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2017年4月28日 (金)

大坂夏の陣~樫井の戦いに連動した紀州一揆

慶長二十年=元和元年(1615年)4月28日、大坂夏の陣に連動した紀州一揆による和歌山城襲撃計画が発覚しました。

・・・・・・・・・・

この戦いの結果も、そして、この後の徳川家の繁栄をも知っている私たちには、どうしても、豊臣方が無謀な負け戦に挑んだ感が拭えない大坂の陣・・・

特に、大坂冬の陣の講和の後、堀を埋められて裸城になってもなお、勃発した夏の陣での豊臣大坂方の皆々様は、小説や時代劇なんかでも、プライド満載の意地っ張り上層部に、死に場所を探してるかような浪人衆・・・といった雰囲気で描かれる事が多いですが、

これまでも、何度かお話させていただいております通り、私個人的には、大坂城内も、そして撃って出た武将たちも、皆、最後の最後まで、「勝つため」に奔走していたと考えております。

その「大坂方勝利への構想」の一翼を担っていたのが、今回の紀州一揆(日高・名草一揆)・・・以前、冬の陣に連動して勃発した熊野・北山一揆(12月12日参照>>)について書かせていただきましたが、まさに、それと同様に夏の陣に連動した一揆なのです。

冬の陣の北山一揆の時には、和歌山県の東西牟婁郡(むろぐん)新宮市(しんぐうし)田辺市(たなべし)三重県の一部を含む熊野(くまの)地域の民衆と奈良県吉野郡上北山村下北山村など現在の和歌山県の中央部から南の地域の民衆が中心でしたが、今回の紀州一揆は日高郡(ひだかぐん)名草郡(なぐさぐん)など、和歌山県西部の地域の民衆が中心・・・

おそらくは、先の北山一揆にて、熊野や北山の民衆は、かなりの痛手を受けていて、「一斉に蜂起」とはいかなかったものと思われますが、それでも、紀州には昔ながらの「民衆強し」の威勢があり、今回は西部地域を中心に、大坂方の実質的な指導者であった大野治長(おおのはるなが)工作に応えるように、様々な動きをしていたようです。

以前も書かせていただいたように、なんせ、この地域は、長きに渡って地元の豪族や国人領主が群雄割拠していて(11月4日参照>>)、あの織田信長(おだのぶなが)も散々に手を焼いた場所・・・豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)紀州征伐(きしゅうせいばつ)(3月28日参照>>)でやっとこさ中央の傘下になるも、太閤検地(たいこうけんち)(7月8日参照>>)などに反発して度々一揆を起こしたりなんぞ・・・

て事は、紀州の人たちは「豊臣家憎し」なのでは?
と思いきや、その秀吉亡き後の関ヶ原の戦いでの東軍勝利の功績により、この地を与えられた浅野幸長(あさのよしなが)が石高をあげるため、未だ屈していなかった地侍の土地をはく奪したり、豊臣時代よりさらに厳しい年貢を徴収した事で、

この地を追われた浪人の多くが、大坂の陣勃発直後から大坂城に入っていたらしい事や、彼ら浪人衆を通じて好条件の恩賞の提示もあった事から、結局、現時点での政権=徳川方である浅野家に対抗する形で、紀州の民衆たちの多くが大坂方として参戦したようです。

日高郡では、
かつて日高の湯河氏の家老であったとも、湊城(みなとじょう=和歌山市久保丁)の城主であったとも、はたまた鈴木氏であったとも言われる上野村(御坊市名田町)湊惣左衛門(みなとそうざえもん)なる人物が、
「大坂方に味方すれば所領は望み次第に与える」
という内容の朱印状を持って各地を回り高家村(たいえむら=日高郡日高町)志賀村(しがむら=同日高町)などを取りこむ一方で、

名草郡では、山口村(やまぐちむら=和歌山市)の代官=山口喜内(やまぐちきない=易井喜内)の一族や、園部村(そのべむら=和歌山市)園部兵衛井口村(いのくちむら=同和歌山市)和佐半左衛門(わさはんざえもん)などが中心となって、そこに、かつて雑賀(さいが・さいか)を牛耳っていた土橋(どばし・つちはし)(5月2日参照>>)土橋平次(へいじ)も加わって一揆を扇動します。

この時、一揆を主導した彼らは、かつて…あるいは、今現在も浅野家に仕える侍たちでしたが、やはりこの時は、古き土豪(どごう=土地に根付いた半士半農の侍)の精神を復活させ、より良き待遇へと夢を追ったのかも知れません。

一方の大坂城側では、主将格の大野治長からの指示を受けた家臣=北村善大夫大野弥五右衛門が工作に当たる中、大坂夏の陣を前にした4月、大和(やまと=奈良県)から紀州方面へと南下する使命を帯びた大野治房(はるふさ=治長の弟)を大将とする一軍が編成されます。

この時、進軍の案内役を務めたのが、先の山口村の山口喜内の息子たち=山口兵内 (へいない)兵吉兄弟など、すでに大坂城内に入っていた紀州浪人たちだったとか・・・

とにもかくにも、大坂方が、和歌山城(わかやまじょう=和歌山県和歌山市)を本拠とする浅野長晟(ながあきら=幸長の弟)を含む徳川勢を、南北で挟み撃ちにする作戦であった事は確かでしょう。

とは言え、この作戦がうまく機能しなかった事は、すでに皆様ご承知の通り・・・

その第一歩は、一揆内から出た密告者・・・

慶長二十年元和元年(1615年)4月28日
冬の陣の時の北山一揆の事もあり、領国における危険を感じつつも、徳川家康(とくがわいえやす)からの出陣要請に応えた長晟が和歌山城を出陣・・・しかし間もなく、浅野軍の先発隊が和泉佐野(いずみさの=大阪府泉佐野市)に差し掛かった時に、この紀州における一揆の計画が発覚します。

そう、先の北山一揆もそうですが、一揆が広範囲になるほど、そのまとまりにも綻びが出るもの・・・なんせ、地元民全員が浅野家に不満を持っているわけではなく、中には、浅野の政権下でウマくやっていた一般市民もいたわけですから

こうして、どこかの誰かの密告によって発覚した一揆の計画・・・一説には、「長晟が城を出たと同時に一揆勢が和歌山城を取り囲んで襲撃した」という話もあるようですが、実際には、もし衝突があったとしても小規模な小競り合い程度の物であったであろうと言われています。

なんせ、この計画発覚からわずかの間で、先手として和泉佐野に潜入していた北村善大夫と大野弥五右衛門が捕縛され、かの山口喜内のもとにも捜査が及んだらしく(喜内自身は、この時は逃亡して後に捕縛されたとされる)『駿府記』によれば、この初期の段階で、主要の約30数名がままたく間に捕縛されたようなので、結局は、計画のほとんどが未発のまま鎮圧されてしまったようです。

一方、大坂城側で編成され、紀州方面に向かった一軍は・・・
そう、この一軍の交戦が、翌4月29日の、あの樫井(かしい)の戦いなのです(【豊臣滅亡を決定づけた?樫井の戦い】参照>>)

ご存じのように、大坂方の有力武将のうちの一人=塙団右衛門直之(ばんだんえもんなおゆき)が命を落とす(2010年4月29日参照>>)戦い・・・コチラの大坂城進発側も、指揮命令系統の乱れから、豊臣にとって手痛い敗北となってしまったのです。

日高では、その後も、首謀者の一人である高家村の西村孫四郎なる者らが、徒党を組んで暴れまわり、意に従わない者を斬り捨てながら、
「さぁ、仲間になれ!」
とばかりに村々に触れ回っていましたが、有田郡の広村(ひろむら=和歌山県有田郡広町)あたりまでやって来たところで浅野の討伐軍に出くわします。

それは、かの樫井の戦いの翌日=4月30日の事・・・樫井での戦いを終えた浅野長晟が、すぐさま和歌山城に戻って一揆討伐に取りかかっていたのです。

おそらくは、こんなに早く、一揆討伐軍がやって来るとは思っていなかったであろう一揆勢・・・いや、なんなら、樫井の戦いで疲弊しまくってる浅野軍を、追撃して来た大坂方の武将らとともにコテンパンにやっちゃうくらいのつもりでいたかも知れません。

しかし、上記の通り、樫井の戦いが徳川方の勝利となったために、大坂方からの援軍は期待できず・・・そうなれば、アチラ=戦いのプロを相手に、コチラ=寄せ集めの烏合の衆という構図になり、到底歯が立つワケもなく、日高郡と有田郡の境にある鹿ヶ瀬峠(ししがせとうげ)や、海部郡と有田郡の境にある蕪坂峠(かぶらざかとうげ)などで激突し、多くの大将分が討ち取られ、あるいは追っ払われ、準備不足感が拭えないままの一揆勢は、本家本元の大坂城落城の日=5月7日を待つことなく、ほぼ壊滅状態となってしまいました。

日高での首謀者の一人=湊惣左衛門ほか何名かは逃げ切れたものの、ほとんどの首謀者が梟首(きょうしゅ=さらし首)、あるいは火あぶりの刑に処せられました。

ちなみに、命助かった湊惣左衛門は、大坂の陣終結後、やはり紀州出身の大坂方として最後まで大坂城内にいたものの、落城の際に家康の孫娘=千姫(せんひめ)を連れて脱出した功績?(2月6日参照>>)によって罪を許されて知行を得たとされる堀内氏久(ほりうじひさ)のもとに身を寄せたと言われます。

乱後に浅野家がまとめた史料=『浅野家文書』によると、
日高郡:5ヵ村=252名、
有田郡:4ヵ村=48名、
名草郡:6ヵ村=114名、
那賀郡&伊都郡:1ヵ村=合わせて29名
合計すると
5郡17ヵ村、石高にして約7千石、人数=443名が処刑・・・

前年の熊野・北山一揆と合わせると49ヵ村、806名もの者が処分された事になります。

以後、江戸時代を通じて、小さな百姓一揆などは起こるものの、これまでのような大規模な一揆が、この紀州に起こることはありませんでした。

群雄割拠して暴れまわった中世の土豪たちから、その血と心意気を受け継ぎ、信長にも屈せず、秀吉にも抵抗し、度々やって来る中央政権の者たちを「中にも紀州は一揆所…」と恐れさせた紀州一揆は、これにて終焉を迎える事となったのです。

Oosakanozinkitayamaikki
「大坂の陣~戦いの経過と位置関係図」
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は
 「地理院」>>よりお借りしました)

★大坂夏の陣、
紀州一揆の前後の流れ~関連ページ

慶長二十年=元和元年(1615年)
●4月26日:【大和郡山城の戦い
●4月28日:紀州一揆
●4月29日:【樫井の戦い】
●5月1日:大坂方が平野に出陣】
●5月6日:
 【道明寺誉田の戦い】
 【若江の戦い】
 【八尾の戦い】
●5月7日:落城
 【大坂城総攻撃】
 【天王寺口の戦い】
●5月8日:豊臣秀頼(ひでより)ら自刃
 【渡辺糺と母・正栄尼の最期】
 【大坂城落城&秀頼生存説】
●さらに詳しくは【大坂の陣の年表】>>でどうぞ)
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2017年4月20日 (木)

織田信長、清州城を乗っ取る!

弘治元年(1555年)4月20日、叔父=信光の協力を得た織田信長が清州城を乗っ取りました。

・・・・・・・・・

これまでも何度が書かせていただおておりますが、この尾張(おわり=愛知県西部)という地は、室町幕府の管領家である斯波(しば)が代々守護(知事)を務めていました。

とは言え、その役職の性質上、京都に滞在する事が多い守護・・・なので、その守護に代わって、居城の清州城(きよすじょう=愛知県清須市:清須城)にて普段の政務をこなしていたのが配下の守護代で、織田守護代家=清州織田家の当主が、代々その職務についていたわけですが、

そんな中、織田達勝(たつかつ)が守護代を務めていた時代に力をつけて来たのが、さらにその配下で清州三奉行と呼ばれていた人たち(1月17日前半部分参照>>)・・・その三奉行の中の織田弾正忠家(だんじょうのじょうけ)の当主が織田信定(おだのぶさだ=信長の祖父)で、
その息子が信秀(のぶひで)織田信長(おだのぶなが)のお父ちゃんです。

Odanobunaga400a で、その後、天文二十年(1551年)の父=信秀の死(3月3日参照>>)を受けて織田弾正忠家の家督を継いだのが信長というワケですが、

そんな中で、戦国も半ばになると、守護の斯波氏もすでに名ばかりの状態となっていて、当時守護職についていた斯波義統(しばよしむね)も、もはや傀儡(かいらい=あやつり人形)・・・逆に、守護代家をはじめとする配下の者が台頭しはじめ、結局は尾張一国も統一すらされていない群雄割拠の状態になっていたわけで、

もちろん、信長の織田家も、その祖父の代から流通の要衝を複数牛耳っていた事もあって、経済的には豊かで、徐々に力をつけて来ていたうちの一つでした。

てな事で、そうなると誰かが、「斯波氏に取って代わる下剋上をやってのけよう」と考えてしまうのも時間の問題・・・

そんな中、かつてはモメにモメていた隣国=美濃(みの=岐阜県)斎藤道三(さいとうどうさん)の娘を娶って(4月20日参照>>)北側の国境線の問題を治めた信長は、今度は東の三河(みかわ=愛知県東部)との国境線維持に奔走(1月24日参照>>)していましたが、

そんなこんなの天文二十三年(1554年)、清州城にて、かろうじて守護のイスにまだ座っていた義統の息子の斯波義銀(よしかね)が、多くの家臣団を引き連れて川狩りに出かけた7月12日、当時の守護代であった織田信友(のぶとも)は、「絶好のチャンスを逃すまい」とばかりに、老人や女子供ばかりになった清州城内の守護館を包囲し、一斉に攻撃を仕掛けたのです。

残った者だけで何とか抵抗をしてみるものの、もはや多勢に無勢でいかんともし難く完敗・・・結局、義統は一族30名余りとともに自害しました(清州の変)

もちろん、狩り姿で出かけたままの義銀も、そのまま清州城に戻る事が出来ない・・・で、彼が頼ったのが、当時は那古屋(なごやじょう・愛知県名古屋市中区)にいた信長だったのです。

実は、亡き父=信秀の後継者を巡っての時、信友は、信長の弟である信行(のぶゆき)を推しており、以後、信長とはシックリ行ってはいなかったワケで・・・そもそもは、ここ最近、そんな信長に義統が、何かと近づいていた事も、信友謀反の一つの原因だった事もあり、そりゃ、義銀は信長を頼りますわな。

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清州村古城絵図(蓬左文庫蔵)部分

これを受けた信長は、事件の5日後には配下の柴田勝家(しばたかついえ)に足軽衆をつけて派遣・・・清州側が防戦する山王口(さんのうぐち=三王口)を破り、安食村(あじきむら=愛知県名古屋市北区)を突破します。

防戦の清州勢は、誓願寺(じょうがんじ=同北区:成願寺)前で何とか踏みとどまるものの、多くの関係者が討ち取られてしまいました。(安食の戦い・中市場合戦)

この戦いで織田三位(おださんみ)河尻与一(かわじりよいち=左馬丞)などの有力者を失った清州側・・・当時、信友の家老で、小守護代(代官)と称されていた坂井大膳(だいぜん)は、重臣として清州を守る者が少ない事を懸念して守山城(もりやまじょう=名古屋市守山区)織田信光(のぶみつ)に声をかけます。

この信光という人は、信秀の弟=つまり信長の叔父さんなので、信長とも親しい関係にあり、何度が、ともに出陣した事もありましたが、それこそ生き馬の目を抜く戦国・・・敵側から重要人物をヘッドハンティングする事も日常茶飯事なわけで・・・

大膳が
「お力添えをいただいたあかつきには、信友殿とお二人で守護代を務めていただきたく…」
と、大きなエサをぶら下げての懐柔工作を図れば、
「お望み通りに…」
と、信光も快諾・・・

二心無い証として起請文(きしょうもん=神に誓う誓約書)をしたためて、信友側からその守りを任された清州城の南櫓(みなみやぐら=南矢倉)に入りました。

一方の信長・・・この先の勢力拡大、果ては、尾張統一をするためには、何としてでも信友を倒しておきたいところですが、この清州城がなかなかの堅城で、今のところは手も足も出無い状況・・・

と、そこへ、かの信光からのお誘いが・・・

そう、この信光さん、実は、清州からの誘いを受けたフリをして、実際には信長に協力しようと考えていたのです。

「俺が清州城をだまし取ったるよって、その代わり尾張の下の四郡のうちの東半分をくれるかな?」
「いいとも~ヽ(´▽`)/」
約束が即決するやいなや、

弘治元年(1555年)4月20日清州城内の信光が手勢を率いて謀反を起こすと同時に、信長が城外から攻撃・・・

南櫓のただならぬ雰囲気に気づいた大膳は、ギリギリのところで危険を察知し、今川義元(いまがわよしもと)を頼って駿河(するが=静岡県東部)へと逃亡しますが、逃げる事ができなかった信友は、あえなく討ち取られ、ここに清州織田家は断絶します。

勝利した信長は、那古屋城を信光に渡し、自らは乗っ取ったばかりの清州城へと入りました。

それは・・・そう、
ここに守護の斯波氏がいた事でもお察しの通り、この清州が尾張の覇府(はふ)=今で言うところの尾張国の首都だったからで、まさに、この先の尾張統一(11月1日参照>>)を見据えての行動。

ご存じの通り、清州城はこの後、
信長が桶狭間に出陣する時(5月19日参照>>)
徳川家康(とくがわいえやす)同盟を組む時、
そして、悲しいかな、
その死後に後継者を決める会議(6月27日参照>>)
・・・と、様々な歴史の舞台となる場所です。

ところで、今回、大きく貢献してくれた叔父=信光さん・・・この日から、わずか7ヶ月後の11月にお亡くなりになります。

『信長公記』では、
「11月26日、不慮の事件が起きて死亡、起請文に背いたので天罰が下ったのかも…恐ろしきかな」
と、いたくアッサリと書かれてしまってますが、現段階で信長に最も近い協力者が、こうも短期間に亡くなってしまうのは、やはり不可解・・・

謎が謎呼ぶ信光さんの死・・・って事になるのですが、そのお話は、そのご命日である11月26日に書かせていただいた【信長が指示?謎が謎呼ぶ織田信光・殺害】>>のページでどうぞm(_ _)m
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2017年4月13日 (木)

上杉謙信VS椎名康胤~松倉城攻防戦

永禄十一年(1568年)4月13日、それまで武田信玄についていた越中増山城主=神保長職が上杉謙信に寝返りました。

・・・・・・・・・・

射水(いみず=富山県射水市)婦負(ねい=富山県富山市、主に神通川西部)を中心に勢力を持つ増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)神保長職(じんぼうながもと)と、新川(にいかわ=富山県富山市、主に神通川東部)に勢力を持つ松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)椎名康胤(しいなやすたね)による越中(えっちゅう=富山県)争奪戦・・・

Uesugikensin500 ここ越中は、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は輝虎)にとっても、自らの領地に隣接する場所であり、自国と京の都との間に位置する重要な場所でもあった事から、祖父や父の時代から、度々出兵しては傘下に治めていた場所だったわけです(9月19日参照>>)

つい先日も書かせていただいたように(3月30日【増山城&隠尾城の戦い】参照>>)、永禄三年(1560年)には、勢力拡大を図る神保長職が、謙信のライバルである甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)の支援を得て、謙信傘下の椎名康胤を攻撃したわけですが、

この時、負けた長職は、一旦は降伏して謙信の傘下となったものの、謙信が越後へと戻ると、またぞろゴソゴソやり始める・・・
で、椎名康胤の救援のため謙信が大軍率いてやって来て、負けそうになったら和睦して傘下に入るものの、謙信が戻るとまやもやゴソゴソ・・・
てな事をくりかえしていたわけですが・・・

そんなこんなの永禄十一年(1568年)3月・・・
なんと、それまでずっと謙信と協力体制にあった椎名康胤が、いきなり反旗をひるがえしたのです。

実はコレ、信玄の裏工作・・・信玄が何度も「君が越中を平定してくれへんかなぁ~僕支援するし…」の手紙を送っていたのが、ここに来て康胤を決断させたのです。

ひょっとして・・・康胤の心の内にも、
複数回上洛しても時の将軍と仲良く談笑し、関東管領並(6月26日参照>>)を引き受ける謙信は、おそらく天下を取る気はない?
に対して、天下を狙う気満々っぽい信玄の傘下になっておけば「そのあかつきには越中の大名になれるかも」てな野心が芽生えたのかも知れません。

とは言え、謙信にとって、再三に渡る長職のゴソゴソは、おそらく予想できたものの、一方の康胤の裏切りは想定外・・・

なんせ、この椎名は、特に、謙信の父の長尾為景(ながおためかげ)とじっこんの仲で、譜代の長尾一族から長尾景直(かげなお)康胤の養子に迎えていて、謙信にとっては特に信頼を置いていた武将の一人なわけで・・・だからこそ、これまで何度も救援に出張って来ていたわけで・・・

ショックを受けながらも、知らせを聞くなりすばやく行動に起こし、3月16日、春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)を出陣した謙信は、康胤を攻めるべく越中へと入りました。

が、しかし・・・ここに来て、またもや予想外の出来事が!

Matukurazyoukoubousenkankeizu
位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

越中侵攻から1ヶ月後の永禄十一年(1568年)4月13日、あの神保長職が謙信への協力を申し入れて来たのです。

今回ばかりは、その場まかせのゴソゴソではなく、一門の神保覚広(ただひろ・よしひろ)と家臣の小島職鎮(こじまもとしげ)の尽力による物・・・謙信自身が「長職とメッチャ意気投合したわ~ヽ(´▽`)/」と覚広に報告してますし、長職も、「この感謝は手紙では言い尽くせへん!」と書状で述べていますので、よほど、両者の関係が良い展開になったのでしょう。

しかし、こうして看板となるトップの傘が交代した事で、もとから信玄についてゲリラ戦を展開していた越中の一向一揆は、神保を離れて椎名の味方に・・・

ご存じのように、この時代の一向一揆=武装した本願寺門徒は侮れない・・・たび重なるゲリラ戦法で、長職は、守山城(もりやまじょう=富山県高岡市)放生津城(ほうじょうづじょう=富山県射水市中新湊)を落とされたため、やむなく増山城に逃げ込みます。

ここで謙信は、康胤の松倉城への抑えとして配下の魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)河田長親(かわだながちか)を配置して放生津城攻めに向かうと同時に長職と連携して守山城を猛攻撃しました。

ところが、この間に遠く離れた越後にて、信玄の誘いに乗った本庄城(ほんじょうじょう=新潟県村上市・村上城とも)本庄繁長(ほんじょうしげなが)が反旗をひるがえした・・・との情報が舞い込んで来ます。

やむなく謙信は、直江景綱(なおえかげつな)重臣たちに、この場を任せて、自らは春日山城へと戻り、すぐさま準備を整えて本庄城の攻撃へと向かいます。

謙信自ら指揮を取るその猛攻撃に半年ほど耐えたものの、同年11月、本庄繁長は人質を差し出しての講和を申し出ます。

実は、期待していた信玄からの援軍が思うように得られ無かったのです。

そう・・・この永禄十一年(1568年)という年は、9月に、あの織田信長(おだのぶなが)が第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあきを奉じて上洛(9月7日参照>>)を果たした年・・・

心情的に、この信長の上洛に影響を受けたか否か?
あるいは「(川中島でゴチャゴチャしっぱなしの)北がダメなら南へ」と思ったか否か?
「このままやったら徳川家康(とくがわいえやす)に駿河取られてまう~」と思ったか否か?
はたまた、信玄に、畿内に目を向けてほしくない信長の「今なら駿河イケまっせ」の誘いに、とりあえず乗ってみたか否か?
その心の内は、ご本人のみぞ知るところですが、ここからの信玄は、この12月には薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)の戦い(12月12日参照>>)からの今川館の攻防戦(12月13日参照>>)と、完全に駿河(するが=静岡県東部)攻略に向けて舵を切った事は明白なところ・・・なので、おそらく本庄救援まで手が回らなかったのでしょう。

しかも、謙信にとっての信玄の矛先変更の影響は、そればかりではありませんでした。

翌永禄十二年(1569年)の明けてまもなく、信玄の勝手な約束破りの矛先変更に激おこの同盟者=小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)北条氏康(ほうじょううじやす)が、謙信との同盟を求めて来たのです。

同年の6月に北条との同盟を締結させた謙信は、その2ヶ月後の8月・・・再び、松倉城攻略に乗り出すのです。

まずは小菅沼城(こすがぬまじょう=魚津市小菅沼)など周辺を攻撃して松倉城を孤立させた後、大軍で以って松倉城に迫る上杉軍でしたが、迎える椎名軍は、防御のために自ら城下町に火を放ち、この孤立状態のまま、約100日間の籠城に耐えぬきます。

もともと松倉城が天然の要害であった事や、例の一向一揆が味方していた事もあって、長期に渡る籠城に耐える事ができたのでしょうが、一方の攻める上杉軍にも人馬の披露激しく、しかも、ここで「信玄が上野(こうずけ=群馬県)に侵攻した」との情報を得た謙信は、やむなく、またもや松倉城を落としきれないまま、10月に兵を退く事になってしまいました。

とは言え、謙信にとって、この松倉は越中の中でも、屈指の手に入れておきたい場所・・・なんせ、松倉城の南には河原波金山松倉金山という金の成る木、いや、山があったのですから・・・

やがて元亀二年(1571年)3月、3度目の松倉城攻略のため、大軍を率いて越中に侵攻した謙信は18日に富山城(とやまじょう=富山県富山市)を陥落させ、神保長職の求めに応じて、奪われた守山城を奪還すべく、庄川(しょうがわ)あたりまで攻め込み、念願の松倉城攻略へとこぎつけました。

一説には・・・
この時も、大軍で包囲したにも関わらず、なかなか落ちなかった松倉城に苦戦していたところ、「実は、宇都呂(うつろ=現在は廃村)の集落から密かに水を引き、同時に信濃からの食糧を運びこんでいるから」との噂を聞きつけた謙信が、宇都呂の集落を焼き払って水路を破壊し、東からの糧路を絶った事により、ようやく松倉城が落ちた・・・との話もあります。

とにもかくにも、この「元亀二年三月に、松倉城を、かの河田長親に与えた」(『三州志』より)との記録が残っていますので、やはり、ここでようやく松倉城を攻略した事は確かでしょう。

一方の康胤・・・この敗北によって椎名は、かなりの痛手を被り、弱体化の一途をたどる事となってしまいます。

一旦は謙信に降伏し傘下に収まるも、天正四年(1576年)に再び反旗をひるがえしたところを、やはり謙信に攻められ、その最期は蓮沼城(はすぬまじょう=富山県小矢部市)にて自刃したと伝わります。

ちにみに、前半のところで書かせていただいた通り、椎名康胤の後を継ぐ者は、長尾家から養子に入った長尾景直のみ・・・いち時は椎名小四郎(しいなこしろう)を名乗っていた彼ですが、何年後かの上杉VS織田の月岡野の戦いでは、、シッカリ上杉側の人として登場(9月24日参照>>)します。

なので、戦国武将としての椎名氏は、この康胤を最後に、事実上の滅亡となったのですが・・・
北陸を巡っての攻防戦は、まだまだ続きます。

次の戦いとなるのは、またまた寝返る神保長職に、「ついて行けんわ」袂を分かつ神保覚広と、信玄に扇動された一向一揆衆が交戦する事になる【上杉謙信VS加賀越中一向一揆~日宮城攻防戦】>>でどうぞ
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2017年4月 6日 (木)

浅井亮政VS六角定頼~箕浦合戦

 

享禄四年(1531年)4月6日、六角定頼と浅井亮政による箕浦合戦がありました。

・・・・・・・・・・・

宇多源氏(うだげんじ)佐々木氏(ささきし)の流れを汲む南近江(みなみおうみ=滋賀県南部)六角氏(ろっかくし)と、同じく佐々木氏の流れを汲む北近江(きたおうみ=滋賀県北部)京極氏(きょうごくし)・・・鎌倉時代より、この二つの名門家によって統治されて来た近江の地。

しかし、かの応仁の乱(5月20日参照>>)での混乱のさ中に当主が急死して後継者でモメる(8月7日参照>>)、やっと決まった14代当主の京極高清(きょうごくたかきよ)の息子同士で、これまた後継者争いが勃発した事で、家中が真っ二つ・・・(2月13日参照>>)

このお家騒動の混乱により、いつしか後継ぎ当事者より、彼らをサポートする家臣や国人(こくじん=土着の武士)が力をつけて来るようになるのですが、その筆頭とも言うべき存在が、京極氏の根本被官(こんぽんひかん=応仁の乱以前からの譜代の家臣)だった浅井氏の浅井亮政(あざいすけまさ)・・・あの浅井長政(ながまさ=浅井三姉妹の父)(8月29日参照>>)お祖父ちゃんです。

しかし、被官の浅井が主君の京極氏をしのぐが如くの勢いとなった現状を快く思わないのが、同じ名門=六角氏の六角定頼(ろっかくさだより)

んなもんで、ここのところの定頼は、度々北近江へ出陣しては亮政の頭を抑えるという事を繰り返していたのですが・・・

そんなこんなの大永七年(1527年)、もはや室町幕府将軍よりも権力を持つ事実上の天下人であった前管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)の養子たちの間で勃発した後継者争いの中で、一旦は勝利して政権を樹立した細川高国(たかくに)(5月5日参照>>)が、細川晴元(はるもと)に敗れて、第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)とともに京を追われる事態となった桂川原(かつらかわら)の戦い(2月13日参照>>)が勃発します。

これにより、
坂本(さかもと=滋賀県大津市)に退いた義晴&高国
一方の晴元が擁立した足利義維(よしつな=義晴の弟)堺公方(さかいくぼう)
合戦の勝利により実質的に京都を統治する柳本賢治(やなぎもとかたはる)
と、畿内に3つの政権が存在する異常事態になってしまっていたのですが・・・

当然の事ながら、京を退いた高国らが、そのまま指をくわえて見ているはずは無いわけで・・・かの桂川原から3年・・・

享禄三年(1530年)、高国が播磨(はりま=兵庫県南西部)の名門=赤松氏(あかまつし)の支援を受けた事をキッカケに、摂津(せっつ=大阪府北中部)方面から敵方の諸城を落としつつ、京への侵入を試みる中で、受けて立つ晴元は、以前よりつながりがあった京極高清や、その家臣(実力はともかく、今もまだ身分は家臣ですので…)の浅井亮政らに支援を求めて来たのです。

Minouranotatakai1 この要請にすばやく動く亮政・・・ 

位置関係図→
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

 

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この時、坂本よりさらに奥まった朽木(くつき・滋賀県高島市)へと引っこんで六角氏に守られていた将軍=義晴を攻撃すべく高島へと兵を進めた浅井軍ではありましたが、それに気づいた義晴が、浅井勢よりさらにすばやく朽木を出て坂本へと移動・・・将軍とともに六角勢も去った事で、この時点では、大きな合戦に至る事はありませんでした。

しかし、敵兵に高島まで乱入された六角定頼も、その一件を黙って見過ごすわけには行かず・・・報復とばかりに北近江へと兵を向けますが、そんなこんなしているうちに、肝心の高国勢に敗北が続き、軍全体の士気も衰えて、結局、大勢を変えられないまま、上洛への動きを中断してしまいます。

しかも、この間に晴元と内輪もめしていた柳本賢治が播磨出陣中に謎の急死(自殺とも暗殺とも)を遂げて、なんとなく晴元の一人勝ち的な雰囲気・・・

こうして、しばしの平和を迎えた京の町・・・・
おかげで都の守りに気を配らねばならない状況が薄らいだ六角定頼は、享禄四年(1531年)4月6日「六角の両藤」との異名を持つ後藤賢豊(ごとうかたとよ)進藤貞治(しんどうさだはる)らをはじめとする重臣たちを大将に据え、約1万7千騎の大軍で以って、箕浦(みのうら=滋賀県米原市)河原に進出したのでした。

一方の浅井軍・・・亮政自らが1万5千余騎の軍勢を率いて出陣し、箕浦の北側、坂田郡山西(滋賀県米原市北部)醒井(さめがい=滋賀県米原市・醒ヶ井)などに兵を分散させて迎え撃つ作戦です。

が、しかし結果的には、この分散作戦が裏目に・・・多勢の六角軍に対し、もとより無勢の浅井軍は、合戦開始まもなくからの劣勢状態を挽回する事ができず、名のある首級を29ほど討ち取られて敗戦となり、やむなく兵を退きあげる事になります。

とは言え、亮政はそのまま居城の小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)に戻ることはせず、いずこかに隠れ住んで姿を消すのですが、一方の六角軍も、これを深く追う事なく兵をたたんで引き上げました。

というのも、勝敗としては「六角軍の勝利で浅井軍の負け」とはなったものの、六角側も、結果的に30以上の首を討ち取られるという痛手を被っており、なかなかの激戦であった事がうかがえます。

ここは一つ、六角勢にもしばしの休息を・・・という事だったのでしょう。

なんせ、この亮政さん・・・以前のページ(3月9日参照>>)でも書かせていただいたように、合戦に負けはするものの、負ける度にどんどん強くなって行くんです。

そのページにも、その一因は「負けても負けても、彼に味方してくれた地元国人衆たちにある」と書かせていただきましたが、それは、若き日の亮政の抱いた「権力を握った者は、自らの保身のためではなく、困窮する民衆のためにこその政治手腕をふるうべきである」との精神とともに、例え負けても落ち込む事なく、次回へつなげる不屈の精神に魅力があったからなのかも知れません。

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小谷城より琵琶湖を望む

実は、この戦いのすぐあとに、家臣の三田村又四郎に宛てた亮政の感状(かんじょう=武功を讃える書状)が残っているのですが・・・

「今度箕浦河原において 種々御手を摧かれし候段…」(三田村文書より)ではじまるこの書状には、槍で受けた数ヶ所の傷をものともせずに奮戦した彼を誉め讃えるとともに、
「兵を分散させた事で、お互いの連絡がうまく取れず、イザという時に役に立たなかったのが敗因…もったいない事をした」
と反省し、
「今後はちゃんとしよう」
再起を予感させる文言が並んでいます。

おそらく亮政にとっては「完敗」ではなく、それなりの余力を残し「明日へつなげる敗戦」であった事でしょう。

とは言え、亮政の戦いは、まだまだ続きます

ただし、一方の細川同士の後継者争いについては、まもなく決着がつく事になるのですが、そのお話は、また、関連するいずれかの日付で書かせていただきたいと思います。
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