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2017年8月29日 (火)

秀吉VS佐々成政~富山城の戦いin越中征伐

天正十三年(1585年)8月29日、織田信長の後継者的な位置をキープした秀吉の越中征伐(富山の役)で、富山城主の佐々成政が降伏しました。

・・・・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月の本能寺にて織田信長(おだのぶなが)がこの世を去った(6月2日参照>>)後、その後継者を決める清州会議(6月27日参照>>)で優位に立ち、天正十一年(1583年)に織田家家臣の筆頭だった柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ)(4月20日参照>>)に破って葬り去った(4月23日参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、翌・天正十二年(1584年)には、信長の次男=織田信雄(のぶお・のぶかつ)と、彼を支援する徳川家康(とくがわいえやす)相手に、小牧長久手(こまきながくて)の戦いをおっぱじめますが、戦況が不利にも関わらず、信雄を丸めこんで講和に持ち込んでしまいました(11月16日参照>>)

Toyamazyou この信長死後の一連の戦いで、賤ヶ岳では勝家に、小牧長久手では信雄&家康に味方して、秀吉側の前田利家(まえだとしいえ)と戦っていた(8月28日参照>>)越中(えっちゅう=富山県)富山城(とやまじょう=富山県富山市)主=佐々成政(さっさなりまさ)は、「俺らコッチで頑張ってんのに、何してくれてんねん!」と信雄の単独講和に納得がいかず、冬の立山を越えて(11月11日参照>>)、直接、家康に面会して抗議しますが、合戦が終わってしまった以上は、どうにもならず・・・

小牧長久手の勝敗がウヤムヤなまま、秀吉は、翌・天正十三年(1585年)3月には紀州征伐(3月28日参照>>)を、7月には四国を平定(7月26日参照>>)し、破竹の勢いで天下へとまっしぐら・・・

と、ここで・・・
「そやん、賤ヶ岳でも小牧長久手でも敵に回ったアイツ…まして、未だに僕の親友の前田君にチョッカイ出しとんのに、なんか、そのままになってるやん」
と思ったかどうかはわかりませんが、

とにもかくにも、ここで秀吉は、北陸遠征の決意を固めたのです。

天正十三年(1585年)7月17日付けで前田利家に宛てた手紙には、
「来る4日に、越中に出陣するよって、しっかり準備しといてや~僕の考えは使者に伝えてあるよって、彼と、よ~く相談しといてネ」
と綴っています。

その手紙の通り、8月4日に先発隊が大坂(大阪府大阪市)を出陣・・・その数は約10万人、しかも秀吉は、自らが出陣した6日に、途中の京都へ寄って、朝廷から成政討伐の勅許(ちょっきょ=天皇の許可)まで取って・・・そう、秀吉お得意の威光放ちまくりの「どや!これでもやんのか?」作戦です。

なんせ、軍勢は、織田信雄はもとより、織田信包(のぶかね=信長の弟)丹羽長(にわながしげ=長秀の長男)細川忠興(ほそかわただおき)山内一豊(やまうちかずとよ)蒲生氏郷(がもううじさと)などなど・・・他にも名だたる有名武将を揃えた、名実ともにエース軍団ですな。

一方、秀吉の大軍がやって来る事を知った成政は、領内にあった30余の支城や砦を撤去して、居城の富山城にすべての兵力を集め、対決の体制を整えます。

19日、前田利家を先頭に金沢(かなざわ=石川県金沢市)を出発した越中征伐軍は、途中の櫛田神社(くしだじんじゃ=富山県射水市)にて勝利を祈った後、一旦、太閤山(たいこうやま=同射水市:秀吉が布陣したのでこの名がついた)に陣を置き、その後、東に富山平野が一望できる呉羽丘陵(くれはきゅうりょう=呉羽山)白鳥城(しらとりじょう=同富山市)に本営を構えたので、他の武将たちも、こぞって呉羽丘陵のあちこちに自身の陣を構え、一斉に(とき)の声を挙げては、眼下の富山城を威嚇しました。

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呉羽山より立山連峰を望む…眼下は富山市街

また『上杉古文書』によれば、この時、秀吉に味方すべく、越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)越後と越中の国境(現在の富山県下新川郡朝日町あたり)まで出兵していたとか・・・

さらに九鬼嘉隆(くきよしたか)など水軍に長けた武将たちは、数千隻の船で以って富山湾に侵入し、伏木(ふしき)から水橋(みずはし=同富山市)へと上陸して富山城を睨みます。

まず動いたのは、征伐軍の中の金森長近(かなもりながちか)・・・といっても、コチラは富山城への攻撃では無く、越中の南に位置する飛騨(ひだ=岐阜県北部)地方の平定を、秀吉に命じられての別働隊・・・秀吉の期待通り、長近は、成政に同調していた飛騨の諸城を次々と落として行ったのです(8月10日参照>>)

西に大軍、東に上杉、北に水軍、南に金森・・・さぁ、どうする?成政

ちなみに、「敵の土地や住民は無傷で手に入れたいタイプ」だった秀吉は、この時、配下の者には徹底して略奪行為や狼藉を禁止していたそうですが、四方を敵に囲まれた富山城下は、着の身着のまま逃げる人、子供を背負って山奥に避難する人などでごった返し、大変な有り様だったようですが・・・

そんな中、富山城内では毎日のように軍議が繰り広げられていましたが、
「もはや秀吉の威勢はランク外のレベルでっせ、佐々だけで対抗しても、どないもなりませんがな」
と降伏を進言する者もいれば、
「今さら降伏したって、助かるかどうか…大軍に対してはゲリラ戦です!奇策で以ってゲリラ戦で行きましょ」
と、意見は真っ二つ・・・

とは言え、時が経つにつれ、あまりに数に差がある秀吉軍を目の前にして、誰もが「こりゃ、アカン」との思いが、増して来るわけで・・・結局、織田信雄を通じて降伏の意思を伝える事に決まったのです。

この頃、秀吉は、眼下の神通川(じんつうがわ)をせき止めて、富山城を水攻めにしようとも考えていたと言いますが、そんな時に、信雄からの「成政降伏」の知らせが届きました。

その信雄からも、そして親友の利家からも
「命は許したって」
との嘆願があった事から、秀吉は、成政から、すべての領地は没収するものの、命は取らないと決め、面会を承諾・・・

かくして天正十三年(1585年)8月29日、利家の呉羽山の陣所近くで頭を丸めた成政は、僧衣を身にまとって秀吉の本営に登場・・・敵陣の中を歩いて行くその姿に、ドッと笑いが起こったと言いますが、秀吉自身は、何も言葉をかけなかったのだとか・・・

こうして、秀吉の越中征伐は幕を閉じました。

ここですべての領地を失った成政は、この後、天正十五年(1587年)の九州征伐(11月25日参照>>)で武功を挙げ、肥後(ひご=熊本県)一国を与えられる事になりますが、それがまた、彼の運命を大きく変える事になります。
 

関連ページ↓
この戦い以前の成政については…
迅速・勇猛・果敢…武勇の佐々成政>>
肥後熊本の出来事については…
佐々成政の失態~肥後・国人一揆>>
また、こんな伝説も…
黒百合事件と呪いの黒百合伝説>>
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コメント

今更ですが何だかんだで秀吉は元同僚には寛大ですよね~

最近、神流川の戦いで北条家が滝川一益らを欺いたことの報復で小田原攻めを行っただけで、名胡桃城とか上洛の話などとはあまり関係なく、100%難癖を付けるつもりだったとかいう説がありますが、私も同感です。

個人的には佐々成政が切腹になったのは、所領を与えたにも関わらず、再び徳川家と昵懇になったために理由をつけて処置せざるを得なかった?と思っています

投稿: ほよよんほよよん | 2017年9月 6日 (水) 00時03分

ほよよんほよよんさん、こんばんは~

氏直が、上杉みたいに素直に上洛して傘下に入っていたら、小田原はどうなってたんでしょうね。
色々と妄想が膨らみます。

投稿: 茶々 | 2017年9月 6日 (水) 01時04分

恐らく氏政が傘下に入っていたら、後に秀吉が提案した伊豆・相模・武蔵の三カ国安堵、五カ国取り上げという条件になったのではと。
一応小田原城はキープできたと思います

板部岡江雪斎が秀吉の御伽衆に取り立てられているところを見ると、かなーりきつい条件を氏政に伝える役割を嫌々ながらちゃんとこなした野ではないかと思います。

氏政は上洛が云々というより、家康のような本領安堵とは程遠い対応を予め聞かされて動揺したのではないですかね・・・

投稿: ほよよんほよよん | 2017年9月 9日 (土) 05時33分

ほよよんほよよんさん、こんにちは~

確かに…北条への対応は厳しいかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2017年9月 9日 (土) 14時21分

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