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2017年9月25日 (月)

奈良の戦国~越智党と貝吹山城攻防戦

天文十五年(1546年)9月25日、越智氏の貝吹山城を筒井順昭が攻めました。

・・・・・・・・・・・

貝吹山城(かいぶきやまじょう=奈良県高市郡高取町)は、極彩色の壁画が発見されて一躍有名になった高松塚古墳(たかまつづかこふん)などがある明日香(あすか)から近鉄電車を挟んで西側にある標高200mほどの貝吹山の山頂に築かれた山城です。

もともと、興福寺(こうふくじ)春日大社(かすがたいしゃ)の勢力が強かった大和(やまと=奈良県)の地でしたが、南北朝の動乱を経て寺社勢力そのものよりも、寺社の荘園の管理などを任されていた在地の者たちが、興福寺に属する『衆徒』、春日大社に属する『国民』などとして力を持ちはじめ、やがて戦乱の世を生き抜く武士として群雄割拠するようになるのです(12月18日参照>>)

ちなみに『衆徒』の代表格が筒井(つつい)、『国民』の代表格が越智(おち)十市(とおち)で、この3家に箸尾(はしお)を加えて『大和四家』と称されます。

Kaibukiyamazyoukoubousen●位置関係図→
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

 
で、今回の貝吹山城は、この中の越智氏が構築したとされる城で、この南西にある越智館越智城(おちじょう=同高取町)詰の城(つめのしろ)=万が一越智本城が落ちた時に、一旦退いて最後の決戦を挑む城として構築されたと言います。

とは言え、戦国に入って、この城は何度も戦場になっています。

天文四年(1535年)には、ライバルに撃ち勝って管領(かんれい=室町幕府内の将軍補佐役)の細川家後継者の座を得た細川晴元(はるもと)と組んで、主家の畠山義堯(はたけやまよしたか=義宣)三好元長(みよし もとなが=長慶の父)を追い落として(7月17日参照>>)ノリノリ気分満載だった木沢長政(きざわながまさ)攻め落とされ、一時は高取城(たかとりじょう==同高取町)へと避難するという一幕もありました。

おかげで、かつては互角に戦い、大和を二分する勢力だった筒井と越智の間に、ここらあたりから大きな差ができ始め、これから後の越智は、何かと筒井の圧迫を受けるようになるのです。

そんなこんなの天文十五年(1546年)、筒井氏は筒井順昭(つついじゅんしょう)の代になって、さらに勢いを増し、抵抗する勢力を次々と傘下に組みこんで大和の大半を手中に治めていましたが、ここに来ても、まだ越智氏は存在し、その存在が順昭の目の上のタンコブでもありました。

これまで、群雄割拠&戦国と言えども、大和ではそこまで兵士を大動員した大きな戦いは少なく、少人数の小競り合いのような戦いが多かったのですが、ここに来て大和統一に手が届くようになった順昭は、まさに兵を大動員して越智氏壊滅に乗り出したわけです。

一方の越智氏は、その歴史が古いぶん、いくつもの家系が入り乱れていて、一党を統率するには難しい状況だったのだとか・・・

かくして天文十五年(1546年)9月25日、自ら約5000の軍勢を率いた筒井順昭が貝吹山城を攻めたのです。

順昭の叱咤に士気上がる筒井軍と、積極的な戦闘を避けたい越智陣営・・・城に籠って出て来ない敵に対し、筒井勢は周辺の家々に火を放って挑発して回りました。

そんな中でも何とか防戦を続ける越智勢でしたが、結局のところ、その兵力の差はいかんともし難く・・・ほどなく和睦して城を明け渡し、越智勢は高取城へと撤退したのでした。

『多聞院日記』では、この貝吹山城攻防戦に撃ち勝った事で、「筒井は大和を統一した」と称していますが、実際には、まだもう一波乱・・・

3年後の天文十八年(1549年)には、筒井から貝吹山城を任された城将が私用で出かけた留守を見計らって、急いで軍兵をかき集めた越智勢が一気に攻めかかり、堀を破って本丸間近まで攻め寄せ、「あわや落城」の寸前までいった事もありました。

ただ、この時は、寸前のところで、筒井の援軍が駆けつけ、越智の寄せ手の背後を突いた事で形勢が逆転し、越智による城の奪還は成功しなかったのですが・・・

とは言え、勢力を増す筒井に対し、越智の士気も徐々に低迷し、やがて順昭の晩年期には、越智は、彼らが持つ城とともに筒井の傘下となって存続していく事になるのですが、そんな貝吹山城に手を伸ばして来たのが、大和へと侵入して来た松永久秀(まつながひさひで)でした。

もともとは、畿内で一大勢力を誇った三好長慶(みよしながよし)(5月9日参照>>)の家臣として歴史上に登場する久秀ですが、永禄二年(1559年)から大和への侵攻を開始し、奈良盆地に点在した諸城を攻略しつつ(11月24日参照>>)、同年には信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を改修し、永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城して、いつしか主家に取って代わるほどの勢いを持ちはじめ、

翌・永禄八年(1565年)には、三好氏の縁者である三好三人衆(三好長逸・三好政康・石成友通)とともに第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)暗殺(5月19日参照>>)して(暗殺には久秀は関与していない説もアリ)第14代将軍=足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)を擁立し、さらに、順昭の死を受けて筒井氏を継いだ嫡男の筒井順慶(つついじゅんけい)筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)をも攻め立てて奪取していたのです(11月18日参照>>)

そんな勢いに、いち時は、その久秀に奪われた貝吹山城でしたが、このわずかの間で久秀と三好三人衆が決裂し、三人衆が順慶の味方となった事で翌・永禄九年(1566年)には、順慶が筒井城を奪回・・・これをチャンスと見た越智伊代守(おちいよのかみ=越智家増?)は、貝吹山城に詰めていた久秀方の生田(いくた)という者を調略して味方につけ、彼の手引きにより貝吹山城を奪い返したのでした。

しかし、この貝吹山城は奈良から吉野(よしの)へと出る交通の要所・・・永禄十一年(1567年)に、またもや久秀に、この城を狙われます。

しかも、この時の久秀は、この9月に第15代将=足利義昭(よしあき)を奉じて上洛を果たし(10月18日参照>>)、かの三好三人衆をも蹴散らした(9月29日参照>>)織田信長(おだのぶなが)の傘下にチャッカリと納まり、イザとなったら、その援軍も期待できるイケイケムードだったわけで・・・

ところが、この時の越智軍は、見事な籠城戦を演じ久秀方は撃沈・・・多くの戦死者を出して撤退する事となしました。

しかし・・・当然、久秀は諦めません。

翌・永禄十二年(1569年)5月10日、またもや久秀は貝吹山城を攻めます。

力に物を言わせて猛攻撃を仕掛ける久秀軍でしたが、越智も必死のパッチの抵抗・・・やはり多くの戦死者を出した久秀は、やむなく力攻めから長期の持久戦へと戦略を変更し、城と外部の連絡を遮断して貝吹山城を兵糧攻めにするのです。

閉ざされた中で、約半年間耐えた貝吹山城でしたが、それも時間の問題・・・やがて襲い来る激しい飢えに力尽き、同年の11月4日、久秀方に城は明け渡される事となったのです。

こうして貝吹山城は久秀の物となり、越智氏一党は高取城を目指して落ちて行きましたが、ご存じのように、その後の久秀は信長と敵対(10月3日参照>>)し、代わって順慶が信長派となった頃、信長が命じた城割(しろわり=後の一国一城制のような物)(8月19日参照>>)により、貝吹山城は破却されました。

また、越智氏は・・・
信長死後に羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の傘下となった順慶とともに存続していましたが、天正十一年(1583年)、順慶側に寝返った家臣によって当主が暗殺されて滅亡・・・おそらくは悠久の古代物部(もののべ)からの流れを汲む越智氏の血筋は、ここに終焉となったのでした。
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2017年9月19日 (火)

謙信の祖父・長尾能景が討死~般若野の戦い

永正三年(1506年)9月19日、越中で起こった一向一揆の鎮圧に侵入した長尾能景が般若野の戦い(芹谷野の戦いとも)で討死しました。

・・・・・・・・・・

比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町)の勢力から逃れて、北陸へとやって来た本願寺第8代=蓮如(れんにょ)(2月25日参照>>)が、文明三年(1471年)にその拠点となる吉崎御坊(よしざきごぼう=福井県あわら市)を建てた事で、北陸が一気に本願寺宗徒の聖地となる中、長享二年(1488年)に、加賀(かが=石川県)守護の富樫(とがし)家内の勢力争い(7月26日参照>>)に乗じてその富樫を倒し、以後100年に渡る百姓(本願寺宗徒)の持ちたる国を誕生させたのが、有名な加賀一向一揆です(6月9日参照>>)

当然ですが・・・
この一向一揆勢力が加賀一国に留まるワケはなく、徐々に勢力拡大を計っていく事になりますが、そんなこんなの永正三年(1506年)、春頃から北越で一向一揆の動きが活発になって来て、やがて越中(えっちゅう=富山県)が脅かされるようになって来ます。

『本朝通鑑(ほんちょうつうがん)には、
「永正三年六月、加賀一向一揆群起こし越中の国を寇す。国土遊佐、神保、土肥、椎名、戦に敗れ、越後国に至りて、援を長尾能景に求む」
とあります。

ご存じのように、室町時代は、幕府から任命された守護(しゅご=県知事)が各地を治めていましたが、その領地が複数あるため、当然、一人では治め切れないので、各地には守護代(しゅだい)という配下の者を置いて、事実上、守護代がその現地を治めていたわけです。

しかし、中央の勢力が衰え始める戦国時代になると、力で以って守護代が守護にとって代わる下剋上(げこくじょう)が頻繁に起こるようになり、その最たるものが上記の加賀一向一揆=百姓が守護にとって代わったという事になるワケですが、

そんな中で、当時の越中守護は畠山尚順(はたけやまひさのぶ)・・・この尚順は、あの応仁の乱の主要メンバーの一人=畠山政長(まさなが)(1月17日参照>>)の息子ですが、以前も書かせていただいたように、畿内の畠山の領地の攻防に必死のパッチ(7月12日参照>>)状態で、もはや「越中守護=畠山」の時代は政長の死を以って終わった感がハンパなく・・・

なので、越中に加賀一向一揆が侵攻してきた場合、その盾となるのは、守護代の遊佐(ゆさ)神保(じんぼう)椎名(しいな)といった面々・・・しかしながら、現時点ではなかなかその対策が立てられない状況でした。

となると、いくら、ほぼほぼ名ばかり状態となっていても守護は守護・・・尚順は、同じ守護仲間の越後(えちご=新潟県)守護の上杉房能(うえすぎふさよし)越前(えちぜん=福井県)守護の朝倉貞景(あさくらさだかげ)らに援助を要請・・・受けた彼らとて、加賀一向一揆がどんどん大きくなって越中を侵食すれば、いずれは隣接する越前や越後にも波及して来るわけですから、ここは一つ、連携を組んで対処しなければ!

てな事で、房能は配下である越後守護代の長尾能景(ながおよしかげ)を越中へと派遣するのです。

この能景さんは、ご存じ上杉謙信(うえすぎけんしん)ジッチャンに当たる人物で、実のところは、先代守護の上杉房定(ふささだ)とはウマくいっていたものの、その息子の房能とはあまりシックリいっていなかったようですが、現時点では上司&部下の関係ですし、今は自国が危険に晒されている一大事ですので、個人的な肌の合わなさをアレコレ言ってる場合じゃござんせん。

かくして能景は、永正三年(1506年)8月、大軍を率いて春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)を出陣したのです。

おりしも、この8月9日、越前では、貞景の叔父である朝倉宗滴(そうてき・教景)九頭竜川(くずりゅうがわ・福井市)にて一向一揆に勝利(8月9日参照>>)したばかりですから、おそらく隣国越前の本願寺門徒は疲弊しているはず・・・このチャンスを逃すわけにはいきません。

ちなみに、この時、越中一向一揆に味方していた越後の武将たちを鎮圧するべく蒲原方面(かんばら=新潟県三条市や長岡市付近)に出陣していたため、息子の長尾為景(ためかげ=謙信の父)は、父に同行しませんでした。

こうして越中へと侵入した長尾軍・・・越中に入るやいなや、敵対する鈴木国重(すずきくにしげ)魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)府久呂兼久(ふくろかねひさ)滑川城(なめりかわじょう=富山県滑川市)赤川久次(あかがわひさつぐ)東岩瀬城(ひがしいわせじょう=富山県富山市)などを次々と撃破して進み、8月18日には、越中守護代家の神保一族の神保慶明(じんぼうよしあき=神保良衡の説もあり)と合流して、蓮台寺(れんだいじ=富山県富山市)周辺でも一揆勢を撃ち破り、いよいよ、越中一向一揆の本拠地である砺波(となみ=富山県礪波市周辺)あたりへと攻め込んでいきます。

とは言え、一向一揆衆もなかなかの奮戦・・・しかも、ここで加賀や越前の一向一揆衆にも援軍を求めます。

先に書いたように、戦いに敗れたばかりの越前の一向一揆衆ではありましたが、「死なば極楽!」との合言葉のもと、彼らが命知らずの軍団である事、また、ここ越中を占領されたならば、当然、加賀へも越前へも敵が侵攻して来る事は明白で、そうなれば、せっかく樹立した本願寺共和国も潰されるが必至・・・という状況に、必死で立ち向かって来るのでした。

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般若野の位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなの永正三年(1506年)9月19日、長尾軍は越中増山城(ますやまじょう=富山県礪波市)の麓に広がる般若野(はんにゃの)において一向一揆衆と戦う事になるのです。

古くは源平の昔、あの木曽義仲(きそよしなか=源義仲)が戦った般若野の地(5月9日参照>>)・・・東部に丘陵を見てとれる草原に布陣する両者・・・開戦を知らせるホラ貝の音とともに、長尾軍は一気に南西方面へと押しまくるのです。

数の上では一向一揆側が有利ではありますが、長尾軍は戦闘のプロ・・・越中に入った後も、これまで何度も蹴散らして来たように、ここでも、難なく一向一揆を撃破できる・・・

・・・はずでした。

ところがドッコイ、ここで守山城(もりやまじょう=富山県高岡市・二上城とも)から撃って出て、今まさに南西に向かって押しまくる長尾軍の背後へと回ったのが越中守護代家の当主である神保慶宗(じんぼうよしむね)・・・

そう、実は、これまで一向一揆は、越中の守護代たちに再三に渡って使者を送り、一揆側の味方になってくれるよう呼び掛ける懐柔策を取っていたのです。

慶宗ら守護代の心の内としては・・・
「守護の畠山尚順も、えぇかげんうっとぉしいヤツやのに、そんな中で命令聞いて一向一揆を破ったとしても、結局、状況は今のままやん。
それやったら、このチャンスに守護側を蹴散らして、名実ともに俺らが支配した方が得策やんけ」
(←心の内なので、あくまで推測です)
と思っていた・・・そこを、一向一揆の懐柔策がくすぐったわけです。

激戦の中で、いきなり背後に立たれ、退路を失った長尾軍は、さすがに大混乱となります。

その大混乱の中、奮戦する能景は戦死・・・主だった武将たちも次々と討たれ、長尾軍は壊滅しました。

増山城跡の近くには、この時、能景の死を悼んだ神保一族の神保良衡によって、その首と胴体をつないで埋葬されたとされる能景塚(砺波市頼成新)が、今も存在します。

ところで・・・
かの戦地にて父の死を知った息子の為景・・・・
「コレって、大した戦略も無いままにそもそもの出陣命令を出した上杉房能に軍事的責任があるんちゃうん?」
と、命令しっぱなしで実質的に動かなかった房能に激怒・・・

翌・永正四年(1507年)に、房能の養子の定実(さだざね)を抱き込んで謀反を起こし、結局は越後守護代の長尾家が守護に取って代わるのですが、そのお話は2009年8月9日の長尾為景~守護を倒して戦国大名への第一歩】>>でどうぞ

一方、越中国内ではこの戦いの後、神保をはじめとする越中の有力武士たちは、一向一揆との協調路線で進んで行く事になりますが、それはそれで、国内全土を統率する者を持たないそれぞれの武士同士の覇権争いとなって国内は混乱したままなわけで・・・

やがて、祖父&父の無念を晴らすがのごとく、この越中に侵出して来るのが為景の息子=長尾景虎(ながおかげとら)・・・ご存じ上杉謙信ですが、そのお話は約半世紀後の3月30日【上杉謙信の増山城&隠尾城の戦い】>>でご覧あれ。。。

もちろん、そこには、それぞれに世代交代した神保&椎名らも登場します。
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2017年9月13日 (水)

織田信長、最愛の女性~生駒吉乃

永禄九年(1566年)9月13日、織田信長・最愛の女性で、側室として二男一女をもうけた生駒の方が39歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

と言っても、正史や一級資料にほとんど登場しない事から、かなり謎多き女性です。

亡くなった日付も、今回は9月13日でご紹介しましたが、5月13日説もあります。
(wikiは5月13日になってるので、ひょっとしたらソッチの方が一般的なのかも…)

名前も、正式には生駒家宗(いこまいえむね)の娘とあるだけで、本名もわからず、没年齢も、信長の6歳年上の39歳説と、4歳年下の29歳説があります。

でも、信長は、正室の濃姫(のうひめ=帰蝶)(2月24日参照>>)との間に子供ができなかった一方で、「側室として二男一女をもうけた」=「彼女が産んだ男子が後継ぎになるんだから…」と思いきや、確実なのは、次男の信雄(のぶお・のぶかつ)と長女の徳姫(とくひめ・五徳)のみで、生年のハッキリしない嫡男の信忠(のぶただ)(11月28日参照>>)は、彼女の子供では無い可能性もあるのだとか・・・

とにもかくにも、その伝承の多くが、偽書の疑いのある『武功夜話(ぶこうやわ)の出典である事から、「疑わしい」との見解もあるにはあるのですが、とかく古文書の真偽なんて物は原本を確認しない事には何とも言えない物でして・・・

現に、この『武功夜話』の場合でも、それまで偽書説派だった歴史家さんが、原本を見た途端に肯定派に回ったなんて事もありますし、専門家の間でも意見が分かれているのが現状ですので、『武功夜話』そのものの真偽に関しては、原本をナマで見る事のできる専門家の方々に委ねたいと思います。

また、例え一級資料であったとしても、中に書いてある事がすべて正しいわけでは無いですし、まして『武功夜話』は、江戸時代に書かれた『軍記物』に分類される物ですので、個々のエピソードについては、それぞれ個別に検討していかなくてはならない物・・・

なので、今回は、そんな事を踏まえつつ、一般的に語られる信長の側室=生駒の方のお話を、『武功夜話』に登場する吉乃(きつの)というお名前で、ご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

尾張の国(愛知県西部)丹羽郡小折村(にわぐんこおりむら=江南市)馬借(ばしゃく=運送業)を営む経営者=生駒家宗の娘として生まれた吉乃は、はじめ、土田弥平次(どたやへいじ・つちだやへいじ)という人物のもとに嫁ぎますが、彼が、弘治二年(1556年)に戦死してしまった事から、実家へと戻り、その後は生駒家で生活していました。

この1度目の結婚相手の土田弥平次の土田氏が、生駒氏の縁者であったらしく、そんな関係からの婚姻のようですが、この土田氏が、信長の生母=土田御前(どたごぜん・つちだごぜん)の出自筋に当たり、土田弥平次は土田御前の甥だったとも言われ、そうなると、信長とも縁続き・・・

Odanobunaga400a という事で、信長は、度々、この生駒家に出入りしていたようで・・・

もちろん、そこには、馬借という商売柄、近隣の情報が集まりやすく、その情報収集のために、信長が出入りしていたであろう事も、容易に想像できるわけですが・・・

そんな中で、出戻りとは言え、色白の美人で、やさしくて控えめな・・・いや、おそらく、二人が出会った頃は、未だ10代後半だった信長にとって、すでに結婚を経験してる親戚のキレイなお姉さんに母の面影を見たのかも知れません。

なんせ、母の土田御前は、幼い頃から信長を嫌って、「弟の信行(のぶゆき)(11月2日参照>>)ばかりを可愛がっていた」なんて言われてますから・・・その包み込むような大人のやさしさに母を追ったとしても不思議ではありません。

また、同じく、この頃、それまで駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を放浪していた生活から地元の尾張に戻って来ていた藤吉郎(とうきちろう)=後の豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、この生駒屋敷に出入りしていて、その天然の明るさから、吉乃とも親しく話すようになり、

「この人、オモシロイ人(*^-^))」
と吉乃がなったところで、
「馬のお世話でも何でもしますんで、どうか、殿さまにお口添えを…」
とと切り出して、吉乃が信長に彼を紹介・・・有名な「信長の草履を温める」エピソードも、実は、生駒屋敷での出来事だったなんて事も言われます(信長と秀吉の出会いは諸説ありますが…)

とにもかくにも、そうこうしているうちに、ほどなく吉乃は信長の子を身ごもり、正室=濃姫に気を使った信長は、郡内のとある屋敷で、ひっそりと出産させたのだとか・・・。

で、弘治三年(1557年)頃に長男を産んでから、次男→長女と、吉乃は毎年のように子供を出産しますが、ご存じのように、この頃から信長本人は、
桶狭間(おけはざま)の戦い(5月19日参照>>)に、
美濃(みの=岐阜県)侵攻(5月14日参照>>)に、
尾張統一(11月1日参照>>)に、
と大変忙しくなり、吉乃のもとにはおいそれと通えない日々が続くわけで・・・

一方の吉乃は、3人目の子=長女を産んだ後の、いわゆる「産後の肥立ちが悪い」という状況になり、病床に伏せるようになってしまいます。

そんな中、永禄六年(1563年)に美濃攻めの拠点とすべく、小牧山(こまきやま=愛知県小牧市)に小牧山城を構築した信長は、この城に吉乃用の御台御殿(みだいごてん)なる建物を建て、彼女を住まわせるために呼び寄せようとしますが、ここで初めて、彼女が病気である事を知ったのだとか・・・

しかも
「もはや、動かすのも難しいかも…」
と、聞いた信長は、慌てて生駒屋敷に駆けつけ
「忙しさのあまりに会いに来なかった事を許してくれm(_ _)m
これからは、新居でゆっくりと養生したらええ」

と・・・

その言葉に、彼女は大いに喜び、信長の手を握りながら
「ありがとう」
と・・・

そして、残った力を振り絞って輿(こし)に乗り、小牧山城へ入城・・・家臣たちの前で、信忠や信雄の生母として信長から紹介され、彼女はここで、正式に側室となったとされます。

そんな彼女は、
「こんな立派な御殿が、私の家やなんて…夢のよう」
と涙を流しながら感激にに浸っていたのだとか・・・

その後は、信長も頻繁にお見舞いに訪れていたようですが、残念ながら、永禄九年(1566年)9月13日病が快復する事無く、彼女は帰らぬ人となったのです。

一説には、「信長には側室が22人ほどいた」とも言われますが、その中でも、やはり吉乃は特別扱いで、その死に際して信長は号泣したとされ、「彼女が信長最愛の女性だった」というのが一般的な見方となっています。

わからない事が多く、その実態がほとんど掴めない吉乃という女性・・・

しかし、その心の激しさとやさしさが交互に見え隠れする信長という人・・・そんな彼のハートを射止めた彼女は、信長の良いところも悪いところも受け止めるような大きな器を持った女性であった事でしょう。
個人的なイメージでは、やっぱ、信長より年上かな?

彼女の死の翌年=永禄十年(1567年)に、念願の稲葉山城(いなばやまじょう=)を陥落(8月15日参照>>)させた信長は、さらに、その翌年、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて京へと上る(10月18日参照>>)事になります。

自分の実家に通っていたハチャメチャな少年が、天下への一歩を踏み出した事・・・彼女は、空の上から垣間見て、ホッと胸をなでおろした事でしょう~いや、母なる気持ちなら逆に「また、心配の種が増える~」と、気を揉んでいたかも知れませんね。
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2017年9月 7日 (木)

足利義昭を奉じて~織田信長の上洛

永禄十一年(1568年)9月7日、足利義昭の要請に応えて上洛する織田信長が、美濃を出立しました。

・・・・・・・・・・

ご存じの足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じての織田信長(おだのぶなが)の上洛ですが、これまでも、このブログ内のいろんな所でチョコチョコ出て来てますので、内容がかぶり気味になるかとは思いますが、とりあえず今回は、信長上洛の様子を、時系列的にまとめてご紹介してみたいと思います。

・‥…━━━☆

兄である第13代将軍・足利義輝(よしてる)が、松永久秀(まつながひさひで)三好三人衆らに暗殺された(5月19日参照>>)永禄八年(1565年)5月、幕臣の細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らの手引きにより幽閉先から脱出した義輝の弟=足利義昭は(7月28日参照>>)越前(福井県)一乗谷朝倉義景(よしかげ)のもとに身を寄せながら、自分を担ぎあげて上洛してくれそうな戦国大名たちに対して、せっせとお誘いの手紙を送るのですが、なかなか色よい返事をしてくれる大名は現れず・・・

しかし、そうこうしているうちの永禄十一年(1568年)2月8日、かの久秀と三好三人衆が擁立した義輝の従兄弟にあたる足利義栄(よしひで)に朝廷からの許しが出て、第14代室町幕府将軍宣下がなされ、事実上、畿内は義栄以下、久秀や三好三人衆が牛耳る事態に・・・。

これまで、「できれば名のある大名に京都に連れてってもらいたい!」と願っていた義昭ですが、上記の通り、待った無しの状況となり、以前から朝倉家臣の明智光秀(あけちみつひで)なる武将が勧めてくれる織田信長へ方針転換・・・永禄十一年(1568年)7月、「これからは、織田くんの事を、ひたすら頼りにしたいんやけど…」と信長に打診したのです(10月4日参照>>)

当時の信長は・・・
永禄三年(1560年)に桶狭間(おけはざま)(5月19日参照>>)今川義元(いまがわよしもと)を破って後、永禄五年(1562年)に尾張一国を統一・・・今回の義昭接触の前年の永禄十年(1567年)に斎藤氏から稲葉山城を奪い(8月15日参照>>)、その地を岐阜と改めて本拠とし、あの『天下布武』の印鑑を使い始めたばかり・・・

『天下布武』とは、「天下に武を布(し)く」=「俺の武力で天下を治めるゾ」ってな意味(別解釈もアリ)ですから、「この岐阜の地から、まずは畿内を制して…」と天下を視野に入れていた信長にとっては、今回の事は、まさに渡りに舟・・・

「微力ながら、天下のために忠義を尽くします」と、義昭の申し入れを快諾した信長は、早速、義昭のもとに使者を送ると同時に、美濃の立正寺(りっしょうじ=立政寺=岐阜県岐阜市)に宿所を準備します。

永禄十一年(1568年)7月25日、美濃へと到着した義昭ご一行の部屋に準備されていたのは、ドド~ンと銅銭千貫文(現在だと一億超えの現金)と、その横には、これまたドド~ンと、太刀や鎧に始まる豪華絢爛な武具の数々・・・

大喜びする義昭らを見て、一刻も早い上洛を決意した信長は、近江の佐和山(さわやま=滋賀県彦根市)へと向かい、妹(もしくは姪)お市の方を嫁がせて味方につけた北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)に初対面した(2011年6月28日の前半部分参照>>)後、その佐和山から、義昭の使者に自分の使者をつけて、南近江(滋賀県南部)を支配する大物=六角承禎(じょうてい・義堅)(10月7日参照>>)の説得にあたります。

「義昭公が上洛されるので、忠誠の証として人質を出し、それ相当の対応してくれはりますか?」と・・・しかし、承禎の答えはNOでした。

しかし、まだ諦めず、7日間渡って説得を続け、「義昭公が将軍になったあかつきには、承禎さんを幕府所司代(しょしだい=侍所の副長官)に任命するて言うてはりますよって…」と提示しましたが、やはり承禎は拒否し続けました。

こうなると、力づくで近江を制して上洛するしかありません。

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信長上洛の道のり
 
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かくして永禄十一年(1568年)9月7日「一気に近江を平らげて、すぐにお迎えを差し上げますよ」と、義昭に別れの挨拶をした信長は、尾張・美濃・伊勢・三河の軍勢を率いて出陣したのです。

その日は平尾村(岐阜県不破郡垂井町)に陣を取り、翌日には近江の高宮(滋賀県彦根市)に到着・・・ここで2日間の休養をとり、そこに浅井の軍も加わった11日には、愛知川(えちがわ)付近に滞在して、自らが馬に乗って周辺の状況を確認し、周辺に散らばる六角氏傘下の城のうち、承禎らの籠る観音寺城(かんのんじじょう)箕作城(みつくりじょう)との和田山城(わだやまじょう)の3ヶ所に狙いを定めます。

翌12日は、自らの軍勢を3隊に分けて、それぞれに配置して攻撃を開始・・・13日には観音寺城の承禎らも夜陰に紛れて逃走し、世に言う観音寺城の戦いは織田方の勝利に終わりました(9月13日参照>>)

ここで、約束通り、立正寺の義昭のもとに不破光治(ふわみつはる)を派遣して「どうぞ、ご上洛を…」と・・・これを受け取った義昭は、ようやく岐阜を出立し、21日には米原(まいばら)、22日には安土(あづち)桑実寺(くわのみでら)に到着・・・

一方の信長は、24日には守山(もりやま=滋賀県守山市)まで進出し、翌25日は琵琶湖を渡れず瀬田で足踏みしたものの、26日には琵琶湖を渡り、三井寺(みいでら=園城寺・大津市)極楽院に陣取りました。

Kouyoutoufukuzicc 翌27日には、義昭も琵琶湖を渡り、同じく三井寺の光浄院に入り、さらに翌28日には、信長が東福寺(とうふくじ=京都市東山区)に陣を移動させると同時に、柴田勝家(しばたかついえ)蜂屋頼隆(はちやよりたか)森可成(もりよしなり)坂井政尚(さかいまさなお)の4名に先鋒を命じて、三好三人衆の一人=石成友通(いわなりともみち=岩成友通)の拠る勝竜寺城(しょうりゅうじじょう=京都府長岡京市)方面へと攻撃を仕掛けさせます。

もちろん、友通も抵抗しますが、この日のうちに150余の首を挙げられ、翌29日には、信長自身が出馬した事によって降伏し、勝竜寺城は開け渡されました。

ちなみに・・・一般的に「足利義昭を奉じて信長が上洛」という場合、上記の三井寺に入った9月26日か、東福寺に陣を張った9月28日が「上洛の日」とされる事が多いです。

その後、30日に信長が山崎(やまざき)に着陣すると、先鋒は三人衆の一人=三好長逸(みよしながやす)が籠る芥川山城(あくたがわやまじょう・芥川城とも=大阪府高槻市)へ・・・そしてここも、その日の夜には敵兵が退城し、織田方の物となります。

この時、いち時は畿内を掌握して事実上の天下人だった事もある細川晴元(ほそかわはるもと)(2月13日参照>>)の息子=細川昭元(あきもと)は、三好三人衆に担がれて、名目上の管領(かんれい=将軍の補佐役)となっていましたが、長逸とともに芥川山城を退去し、14代将軍の義栄もつれて阿波(あわ=徳島県)へと逃れました。

また、三人衆の残りの一人=三好政康(まさやす)も、いずこともなく身を隠しました。

続いて10月2日には池田勝正(いけだかつまさ)池田城(いけだじょう=大阪府池田市)を攻撃・・・ここでは激しい戦いとなり、敵味方ともに多くの死傷者を出しますが、最後には城に火をかけ城下町を焼き払った事から、勝正は人質を差し出しての降伏となりました。

ちなみに、この時、14日間に渡って芥川山城に滞在していた信長のもとには、「この機会に…」と面会を希望する人が後を絶たず、門前には行列ができたとか・・・その中には、わずかの間に三好三人衆と袂を分かつ(11月18日参照>>)事になった松永久秀もいて、彼は、信長に名物の誉れ高い九十九髪茄子(つくもなす)の茶入れを献上して、また、今井宗久(いまいそうきゅう)も名物の茶壷「松島」&茶入れ「茄子」を献上して、この時に信長の傘下に入っています。

10月14日には、信長は京都に戻り、一旦、本国寺(ほんこくじ=京都市下京区・本圀寺)に入った後、軍勢を引き連れて清水寺(きよみずでら=京都市東山区)へ・・・この時、信長は、配下の者には規律を守るよう徹底し、周辺の警備も厳重にした事から、兵士たちの狼藉や、治安を乱すような事件も起こらず、都の人々は、「これで平和になるヽ(´▽`)/」と胸をなでおろし、大いに喜んだと言います。

その後、畿内に残っていた抵抗勢力も、10日余りで徐々に退散して行く中、信長は、空となっている細川昭元の屋敷をリフォームして義昭の滞在する御殿とし、義昭はお引越・・・御殿とともに太刀と馬を献上した信長に、義昭は大喜びで、その日の宴会では、自ら信長にお酌をしてみせたとか・・・

かくして永禄十一年(1568年)10月18日、足利義昭は、朝廷からの将軍宣下を受け、正式に、第15代室町幕府将軍に就任したのです(10月18日参照>>)

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以上、今回は、信長の上洛の状況を、日付を追って書かせていただきましたが、それぞれの戦いの様子や細かな事については、まだ書いていない部分も多々ありますので、そのあたりは、いずれ、その日付で記事を書かせていただきたいと思いますm(_ _)m
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