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2017年5月26日 (金)

永正の乱~越後守護・上杉定実VS守護代・長尾為景

永正十一年(1514年)5月26日、永正の乱と呼ばれる一連の戦いの中で長尾為景が攻めていた岩手城が落城し、城主の宇佐美房忠が討死にしました。

永正の乱とは、永正年間に関東・北陸地方で発生した一連の戦乱で管領家の内紛や古河公方の内紛なども含みますが、今回は「岩手城落城」の日付に合わせ、越後における永正の乱のお話させていただきます)

・・・・・・・・・・

ご存じ、越後(えちご=新潟県)の王者=上杉謙信(うえすぎけんしん)ですが、彼が登場する前の室町幕府政権下での越後は、鎌倉公方(かまくらくぼう=京都にいる将軍に代わって関東を治める足利尊氏の四男・基氏の家系)執事(しつじ=‘管領)の家柄である山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)につながる越後上杉家が代々守護(しゅご=現在の県知事)を務め、その配下としてサポートする守護代(しゅごだい)長尾家でした。

しかし、明応三年(1494年)に、当時の守護だった上杉房定(うえすぎふささだ)が亡くなり、息子の上杉房能(ふさよし)がその後を継いで方針転換した事から、両者の関係がギクシャクし始め、永正四年(1507年)8月、守護代だった長尾為景(ながおためかげ)が、房能の養子の上杉定実(さだざね)を味方に引き入れ、幕府に働きかけて新守護に定実を擁立し、武力で以って房能を追いだして自刃に追い込みました(8月7日参照>>)

この一件に怒り心頭なのが、房能の兄で当時は関東管領を務めていた上杉顕定(あきさだ)・・・その報復とばかりに、永正六年(1509年)に反為景派の勢力を結集して越後へ攻め入り、定実&為景らを越中(えっちゅう=富山県)へと敗走させて、自ら越後を統治します。

ところが、その翌年、曲がりなりにも幕府から守護として認められている定実の「越後奪回」を旗印に為景らは挙兵・・・味方になってくれた信濃衆(しなのしゅう=信濃の国人豪族)高梨政盛(たかなしまさもり)の活躍で長森原(ながもりはら=新潟県南魚沼市)の戦い(6月20日参照>>)に勝利し、負けた顕定は自刃(討ち取られたとも)に追い込まれました。

こうして、再び越後に戻った定実&為景には、しばらくの間は平穏な日々が続く事になるのですが・・・

お察しの通り・・・
守護の座にありながら、事実上は、国政のほとんどを為景が仕切る事に定実が、徐々に不満を募らせていく・・・当然ですが、越後の中でも皆が皆、為景に好感を持っているワケでは無いですし、守護である以上、その定実を純粋に盛り上げたいと思う者もいるわけで・・・

そんなこんなの永正十年(1513年)、為景は、定実派の宇佐美房忠(うさみふさただ=宇佐美定満の父とされる)らが、先の戦いでの活躍の影響で信濃衆の中で高梨が力を持つ事に懸念を感じていた島津貞忠(しまづさだただ)をはじめとする信濃衆の井上氏(いのうえし)栗田氏(くりたし)海野氏(うんのし)などの仲間を集めて挙兵の準備をしているとの噂を耳にします。

案の定、その年の8月に入ると、彼ら信濃衆は、関川口(せきがわぐち=新潟県妙高市付近)上田口(うえだぐち=新潟県南魚沼s市付近)に集結し、あからさまに侵攻する機会をうかがう様子・・・これを受けた為景は、長尾房長(ながおふさなが=上田長尾家)や、揚北衆(あがきたしゅう=越後北部の国人豪族)中条藤資(なかじょうふじすけ)などに声をかけて出陣を要請しました。

対する宇佐美房忠は、9月29日、揚北衆の一人である安田城(やすだじょう=新潟県阿賀野市)安田長秀(やすだながひで)を攻撃すべく新発田(しばた=新潟県新発田市)を進発します。

これを迎え撃つべく出発した為景方の長尾房景(ながおふさかげ=古志長尾氏)福王寺掃部助(ふくおうじかもんのすけ=友重?)らは、10月21日に沼河(ぬなかわ=新潟県糸魚川市)にて房忠軍と遭遇・・・合戦は房景らの勝利となりました。

一方、それらの遭遇戦と前後して、為景は、自ら兵を率いて房忠の小野城(おのじょう=新潟県上越市柿崎区)を取り囲みます。

しかし、この状況をチャンスと見た上杉定実・・・その為景の小野城攻撃中の留守を狙って、彼の居城である春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)奪い取ったのです。

一報を聞いて、慌てて春日山城に戻った為景は、すぐさまを城を取り囲み、アッ言う間に定実を生け捕りにして、自らの館に幽閉・・・10月28日には、再び小野城に出陣して房忠討伐に取りかかりますが、今度は定実派の信濃衆が房忠を援護すべく為景に対抗・・・

しばらくの間、一進一退の小競り合いが続きますが、翌・永正十一年(1514年)1月16日の上田庄(うえだしょう=新潟県南魚沼市)の戦いに、為景方の長尾房長らが勝利した事で、為景方に形勢が傾き、その年の5月からは兵を増強して、集中的に小野城へ攻撃を仕掛けました。

この集中攻撃に、耐え切れないと判断した房忠は小野城を捨て、守り堅い要害である近くの岩手城(いわてじょう=同・柿崎区)に移動しますが、もはや傾き始めた形勢を逆転する事ができず、永正十一年(1514年)5月26日岩手城は落城し、房忠以下、一族はことごとく討死ににして果てたと言います。

この勝利により、長きに渡った守護VS守護代の戦いは終了となり、以降は、守護=定実は存在するものの、完全無視!
為景が越後の国政の実権を握って采配を振る事になります。

Etigoeisyounorankankeizu
位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
(この図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

ただ・・・一説には、
岩手城落城の際に、一族の中で房忠の息子ただ一人だけが、片倉壱岐守(かたくらいきのかみ)なる人物に守られながら、伊達稙宗(だてたねむね=独眼竜政宗の曽祖父)を頼って羽前(うぜん=山形県)へ逃れたとの情報も・・・

ご存じの方も多かろうと思いますが、この稙宗さん・・・伊達家を奥州随一に引き上げる名将でありますが、一方で、息子=晴宗(はるむね)との壮大な父子ゲンカ=天文の乱(洞の乱)をやった人でもあります(4月14日参照>>)

実は、そのケンカの原因の一つには、後継ぎ息子のいなかった上杉定実のもとに、自らの三男=伊達実元(さねもと=つまりは晴宗の弟)を養子に出そうとしていた稙宗の計画を、息子の晴宗が猛反対したという事もあったようで・・・

なんか、
   定実
房忠 △ 稙宗

みたいな三者関係が見えて来るような来ないような・・・

結局、この養子縁組は実現せず、定実は後継ぎがいないまま天文十九年(1550年)に病死・・・越後守護家が断絶した事を受けて、時の将軍=足利義輝(あしかがよしてる)の命によって、ここで正式に越後守護職を代行する事になったのが、為景の息子=長尾景虎(ながおかげとら)・・・後の上杉謙信なのですよ。

やはり、コチラも・・・
今後の上杉と伊達の関係が見えて来るような、来ないような・・歴史っていろんな所でつながってるんですね~
と、しみじみo(*^▽^*)o
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2017年5月19日 (金)

謀将と呼ばれた真田の祖~真田幸隆(幸綱)

天正二年(1574年)5月19日、信濃(しなの=長野県)の豪族=真田の祖として知られる真田幸隆がこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

真田幸隆(さなだゆきたか=幸綱)・・・
ご存じ!昨年の大河の主役=真田信繁(のぶしげ=幸村)お祖父ちゃんであり、草刈さんの好演が光る真田昌幸(まさゆき)お父ちゃんです。

とは言え、上記の通り、名前も複数あり、生まれた年もだいたいで、果ては、その父親すら決定打がないという謎の人・・・まぁ、あの北条早雲(ほうじょうそううん)しかり、美濃(みの=岐阜県)マムシのおっちゃんしかり・・・戦国に入ってから力をつけた武家の初代っちゅーのは、往々にして謎多き感じなのかも知れませんが・・・

とにもかくにも、
第56代・清和天皇(せいわてんのう)(12月4日参照>>)の第4皇子である貞保親王(さだやすしんのう)の末裔とされる信濃の古い豪族=滋野(しげの)の嫡流で、小県(ちいさがた=長野県東御市)を支配していた海野(うんの)海野棟綱(うんのむねつな)長男もしくは次男、もしくは、もしくは娘婿とされる人物が幸隆・・・なので、海野棟綱につながる人物である事は確かでしょう。

そんな彼が、小県郡の真田庄(さなだしょう)に土着した事から、真田姓を名乗り始めたというのが、一般的で、故に、幸隆は真田の祖と称されます。
(注:娘婿説の場合は真田頼昌(さなだよりまさ)という人物が幸隆の父とされるので、この方が祖という事になりますが…)

Sanadayukitaka300a てな事で、前半生がほぼほぼ謎な幸隆さんですが、そんな謎だらけになってしまう原因の一つと思えるのが、真田が、主家である海野氏もろとも事実上の滅亡に追い込まれた一件・・・

それは、幸隆が、おそらくは20代後半で、未だ弱小の土豪(どごう=土地に根付いた半士半農の侍)ではあるものの、周辺の領地に点在する海野一族の援護を受けつつ、領国経営に励んでいた物と思われる天文十年(1541年)の事・・・。

そこに、「領地拡大!」とばかりに侵攻して来たのが、大永元年(1521年)の飯田原の戦い(10月16日参照>>)に勝利して甲斐(かい=山梨県)一国を手中に治めた武田信虎(たけだのぶとら)です。

天文四年(1535年)、諏訪(すわ)氏と和睦した信虎は、佐久郡(さくぐん=長野県佐久市・北佐久郡・南佐久郡)へと侵出して海ノ口城(うんのくちじょう=長野県南佐久郡南牧村)を奪取(12月28日参照>>)・・・このために、佐久郡の大部分が武田に降る事となったのですが、真田含む海野一族は未だ抵抗を続けます。

そんな中、これまで敵対していた葛尾城(かつらおじょう=長野県埴科郡坂城町)村上義清(むらかみよしきよ)と和睦した信虎は、その義清と、上原城(うえはらじょう=長野県茅野市)諏訪頼重(すわよりしげ)との3者連合軍で以って、海野城(うんのじょう=東御市本海野白鳥台)海野棟綱を攻めたのです。

天文十年(1541年)5月14日、最も激戦となった海野平(うんのたいら)の戦いで敗北し、息子の海野幸義(ゆきよし)を失った棟綱は、やむなく逃走・・・関東管領上杉憲政(うえすぎのりまさ)を頼って上野(こうずけ=群馬県)へと亡命したのです。

もちろん、この戦いに、ともに参戦していたとおぼしき幸隆も、一族と同じく、箕輪城(みのわじょう=群馬県高崎市箕郷町)長野業正(ながのなりまさ)を頼って亡命しています。

つまり、ここで事実上、真田は滅亡し、浪人の身となった幸隆・・・一説には、すべてを失い、身一つになったこの時に「残すは三途の川を渡るだけ(渡し賃が六文)「いつでも死ぬ覚悟はできている」という意味で、あの『六連銭(ろくれんせん=一文銭が6つ)』の旗印にしたのだとか・・・
(もともと海野氏の旗印だった説もありますが…(*´v゚*)ゞ)

って事は海野&真田にとってはにっくき武田・・・当然の事ながら、海野&真田は、亡命生活を送りつつも、かの憲政の上杉の威光を頼りに旧領の回復を模索するのですが、この後、幸隆だけは、一族と別行動をとる事になるのです。

実は、この海野平の戦いに勝利した直後、信虎は、その慰労も兼ねて、娘婿(長女=定恵院の結婚相手)であった駿河(するが=静岡県東部)今川義元(いまがわよしもと)のもとへ立ち寄るのですが、その間に、先に甲斐に帰国していた息子=晴信(はるのぶ)クーデターを決行し、父=信虎を追放して新政権を樹立したのです(6月14日参照>>)・・・ご存じ、後の武田信玄(たけだしんげん)ですね。

こうして、武田を継いだ・・・いや、父から奪った信玄(当時はまだ晴信ですが信玄と呼ばせていただきます)は、父とは真逆の方針を打ち立て、諏訪とも村上とも同盟を破棄・・・翌・天文十一年(1542年)には諏訪への侵攻を開始(6月24日参照>>)、当然、その後は村上義清とも敵対する(2月14日参照>>)事に・・・

敵の敵は味方・・・
そう、この時、幸隆にとっての1番の重要事項は、自らの領地=真田庄を取り戻す事です。

それを取り戻すためには・・・
先の戦いの後に、この真田庄を占領した村上義清と相対し、今や彼の敵となった信玄に与(くみ)するのが、旧領回復への最短の道!

恨みツラみを捨て、最も合理的な道を瞬時にして判断した幸隆・・・その先見の明は、なかなか大したものですね。

こうして、未だ上杉を頼る一族と離れて上野を脱出した幸隆は、武田への臣従を申し出るのです。

一説には、この時、信玄に幸隆を紹介したのは、名軍師として知られる、あの山本勘助(やまもとかんすけ)(2010年9月10日参照>>)だったとか・・・もちろん、信玄にとっても、ここらあたり=信濃東部の地の利を熟知している幸隆の存在は頼もしい限りですし、幸隆も、そこが自身のアピールポイントだったわけです。

以後、松尾城(まつおじょう=真田本城=長野県小県郡真田町)を本拠とし、武田軍の小県侵攻の先鋒として各地を転戦する幸隆は、信玄が攻めきれなかった戸石城(といしじょう:砥石城=長野県上田市上野)(9月9日参照>>)を、謀略によってアッサリ奪ったり、葛尾城の攻略(4月22日参照>>)にも一役かったり・・・

もちろん、その葛尾城奪取キッカケで越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)と信玄が直接対決する事になる永禄四年(1561年)の川中島(9月10日参照>>)でも、嫡男=信綱(のぶつな)らとともに、あの啄木鳥(きつつき)戦法の別働隊として信玄をサポートしました。

永禄六年(1563年)の岩櫃城(いわびつじょう=群馬県吾妻郡東吾妻町)攻略では、城中に「忍び」を放ち、敵方になっていた海野輝幸(てるゆき)らの内応を誘って、これを奪ったと言います。

さらに永禄九年(1566年)には、亡命でお世話になった箕輪城の長野さん(9月30日参照>>)にまでちゅうちょなく・・・

故に、幸隆は、「猛将」というよりは、『謀略の士』あるいは『謀将』などと呼ばれますが、それは、敵に回せばコワイものの、味方なら、これほど心強い味方はいないわけで・・・

そんなこんなの数々の功績により「信玄の懐刀(ふところがたな)とまで称され、外様でありながら、譜代の家臣と同等の待遇を受けて、武田二十四将(たけだにじゅうよんしょう)の一人にも数えられた幸隆でしたが、いつしか病気がちになり、永禄十年(1567年)頃には隠居して、家督を嫡男の信綱に譲っていたとされます。

なので、義元亡き後の駿河への侵攻(12月13日参照>>)や、三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)に代表される一連の「信玄上洛かも?」の戦いには、幸隆は参戦していません。

しかし、ご存じのように、この西上の途中で信玄は命を落とし(1月11日参照>>)、武田の行軍はストップ・・・軍団は、そのまま甲斐へと戻るわけで・・・

その信玄の死から約1年後の天正二年(1574年)5月19日幸隆は戸石城にて病死します。

ところで・・・
死の1週間前の5月12日には、亡き信玄の後を継いだ武田勝頼(たけだかつより=信玄の四男)が、信玄も落とせなかった高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)を落城させています(5月12日参照>>)が、幸隆は、このニュースを聞いたのでしょうか?

先見の明があり、謀略に長けた幸隆が、もし、この一報を聞いていたとしたら、そこに感じた物は、
武田の「頼もしい未来」だったのか?
はたまた「危うき予兆」だったのか?

はたして、この、ちょうど1年後に勃発する長篠の戦い(5月12日参照>>)で、勝頼に従っていた嫡男の信綱、そして次男の昌輝(まさてる)もが討死にしてしまい、真田家は三男の昌幸が継ぐ事に・・・

しかし、ご存じのように、その後、武田は滅んでも(3月11日参照>>)真田は滅びませんでした。

それは、かつて、浪人からのし上がって『謀略の士』『謀将』と呼ばれた父=幸隆から、息子=昌幸が受け継いだ、ただ一つのゆるぎない目標=家を存続させるため智略をフル活用したなればこそ・・・

武田の滅亡から本能寺のゴタゴタにかけて、アッチに行ったりコッチに来たりして、豊臣の奉行たちから「表裏比興の者(ひょうりひきょうのもの=心中が読めないクセ者)と称される事になる昌幸の真意測りかねる動向の数々は、周囲に何と言われようとも、そのただ一つのゆるぎない目標を実現させるための戦術だったわけです(6月4日参照>>)

そして・・・そのただ一つのゆるぎない目標が、幸隆の孫たちである信之(のぶゆき=信幸)&信繁兄弟に受け継がれていく事は、皆さまご存じの通りでおます。
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2017年5月12日 (金)

信玄を越えた?武田勝頼が高天神城を奪取

天正二年(1574年)5月12日、武田勝頼が徳川方の小笠原信興が守る遠江高天神城を包囲し、世に言う「高天神城の戦い」が始まりました。

・・・・・・・

とは言うものの、本邦戦国史上、「高天神城の戦い(たかてんじんじょうのたたかい)と呼ばれる戦いは3度あります。

1度目は元亀二年(1571年)3月から・・・

もともとは、あの源平合戦の頃から、砦のような物が構築されていたらしい高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)ですが、清和源氏の流れを汲む今川氏(いまがわし)が、南北朝時代に駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)守護(しゅご=現在の県知事)になった事から、その配下の福島氏(ふくしまし)城代を務めていましたが、天文五年(1536年)の、あの花倉の乱(6月10日参照>>)で、勝利した今川義元(いまがわよしもと)が今川家の当主となり、逆に福島氏が没落した事で、その後は、やはり今川配下の国衆であった小笠原氏(おがさわらし)が城代として治めていました。

しかし永禄三年(1560年)に、あの桶狭間(おけはざま)で義元が倒れ(5月19日参照>>)、その後を継いだ今川氏真(うじざね)の代になって今川に陰りが見え始めると、時の城主であった小笠原信興(おがさわらのぶおき=長忠とも)は、このタイミングで遠江に侵攻してきていた三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)の傘下へと、ちゃっちゃと鞍替えします。

ところが、ご存じのように、これらの今川の旧領地を狙っているのは家康だけではありません。

そう、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)という大物が・・・

一説には、義元亡き後の今川の領地のうち、駿河を信玄が、遠江を家康が切り取る話し合いが、あの織田信長(おだのぶなが)の仲介で成っていたとも言われる両者の関係ですが、永禄十一年(1568年)に家康が、掛川城攻防戦(12月27日参照>>)にて氏真を攻めて、戦国大名としての今川氏を事実上滅亡させると、今度は、その家康と信玄の直接対決で、お互いの取り分を決める争いと化して来るわけで・・・

とにもかくにも、北条氏とのゴタゴタ(【蒲原城の攻防】参照>>)にも忙しい元亀二年(1571年)3月、信玄は、家臣の内藤昌豊(ないとうまさとよ)に約2万の軍勢をつけ、この高天神城を攻めさせたのです。

この内藤昌豊は武田四天王の一人に数えられる猛将・・・しかも、守る城兵は、わずかに2000。

しかし、この高天神城・・・構築された山の高さ自体はさほど高く無いものの、山の斜面が急な、天然の要害に築かれているうえ、これまた、その要害効果を最大限に活かすナイスな場所にナイスな城郭を配置してある堅固な城で、さすがの大軍を率いても、容易に落とせるものではなく、結局、信玄は、自身の生涯で、この高天神城を落とす事ができないまま、元亀四年(1573年)4月12日、直前の野田城での戦い(1月11日参照>>)を最後に、この世を去ってしまうのです。

Takedakatuyori600a その信玄亡き後の武田を継いだのが、信玄の四男=武田勝頼(たけだかつより)です。

とは言え、ご存じのように、この勝頼は、本来は武田家を継ぐべき息子ではなく、母方の諏訪(すわ・長野県中部)地方を治めるべく育てられた人で、その名も、武田家の通字(とおりじ=その家系で代々に渡って名前に用いられる字)である「信」ではなく、諏訪家に用いられる「頼」の字が当てられ、いち時は諏訪勝頼(すわかつより)と名乗ってたくらい、それは周知の事でした。

よって、巡り巡って家督を継ぐ事になった時点でも、父の代からの重臣たちからは賛否両輪飛び交うばかりか、信玄の残した遺言もが、いかにも勝頼が中継ぎ投手と言わんばかりの内容だった(4月16日参照>>)ために、おそらく勝頼には、当主になった途端から、かなりの重荷を背負わされてる感があったと思われます。

しかし・・・
一般的には、カリスマ的な信玄から受け継いだ武田家を滅亡に導いてしまう事で、なにかと愚将扱いされる勝頼さんですが、実は、戦国最強の猛者だったとも言われ、それこそ、信玄も、そこを見込んでの後継者指名だったでしょうし、勝頼自身も、父に負けてはいない自分を見せたい願望もあった事でしょう。

そう、勝頼は、信玄の死後、ほとんど期間を置かず、父の遺志を引き継ぐかのように、領地拡大に乗り出すのです。

攻めて攻めて攻め抜いて、父の代よりも広大な領地を得て、武田家の強さを見せる・・・これこそが、カリスマ父を越える最短の手段であり、おそらく勝頼は、それが可能な猛将だったはずです。

そんなさ中、信玄の死からわずか2ヶ月後に、武田の傘下だった亀山城(かめやまじょう=愛知県新城市)奥平定能(おくだいらさだよし)信昌(のぶまさ)父子が徳川へと・・・一説には、「信玄死す」の機密情報を手土産しての寝返りだったとも・・・

遺言で「3年は隠せ」と言われた信玄の死ではありますが、そんなこんなで、おそらくは、すでに周囲の諸将に伝わった以上、隣国の家康だけでなく、彼と同盟を結ぶ信長やら、あの人やらこの人やら、戦国の猛者たちが動き出す事は必至なわけで、ヤラねばヤラれる戦国時代・・・まして、2年前の三方ヶ原(12月27日参照>>)で、父がコテンパンにやっちゃってるわけですから、受け継いだ勝頼も、ここで手を緩めるわけにはいきません。

かくして天正二年(1574年)、2月5日に美濃(みの=岐阜県)明知城(あけちじょう=岐阜県恵那市)を陥落させた(2月5日参照>>)勝頼は、3ヶ月後の5月3日、2万余の大軍を率いて本拠の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた=山梨県甲府市古府中)を出陣・・・5月12日には、その大軍で、高天神城を包囲したのです。

これが2度目(第2次)高天神城の戦い

迎える信興は、わずかに1000・・・なので、当然の事ながら、包囲と同時に、家康へ救援要請を飛ばします。

一方、父の苦戦を知っている勝頼は、大軍で力攻めをするかたわら、おそらくは容易に落ちない事を踏まえて、家臣の穴山梅雪(あなやまばいせつ)に命じて、話し合いによる説得工作も展開しました。

救援が来るまで時間を稼ぎたい信興は、開城に応じるように見せかけながら、のらりくらりのかわし作戦。

しかし、救援を受けた家康も、「武田が2万以上の大軍」と聞き、さすがにこの時点での徳川には、そこまでの兵力は無かったため、即座に信長へ連絡を入れ、救援の救援を要請します。

その知らせが岐阜(ぎふ)の信長のもとに届いたのは6月4日・・・信長にとっては、この年の正月からややこしい事になっていた越前(えちぜん=福井県)一向一揆(1月20日参照>>)の動向が気になるところではありますが、ソチラは羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)丹羽長秀(にわながひで)らに任せ、自らは6月14日に岐阜を進発し、東へと向かいます。

しかし、当然の事ながら、この間にも勝頼の攻撃&説得工作は継続していたわけで・・・

『真田文書』(信濃史料)によると・・・
武田軍は、すでに5月28日には二&三の曲輪(くるわ=土塁・石垣・堀などで区画された城内の場所)を突破し本曲輪まで到達しており、もはや落城も時間の問題のように見えたのだとか・・・ただ、さすがに堅固をうたわれた城で、そこからなかなか先に進めなかったようですが、

しかし、わずかながらのこう着状態であっても、先の見えない戦時下では不安がつのるもの・・・

攻める勝頼にとっては、今日明日にも援軍が到着するかも知れないので、すばやく決着をつけたい・・・

一方、守る信興にとっては、その勝頼の気持ちがわかるぶん引き延ばしたいけど、いつ来るかわからない援軍を、どんどん窮地になる城内で、ずっと待っていられるのだろうか?という不安・・・

その間にも継続される攻撃と説得・・・やがて6月17日、何度目かの説得交渉で、勝頼から、駿河に1万貫の所領の約束を取り付けた信興は、城を開け渡す事にしたのです。

『横須賀根元記』によれば、
この時、開城を決意した信興は、城兵たちに対し
「この城は開け渡す=自分は武田につくけど、君らは、僕といっしょに武田に行くか、徳川につくかは自由にしてええからな」
と言ったのだとか・・・で、この時、信興とともに武田に降った者を「東退組」、徳川に行った者を「西退組」と呼ぶのだそうです。

ところで、高天神城が開城された17日・・・信長軍は、三河領の吉田城(よしだじょう=愛知県豊橋市)に到着していましたが、その開城の一報が届いたのは2日後の19日、今切渡(いまぎれのわたし=静岡県湖西市:浜名湖南部の渡し船発着場)越えようとしていた時でした。

「もはや落城してしまったものはどうしようもない」
とばかりに、信長は、そのまま、吉田城へと引き返したとの事・・・

こうして、偉大なる父=信玄も落とせなかった高天神城を陥落させた勝頼・・・その喜びもひとしおだった事でしょう。

勝頼は、この時の一連の侵攻で、支城を含めて18もの城を落とし、遠江の東半分を制圧・・・まさに破竹の勢いで領地拡大を成し遂げていったわけですが、

そう・・・
このイケイケムードにストップがかかるのは1年後・・・有名な長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら)の戦いです。

それはもちろん、あの時、徳川に寝返った奥平父子・・・・彼らを、そのままにしておくわけにはいきませんから、当時、彼らが任されていた長篠城を攻めに・・・
勝頼軍が長篠城を囲んだのが4月21日>>
そして設楽ヶ原の決戦が5月21日>>

さらに、皆様ご承知の通り、この長篠で敗れてから7年後に武田は滅亡する事になるのですが、その滅亡に向かう一連の戦いの始まりとも言えるのが、今回の高天神城・・・

皮肉にも、今回、武田に落ちた高天神城を、家康が奪い返す3度目(第3次)高天神城の戦いが、武田滅亡へのカウンドダウンの始まりとなるわけで・・・それは天正九年(1581年)3月22日の事でした。

武田滅亡の関連ページもどうぞm(_ _)m
第3次高天神城の戦い>>
信長が甲州征伐を開始>>
田中城が開城>>
穴山梅雪が寝返る>>
高遠城が陥落>>
武田勝頼、天目山の最期>>
勝頼とともに死んだ妻=北条夫人桂林院>>

で・・・
ご存じのように、この3ヶ月後に本能寺の変があるので、もう、信長さんのエピソードが目白押し・・・さらにくわしくは【織田信長の年表】>>から、気になるページへどうぞm(_ _)m
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2017年5月 5日 (金)

室町幕府管領職・争奪戦~等持院表の戦い

永正十七年(1520年)5月5日、細川高国三好之長を破った等持院表(とうじいんおもて)の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・・

室町幕府将軍を補佐する立場にある管領(かんれい)が、現将軍=第10代足利義稙(あしかがよしたね:義材・義尹)を廃して、自らの意のままになる将軍=第11代足利義澄(よしずみ)を擁立するというクーデター=明応の政変(めいおうのせいへん)をやってのけた細川政元(ほそかわまさもと)が永正四年(1507年)6月に暗殺され(6月23日参照>>)、その3人の息子=全員養子の間で勃発した後継者争い・・・

関白・九条政基(まさもと)の子=澄之(すみゆき)
阿波(あわ=徳島県)の細川家から来た澄元(すみもと)
備中(びっちゅう=岡山県)細川家の高国(たかくに)

Hosokawasumimoto400a はじめは、お互いに協力して、澄之の追い落としを謀った澄元と高国でしたが(8月1日参照>>)、予想通り、澄之亡き後に対立・・・

やがて周防(山口県)の大物=大内義興(よしおき)を味方につけた高国は、亡き政元に追放されていた前将軍の義稙を奉じて京へと上り、永正八年(1511年)8月の船岡山の戦いで勝利・・・一方の澄元は摂津(せっつ=大阪府)へ敗走後、地元の阿波へと逃亡しました(8月24日参照>>)

Hosokawatakakuni600a 勝利した高国と義興は、義稙を将軍職に復帰させて政権を掌握・・・こうして、しばらくの間は、この高国政権下で平穏な日々が続きます。

・・・が、
そう、実は、このしばしの平穏は、高国政権確立のために、しばらくの間京都に滞在していた大内義興のおかげだったようで・・・

案の定、義興が領国の周防に戻った永世十五年(1518年)頃から、澄元の動きが活発になって来ます。

翌・永世十六年(1519年)11月、それまで阿波に引っこんでいた澄元は、阿波細川家に仕える家臣=三好之長(みよしゆきなが)とともに兵を挙げ、海を渡って兵庫へ上陸し、高国配下であった越水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)瓦林政頼(かわらばやしまさより=正頼)を攻めたてます(1月10日参照>>)

これを受けた高国は、その救援のために約5000の兵を従えて向かいますが、その力足りず・・・翌・永正十七年(1520年)の2月3日に越水城が落城してしまったため、やむなく京都へと退こうとします。

が、夜陰に紛れて後退する高国軍を、澄元に同調する国衆=西岡衆(にしのおかしゅう=京都・乙訓地域の自治を担った武士集団)が襲撃・・・動揺した高国は、さらなる襲撃を恐れて近江(おうみ=滋賀県)坂本(さかもと=大津市)へと逃れます。

この時、将軍=義稙にも、「ともに近江へ…」と声をかけたものの、義稙は、それを拒否・・・残念ながら、義稙の心は、すでに高国から離れ、澄元へと移りつつあったのです。

やむなく、将軍を奉じる事なく近江に向かった高国は、近江守護六角定頼(ろっかくさだより)を頼ります(この時の六角氏は定頼の父=六角高頼が主導の説もあり)

一方、勝利した澄元・・・自身は、その本拠を伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)に置き、3月には、之長率いる三好勢が京都へと入りました。

ここで、一時的に政権を握った形になった澄元側・・・しかし、さすが、近江に逃れたと言えど政権保持者の高国は、この間に、頼った六角氏だけではなく、越前(えちぜん=福井県)美濃(みの=岐阜県)丹波(たんば=兵庫県北東部・京都府中央部)などの有力武将に声をかけ、彼らの援軍を得ていたのです。

こうして、合計=4万とも5万とも言われる大軍となった高国軍・・・5月3日、まずは定頼が、弟の大原高保(おおはらたかやす)を陣代に据えた一軍を、琵琶湖西岸の山越えで京都に入らせ、鴨川東岸の吉田河原(よしだかわら)に布陣させます。

続いて約7000の丹波の援軍が船岡山(ふなおかやま=京都市北区)に到着・・・2日後の5日には、高国自ら率いる本隊が鴨川を渡って上京へと入り相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)付近に到着しました。

こうして、等持院(とうじいん=京都市北区)に待機していた三好軍を北と東から挟む形に・・・

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位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして永正十七年(1520年)5月5日正午頃、政権争奪を賭けた市街戦が等持院の東南で展開される事と相成ります。

士気衰える事無くヤル気満々で決戦に挑んだ三好軍ではありましたが、伝えられるその数は、わずかに4~5000であったと言われ、さすがに4~5万の軍勢に囲まれては太刀打ちできず・・・奮戦も空しく、夕刻には勝敗が決しました。

この敗戦を受けて、之長は逃亡を図りますが、逃げきれずに捕縛され、6日後の5月11日に百万遍知恩寺(ひゃくまんべんちおんじ=京都市左京区)にて切腹・・・同じく捕縛された之長の息子=芥川長光(あくたがわながみつ)三好長則(みよしながのり)兄弟も、父の後を追うようにして切腹して果てました。

知らせを聞いた澄元は、伊丹城を出て播磨(はりま=兵庫県南西部)に向かい、赤松氏の支援を受けて阿波へと逃亡しますが、約1ヶ月後の6月10日、その阿波にて志半ばのまま、32歳の若さで病死してしまいました。

一方、あの時、高国が「ともに近江へ…」と誘ったにも関わらず、行動をともにしなかった将軍=義稙・・・当然ですが、この時に険悪なムードになった二人の関係も修復される事はありませんでした。

その後も、京都を離れて、高国の討伐を画策する義稙ですが、もはや従う家臣もほとんどおらず、淡路島に滞在した後、讃岐(さぬき=香川県)細川家を頼って四国へやって来ますが、わずか3年後の大永三年(1523年)4月、彼もまた阿波国の撫養(むや=徳島鳴門市)にて病死するのです。

この間に高国は、先の第11代将軍=足利義澄の息子である足利義晴(あしかがよしはる)第12代室町幕府将軍として擁立し、あの西岡衆をも攻撃し、確固たる高国政権を樹立するわけですが・・・

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等持院…くわしい場所は、本家HP=京都ぶらり歴史散歩「きぬかけの道」のページでどうぞ>>

細川澄元に三好之長・・・さらに、対立した将軍まで亡くなって、まさにわが世の春となった高国ですが、そんな彼の前に登場するのは、無念の死を遂げた澄元の息子=細川晴元(はるもと)と、之長の孫(息子説もあり)=三好元長(みよしもとなが=長慶の父)・・・

この後、世代交代した澄元勢が、高国打倒に向けて動き始めるのは、今回の等持院表から6年後の大永六年(1526年)10月・・・

そのお話は、
【神尾山城の戦い】>>
【桂川原の戦い】>>で、ご覧あれ!

とにもかくにも、彼らの京都争奪戦が、後の三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)(5月9日参照>>)からの織田信長(おだのぶなが)の畿内掌握(9月29日参照>>)・・・と、皆さまご存じの戦国絵図へとつながっていくわけです。
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