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2017年7月28日 (金)

公家の姫から武将の嫁に…武田信玄の奥さん~三条殿

元亀元年(1570年)7月28日、甲斐の武田信玄の正室である三条殿が、50歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・・・

天文二年(1533年)に、室町幕府の関東管領職を代々務める家系=扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)の当主=上杉朝興(うえすぎともおきの娘を正室に迎えるものの、翌年、そのが難産のために母子ともに亡くなってしまった事で、独り身となっていた甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん=当時は太郎)・・・

Takedasingen600b その後、天文五年(1536年)に16歳で元服し、名を晴信(はるのぶ)と名乗り、新たな一歩を踏み出した信玄(今回は信玄の名で通します)に後添えを・・・
と尽力してくれたのは駿河(するが=静岡県西部)今川義元(いまがわよしもと)でした。

ご存じのように、都の貴族とも太いパイプを持っていた義元が、藤原北家(ふじわらほっけ=藤原四家の一つ藤原武智麻呂の家系)閑院流(かんいんりゅう)の嫡流で清華家(せいがけ=太政大臣になることのできる家格を持つ7家)の一つの三条家(さんじょうけ)三条公頼(さんじょうきんより)(次女)との縁を結んでくれたのです。

ちなみに、公頼の3人の娘のうち、
長女は、管領(かんれい=室町幕府での将軍補佐)家=細川家の後継者であり現段階での政権保持者である細川晴元(はるもと)(2月13日参照>>)の奥さんに・・・

三女は、もう少し後に、本願寺第11世=顕如(けんにょ)(11月24日参照>>)のもとに嫁いでいますので、まさに、三者三様のロイヤルウエディング!

なので、今回の主役=信玄に嫁いだ真ん中の姫は、この後、三条殿(さんじょうどの)、あるいは三条の方(さんじょうのかた)、あるいは三条夫人(さんじょうふじん)と呼ばれる事になりますが、本日のところは三条殿と呼ばせていただきます(本名は不明です)

しかし・・・ロイヤルウエディングと言えば聞こえが良いですが、上記の通りの政略結婚

荘園持ってりゃ、お公家さんに一定量の収入が見込めた時代と違って、世は乱世・・・戦国武将が力で以って土地を支配し、取ったり取られたりが日常茶飯事で検地もままならない時代には収入も当てにできないわけで・・・戦国とは、お公家さんには困った時代ですよね~

てな事で、金も力も無いお公家さんは、力を持つ武将を頼り、地方の武将は中央とのつながりとともに高貴な家柄とつながるチャンスを得るという、両者の利害関係の一致による結婚・・・15歳を迎えた頃の初々しいお姫様は輿(こし)に乗り、おそらく、生まれて初めて都を離れて、見た事も見ない山多き風景に驚きつつ甲斐へとやって来た事でしょう。

とは言え、そんな高貴なお姫様を信玄がムゲに扱うはずはなく・・・てか、この時代、16歳の少年なら、「都育ちのお姫様がキタ━(゚∀゚)━!」ってだけで、テンションMAXだったのでは?
まして前妻と死別ですし・・・おそらくは大切に大切に扱った事は、想像に難くないですね。

そんな二人の仲睦まじさの証拠と言ってな何ですが・・・結婚の翌年の天文七年(1538年)には長男の武田義信(よしのぶ)を、天文十年(1541年)には次男の海野信親(うんののぶちか=竜芳)を、天文十二年(1543年)には三男の武田信之(のぶゆき=西保信之)と長女=黄梅院(おうばいいん)を、さらに、生年は不明なれど、後に穴山梅雪(あなやまばいせつ=信君)(3月1日参照>>)に嫁ぐ事になる次女の見性院(けんしょういん)・・・と立て続けに子宝に恵まれます。

次男の信親には目の障害があり、三男の信之は後に早世するという憂いはあるものの、この頃は、おおむね穏やかな新婚生活を送っていた事でしょう。

とは言え、天文十年(1541年)に夫=信玄が父の信虎(のぶとらを追放(6月14日参照>>)して武田家を継いだ途端、それまでの父の時代には同盟関係にあった諏訪(すわ=長野県諏訪市)への侵攻を開始(6月24日参照>>)、倒した諏訪頼重(すわよりしげ)(諏訪御寮人)を娶って後、天文十五年(1546年)に「その姫が男児(後の勝頼)を産んだ」と知った時には、三条殿もかなりのお怒りだったとか・・・

まぁ、それも、夫への愛情があればこそのお怒りでしょうし、それを知った信玄も、速やかに諏訪御寮人を諏訪の上原城(うえはらじょう=長野県茅野市)に移し、この息子に武田家の通字(とおりじ=代々に渡って名前に使用する文字)である『信』の文字を使わず、諏訪家の通字である『頼』の文字を使う事を決意したのだとか・・・ま、もともと、諏訪御寮人との間に生まれたこの勝頼(かつより)を諏訪の後継ぎとして、以前から諏訪に仕える者たちの不満を抑え込む目的だったのでしょうけど・・・

その後、信玄が、村上義清(むらかみよしきよ)との一連の戦い(2月14日参照>>)の中で、戸石城(といしじょう=長野県上田市・砥石城)を落とすのに苦労していた(9月9日参照>>)時期には、信玄はその前線基地となる上原城に行きっぱなしでしたが、もう、この頃には三条殿も諏訪御寮人にヤキモチを焼くほど若く無く・・・というよりは、もはや信玄の正室=オカミサンとしての地位は揺るぎない物で、彼女自身も、武田家の奥向きを統率する者としての自らの役割を充分理解していた事でしょう。

信玄も
「お前が家におると思うからこそ、安心して戦えるんやで」
と三条殿へのねぎらいの言葉もかけています。

ただ、そんな中での天文二十年(1551年)、実父の三条公頼が、滞在先の周防(すおう=山口県)で起こった大寧寺の変(たいねいじのへん)(8月27日参照>>)に巻き込まれて命を落とした事は不幸な事でしたが・・・

その後、難攻した戸石城を、真田幸隆(さなだゆきたか=幸綱)(5月19日参照>>)の策略によって、ようやく落とし、義清が自身の葛尾城(かつらおじょう=長野県埴科郡)を捨てて、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎)を頼った(4月22日参照>>)事で、いよいよ、あの川中島の戦いへ突入の兆しが見え隠れする天文二十二年(1553年)、甲斐の武田、相模(さがみ=神奈川県)の北条、駿河の今川の間で相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=三者による同盟)が成立・・・その証として、お互いの息子&息女による婚姻関係が結ばれる事となり、信玄の長男=義信と、今川義元の娘=定恵院(じょうけいいん)との縁談がまとまります。

冒頭に書いたように、この今川は都の公家とも深い縁・・・というのは、義元の母である寿桂尼(じゅけいに)(3月14日参照>>)勧修寺流(かじゅうじりゅう)の公家=中御門宣胤(なかみかのぶたね)の娘であるという事もあっての縁・・・

もちろん、義元の奥さんは信玄の姉なので、今回の義信と定恵院の縁談は従兄弟夫婦になるわけですが・・・そう、三条殿にとっては、同じ藤原北家の流れを汲むお嬢さんが息子の嫁になってくれるわけで、
「京の都が近くに来たみたいヽ(´▽`)/」
とたいそう喜んでいたとか・・・

もちろん、お互いの子供同士がテレコテレコで婚姻を結ぶという事なので、武田家も、長女の黄梅院を相模の北条氏康(ほうじょううじやす)の息子=氏政(うじまさ)に嫁がせる事になり、三条殿にとっては可愛い娘との別れとなるわけですが、それはそこ、結婚という祝うべき門出にともなう別れなのですから・・・

これより、長きに渡る川中島の戦いが始まるとは言え、隣国とは同盟を結び、ハッキリと敵対する者を敵として戦っていたこの頃が、三条殿にとっては、最も幸せな日々だったのかも知れません。

しかし・・・
1次=天文二十二年(1553年):布施の戦い>>
2次=弘治元年(1555年):犀川の戦い>>
3次=弘治三年(1557年):上野原の戦い>>
4次=永禄四年(1561年):八幡原の戦い>>
そして、ほとんど合戦の体をなしていない
5次塩崎の対陣>>
の永禄七年(1564年)まで・・・と、
信玄と謙信が川中島でのドンパチを繰り返していた間に、戦国の世は大きく動きました。

そう、永禄三年(1560年)5月の桶狭間の戦いです。
(参照ページ↓)
【一か八かの桶狭間の戦い】>>
【二つの桶狭間古戦場】>>
【名を挙げた毛利良勝と服部一忠】>>

これまで天下に1番近い男と思われていた今川義元が、未だ全国ネットでは名も知れていない、しかも自国の尾張(おわり=愛知県西部)の統一さえもままらない一武将=織田信長(おだのぶなが)に倒されてしまったのです。

同盟者である夫=信玄の行動は??

もちろん信玄も、すぐには動きません・・・周辺がどう動くのかも見据えなければ・・・

しかし、かの信長は、その翌々年の永禄五年(1562年)には尾張を統一(11月1日参照>>)、かの最後の川中島の翌年=永禄八年(1565年)には美濃(みの=岐阜県)へ侵攻(8月28日参照>>)を開始し、2年後の永禄十年(1567年)には、名城とうたわれた稲葉山城(いなばやまじょう)を陥落させ、岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)と改めて、確実に新たな一歩を踏み出しています。

一方の信玄も、永禄九年(1566年)には長野業正(なりまさ)箕輪城(みのわじょう=群馬県高崎市)を陥落(9月30日参照>>)させたり、永禄十年(1567年)に信濃(しなの=長野県)を制覇(8月7日参照>>)したり、と北東方面への進撃には余念が無かったわけですが・・・

ところが、この間、ほぼほぼ何もしなかったのが、亡き義元の後を継いだ今川氏真(いまがわうじざね)・・・もちろん、そこには、義元の死を機に独立を図った徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平元康)【桶狭間の戦い~その時、家康は…】参照>>など、配下の離反者も相次いでいて、何もしなかったというよりは、できなかったし、やってはいてもあまり効果が出なかったりで、氏真には氏真の言い分があるわけですが・・・(3月16日参照>>)

とは言え、お察しの通り、これらの状況をキッカケに、信玄は明らかに南への侵攻を画策し始めます。

おそらく、この夫の方向転換は、妻の三条殿も気づいており、心穏やかでは無かったと察しますが、彼女が大きく反対する事はありませんでした。

代わりに真っ向から反対したのが長男の義信・・・なんせ、奥さんは今川の人ですし、同盟の破棄は、この婚姻関係も破棄するする事になるのですから・・・

しかし、信玄は四男の勝頼に、信長の姪で養女の龍勝院(りゅうしょういん)を迎える事を決定し(実際に嫁いだかどうかは微妙)、猛反対する義信を廃嫡(はいちゃく=後継ぎから除外する事)して幽閉・・・さすがに、この事を知った三条殿は、仏間に籠ったきり、何日も出てこようとしなかったのだとか・・・

そんな義信が、永禄十年(1567)10月、自刃に追い込まれる(10月19日参照>>)、信玄は、その嫁=定恵院を今川に送り返して、完全なる決別の意思表示をし、翌・永禄十一年(1568年)12月、いよいよ駿河への侵攻を開始するのです。
【駿河に進攻~薩埵峠の戦い】参照>>
【今川館の攻防戦~駿河を攻略】参照>>
もちろん、信長の仲介による家康との連携で・・・
【今川氏滅亡~掛川城・攻防戦】参照>>
そして北陸方面での代理戦争もぬかりなく・・・
【謙信VS椎名康胤~松倉城攻防戦】参照>>
【謙信VS越中一向一揆~日宮城攻防】参照>>

そんな中、上記の掛川城落城の際、あまりのドタバタで輿が用意できず、氏真とその奥さんが徒歩へ逃げるという屈辱を味わった北条は・・・そう、例の三者同盟によるテレコ婚姻で、今川氏真に嫁いでいたのが、北条氏康の娘=早川殿(はやかわどの=氏政の妹)だったわけで、娘をそんな目に遭わされて激おこの氏康は、息子=氏政と黄梅院を離縁させ、甲斐に送り返して来ます。

夫=氏政との間には、嫡男=北条氏直(ほうじょううじなお)を筆頭に4人もの男の子をもうけいていた黄梅院・・・なので、おそらく仲が良かったであろう夫と、そして可愛い息子たちとも引き裂かれた彼女は、それから、わずか半年後の永禄十二年(1569年)6月、27歳の若さでこの世を去ってしまいます(6月17日参照>>)

さすがの信玄も、娘の悲しき姿には心を痛めた事でしょうが、戦国の世は、そんな心の痛みが癒えるのも待ってはくれず・・・

その年の10月には三増峠の戦い(みませとうげのたたかい=神奈川県愛甲郡愛川町の三増周辺)(10月6日参照>>)、12月には蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区)攻防戦(12月6日参照>>)と、北条との合戦にあけくれる信玄に対し、

たった2年の間に長男も、そして長女も失った三条殿の落ち込み様は見るのも辛く、その後は、ほとんど言葉を発する事も無い無表情な人になってしまったと言います。

そして、長女が亡くなった翌年の元亀元年(1570年)7月28日、信玄の本拠=躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた=山梨県甲府市古府中)西曲輪(くるわ)屋敷にて、三条殿は静かに50年の生涯を閉じたのです。

残された信玄が、上洛?とおぼしき西行の途中で病に倒れるのは、このわずか3年後・・・天正元年(1573年)4月の事でした。
【武田信玄最後の戦い~野田城攻防戦】参照>>
【武田信玄公の命日】参照>>
【信玄・最後で最大の失策~勝頼への遺言】参照>>
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コメント

なるほどー三国同盟知ってはいたが茶々さまの文をみてて奥が深いと感じました

投稿: げん | 2017年8月 4日 (金) 00時27分

げんさん、こんばんは~

結ぶのも破棄するのも、同盟は重要ですね。

ちなみに、この信玄×氏康×義元の三人の息子たちは全員が天文7年(1538年)生まれの同い年なんです。
単なる偶然ですが…

投稿: 茶々 | 2017年8月 4日 (金) 01時22分

今BSで再放送中の風林火山にも出ていましたね。「おんな城主直虎」だと今日の放送分の年月で、もうじき亡くなる頃に差し掛かっていますね。彼女が亡くなる少し前に同じ経歴の今川寿桂尼が亡くなっていますね。
武田義信・北条氏政・今川氏真が同い年。初耳です。おんな城主直虎での義信が自刃した知らせを聞いた時の氏真の落胆は、義信が身内であるだけでなく同い年の「盟友」が死んだという事もあるのでは?
ついでに言えば井伊直親と小野政次も同世代。

投稿: えびすこ | 2017年8月 6日 (日) 10時28分

えびすこさん、こんばんは~

>井伊直親と小野政次も同世代

今年の大河ドラマでも、そんな感じに描かれていましたね。
直虎含め、子役ちゃん3人の仲の良いシーンはほほえましかったです。

投稿: 茶々 | 2017年8月 6日 (日) 23時34分

茶々さん、お久しぶりです。
心身が悪化しています。食べないのに体重は増えて困っています。背も少し伸びてバランスが悪化しています。
ところで風林火山を見ていて思ったのは三条夫人は諏訪御寮人に嫉妬深いのに油川夫人にはあまり何も言いません。油川夫人との子供が多いのにです。そういえば武田信玄の時でも油川夫人やその子供たちに比べて諏訪御寮人や勝頼には冷たかったなと思いました。同じ側室なのに差が激しいなと思いました。顔は油川夫人の方が一番良かったようなのですが・・・
ところで今回の大河は氏真のシーンが長すぎませんか?義元が殺されても長いなと思いました。氏真の時代よりも井伊家にとっては徳川家の与力として武田と合戦をした時期の方が長いのにです。おまけに寿桂尼が死んで間もないうちに滅びます。12月までなのに信玄が出てきたのは遅いなと思いました。武田の騎馬隊に対抗できたのが太平洋側だとあの頃は信長、北条ぐらいでなかったのではないでしょうか?
まあそれはともかく大河のバランスが悪いなと思いました。
実は織田家には土田御前関係の近江源氏の六角、劒神社からの元の流れの藤原以外に賀茂氏の血もあります。信長が家康を親戚と言ったのも家康に新田の血以外に賀茂の血があるからと思います。実際の家康はハンサムだったそうです。信玄も顔が良かったそうですね。不思議なのですが織田、武田、徳川の当主はたまたまですがハンサムだったそうです。義信の顔を見たことが無いですが、信繁を見ていますと武田は名門だけあって結構顔が良いなと思いました。

投稿: non | 2017年8月14日 (月) 15時07分

茶々さん、長いと思いますと今回の大河ですが子役の登場が長いのです。武田信玄、風林火山ではなかったと思います。子役が長いのは私が知っている限りだと家康、独眼竜、吉宗でなかったかなと思います。他は高校生ぐらいまでな感じがします。
三条夫人は信玄の妻なのにあまり知られていないですね。それも晴元の妻と顕如の妻と姉妹と言うのがです。
晴元、信玄、顕如が義理の兄弟、油川夫人の関係で信忠と景勝が信玄の婿、何だか親戚同士の戦ですか。WW1も親戚同士の戦なので切ないなと思いました。結局乱世は島原の乱まで続くとはです。
ところで明後日はお盆の最後ですが茶々さんは何かなさりますか?個人的には大文字の送り火を見て静かに過ごしたいのですが作業所に出てこいなので明後日から出勤です。

投稿: non | 2017年8月14日 (月) 15時34分

nonさん、こんばんは~

お盆はお仕事なのですか?
頑張ってくださいませ。

私は、仕事ではありませんが、やる事がたくさんあって忙しいです。

投稿: 茶々 | 2017年8月15日 (火) 01時31分

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