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2017年9月25日 (月)

奈良の戦国~越智党と貝吹山城攻防戦

天文十五年(1546年)9月25日、越智氏の貝吹山城を筒井順昭が攻めました。

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貝吹山城(かいぶきやまじょう=奈良県高市郡高取町)は、極彩色の壁画が発見されて一躍有名になった高松塚古墳(たかまつづかこふん)などがある明日香(あすか)から近鉄電車を挟んで西側にある標高200mほどの貝吹山の山頂に築かれた山城です。

もともと、興福寺(こうふくじ)春日大社(かすがたいしゃ)の勢力が強かった大和(やまと=奈良県)の地でしたが、南北朝の動乱を経て寺社勢力そのものよりも、寺社の荘園の管理などを任されていた在地の者たちが、興福寺に属する『衆徒』、春日大社に属する『国民』などとして力を持ちはじめ、やがて戦乱の世を生き抜く武士として群雄割拠するようになるのです。

ちなみに『衆徒』の代表格が筒井(つつい)、『国民』の代表格が越智(おち)十市(とおち)で、この3家に箸尾(はしお)を加えて『大和四家』と称されます。

Kaibukiyamazyoukoubousen●位置関係図→
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

 
で、今回の貝吹山城は、この中の越智氏が構築したとされる城で、この南西にある越智館越智城(おちじょう=同高取町)詰の城(つめのしろ)=万が一越智本城が落ちた時に、一旦退いて最後の決戦を挑む城として構築されたと言います。

とは言え、戦国に入って、この城は何度も戦場になっています。

天文四年(1535年)には、ライバルに撃ち勝って管領(かんれい=室町幕府内の将軍補佐役)の細川家後継者の座を得た細川晴元(はるもと)と組んで、主家の畠山義堯(はたけやまよしたか=義宣)三好元長(みよし もとなが=長慶の父)を追い落として(7月17日参照>>)ノリノリ気分満載だった木沢長政(きざわながまさ)攻め落とされ、一時は高取城(たかとりじょう==同高取町)へと避難するという一幕もありました。

おかげで、かつては互角に戦い、大和を二分する勢力だった筒井と越智の間に、ここらあたりから大きな差ができ始め、これから後の越智は、何かと筒井の圧迫を受けるようになるのです。

そんなこんなの天文十五年(1546年)、筒井氏は筒井順昭(つついじゅんしょう)の代になって、さらに勢いを増し、抵抗する勢力を次々と傘下に組みこんで大和の大半を手中に治めていましたが、ここに来ても、まだ越智氏は存在し、その存在が順昭の目の上のタンコブでもありました。

これまで、群雄割拠&戦国と言えども、大和ではそこまで兵士を大動員した大きな戦いは少なく、少人数の小競り合いのような戦いが多かったのですが、ここに来て大和統一に手が届くようになった順昭は、まさに兵を大動員して越智氏壊滅に乗り出したわけです。

一方の越智氏は、その歴史が古いぶん、いくつもの家系が入り乱れていて、一党を統率するには難しい状況だったのだとか・・・

かくして天文十五年(1546年)9月25日、自ら約5000の軍勢を率いた筒井順昭が貝吹山城を攻めたのです。

順昭の叱咤に士気上がる筒井軍と、積極的な戦闘を避けたい越智陣営・・・城に籠って出て来ない敵に対し、筒井勢は周辺の家々に火を放って挑発して回りました。

そんな中でも何とか防戦を続ける越智勢でしたが、結局のところ、その兵力の差はいかんともし難く・・・ほどなく和睦して城を明け渡し、越智勢は高取城へと撤退したのでした。

『多聞院日記』では、この貝吹山城攻防戦に撃ち勝った事で、「筒井は大和を統一した」と称していますが、実際には、まだもう一波乱・・・

3年後の天文十八年(1549年)には、筒井から貝吹山城を任された城将が私用で出かけた留守を見計らって、急いで軍兵をかき集めた越智勢が一気に攻めかかり、堀を破って本丸間近まで攻め寄せ、「あわや落城」の寸前までいった事もありました。

ただ、この時は、寸前のところで、筒井の援軍が駆けつけ、越智の寄せ手の背後を突いた事で形勢が逆転し、越智による城の奪還は成功しなかったのですが・・・

とは言え、勢力を増す筒井に対し、越智の士気も徐々に低迷し、やがて順昭の晩年期には、越智は、彼らが持つ城とともに筒井の傘下となって存続していく事になるのですが、そんな貝吹山城に手を伸ばして来たのが、大和へと侵入して来た松永久秀(まつながひさひで)でした。

もともとは、畿内で一大勢力を誇った三好長慶(みよしながよし)(5月9日参照>>)の家臣として歴史上に登場する久秀ですが、永禄二年(1559年)から大和への侵攻を開始し、奈良盆地に点在した諸城を攻略しつつ(11月24日参照>>)、同年には信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を改修し、永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城して、いつしか主家に取って代わるほどの勢いを持ちはじめ、

翌・永禄八年(1565年)には、三好氏の縁者である三好三人衆(三好長逸・三好政康・石成友通)とともに第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)暗殺(5月19日参照>>)して(暗殺には久秀は関与していない説もアリ)第14代将軍=足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)を擁立し、さらに、順昭の死を受けて筒井氏を継いだ嫡男の筒井順慶(つついじゅんけい)筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)をも攻め立てて奪取していたのです(11月18日参照>>)

そんな勢いに、いち時は、その久秀に奪われた貝吹山城でしたが、このわずかの間で久秀と三好三人衆が決裂し、三人衆が順慶の味方となった事で翌・永禄九年(1566年)には、順慶が筒井城を奪回・・・これをチャンスと見た越智伊代守(おちいよのかみ=越智家増?)は、貝吹山城に詰めていた久秀方の生田(いくた)という者を調略して味方につけ、彼の手引きにより貝吹山城を奪い返したのでした。

しかし、この貝吹山城は奈良から吉野(よしの)へと出る交通の要所・・・永禄十一年(1567年)に、またもや久秀に、この城を狙われます。

しかも、この時の久秀は、この9月に第15代将=足利義昭(よしあき)を奉じて上洛を果たし(10月18日参照>>)、かの三好三人衆をも蹴散らした(9月29日参照>>)織田信長(おだのぶなが)の傘下にチャッカリと納まり、イザとなったら、その援軍も期待できるイケイケムードだったわけで・・・

ところが、この時の越智軍は、見事な籠城戦を演じ久秀方は撃沈・・・多くの戦死者を出して撤退する事となしました。

しかし・・・当然、久秀は諦めません。

翌・永禄十二年(1569年)5月10日、またもや久秀は貝吹山城を攻めます。

力に物を言わせて猛攻撃を仕掛ける久秀軍でしたが、越智も必死のパッチの抵抗・・・やはり多くの戦死者を出した久秀は、やむなく力攻めから長期の持久戦へと戦略を変更し、城と外部の連絡を遮断して貝吹山城を兵糧攻めにするのです。

閉ざされた中で、約半年間耐えた貝吹山城でしたが、それも時間の問題・・・やがて襲い来る激しい飢えに力尽き、同年の11月4日、久秀方に城は明け渡される事となったのです。

こうして貝吹山城は久秀の物となり、越智氏一党は高取城を目指して落ちて行きましたが、ご存じのように、その後の久秀は信長と敵対(10月3日参照>>)し、代わって順慶が信長派となった頃、信長が命じた城割(しろわり=後の一国一城制のような物)(8月19日参照>>)により、貝吹山城は破却されました。

また、越智氏は・・・
信長死後に羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の傘下となった順慶とともに存続していましたが、天正十一年(1583年)、順慶側に寝返った家臣によって当主が暗殺されて滅亡・・・おそらくは悠久の古代物部(もののべ)からの流れを汲む越智氏の血筋は、ここに終焉となったのでした。
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