(8月6日参照>>)信長はいよいよ越前を手に入れたわけですが・・・
(くわしくは【織田信長の年表】で>>)

Dscf1245pa1000
越前一乗谷朝倉氏遺跡

この時、最初の金ヶ崎から平定まで、3~4年の月日がある事から、その間に朝倉を見限って織田方に寝返った元朝倉家臣も多くいました。

ご存じのように、刃向かう者には徹底抗戦の信長さんですが、降伏して来たり、寝返って来たり、従順な態度をとる者には意外にやさしい・・・今回の対朝倉においても、織田の傘下となった元朝倉家臣に対して、旧領を安堵してそれぞれの役に任命し、彼ら自身によって、越前の各地を治めるよう指示していたのです。

そんな中の一人が、この織田傘下への転向を機会に、その名を前波吉継(まえばよしつぐ)から改名した桂田長俊(かつらだながとし)でした。

信長は、浅井の本拠だった小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市)に直臣の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀)を置いて近江から北部に睨みを効かせ、朝倉の本拠だった一乗谷(いちじょうだに=福井県福井市)に、桂田長俊を越前の守護代として置いたのです。

実は、今回の信長の越前攻めの時、いち早く寝返って、道案内までかって出たのが桂田長俊・・・おかげで、越前の守護代という破格の待遇を得たわけですが、上記の通り、この時、朝倉から織田へ寝返ったのは、彼だけでは無かったわけで、当然、同時期に少しだけ遅れて寝返った元朝倉の家臣たちからは
「ちょっと早いだけで、アイツが守護代かい!\(*`∧´)/」
てな不満も湧いて来るわけで・・・

そんな中、当の桂田は、信長さんのご機嫌を取るべく、贈物三昧を決行・・・城下の職人たちからは、あれやこれやの名品を取りたてるわ、農民たちには増税を強いるわで、ほどなく領民たちの不満も頂点に達し、地元の本願寺に訴えます。

もとより、この越前の地は、朝倉とも上杉とも交戦(8月6日参照>>)を続けた一向一揆の盛んな地・・・この状況に本願寺門徒が黙っているはずはありません。

そこに目をつけたのが、元朝倉家臣で、かの寝返り組の一人=府中領主に任じられていた富田長繁(とみたながしげ)でした。

彼は、早速、加賀一向一揆で一翼の大将を担う杉浦玄任(すぎうらげんにん=げんとう・壱岐)と連絡を取り、援軍を要請します。

『朝倉始末記』によれば・・・
天正二年(1574年)1月19日、一揆勢を加えて3万3千余りに膨れ上がった富田長繁の軍は、あちこちで騒動を起こしながら一乗谷に攻め寄せたのです。
(『朝倉始末記』では総勢10万以上となっていますが、一般的には上記の3万3千とされます)

Dscf1178a 上城戸下城戸の2手に分かれて一乗谷に押し寄せる一揆軍・・・

上城戸には富田長繁自らが大将となって突っ込み、下城戸には、杉浦玄任の配下である大野衆(福井県大野市の本願寺門徒)らがけたたましく攻め寄せ、両方の木戸はアッと言う間に破られて、一揆勢が一気に城内へと乱入しました。

さすがに、これだけの大軍に攻め込まれるとは思ってもいなかった一乗谷城の城兵は、一揆勢に押しまくられるばかりで逃げ場を失い、多くの者が討死したと言います。

そして、一揆勢は、いよいよ、城主の桂田長俊のもとへ迫ります。

なかなかの剛の者であったとも言われる桂田長俊さんですが、実は、この頃には失明していたらしく・・・

それでも、桂田長俊は馬に乗って出陣し、馬上から果敢に敵兵に立ち向かいますが、残念ながら彼の刀先は空を切るばかり・・・戦場の真っただ中では、音を頼りにする事もできずに敵を見失い、最後の最後には呆然と立ち尽くしているところを敵兵に囲まれ、馬から引きずり降ろされて首を切られたのです。

開戦の翌日=天正二年(1574年)1月20日・朝・・・桂田長俊は戦場の露と消えました。

勢い止まらぬ一揆勢は、そのまま、桂田長俊の一族郎党を皆殺しにし、逃げる途中だった息子や母も追いつめて殺害したとの事・・・

♪上モナク 昇リ昇リテ 半天ノ
 ミツレバカクル 月ノ桂田
 桂田ノ 實
(実)リモアヘヌ 領地マデ
 稲妻ノ間ニ 穂頸
(くび)切ラル ♪
「昇りに昇った半天の月も満ちれば欠ける
桂田は、未だ成果もあげないうちに、
またたく間に殺られてしまった」

これは、「桂田長俊が亡くなった翌日に、何者かが在所に残した落書だ」と『朝倉始末記』は言ってますが、おそらくは、始末記を書いている作者の思いを詠んだ物でしょう。

『信長公記』では、守護代となった桂田長俊が、我が世の春を謳歌し、勝手気ままに振る舞ってエラそうにして反感をかったために自害に追い込まれた(『信長公記』での死亡日は19日)のだと淡々と書いてあり、実際には、そんな感じなのでしょうけど、

なんか、『朝倉始末記』の方は「盛者必衰のコトワリをあらわす」みたいで、泣けて来ますね~やっぱ、『朝倉始末記』は軍記物ですから、描き方がドラマチックです。

ところで、まだまだ勢い止まらぬ一揆勢・・・扇動する富田長繁は、同月21日には、信長が北ノ庄に置いていた代官所も襲撃して、目付として赴任していた3人の奉行まで追放し、その3日後の24日には、やはり自分と同時期に織田方へ寝返った元朝倉家臣で、現在は鳥羽野城(とばのじょう=福井県鯖江市)の城主となっているの魚住景固 (うおずみかげかた) を、

しかも、コッチは宴会に誘って父子ともども殺害しちゃうという騙し討ちというセコイ手まで使って、越前一国を、ほぼ手中に収めますが・・・

おいおいおい・・・そうです、富田長繁は織田傘下のはずだったのに、何やってんの?

かの『信長公記』も書いてますが、「これで越前は一向一揆の持つ国」になってしまったわけで・・・勢いのまま突き進んではみたものの、果たして、富田長繁は、信長を相手に戦う覚悟はあったんでしょうか?

一方、信長さんは、当然の如く激おこプンプン丸・・・羽柴秀吉や丹羽長秀(にわながひで)といった面々を敦賀(つるが)に派遣する事になるのですが、この続きのお話は、
長繁最期の日となる2月18日のページ>>で・・・
更なる展開の
越前平定8月12日のページ>>でどうぞm(_ _)m
(続きのお話なのでおおまかな経緯の部分は内容がかぶっていますが、お許しを)
 .

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2017年1月12日 (木)

大河ドラマ『おんな城主 直虎』~井伊家の家老・小野政直とは?

始まりましたね~大河ドラマ『おんな城主 直虎』・・・

いやはや・・・
それにしても、番組の感想を書く系のネット掲示板がオモシロイの何のってww

昨年の『真田丸』が「オモシロイ」という方からは
「メリハリなくて全然つまらない」
「ダラダラと見る気失せる」

との意見が飛び交い、
昨年の『真田丸』が「ツマラナカッタ」という方からは
「昨年は初回からコントを見せられてウンザリしたけど今年はやっと大河が見られた」
「トンデモな女性ばかりだった昨年から、やっとちゃんとした戦国女性が出て来た」

と、見事に分かれた感想の数々に、
思わずクスリ(*≧m≦*)

そもそも、万人がオモシロイと思うなんて事はあり得ないですから・・・ホント、作り手さんは大変ですね~

私は・・・ハイ、初回を見た限りでは、良かったと思いますよ~

私は、昨年のようなぶっ飛んだ感じも「挑戦しはったな~」てな感じでオモシロイと思いますし、今年のような、しずしずと話が進んで行く感じも好きです。

ちょっと韓流時代劇っぽい雰囲気なのと、三角関係のラブストーリー感は気になりはしますが、何年か前の『姫たちの妄想』のように、「途中で書く人代わった?」って思うほどの変貌ぶりが無い限りは、なかなか期待できると思います。

『寛政重修家譜』にある井伊谷(いいのや)八幡の神主さんが井戸の中から男の子を見つける話や、家老の小野政直(おのまさなお=道高)の讒言で井伊直満(いいなおみつ)が殺されて、息子の亀之丞(かめのじょう)くんピ~ンチ!も出て来ましたしね。

・・・にしても、1回目で、そんなに史実をやっちゃって大丈夫なのか?
残ってる史実は、どんどん少なくなるゾ!
と、ちと心配になってしまいますが、そこは秀逸な創作で埋めていただく事を期待しつつ・・・

ところで、この初回からヒールな香りをプンプン撒き散らしている吹越満さん演じる小野政直って何者?

今年の大河は次郎法師(井伊直虎)が主役なので小野政直さんは、完全なる敵役・・・かくいう私も、未だ大河の主役になるなど、米粒ほども思っていなかった6年前に書かせていただいた【戦国リボンの騎士~女城主・井伊直虎】>>のページでは、やはり、直虎さんが主役なので、小野政直を、駿河(するが=静岡県東部)今川義(いまがわよしもと)に告げ口した「チクリ政直」と呼んでました(*´v゚*)ゞ

とは言え、ドラマでは、あの倍返し半沢さんの大和田常務のように、ヒール役が憎たらしければ憎たらしいほど、物語は面白くなるので、その点では怪しい雰囲気を醸し出す吹越さんの演技に大いに期待ですが、実は、お察しの通り、史実とされる小野政直さんのイメージは、そこまで悪人では無いようです。

もちろん、義元へのチクリから直満が死んで亀之丞が逃げて・・・のくだりは史実のようですが、そもそも、この頃の井伊家は、上り調子真っただ中の今川の傘下という立場ですから・・・

Iinaotorakeizu 井伊直虎の家系図→(クリックで大きく)

もうすでに、大河の予備知識としてご存じの方も多かろうと思いますが、この井伊家が今川の傘下になるにあたっては、ドラマの主人公=次郎法師の曽祖父である井伊直平(なおひら)が、自身の娘を人質として今川に差し出して臣従していて、その娘さんが義元の妹(養妹・義元の側室だったとも)という名目で、今川の家臣である関口義広(せきぐちよしひろ=親永)の奥さんとなり、その二人の間に生まれたのが、後の徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平元康)の正室になる築山殿(つきやまどの=瀬名姫)(築山殿については8月29日参照>>)だとされています。

直平が自らの娘を今川への人質として差し出して傘下になったのがいつ頃かは不明ですが、おそらくは家康と同い年くらい、もしくは1~2歳年上だったと思われる築山殿の生まれた年から考えると、だいたい天文六年か七年頃?(1538年頃?)・・・

とにもかくにも、もし、ドラマのように、直平と井伊家にとっては、弱小であるが故の不本意かつ悔しさ満載の臣従であったとしても、今川の傘下となった以上は、とりあえず表向きはその指示に従い、協力して行かねばならない立場であったはずですから、そこの家老が今川と仲良くするのは、むしろ自然な事です。

一方、その頃の今川家では、世に河東一乱(かとういちらん)と呼ばれる北条氏との争いが勃発中でした。

ご存じのように、もともとは自らの姉(もしくは妹)が側室となっていた今川義忠(よしただ=義元の祖父)に協力して盛り上げたのは、北条氏の初代となる北条早雲(ほうじょうそうううん=当時は伊勢新九郎)(10月11日参照>>)でしたから、本来、北条と今川の仲は、悪くは無かったはず・・・同盟も組んでましたしね。

しかし、その後、今川氏輝(うじてる=義元の兄)の時代になって、今川家は、両者ともに敵とみなしていた武田信虎(たけだのぶとら=信玄の父)と和睦したばかりか、その息子の義元が信虎の娘=定恵院(じょうけいいん)を正室に迎えて更なる同盟の強化を計った事に怒った北条が、駿河へと侵攻して来たのが河東一乱・・・河東というのは富士川より東の地域という意味です。

ところが、そんな北条氏に井伊が協力していたとおぼしき記録があります。

それは、3月29日付けの北条氏綱(うじつな=早雲の息子)による三河(みかわ=愛知県東部)の国人領主=奥平貞昌(おくだいらさだまさ)宛ての手紙・・・
「遠州本意之上…(略)で始まる手紙には、
「遠江(とおとうみ=静岡県大井川西部)が思い通りになったんで、ご褒美あげるね~なので、今後は井伊と談合して早々に行動を起こす事が大事やで~」
とあります。

当時は、この奥平も今川の傘下でしたから、ともに今川配下の奥平と井伊を寝返らせて、西の彼らと東の北条で今川を挟み、孤立させようという作戦なわけです。

残念ながら、この手紙に年号が書いて無いので、いつの手紙がはっきりしないのですが・・・
この河東一乱が天文五年(1536年)頃と天文十四年(1545年)の2度激しくなる時期がある中で、差出人の氏綱が天文十年(1541年)に亡くなっている事から(奥平貞昌の死亡は不明)、当然、手紙はそれ以前という事になります。

もちろん、この手紙の中の「井伊」が井伊家内の誰なのか?という事は不明ですが、この河東一乱に合わせて、今川ではなく、北条に通じ、北条に味方しようとしていた人物が井伊家内にいた事は確か・・・

そして、今回の大河ドラマの第1回にあった今川義元による直満殺害事件(実際には弟の直義もともに殺害)があったのは天文十三年・・・関連を匂わせる史料は今のところ無いので、あくまで時期だけの推察ですが、

当時の井伊家内には、今川派と北条派がいて、おそらくは、北条側についた者が、この河東一乱の連動して動きを見せた・・・

となると、直満兄弟は、それに関連して義元に殺害された可能性は無きにもあらずで、ならば、ここでの、家老=小野政直の義元への告げ口も、「個人的に嫌いな直満の息子が当主となる事に反対」だけでは無い「井伊家を守る」という意味もあったように思えますね。

ところで、少しネタバレにはなりますが、史実として語られている事なので、今後ドラマで描かれるであろう、ちと先のお話をしますが、今回の第1回で、父の直満を殺され、追われる立場となって逃走する息子の亀之丞くんが、この井伊谷に戻って来れるのは、かの小野政直が死んだ後の12年後・・・

つまり、家老が当主である井伊直盛(なおもり=直虎の父)を飛び越えて、直接、義元に讒言したうえに、そのせいで、叔父の直満を殺されても、何もできなかった当主=直盛がおり、しかも、その後、身を隠した亀之丞が戻って来れるのは、その家老が死んでから・・・って事になるわけで、どんだけ家老が権力持っとんねん!と思ってしまいますが、

実は、この直満事件の10日ほど前に、全国を旅して廻っていた連歌師の宗牧(そうぼく)なる人物が、この井伊谷を訪れている事が記録されているのですが、
その『東国紀行』によれば
(略)…抑留に及ばずとて、使僧して樽肴贈らる、
馬上盞の体なり、
初夜の過に和泉守所へ落ち着きたり、 
次郎殿やがて光儀、明日一座の懇望、又
太山にも やどや桜の 雪の山…
(略)
…十四日、引馬まで急いだ、次郎殿自身、
其外同名中、都田といふ所まで送りゆく
、又盃…
(略)

かねてより約束していた事もあって、かなり手前の場所まで井伊家の者が出迎えに来てくれていた中
「そんなに長居はしませんから…と伝えると、使いの僧にお酒や肴を持って来させてくれたんで、馬に乗りながら飲み食いしてるうちに和泉守(いずみのかみ=小野政直の事)の屋敷に到着したんやけど、それから、そこに直盛さんがやって来て、「明日、連歌会を開いてほしいわぁ」と言うので、♪太山にも~…って歌を詠んだんや~(略)
14日
(12月14日)は引馬(ひくま=静岡県浜松市)まで急いだんやけど、直盛さん自らが仲間を連れて都田まで見送りに来てくれて、そこでまた1杯引っかけたわ」
と・・・

これって、客人が滞在するのが家老の屋敷で、帰る客人を見送りに行くのが領主???
何か、逆のような気がしないでもないけど、それだけ小野政直が力を持っていたって事なのか??

実は、江戸時代になって封建制度が確立されるまでは、主従の力関係が微妙な事がよくあったのです。

南北朝時代を描いた『太平記』巻三十七の有名な言葉に
「君は舟、臣は水、水能(よく)浮船、
水又覆船也
(なり)
臣能
(よく)保君、臣又傾君といへり」
というのがあります。

これは
「主君は船で家臣は水…水は、船を浮かべる事もできるが、同時に、船を転覆させる事もできる」
つまり、家臣が主君を倒す事もあるよ!って事ですが、この時代の戦国武将の中には、この一文を引用して、堂々と主君と渡り合った家臣もいました。

そもそも戦国の世という物自体が下剋上ドップリな世界・・・上杉謙信(うえすぎけんしん)の父=長尾為景(ながおためかげ)は、上司であった守護の上杉を倒して(8月7日参照>>)のし上がった、もともとは守護代だったわけですし、あの織田信長(おだのぶなが)の父ちゃん(2014年1月17日参照>>)もそうです。

って事は、井伊家だって、例え今川の傘下にあったとしても、北条と通じてもOK・・・ただし、それを実行する前に、事が露見すれば、そりゃ、ヤラれますわな。。。

おそらくは、小野政直には今川という強い後ろ盾がある事により、当時は主君に匹敵するような力を持っていて、当然、彼は、これからも今川の後押しを以って、未だ弱小の井伊家を維持して行こうと考えていた・・・

しかし一方では、今川とは手を切って、独立したいと思っていた一派もいて、おそらくは、前者も後者も、ともに井伊家の未来の事を考えての立ち位置だったはずで、この段階では、どちらが正義で、どちらが悪かは、わからない状況という事になります。

とは言え、今回の大河の主役である次郎法師=直虎は後者の立場・・・しかも、結果的に井伊家は残り、いや、むしろ大藩として江戸時代を生き抜くのですから、当然、ドラマでは前者の小野政直はヒール役を演じる事になります。

後々、またまた対立する事になるであろう、この小野政直の息子を演じるのが、これまた、悪役もこなせる魅力的な高橋一生さんという役者さんなので、益々楽しみですね。

期待してます!
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2017年1月 6日 (金)

真田信繁の討死~そして幸村伝説へ…

2017coco
明けましておめでとうございます。

新たな年に、新たな気持ちで、
本年も、どうぞ宜しくお願いしますm(_ _)m

と言いながら、新年一発目は真田信繁(のぶしげ=幸村)のお話・・・

思いっきりの『真田丸ロス』を引きずりながら・・・というワケでは無いですが、今年の大河ドラマが始まって、脳内が井伊直虎(いいなおとら)に切り替わる、その前に、以前から思っていた事を、チョコッと吐露させていただきたいと思います。

それは、昨年の大河の主役=真田信繁の最期について・・・

もう、タイトルにしちゃってますので、先に結論を言わせていただきますと、私、個人的には、この信繁の最期が「討死」であった事こそが、後に伝説のヒーローと化していく大きな要因だと思っております。(もちろん、それだけが要因ではありませんが…)

残念ながら、昨年の大河では、安居神社っぽい場所で、信繁が腹に刃を当て、佐助が介錯するべく刀を振り上げる場面からの、別シーン・・・となっていて、自刃したのやら?してないのやら?が曖昧で、おそらくは「その後は想像してみてね」てな事なのでしょうけど・・・

あ・・・くれぐれも誤解の無いように、またまた言わせていただいときますが、私は、ドラマはドラマなので創作は大いにあって良く、大河ドラマとて史実に忠実である必要は無いと思っております。

そもそも、その史実自体が、どこまで真実に近いのか?、誰も確認する事ができませんし、その史実という物も、あくまで「こうであろう」という「現段階での最も納得のできる仮説」でしか無いわけですから・・・

しかも、史実の通りだとテンションだだ下がりになるエピソードもあるので、そこは文字通り、ドラマではドラマチックに描いていただきたいです。

たとえば、今回の大河で、
「総大将の豊臣秀頼(とよとみひでより=秀吉の息子)の出馬をうながす命を帯びて、信繁の息子=真田大助(だいすけ=幸昌)が大坂城内へと向かうも結果的に秀頼とともに自刃する」という『大坂御陣覚書』等に残るエピソードがありましたが、一方では(信繁は息子を大坂城へ)人質として差し出したる」と、信繁が裏切らないように、大坂方が人質として取っていたとする文書も複数あります。

また、信繁が、道明寺・誉田の戦い(4月30日参照>>) での戦いぶりで、その器量の大きさを感じた伊達政宗(だてまさむね)に、娘の阿梅(おうめ)を託すシーンがありましたが、これも、実は、阿梅は逃げる途中で伊達家の片倉重長( しげなが=片倉景綱の息子)の家臣からの「乱取り(戦時における略奪)」に遭って連れ去られ、そこで下女として働いていたところ、後日、信繁の娘である事が発覚したので、重長の後妻となったという話が有力です。

だいたい、なんの盟約も無い中、戦場にて「その戦いぶりを見て信頼を置く」からの「(戦いのあった日の夜に)阿吽の呼吸でその敵の娘を預かるもしくは預ける」なんて事は、実際問題として、かなりハードル高いですから、おそらく史実は後者=「乱取り」であろうとの見方が強いんです。

いずれにしても、何が史実に近いのかはわかりかねるものの、やはりドラマでは、大助は父の命を受けて颯爽と大坂城へ戻っていて欲しいし、阿梅ちゃんはやさしい独眼竜が保護してくれた方が、見てる側はウレシイです。

なので、ドラマに対してどーのこーの言う気は毛頭ございませんが、今回の大河の場合・・・
ドラマの主人公の名を、有名な幸村ではなく、あえて「信繁」にした事や、逸話の端々に、新説やマニアックなシーンを織り込んだ事などで、「今回の大河は史実に近い」あるいは「これこそ史実だ」と思っていらっしゃる方も多いと聞きます。

そもそも、ドラマや小説などでは、秀逸な創作ほど「本当の事だ」と思ってしまう視聴者&読者が多く、いまや完全に小説のイメージがついてしまった坂本龍馬(さかもとりょうま)を見て、晩年の司馬遼太郎氏が「私は読者をミスリードしてしまったかも知れない」とポツリとつぶやかれた・・・なんて噂も耳にします。

この噂は、とある歴史系雑誌で読んだだけなので、どこまで正しい話かは不明ですが、もしも本当に司馬氏が、そのような事をおっしゃたのだとしたら、注意しなければならないのは読者の方ですよね?

司馬氏は、あえて本当の坂本龍馬本人が、その生涯で1度も使用しなかった「坂本竜馬」という表記(「龍馬」「良馬」「りょうま」の表記は使用してます)の人物を、自らが理想とする主人公として最高にカッコよく描いただけなのですから・・・

そういう意味でも、小説やドラマと歴史は分けて考えないといけないと思います。

てな事で、やっと本題に入りますが・・・(←今まで、本題ちゃうかったんかい!!(゚ロ゚屮)屮)

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信繁の最期の地とされる安居神社(大阪市天王寺区)…くわしい場所は本家HP「京阪奈ぶらり歴史散歩」上町台地で>>

今回の大河ドラマの中での信繁最期のシーン・・・確か、ドラマ内では、その場所は特定されていなかったように思いますが、上記の安居神社の写真と、ドラマの信繁最期のシーンを見比べていただければお解りの通り、セットの雰囲気はどっからどう見ても、完全に、この安居神社です。

もちろん、実際に、この安居神社は「信繁最期の地」と言われていますので、ドラマのスタッフさんも、その点を意識してセットを作られたのでしょうが、もし、本当に、ドラマ内の設定でも、ここが安居神社なのだとしたら、「安居神社で信繁が自害」という流れは、史実としては多分無いように思います(←個人の感想です…安居神社では無く別の場所なら、もう少し可能性高いかも)

信繁最期のシーンの可能性としては・・・
1、安居神社で討死
2、別の場所で自害
3、遠くに逃げた

この中の「1」については、先日の【日本史の新発見&発掘…2016年総まとめ】のページ>>にも書かせていただいた通り、2016年の10月に福井県立図書館にて、「自分が槍を交えて討ち取りました」と記した本人の手紙の写しが発見されて、以前からあった説を後押しする形となっていますが、
それが・・・
「戦いに疲れた信繁が安居神社で休憩していたとこに偶然通りがかった、松平忠直(まつだいらただなお=家康の孫で後の越前藩主)の家臣=西尾宗次(にしおむねつぐ=仁左衛門)によって討ち取られたという説。

上記の通り、討ち取ったご本人の手紙の写しが発見されたのは昨年ですが、「西尾が安居神社で討ち取った話」自体は、『大坂御陣覚書』『落穂集』、合戦報告として記録された『越前兵首取状』諸将の手紙など、他にも数多くの史料に登場・・・てか、信頼できる史料としては、ほぼほぼ、この「西尾が安居神社で討ち取った話」しか出て来ません(希少ながら討死した場所が生國魂神社近くとの史料あり)

なので、現在のところ、この「安居神社で討死説」が突出して有力なのですが・・・
なら、なぜ?「2」や「3」の説が出て来るのか?と言えば・・・実は、「誰も信繁の顔を知らなかった」=つまり、なかなか本人確認できなかった、プラス、討ち取った西尾という人が有名人じゃ無かったために、「ホンマかいな?」という雰囲気ムンムンだったのですよ。

なんせ『武邊咄聞書』には、
「西尾が、たまたま討ち取った武者を鼻にしよう(大きな合戦の場合、討ち取った武将の首を持ってるとかさばるので耳や鼻を落として討ち取った証拠として持ち帰る)としていたところ、近くを通りがかった真田信尹(のぶただ=信繁の叔父)が「それ、僕の甥っ子の信繁かも知れん…前歯2本抜けてるやろ?近くに兜は無かったか?」と聞くので、歯を確認し、そばにあった兜を見せたところ、「この兜!やっぱ信繁や!」となって、首ごと家康の所へ持って行ったとあります。

また『落穂集』では、
「絶対、まともに戦って無いて…仁左衛門ごときが討ち取れる相手やないやろ!
と言われ、

合戦の1週間後の5月15日付けの細川忠興(ほそかわただおき)の手紙では、信繁の戦いっぷりを「古今無之大手柄」と褒めちぎった後に、
「アイツ(西尾)、絶対、もう倒れて動けんようなってる所に近寄って首取ったに違いないわ!そんなん手柄として認めたらアカンで!」
と散々な言われよう・・・

さらに『真武内伝追加』には、
「西尾が首を差し出した時、周囲はもちろん、家康自身も信繁の顔を知らなかったため、それが信繁かどうか確認できず、例の真田信尹を呼んで来ますが、「いやぁ、僕、生きてる時の信繁しか知らんので、死んだ顔ではよーわかりませんわ」との言い訳に、家康は激おこだった\(*`∧´)/」
とか・・・

なので、安居神社で討たれたのは別人・・・もしくは(兜がホンモノとの事なので)影武者ではないか?

・・・となって、「2」と「3」の説も可能性はあるとなるわけですが・・・

とは言え、上記の通り、安居神社にて誰かが討ち取られた事は確かなようなので、もし、信繁が自害しているとすれば別の場所という事になるのですが、不肖私、「自刃かも」という説もあるとは聞いておりますが、その出典が何なのか?どの文献に記されているのか?を存じ上げませんので、その事について、今ここで言及する事は避けさせていただいときます。

・・・で、「3」は皆様ご存じの、鹿児島への逃亡説

これは、やはり『真武内伝追加』に、例の
♪花のようなる秀頼様を
 鬼のようなる真田がつれて
 退きものいたり加護
(かご・鹿児)島へ♪
の歌とともに、船に乗って逃げる様が記されています。

また『先公実録』にも、
「鹿児島の南の谷山村という所に秀頼公の子孫がいる」
てな事が書かれています(2007年5月8日の後半部分参照>>)

とは言え、やはり「2」と「3」は、あくまで噂の域を越えないわけで、かくいう私も「安居神社で討死説」だと思っているわけですが・・・

そうなると、ふと思うのは、大坂の陣における、いわゆる「七人衆」などと呼ばれる大坂方の有名武将の中で、慶長二十年(1615年)5月7日最終決戦=天王寺口・岡山口の戦い(2015年5月7日参照>>)で討死したのは、信繁だけだという事・・・上記の通り、歴史上は未だ謎がありますが、少なくとも、当時の徳川方の武将は討ち取ったと思っていたはずなので…

七人衆(-信繁で=残り6人)のうち
後藤又兵衛基次(またべえもとつぐ)木村重成(しげなり)は、それぞれ前日の、又兵衛は上記の道明寺誉田の戦いで、重成は若江の戦い(5月5日参照>>)で戦死しているので、この最終決戦の時にはいない・・・

で、残った4人のうち、毛利勝永(かつなが)は、その日、信繁と同じく家康本陣に突入しながらも、その後の撤退戦で殿(しんがり)を努めて大坂城へと戻り、秀頼や、その母=淀殿(よど=茶々)、主将格の大野治長(はるなが)ほか、城中の皆々とともに自刃(4月24日の後半部分参照>>)・・・

大坂城炎上のドサクサで城を脱出した長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)は後に捕縛され処刑(5月15日参照>>)・・・

同じく、大坂城から秀頼の息子を連れて脱出した大野治長の弟=大野治房(はるふさ)途中で捕まって処刑(【秀頼の二人の息子】参照>>)・・・

唯一、死亡が確認されていない行方不明の明石全登(あかしたけのり・てるずみ=景盛)(2012年5月8日参照>>)・・・

もちろん、5月7日の最終決戦は多くの戦死者が出てますから、信繁以外にも、あの仙石秀久(せんごくひでひさ)(9月18日参照>>)の息子の仙石秀範(ひでのり)や、結城秀康(ゆうきひでやす)の元家臣=御宿政友(みしゅくまさとも=勘兵衛)などの有名どころも、この日の最終決戦で討死してますが、やはり、七人衆とはインパクトが違う?(←ファンの方スンマセンm(_ _)m個人の印象です)

先ほどの細川忠興の手紙なんかでも、「木村・後藤・薄田(隼人=道明寺で討死)・明石…いづれも比類無き働き」と褒めながらも、彼らとは別の場所に「真田左衛門佐、古今無大手柄」と例の一文を記していますし、信繁ageの代名詞とも言える「真田日本一の兵(つわもの)(6月11日参照>>)島津忠恒(後の家久)の手紙などに代表されるように・・・何となく別格の雰囲気を醸し出してる感ありますよね?

当然ですが、信繁には例の真田丸の攻防(12月4日参照>>)をはじめとする数々の比類なき武功があった事は確かで、私自身も、それらの功績を絶賛する者の一人ではありますが、やはり、彼ら徳川方の「古今無之大手柄」「真田日本一の兵」という、別格のような褒め言葉が、後世の私たちの「真田スゴイ!」の印象に拍車をかけているような気がするのです。

しかし、そんな徳川方の武将たちによる褒め言葉・・・
イケズな見方をさせていただくと・・・
そのウラには「そんな強いヤツに、俺らは勝った」=「討ち取った」という気持ちが見え隠れしているんじゃないか?と・・・

厳しいようですが、やはり生き馬の目を抜く戦国乱世・・・
あの誉めまくりには、「本拠に戻って自刃した」のと「逃亡後に捕縛されて処刑された」のとは違う、「戦場で討ち取られた」という最期があったからなのだと思います。

そして、諸将から称賛された信繁像が、年月が経つうち、戦場に散った潔さとともに、さらに美しくカッコ良く軍記物に描かれ、猛将=信繁は、英雄=幸村へと変化していき、そして、伝説となったと・・・

なので、私の個人的な思いではありますが・・・
やはり、信繁には、
「最後の最後まで生きる事を諦めない」
「槍の、刀の、最後の一振りまで戦う」
武将であってほしい
と・・・

そして、その討死の姿があったからこそ、日本一の兵=真田幸村なのだと思っているのです。

年始早々の長文、最後まで読んでくださってありがとうございましたm(_ _)m
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