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2017年8月29日 (火)

秀吉VS佐々成政~富山城の戦いin越中征伐

天正十三年(1585年)8月29日、織田信長の後継者的な位置をキープした秀吉の越中征伐(富山の役)で、富山城主の佐々成政が降伏しました。

・・・・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月の本能寺にて織田信長(おだのぶなが)がこの世を去った(6月2日参照>>)後、その後継者を決める清州会議(6月27日参照>>)で優位に立ち、天正十一年(1583年)に織田家家臣の筆頭だった柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ)(4月20日参照>>)に破って葬り去った(4月23日参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、翌・天正十二年(1584年)には、信長の次男=織田信雄(のぶお・のぶかつ)と、彼を支援する徳川家康(とくがわいえやす)相手に、小牧長久手(こまきながくて)の戦いをおっぱじめますが、戦況が不利にも関わらず、信雄を丸めこんで講和に持ち込んでしまいました(11月16日参照>>)

Toyamazyou この信長死後の一連の戦いで、賤ヶ岳では勝家に、小牧長久手では信雄&家康に味方して、秀吉側の前田利家(まえだとしいえ)と戦っていた越中(えっちゅう=富山県)富山城(とやまじょう=富山県富山市)主=佐々成政(さっさなりまさ)(8月28日参照>>)「俺らコッチで頑張ってんのに、何してくれてんねん!」と信雄の単独講和に納得がいかず、冬の立山を越えて(11月11日参照>>)、直接、家康に面会して抗議しますが、合戦が終わってしまった以上は、どうにもならず・・・

小牧長久手の勝敗がウヤムヤなまま、秀吉は、翌・天正十三年(1585年)3月には紀州征伐(3月28日参照>>)を、7月には四国を平定(7月26日参照>>)し、破竹の勢いで天下へとまっしぐら・・・

と、ここで・・・
「そやん、賤ヶ岳でも小牧長久手でも敵に回ったアイツ…まして、未だに僕の親友の前田君にチョッカイ出しとんのに、なんか、そのままになってるやん」
と思ったかどうかはわかりませんが、

とにもかくにも、ここで秀吉は、北陸遠征の決意を固めたのです。

天正十三年(1585年)7月17日付けで前田利家に宛てた手紙には、
「来る4日に、越中に出陣するよって、しっかり準備しといてや~僕の考えは使者に伝えてあるよって、彼と、よ~く相談しといてネ」
と綴っています。

その手紙の通り、8月4日に先発隊が大坂(大阪府大阪市)を出陣・・・その数は約10万人、しかも秀吉は、自らが出陣した6日に、途中の京都へ寄って、朝廷から成政討伐の勅許(ちょっきょ=天皇の許可)まで取って・・・そう、秀吉お得意の威光放ちまくりの「どや!これでもやんのか?」作戦です。

なんせ、軍勢は、織田信雄はもとより、織田信包(のぶかね=信長の弟)丹羽長(にわながしげ=長秀の長男)細川忠興(ほそかわただおき)山内一豊(やまうちかずとよ)蒲生氏郷(がもううじさと)などなど・・・他にも名だたる有名武将を揃えた、名実ともにエース軍団ですな。

一方、秀吉の大軍がやって来る事を知った成政は、領内にあった30余の支城や砦を撤去して、居城の富山城にすべての兵力を集め、対決の体制を整えます。

19日、前田利家を先頭に金沢(かなざわ=石川県金沢市)を出発した越中征伐軍は、途中の櫛田神社(くしだじんじゃ=富山県射水市)にて勝利を祈った後、一旦、太閤山(たいこうやま=同射水市:秀吉が布陣したのでこの名がついた)に陣を置き、その後、東に富山平野が一望できる呉羽丘陵(くれはきゅうりょう=呉羽山)白鳥城(しらとりじょう=同富山市)に本営を構えたので、他の武将たちも、こぞって呉羽丘陵のあちこちに自身の陣を構え、一斉に(とき)の声を挙げては、眼下の富山城を威嚇しました。

Kureha2
呉羽山より立山連峰を望む…眼下は富山市街

また『上杉古文書』によれば、この時、秀吉に味方すべく、越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)越後と越中の国境(現在の富山県下新川郡朝日町あたり)まで出兵していたとか・・・(上杉との連携については10月24日参照>>)

さらに九鬼嘉隆(くきよしたか)など水軍に長けた武将たちは、数千隻の船で以って富山湾に侵入し、伏木(ふしき)から水橋(みずはし=同富山市)へと上陸して富山城を睨みます。

まず動いたのは、征伐軍の中の金森長近(かなもりながちか)・・・といっても、コチラは富山城への攻撃では無く、越中の南に位置する飛騨(ひだ=岐阜県北部)地方の平定を、秀吉に命じられての別働隊・・・秀吉の期待通り、長近は、成政に同調していた飛騨の諸城を次々と落として行ったのです(8月10日参照>>)

西に大軍、東に上杉、北に水軍、南に金森・・・さぁ、どうする?成政

ちなみに、「敵の土地や住民は無傷で手に入れたいタイプ」だった秀吉は、この時、配下の者には徹底して略奪行為や狼藉を禁止していたそうですが、四方を敵に囲まれた富山城下は、着の身着のまま逃げる人、子供を背負って山奥に避難する人などでごった返し、大変な有り様だったようですが・・・

そんな中、富山城内では毎日のように軍議が繰り広げられていましたが、
「もはや秀吉の威勢はランク外のレベルでっせ、佐々だけで対抗しても、どないもなりませんがな」
と降伏を進言する者もいれば、
「今さら降伏したって、助かるかどうか…大軍に対してはゲリラ戦です!奇策で以ってゲリラ戦で行きましょ」
と、意見は真っ二つ・・・

とは言え、時が経つにつれ、あまりに数に差がある秀吉軍を目の前にして、誰もが「こりゃ、アカン」との思いが、増して来るわけで・・・結局、織田信雄を通じて降伏の意思を伝える事に決まったのです。

この頃、秀吉は、眼下の神通川(じんつうがわ)をせき止めて、富山城を水攻めにしようとも考えていたと言いますが、そんな時に、信雄からの「成政降伏」の知らせが届きました。

その信雄からも、そして親友の利家からも
「命は許したって」
との嘆願があった事から、秀吉は、成政から、すべての領地は没収するものの、命は取らないと決め、面会を承諾・・・

かくして天正十三年(1585年)8月29日、利家の呉羽山の陣所近くで頭を丸めた成政は、僧衣を身にまとって秀吉の本営に登場・・・敵陣の中を歩いて行くその姿に、ドッと笑いが起こったと言いますが、秀吉自身は、何も言葉をかけなかったのだとか・・・

こうして、秀吉の越中征伐は幕を閉じました。

ここですべての領地を失った成政は、この後、天正十五年(1587年)の九州征伐(11月25日参照>>)で武功を挙げ、肥後(ひご=熊本県)一国を与えられる事になりますが、それがまた、彼の運命を大きく変える事になります。
 

関連ページ↓
この戦い以前の成政については…
迅速・勇猛・果敢…武勇の佐々成政>>
肥後熊本の出来事については…
佐々成政の失態~肥後・国人一揆>>
また、こんな伝説も…
黒百合事件と呪いの黒百合伝説>>
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2017年8月23日 (水)

天文法華の乱へ向かう~山科本願寺の戦い

天文元年(1532年)8月23日、細川晴元方の軍勢が山科本願寺を包囲しました。

・・・・・・・・

後の天文五年(1536年)7月、京都の町を焦土と化す事になる天文法華(てんぶんほっけ・てんもんほっけ)の乱(7月27日参照>>)へと向かう途中の、山科本願寺の戦いと呼ばれる戦いです。

室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)として自らの意のままになる将軍を擁立して、事実上、政権を掌握した細川政元(ほそかわまさもと)(6月20日参照>>)・・・その死後に起こった養子同士の後継者争いで、ライバルの細川高国(たかくに)に勝利して(2月13日参照>>)、政権を奪取した細川晴元(はるもと)でしたが、そのVS高国戦で、ともに大活躍してくれた配下の三好元長(みよし もとなが=長慶の父)木沢長政(きざわながまさ)との間に亀裂が生じた際、晴元は長政側につきます。

そこに、三好一族や、長政の元上司で河内(かわち=大阪府東部)山城(やましろ=京都府南部)守護(しゅご=今でいう県知事みたいな感じ)畠山義堯(はたけやまよしたか=義宣)も加わって、
「細川晴元+木沢長政+三好政長」
 VS
「畠山義堯+三好元長+三好一秀」

の構図ができる中、

天文元年(1532年)6月、長政の居城の飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)を、元長方の三好一秀(みよしかずひで=勝宗)に攻められて、分が悪い晴元は、法華宗(ほっけしゅう=日蓮宗)の大スポンサーだった元長に対抗して、京の宗教界で勢力を二分する山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)の第10世法主=証如(しょうにょ=蓮如の曾孫)に援助を要請・・・晴元の意向を受けた教祖様に扇動された一向一揆(いっこういっき=本願寺宗徒の一揆)が3万~10万もの大軍に膨れ上がって、河内へと乱入し、一秀を討ち取り、義堯と元長を自害させました。

しかし、止まらないその勢いは翌7月に入って大和(やまと=奈良県)へと波及し、興福寺の塔頭(たっちゅう=大きな寺院に付属する坊寺院)や春日大社に放火して回り、結果、奈良市中が燃え尽くされたのです(7月17日参照>>)

この、あまりの勢いにビビッたのは、自らパンドラの箱を開けちゃった晴元自身です。

そもそも一揆とは、国家権力など、大きな権力に対抗する民衆の意思&不満が根底にあるわけで、今回、一向一揆の助けを借りて元長を倒したものの、そうやって盤石な政権を樹立すれは、今度は、政権を握る自分自身が一揆の対象になってしまうという矛盾・・・

まもなく、その脅威は皆の感じるとこととなり、「もうすぐ一向一揆衆が京都の町に乱入し、京中にある日蓮宗を襲撃する」との噂がたちはじめ、と京都市民は「今日か」「明日か」と眠れる夜を過ごす事に・・・

そのため、洛中にある法華宗の21ヶ寺の本山は武装を強化し、洛中の信者たちも自衛に立ち上がって、法華一揆が蜂起すると、晴元は法華門徒と手を結び、一向一揆に対抗する構えを見せます。

そんなこんなの8月2日、晴元が滞在中の(さかい)に一向一揆勢が乱入して戦闘状態に陥るも、何とか抵抗して晴元側の勝利に・・・これを受けた長政が、堺の本願寺道場に放火すると、たちまち、和泉(いずみ=大阪府南部)摂津(せっつ=大阪府北部)・河内・大和の4ヶ所の一向一揆衆が蜂起し、またもや堺で戦闘に・・・

一方、京都では8月7日から10日にかけて、晴元側の柳本賢治(やなぎもとかたはる)の家臣たちが、法華門徒数千人とともに洛中や東山・山科などを騒ぎ回って本願寺を威嚇・・・

すると、8月15日には、コチラも数千人の本願寺門徒が清水寺(きよみずでら=京都市東山区)近くでかがり火を焚いて威嚇します。

8月16日と17日には、この東山山麓で両一揆勢同士の激しい戦闘が繰り広げられましたが、ここでは法華一揆の勝利・・・さらに19日には、一向一揆勢が山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)に布陣して西国街道を抑えようとしますが、すぐに柳本勢率いる法華衆が向かい、激戦の末、一向一揆勢を敗走させました。

京都周辺での、この2度の勝利のおかげで、東山周辺と山崎周辺=都の東西を法華門徒で固める事ができたのです。

かくして天文元年(1532年)8月23日、柳本勢・法華門徒に加え、近江(おうみ=滋賀県)から駆けつけた六角定頼(ろっかくさだより)の軍勢も加えた細川晴元軍が山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)を包囲したのです。

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山科本願寺・包囲の図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

西側の粟田口(あわたぐち)には法華衆
大津からの東の玄関口には六角勢
南の汁谷口には柳本勢
三井寺へと抜ける東岩倉山には付近の郷土民たち、
と、まさに完全包囲した状態で本願寺周辺に放火し、刈田をして回ります

翌24日、早朝、いよいよ総攻撃を開始・・・やがて本願寺の各所が破られはじめ、そこから乱入して行った細川勢によって寺内のあちこちに火が放たれた事で、午前10時頃に勝敗は決しました。

「まるで城のようだ」
と言われた山科本願寺の坊舎は、跡形も無く焼き尽くされ、すべてが灰になりました

この後、しばらくは法華・一向の両一揆の小競り合いがありましたが、10月頃には、ほぼ平常に戻り、京都の人々も一安心・・・

こうして、京都の本拠を失った本願寺証如は、この後、真宗の中興の祖である蓮如(3月25日参照>>)が隠居所として建てた摂津・大坂石山御坊(いしやまごぼう)へと移り、以後、ここが本願寺門徒の本拠に・・・そう、後に織田信長(おだのぶなが)に真っ向立ち向かう石山本願寺(いしやまほんがんじ)(11月24日参照>>)です。

一方、勝利者側となった法華門徒は、事実上、洛中を掌握する事になったわけですが、そうなると・・・ん?晴元から見れば、一向一揆が法華一揆に代わっただけな気がしないでもない・・・

で、ここに登場するのが、洛中に多くの所領や末寺を抱える比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)・・・彼らもまた、法華門徒の一人勝ちを快く思わないわけで・・・かくして天文五年(1536年)7月、京都の町を焦土と化す事になる天文法華(てんぶんほっけ・てんもんほっけ)の乱(7月27日参照>>)となります。
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2017年8月17日 (木)

怨みの井戸・門昌庵事件~松前藩の怖い話

真夏日の連続記録を更新せんが勢いだった暑さから、気の早い台風一過で一転、冷夏模様の今日この頃ではありますが、夏はやっぱりホラーで~って事で、本日は、1年ぶりの真夏の夜の怪談話シリーズ!
『松前の怖い伝説』です。

・‥…━━━☆

その昔、蝦夷(えぞ)と呼ばれていた北海道・・・その渡島国津軽郡(北海道松前郡松前町)に本拠を置く松前藩(まつまえはん)の第5代藩主=松前矩広(まつまえのりひろ)は、毎夜毎夜のランチキ騒ぎにあけくれていました。

Matsumaenorihiro500a そばに女性をはべらせては、酒を飲み、「もっと、
面白い物が見た~い(`ε´)」
「もっと、盛り上げろや~!(`◇´*)」

と大騒ぎの宴会、宴会、宴会・・・

最初のうちこそ、この藩主の堕落ぶりを注意した家臣も何人かいましたが、そんな忠告をいっこうに聞かないばかりか、
「うっとぉしい~」
と、次々と排除していったせいで、今や、彼の周りにはイエスマンばかりが集まって来て、もう誰も止めようともしませんでした。

しかも、終始、ゴキゲンで朝まで飲み倒すならまだしも、この宴会、夜も更けて来ると、毎度毎度必ず、異様な雰囲気になってしまうのです。

今夜も・・・
ある時間帯になると、
「来た~!来たゾ~怨みの声が聞こえてきた~~(ノ゚ο゚)ノノ」
矩広が叫び始めると、それまで鳴り続いていた音曲が止み、踊り手たちも一斉に踊りをやめ、矩広に聞こえるという、その声を探しますが、その場にいる誰にも、そんな声は聞こえません。

やがて、シ~ンと静まり返った座敷から、誰ともなく、一人減り、二人減り・・・最後は矩広一人になり
「やめろ!黙れ!やめてくれ~」
と、ブルブルと震えだしてしゃがみ込んで、体を丸くして怯えるばかり・・・

矩広の開く毎夜毎夜の宴会・・・実は、この恐怖から逃れたいがためのランチキ騒ぎだったのです。

それは寛文九年(1669年)に起こったシャクシャインの戦い(6月21日参照>>)・・・

過酷なアイヌ民族支配に不満を持ったアイヌの人たちが団結して反乱を起こした事件ですが、最終的に、アイヌのリーダーだったシャクシャインを騙し打ちにして戦いを終結させ、残る14人の首謀者を処刑して、首を取る代わりに耳をそぎ落としたのだとか・・・
(松前城内には、この時の耳を埋めた耳塚があり、現在も供養が毎年行われています)

この事件自体は、矩広が未だ10歳前後の頃の出来事で、父の死を受けて、藩主の座についてはいたものの、彼自身が何かに関与したわけではなく、一族や周辺の家臣たちによって事が進められたわけですが、多感な少年期に起こったこの事件は、彼の心に深い傷を残したようで、毎夜毎夜、
「ワシの耳を返せ~」
という恐ろしい幻聴に悩まされていたのです。

そんな中、ただ一人・・・勇気を振り絞って、
「殿…どうか、ほどほどに…」
と、藩主=矩広を諌める忠臣がいました。

大沢多治郎兵衛(丸山久治郎兵衛という名前の場合もあり)という人物。。。

しかし、その度々の諌めにイラだった矩広は、側近たちに
「アイツ、黙らせろや」と・・・

そこで、側近たちは大沢を呼び出し
「殿には困った物です。
昨夜もまた、派手にお騒ぎになられて、先祖代々の家宝の鉄扇を井戸の中に投げ込んでしまわれたのです」

と相談を持ちかけたのです。

「それは難儀な…」
と同調する大沢に、
「大沢殿に、井戸から、その鉄扇を取り上げて来ていただき、今一度、殿を説得してもらえないかと…」

「よし、わかった」
と井戸の中へと入って行った大沢に、
「お気をつけください」
「ありますか~?」

と、灯りを照らしながら見守っていた側近たち・・・

しかし、大沢が井戸の底まで達した頃、ようやく抱えられるかのような大きな石を手にとり、それぞれが、
「エイ!」
とばかりに、何個も投げ入れたのです。

鈍い音とうめき声とともに、大沢が井戸から上がって来る事は2度とありませんでした。

この井戸の話は、少しの間は噂になっていたものの、それ以上大きな話になる事はなかったのですが、一方で、この大沢のように、主君のご乱行を諌めようとする家臣が、その後も何人か亡くなる事件が相次いで、やがて矩広の周りには、彼のお気に入りの側近ばかりに・・・

しかし、そのお気に入りでさえも・・・
ある時、そのお気に入りの側近の一人が、矩広の側室と、通りすがりに話をしただけで怒りだし、
「不倫や!不義密通や!成敗したる!」
と騒ぎ始め、怖くなった、その側近は、松前家の菩提寺である法憧寺(ほうどうじ= 北海道松前郡松前町)に逃げ込み、住職の柏巌(はくがん)和尚に相談・・・
「住職様のお言葉なら、殿もお聞きになるかも…」
と矩広を説得してもらう事に・・・

しかし、目の前に現れた柏巌に対し矩広は、
「わしを呪いに来たんやろ?」
と、もはや聞く耳持たず、柏巌を門昌庵(もんしょうあん=北海道二海郡八雲町)という草庵に追放して首をはねるように、家臣に命じました。

かくして柏巌は斬首されますが、
その首を切られた時には側を流れていた川が逆流したとか、
斬首役の一人が発狂したとか、
首実検を行うために持ち帰った生首がカッと目を見開いたとか、
様々な噂がたつ中、松前藩の江戸藩邸でも家臣の変死が相次ぎ、矩広の体の調子も優れず、側室らが産んだ子供も次々と早世し、さらには、凶作、火事など、城下にも度々災難が起こった事から、人々は皆、
「柏巌の祟りではないか?」
と噂したのだとか・・・

・‥…━━━☆

と、まぁ、これまで見聞きしたお話を書かせていただきましたが、どうやら、このお話は一つの物語では無く、実際には複数のお話に分かれているようです。

もともと、こういうお話の性質上、「実際にあった」というよりは「そういう噂が流れていた」という感じの伝説的な物で、どこまで本当か?なんて事は、よくわからないわけで・・・

ただし、今回の松前藩のお話の中では、最初の「シャクシャインの戦い」があった事は事実ですし、最後の柏巌の事件も「門昌庵事件」という名称で実際にあった事だとされ、家老や家臣の変死が相次いだのも本当の事だとされているようですが、実は・・・

「幽霊の正体見たり…」で恐縮ですが、実際には、どうやら、この時期に松前藩内でお家騒動があったようで・・・

つまり、藩内が二派に分かれて争っていた中で、勝った側によって多くの家臣が粛清されたと・・・ところが、その騒動が幕府老中の知るところとなったようで、

江戸時代、お家騒動が起こって収拾がつかなくなった場合、幕府の命により、藩そのものがお取り潰しになる場合もあるわけです。

なので、幕府に全容がバレてしまっては大変!とばかりに、慌てて、藩の正史には、亡くなった家臣たちを、皆「変死」と記録して、怖~い噂話を流してゴマかした?てな事のようです。

もちろん、上記の通り、お家騒動の話も正式な記録には残っていない話ですから、どこまで本当か?なんて事は、よくわからないわけですので、どちらを信じるか信じないかはアナタしだいです。
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2017年8月10日 (木)

金森長近の飛騨攻略作戦

天正十三年(1585年)8月10日、秀吉から飛騨攻略の命を受けた金森長近の軍勢が、向牧戸城を陥落させました。

・・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き後(6月27日参照>>)、織田家家臣の筆頭だった柴田勝家(しばたかついえ)(4月23日参照>>)と、信長の三男=神戸信孝(かんべのぶたか=織田信孝)(5月2日参照>>)を葬り去った羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、天正十二年(1584年)には、信長の次男の織田信雄(のぶかつ・のぶお)と、彼を支援する徳川家康(とくがわいえやす)相手に小牧長久手(こまきながくて)の戦いに突入していました。
●信雄の重臣殺害事件…(3月6日参照>>)
●犬山城攻略戦…(3月13日参照>>)
●羽黒の決戦…(3月17日参照>>)
●岸和田城・攻防戦…(3月22日参照>>)
●小牧の陣…(3月28日参照>>)
●長久手の戦い…(4月9日参照>>)
●蟹江城攻防戦…(6月15日参照>>)

戦況は、おおむね信雄&家康勢有利に進んだものの、秋になって、なぜか信雄が単独で秀吉と講和してしまった事で、あくまで「信雄坊ちゃんのお手伝い」で参戦していた家康は、大義名分を失い兵を退く事に・・・(11月16日参照>>)

しかし、北陸方面で信雄&家康派として戦って(8月28日参照>>)いた越中(えっちゅう=富山県)佐々成政(さっさなりまさ)は、この終戦に納得がいかず、自ら、真冬の立山を越えて(【北アルプスさらさら越え】>>)家康に抗議に向かいますが、「終わってもたもんは終わってもた」で聞き入れてもらえず、空しく帰国・・・

しかし、それでもまだ納得いかない成政は、その後も抵抗を続けていましたが、翌・天正十三年(1585年)、自ら北陸に乗り込んできた秀吉の前に屈し、8月29日、成政は降伏して秀吉の傘下となりました(8月29日参照>>)

Kanamorinagatika400 ・・・と、この間、秀吉は、自らが出馬する越中に隣接する飛騨(ひだ=岐阜県北部)地方の攻略を、配下の金森長近(かなもりながちか)に命じていました。

この頃の飛騨は、天正四年(1576年)に上杉謙信(うえすぎけんしん)が平定した(8月4日参照>>)ものの、ほどなく、その謙信が亡くなって、上杉家がその後継者争いに夢中(3月17日参照>>)になっている間に、多くが信長の傘下となりましたが、その信長も本能寺に倒れた後、その後の争奪戦に打ち勝った三木氏の姉小路頼綱(あねがこうじよりつな=三木自綱から改名)が、おおむね支配するようになっていましたが、当然、ここも秀吉の傘下に治めておかねばなりませんからね。

7月下旬、居城である大野城(おおのじょう=福井県大野市)を発った長近は、軍勢を二手に分け、自らは一方の大将となり、もう一つの別働隊は、養子の金森可重(よししげ)を大将とし、自らは背後を突くために白川郷(しらかわごう)の尾上村(岐阜県高山市荘川町)へ・・・別働隊は鷲見村(わしみむ=郡上市高鷲)を経て白川郷野々俣村(ののまたむら=同高山市荘川町)へ入り、両隊で以って向牧戸城(むかいまきどじょう=同高山市荘川町・牧戸城とも)を挟みます。

向牧戸城を守るのは、飛騨の国人で白川郷帰雲城(かえりくもじょう=岐阜県大野郡白川村保木脇)の城主=内ヶ島氏理(うちがしまうじよし)の娘婿=尾上氏綱(おのうえうじつな)・・・これが、少数ながら、なかなかの守備力を発揮して長近軍は、かなりの苦戦を強いられますが、天正十三年(1585年)8月10日に総攻撃をした際に、城内から内応者が出て放火し、このドサクサに乗じて長近軍が一斉に城内になだれ込んだ事で、何とか向牧戸城を陥落させました。

翌・11日、やはり二手に分かれた長近軍は、長近本隊が小鳥郷(おどりごう)から山を越えて吉城(よしき)に向かい、一方の可重隊は馬瀬村(まぜむら=岐阜県下呂市)から和良村(わらむら=岐阜県郡上市)を経て下原(しもはら)へ・・・つまり、飛騨地方の北をグルリ、南をグルリと行軍して、通り道の支城を落としながら、姉小路の本拠である松倉城(まつくらじょう=岐阜県高山市)へ迫ろう!というわけです。

Kanamorinagatikahida1500b
位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

8月13日、長近本隊は稲越(いなごえ=飛騨市河合町)に進出し、小鷹利城(こだかりじょう=同河合町)を搦め手から襲撃して陥落させ、その勢いのまま突き進み、その日の夜には小島城(こじまじょう=飛騨市古川町)落城させ、さらに、向小島城(むかいこじまじょう=同古川町)野口城(のぐちじょう=同古川町)古川城(ふるかわじょう=同古川町)と、次々と落城させていきます。

8月15日からは、勝ち取った古川城を本営とし、姉小路頼綱の拠る田中城(たなかじょう=高山市国府町・広瀬城とも)へと迫ります。

この田中城は、もともとは、武田信玄の傘下だった広瀬宗域(ひろせむねくに)の城でしたが、武田滅亡後に頼綱が奪い取り、本拠の松倉城を息子の姉小路秀綱(ひでつな)に譲って、頼綱の方が、この城に入っていたのです。

長近は2度に渡って、降伏を促す使者を田中城に派遣しますが、頼綱からの返事はなく籠城の構えです。

そこで、長近は総攻撃を仕掛けますが、敵もなかなかの防戦を展開・・・しかし、やはり数の差は大きく、わずか1日の攻防戦の後、頼綱は降伏を申し出、命は助かったものの京都への追放となりました。

さらに進んだ長近隊は、鍋山城(なべやまじょう=高山市松ノ木)を攻略して、次は、ここを本営としますが、ちょうど、その頃、桜洞城(さくらぼらじょう=岐阜県下呂市)を攻略して南側から高山盆地に入って来た可重隊が鍋山城に到着し、無事、長近隊と合流します。

続く8月16日、休む間もなく鍋山城を出立した可重隊が松倉城の包囲へ向かい、一方の長近隊は、宮村の山下城(やましたじょう=高山市一之宮町)を攻撃し、城主で頼綱の娘婿であった三木国綱(みつきくにつな=一宮国綱とも)敗走させました。

長近隊が山下城を攻略中の間に、松倉城への包囲を完了した可重隊は、いよいよ8月17日、松倉城へ総攻撃を仕掛けます。

翌・18日には、長近の本隊も松倉城の攻撃に合流し、コチラは搦め手から攻めまくります。

さらに20日は、いよいよ要害を攻めのぼりはじめ、阻止する防衛隊と、アチラコチラで激しいぶつかり合いとなりますが、この時に城中にいた内応者が、城に放火・・・さすがの堅固な松倉城も、この炎に包まれて落城したのです。

城主の秀綱らは、何とか城を脱出し、一旦は信濃(しなの=長野県)へと逃亡しますが、途中で地元民の落ち武者狩りに遭い、「もはや、これまで!」と覚悟の自刃を遂げました。

また、この時、佐々成政に協力して越中へと出陣して留守だった帰雲城の内ヶ島氏理は、成政が秀吉に降伏した事で、すぐさま飛騨へと戻り、これまた、すぐさま鍋山城に滞在していた長近に面会して詫びを入れた事で許され、領地も安堵となりました。

その後、残党による一揆や反乱も鎮圧され、長近の飛騨平定は完了となりました。

この功績により、長近は飛騨に3万3000石を与えられ、越前大野から転封・・・以後、この地を治めていく事になりますが、その3年後には、城下町整備に便利な高山城(たかやまじょう=岐阜県高山市)を構築して、そこを本拠としたため、松倉城は廃城となりました。

★松倉城にまつわる、悲しくて怖い人柱伝説2012年8月20日のページ>>でどうぞm(_ _)m
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2017年8月 4日 (金)

織田の物にはさせへんで~上杉謙信の飛騨侵攻

天正四年(1576年)8月4日、飛騨地方攻略に乗り出した上杉謙信の軍が飛越国境に到着しました。

・・・・・・・・・

雌雄を争った川中島も一区切りを迎え(8月3日参照>>)、敵対した甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)が、今は亡き今川義元(いまがわよしもと)の領地=駿河(するが=静岡県東部)の攻略に舵を切った事で、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)の目は、これまで何度も遠征していた越中(えっちゅう=富山県)加賀(かが=石川県)西の方角へ向かっていきます(参照ページ↓)
【謙信の増山城&隠尾城の戦い】>>
【謙信VS椎名康胤~松倉城攻防戦】>>
【謙信VS越中一向一揆~日宮城攻防】>>

一方、永禄十一年(1568年)に、室町幕府15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき・義秋)を奉じて上洛(9月7日参照>>)した織田信長(おだのぶなが)ですが、間もなく生じた義昭との亀裂の末、元亀四年(天正元年=1573年)に義昭を填島城(まきしまじょう=京都府宇治市)に攻めて(7月18日参照>>)追放・・・しかし、追放後も安芸(あき=広島県)毛利(もうり)のもとに身を寄せて、各地の戦国武将に「反信長」を呼び掛けた義昭の画策により、徐々に『信長包囲網(のぶながほういもう)のような態勢が築かれていくのですが、

しかし、同じ天正元年(1573年)に、その『信長包囲網』の中心的存在だった武田信玄が亡くなり(1月11日参照>>)北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井(あざい)(8月28日参照>>)越前(えちぜん=福井県)朝倉(あさくら)(8月6日参照>>)信長に倒された事で、『信長包囲網』内の最大勢力が、本願寺第11代・顕如(けんにょ)(11月24日参照>>)を教祖とする本願寺宗徒=一向一揆となりつつある頃、、

信長は、倒した浅井&朝倉のその先=加賀&越中の北陸へと迫りはじめるのです。
【信長VS越前一向一揆~桂田攻め】>>
【先走り過ぎた若き猛者・長繁の最期】>>
【織田信長VS越前一向一揆】>>

上記の通り、これまで何度も越中に遠征している=北陸を手中に治めておきたい謙信は、信長が安土築城(2月23日参照>>)を開始した天正四年(1576年)、再び越中富山に侵攻を開始したのです(3月17日参照>>)

一方の信長自身は、5月に天王寺合戦(5月3日参照>>)、7月に第1次木津川口海戦(7月13日参照>>)と、まさに一向一揆の本丸=石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)との交戦を展開中でしたが、そんなさ中の5月18日に、謙信は長年敵対していた本願寺と和睦(5月18日参照>>)・・・事実上、謙信もまた『信長包囲網』の一翼となった事になりますが・・・

Uesugikensin500 そんな時、飛騨(ひだ=岐阜県北部)大野郡(おおのぐん=現在の高山市付近)国人(土地に根付いた地侍)塩屋秋貞(しおやあきさだ)から謙信のもとに書状が届きます。

この飛騨という場所は、もともとは、源氏の流れを汲む京極氏(きょうごくし)が代々守護(しゅご=今で言う県知事)を務めていた京極氏の領地でしたが、ご存じのように、その京極氏が応仁の乱後に徐々に衰退していったため(8月7日参照>>)、戦国の世にはそれぞれの国人領主が群雄割拠する場所となっていました。

ただ、地理的に、謙信の越後と信玄の甲斐に挟まれてるうえ、信濃(しなの=長野県)とも隣接している事から、多くの国人たちが、甲斐と信濃を支配する信玄の傘下に入っていましたが、上記の通り、その信玄が死に、後を継いだ武田勝頼(かつより)が、前年の天正三年(1575年)には長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら)(5月21日参照>>)にて信長に大敗したとのニュースが駆け抜けた事から、飛騨の諸将たちは、動揺しつつも「この先見据えて慎重に行動せねば!」と状況を静観していたわけですが・・・

そんな中、京極氏の一族で元家臣だった三木氏の姉小路頼綱(あねがこうじよりつな=三木自綱から改名)が、いち早く信長にすり寄っていた事から、ここに来てずいぶんと勢力を拡大し、飛騨統一の勢いを見せ始めていたのです。

そこで、謙信派の塩屋秋貞が、
「このままでは飛騨は姉小路の物=姉小路の物は織田の物、織田の物は織田の物になってしまいまっせ。今のうちやったら何とかなります。僕が迎えを出しますよって援軍お願いします(人><)」
という書状を送ったわけです。

先にもお話したように、もともと越中を手中に治めておきたい謙信・・・ひょっとしたら「飛騨の事はそれほど…」と思っていたかも?ですが、かと言って越中に接している国が敵に回れば、それはそれで厄介です。

「ならば…」
飛騨への出陣を決意した謙信は、自ら、7月下旬に春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)を出発し、まずは魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)に入った後、配下の河田長親(かわだながちか)を大将とした6000余騎の軍勢を、先発隊として飛騨へ向かわせたのです。

この先発隊が越中の加賀沢(かがさわ=富山県富山市加賀沢)から飛騨小豆沢(あずきさわ=岐阜県飛騨市宮川町)へと入った天正四年(1576年)8月4日国境まで出迎えた塩屋の者と落ち合い、総大将=謙信の到着を待ちます。

やがて謙信も到着し、用意していた多数の牛に荷物を運搬させつつ、塩屋秋貞らの道案内にて南西方面に向かいますが、運悪く台風が来ていて三日三晩暴風雨と濃霧が続いたうえに、進む道が大変な悪路だったため、かなり厳しい行軍・・・やっとこさ塩屋城(しおやじょう=岐阜県飛騨市宮川町)に到着した後、数日間滞在してしばし休息を取りました。

この時、幾人かの近在の者が、自ら降伏の意を表して謙信のもとへ挨拶に来た事から、ゴキゲンの謙信は、この後、悪路をものともせず駒を進め、姉小路頼綱の松倉城(まつくらじょう=岐阜県高山市)を攻めるべく高山へと入り、川上川(かわかみがわ=高山市の清見町付近)付近に陣を構えます。

この間、松倉城を包囲しつつ、謙信は、白川郷に帰雲城(かえりくもじょう=岐阜県大野郡白川村保木脇)を持つ内ヶ島氏理(うちがしまうじよし)を攻撃すべく、約800の別働隊を向かわせますが、この時、城主の氏理が信長の命により越前での戦いに駆り出されていて、たまたま留守であり、城兵がほんのわずかであったため、あっけなく落城・・・アッという間に戻って来て、またまた松倉城包囲の兵に合流・・・

一方、囲まれた松倉城の頼綱は・・・
イザとなれば、謙信と相まみえるつもりで防御は固めたものの、上記の通り、揺るがぬ強さを見せつけられたうえに、小島城(こじまじょう=岐阜県飛騨市古川町)姉小路時光(ときみつ)や、水無神社(みなしじんじゃ=岐阜県高山市)宮司や氏子までが謙信に降った事を知り、さすがに「もはや、これまで!」と感じるようになりました。

そうなると、道は二つ・・・
城を枕に一族郎党滅亡覚悟で戦うか?
お家と血筋を残すために降伏するか?

頼綱は後者を選びました。

謙信は、最初は頼綱らをせん滅させるつもりでいましたが、現段階では、未だやり残した事があったので、頼綱の降伏を許し、彼が新たに切り取った大野の地を没収し、もとから持っていた旧領を安堵する事で、頼綱を受け入れました。

頼綱が謙信に降った事を知った周辺の国人や小豪族たちが、次々と謙信の傘下となって行く中、謙信は、そのやり残した事をやりに高原諏訪城(たかはらすわじょう=岐阜県飛騨市)へと駒を進めます。

実はこの高原城の江馬輝盛(えまてるもり)・・・彼こそまさに、上杉と武田の間に挟まれて、その動向が常に揺れていた人物なのです。

かの川中島では、バッチリ武田の軍勢として参戦し、かなり武田ドップリの雰囲気を醸し出しておきながら、信玄死すの情報を、いち早く謙信に知らせて降伏する雰囲気を醸し出して来たり・・・まぁ、大物に挟まれた戦国領主が生き残るためには、得てして、そんな感じなんでしょうけど・・・

とは言え、このまま宙ぶらりんの状態で良いわけがなく、ここでハッキリと決着をつけなければ・・・

もちろん、迎える輝盛も、その事は重々承知・・・周辺の支城の防備を固め、主力を高原本城に集結させ、武田勝頼や越中の椎名康胤(しいなやすたね)(4月13日参照>>)に援軍要請の使者を出して籠城戦に挑みます。

しかし、さすがの上杉軍・・・支城の守りは次々と破られ、天然の要害を利用した防衛網も突破され、やがては、城の櫓も焼かれ、出丸も占拠されてしまいました。

しかも、勝頼の援軍は重臣の反対で立ち消えとなり、康胤は、早々に謙信に下ってしまっていて、どちらの援軍も期待できず・・・やむなく輝盛も、謙信との和睦を決意しました。

謙信は、領地の半分は没収したものの、高原は、鎌倉以来の江馬氏伝来の土地でもある事から、この地は安堵としました。

こうして、飛騨一帯は謙信の物となり、この戦いで最も功績のあった塩屋秋貞には、新たな領地と飛騨目代(もくだい=代官)の役職が与えられる事となりました。

以上、謙信の飛騨侵攻でしたが、実は、細かな部分は江戸以降の軍記物によるところが大きく、どこまで史実かは微妙なところではありますが、『上杉三代日記』の天正四年の条にも、「飛騨一国は越後仕置」とある事から、この時期に謙信が飛騨に遠征して飛騨の国人たちが上杉になびいた事は確かでしょう。

しかし、世の中、皮肉な物・・・

この翌年の9月、七尾城(ななおじょう=石川県七尾市古城町)を落とし(9月13日参照>>)手取川(てどりがわ=石川県白山市付近)にて(9月18日参照>>)織田の北陸担当の柴田勝家(しばたかついえ)と相まみえる謙信は、さらにその翌年・・・つまり、この飛騨攻略から、わずか1年半後に命を落とし(3月13日参照>>)、その後の上杉が後継者争いにゴタゴタ(3月17日参照>>)してしまった事から、謙信が手中に治めておきたかった、これらの地のほとんどは、その間に信長の物となってしまう(10月4日参照>>)のです。

ホント戦国とは・・・一寸先はわからない物ですね。
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