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2017年3月30日 (木)

上杉謙信の増山城&隠尾城の戦い

永禄三年(1560年)3月30日、椎名康胤の要請を受けた上杉謙信が神保長職の越中増山城へ攻め入りました。

・・・・・・・・・

天文二十二年(1553年)を皮切りに始まった、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)による信濃(しなの=長野県)北東方面の争奪戦=川中島の戦い(9月10日参照>>)・・・
(くわしくは【武田信玄と勝頼の年表】参照>>)

この時、謙信が信玄に目を向けている状況をビッグチャンスと睨んだ神保長職(じんぼうながもと)射水(いみず=富山県射水市)婦負(ねい=富山県富山市、主に神通川西部)を中心に勢力拡大を図ります。

以前から、新川(にいかわ=富山県富山市、主に神通川東部)に拠を構える椎名康胤(しいなやすたね)と神保長職との間で越中(えっちゅう=富山県)主導権争いが激しかったこの地域ではありますが、

ちょうど、この時期、越中の本願寺門徒を抱え込んで一向一揆による謙信へのけん制を考えていた信玄が介入し、敵の敵は味方とばかりに、信玄が神保長職を支援・・・後ろ盾を得た長職は、永禄三年(1560年)、謙信に味方する椎名康胤の松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)を攻めたのです。

Uesugikensin500 間もなく、椎名康胤より「松倉城ピンチ!」の知らせを受けとった謙信・・・前年に関東管領並となったばかり(6月26日参照>>)の謙信にとっては、小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)北条氏の動きが気になりつつも、電光石火のハヤワザで越中へと兵を向けました。

というのも、つい先日書かせていただいたように、後に、あの織田信長(おだのぶなが)との越中の争奪戦(3月17日参照>>)に挑む事になる謙信ではありますが、実は、謙信の祖父=が長尾能景(ながおよしかげ)が戦死したのが般若野(はんにゃの=富山県砺波市)で行われた一向一揆鎮圧の戦い(8月7日参照>>)であり、この越中は、父の長尾為景(ながおためかげ)も、その争奪戦に幾度も出兵し、大いに悩まされていた因縁の地でありました。

こうして、救援要請からわずかの永禄三年(1560年)3月30日見事なスピードで越中入りした上杉軍・・・慌てる神保軍をなんなく蹴散らすと、長職は居城の増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)へと逃げ込みますが、今度は、その増山城を囲んで、猛攻撃を仕掛ける上杉軍・・・

「もはやこれまで!」
とばかりに、長職は城を捨てて五箇山(ごかやま=富山県南砺市)へと逃走しました。

この時、主君の逃走を援護すべく奮戦したのが、隠尾城(かくりょうじょう=富山県砺波市庄川町)を任されていた神保の家臣=南部源左衛門尚吉でした。

増山城を落とした勢いのまま隠尾城の攻めに入った上杉軍・・・坂道を登りくる敵軍を天然の要害を駆使して果敢に防戦する尚吉でしたが、さすがに上杉の大軍を相手にしては歯が立たず・・・

やむなく、側近に息子の源右衛門を託して山中に逃がした後、自らの城に火を放ち、上杉軍の真っただ中へと躍り出て、壮絶な戦死を遂げました。

一説には、なんとか逃れた息子主従は、この地の戦乱が治まった後にひっそりと戻り、隠れ住んむようにして代々農業に従事したと言われています。
(そのために隠尾の地名になったという説も…)

Ettyuusoudatusenn位置関係図→
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

 

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ただ、戦国のならいとは言え、当の長職は、この後は上杉につき、逆に椎名康胤が上杉に反発して武田につき・・・てな感じで、なかなか越中争奪戦が止む事はなかったワケですが・・・(4月13日参照>>)
(ドラマ等ではここは描かない方がよさげ(^-^;)

ところで、
なぜか、関係史料が隠ぺいされた可能性があるとの話があるこの隠尾城の戦い・・・城のあった場所が秘境である事や、その史料の少なさから、現在の隠尾城跡付近では、もはや当時の面影を見る事は困難なようですが、近年になって、放牧場として開墾された際に、その土の下から数多くの塚が見つかったのだとか・・・

また、城跡の主閣部分に積まれて残る石は、「城主の無念を弔うが如く、すすり泣くような音を奏でる」と言われ、隠尾の集落の人々から「泣石(なきいし=啼石)と呼ばれていたのだとか・・・

平成の世となった今は、その隠尾の集落も廃村となって、もはや、住民の方の家も1軒のみとなっているとの事・・

このまま行けば、隠尾城の事も、いずれは歴史の彼方に消え去ってしまう運命にあるのかも知れませんが、
おそらくは、
悲しみに耐えきれぬ村人たちが戦死した皆々を弔ったであろう複数の塚、
長きに渡って伝えられた亡き主君を思う石の伝説
・・・

これらの事を見る限り、隠尾城主であった南部尚吉という武将は、庶民から親しまれ、かつ尊敬される名君であった事でしょう。

戦国武将としては1・2を争う知名度の上杉謙信。
義に篤くてカッコイイ上杉謙信。。。

しかし、そんな謙信と戦って戦場に散った武将の中にも、義に篤く、庶民から尊敬されたであろう戦国武将がいた事も心に留めておきたいですね。
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コメント

隠尾の「最後の1軒」は城跡からどれくらい離れた場所ですか?
もしかしたら家人の先祖がこの戦いにかかわった人かもしれないですね。もしそうなら今のうちに誰かが関係各位の協力を得て、郷土史などに残しておく必要がありますね。

ところで「おんな城主 直虎」は女性で男性名を名乗り、領主・城主になった人物が主人公ですが、最近「上杉謙信が実は女性だった」という架空の設定のコミックがあります。ご存知ですか?

投稿: えびすこ | 2017年4月 1日 (土) 23時26分

えびすこさん、こんばんは~

コミックは知りませんが、「上杉謙信・女説」は以前からありますね~
私も2007年の1月>>に書かせていただいてます(*^-^)

投稿: 茶々 | 2017年4月 2日 (日) 01時22分

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