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2017年3月17日 (金)

信長の動きを受けて~いよいよ謙信が富山へ侵攻

 

天正四年(1576年)3月17日、織田信長と手を切った上杉謙信越中富山へと侵攻を開始しました。

・・・・・・・・・・・・・

天文二十二年(1553年)を皮切りに度々衝突した有名な川中島の戦い(9月10日参照>>)でご存じのように、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)と、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)は、信濃(しなの=長野県)北東方面の国境線を巡って、長きにわたるライバル関係にありました。
(くわしくは【武田信玄と勝頼の年表】参照>>)

Uesugikensin500 その関係は、天正元年(1573年)に信玄が亡くなって後に息子の武田勝頼(かつより)が当主(4月16日参照>>)となった時代も続いていたわけですが、一方で、武田家は上杉領とは真逆の南西方向の国境線を巡っても、かの駿河(するが=静岡県西部)大物=今川義元(いまがわよしもと)を倒して(5月19日参照>>)出世の階段を2段飛ばしで駆け上がりまくりな尾張(おわり=愛知県西部)美濃(みの=岐阜県)を擁する織田信長(おだのぶなが)睨み合っていたわけで・・・

Odanobunaga400a となると、敵の敵は味方とばかりに、この頃の謙信と信長はかなりの仲良し・・・それは、永禄十一年(1568年)に信長が、第15代室町幕府将軍=足利義昭(よしあき・義秋)奉じて上洛を果たした(10月18日参照>>)後も変わらず、天正二年(1574年)には信長が謙信センパイに狩野永徳(かのうえいとく)の筆による『洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)を贈ってベンチャ攻撃しまくってた話は有名ですね。

ただし、その屏風を受け取った謙信の方は、どうやら、この頃からすでにモヤモヤし始めていたようで・・・と言うのも、その前年の天正元年(1573年)、信長は北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)(8月26日参照>>)越前(えちぜん=福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)(8月6日参照>>)を倒していたわけで・・・確かに、ベンチャラしてくるわりには、シレッと越後に近づいて来ている感がしないでもない・・・

それでも、天正二年(1574年)の2月に勝頼が明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)を攻撃(2月5日参照>>)した際には、険しい山中にて攻撃がままならない織田軍の後方支援として、謙信が上野沼田(ぬまた=群馬県沼田市)まで兵を出した・・・なんて事もあったようです。

とは言え・・・
その明智城陥落で勢いづいた勝頼が、信長と同盟関係にある徳川家康(とくがわいえやす)傘下の高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)を落とし(5月12日参照>>)、さらに翌・天正三年(1575年)5月に有名な長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市長篠)の戦い(5月21日参照>>)武田VS織田の全面衝突となると、その一方で信長は、同時進行していた越前一向一揆も制し(8月12日参照>>)、さらに加賀(かが=石川県)に手を伸ばして来たわけで・・・

「コレ、ぜったい近づいて来とるやないかい( ゚皿゚)!!」

もともと、武田という共通の敵を持つが故の同盟・・・しかし、信玄という大きな存在に睨まれていた弱小なる後輩は、浅井朝倉を葬り去り、武田を衰退させ、越前も手に入れて、今や先輩=謙信に追い付き追い越せの勢いなのは明らか・・・

しかも、加賀&越中と言った北陸地方は、謙信にとって、結果的には手中に収めたい因縁の場所(3月30日参照>>)(4月13日参照>>)

そんなこんなの天正四年(1576年)、この2月にはあの安土城の築城(2月23日参照>>)に取りかかる信長・・・この安土という場所への築城は、見ようによっちゃぁ、謙信を上洛させないための通せんぼのようにも見えます。

その事を知ってか知らずか、天正四年(1576年)3月17日謙信は越中(えっちゅう=富山県)へと侵攻を開始したのです。

この富山という場所は、長きに渡って能登畠山(のとはたけやま)七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)にて権勢を奮っていた傘下にありましたが、その畠山が長年の内輪もめや重臣同士の争いで次々と城主を失った事で、この頃は、今だ4~5歳の幼児であった畠山春王丸(はたけやまはるおうまる)を当主に据えて、周りの重臣たちが実権を握っている状態でした。

Kensintoyamasinkoukankeizu 位置関係図→
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

 

その重臣の一人が、守山城(もりやまじょう=富山県高岡市)富山城(とやまじょう=富山県富山市丸の内)を擁する神保氏張(じんぼううじはる)
・・・

一説には畠山氏から養子に入ったとも言われるほど、畠山とはつながりのある人物でした。

もともと、この頃の富山城は、上杉配下にある魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)を脅かす城でしたが、ここに来て信長からの要請を受けた氏張は、息子とともに織田につく事を表明・・・下瀬砦(しもぜとりで=富山市婦中町)を構築して謙信の進路を阻みます。

しかし、さすがは軍神=上杉謙信・・・なんなく神通川(じんつうがわ)を渡り、わずか3日の間に氏張配下の支城や砦を次々と落とし森寺城(もりでらじょう=富山県氷見市森寺・湯山城とも)へと向けて庄川(しょうがわ)左岸の守山城間近へと迫ります。

ただ・・・この時は、大雨による増水で、庄川が渡れず、やむなく守山城攻略を断念して兵を退きました。

やがて半年後の9月
2万の軍勢を引き連れて、再び富山へと侵攻した謙信・・・この時、富山城にいた神保父子は、その猛攻に耐えきれず、富山城を捨てて守山城へと移動し、ここで籠城します。

しかし、ここにいる城兵はわずか2000・・・氏張は城の防備を固めるべく、空堀に湖水を引き込もうとしますが、空いた富山城に配下の諸将を入城させて、そこを拠点に守山城への猛攻を開始した上杉軍のスピードの速さに、防御の準備が間に合わず、やむなく氏張は、堀の底に米を敷いて水に見せかけてゴマかします(米を敷く方が時間がかかる気がしないでもない(゚ー゚;)

ところが・・・
この時、城の上空を舞う鳥たちが、いち早く、この米の水に反応・・・何羽もの鳥が堀に向かって舞い降りた事から不審に思った上杉の兵が、地元住民を使って調べさせて真相を解明してしまったために、その後は怒涛のごとく、上杉軍が米の堀を渡って城内に侵入し、縄張りの各箇所に火を放って難攻不落とされた守山城を落したのだとか・・・

以後しばらくの間、氏張は謙信の傘下に組み込まれます。

守るも攻めるも「ホンマかいな(^-^;」的な攻防戦ではありますが、とにかく、ここで守山城を陥落させた謙信は、飛騨へも侵攻(8月4日参照>>)、その後も猿倉城(さるくらじょう=富山県富山市・栂尾城とも)増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)を落としつつ加賀へと侵攻・・・これまた敵の敵は味方とばかりに、長年敵対関係にあった石山本願寺と正式に和睦(5月18日参照>>)した後、翌・天正五年(1577年)の9月には七尾城を落とし、有名な九月十三夜の美酒に酔う(9月13日参照>>)事になります。

一方の信長は、一向一揆の本拠地=石山本願寺との全面戦争へと突入・・・
【天王寺合戦】>>
【第一次木津川口海戦】>>

今後の謙信との対決は、信長から北陸方面を任された柴田勝家(しばたかついえ)が担当する事になるのです。
【手取川の戦い】参照>>
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コメント

今年の大河ドラマに武田信玄は出ても、上杉謙信は出番がない見込みですね。
いっそ今川義元が春風亭昇太師匠なら、武田信玄は三遊亭小遊三師匠と言う配役はどうでしょう?

おんな城主直虎は「子役ファースト」とも呼ぶべき子役(出身者含む)の厚遇ですね。
マイナー(子役)からメジャー(大河ドラマ)の主役を目指す。これもありだと思います。

投稿: えびすこ | 2017年3月17日 (金) 17時40分

えびすこさん、こんにちは~

確かに…井伊家と謙信は、あまり接点無いかもですね。

投稿: 茶々 | 2017年3月18日 (土) 09時20分

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