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2017年10月14日 (土)

前田利家VS佐々成政~鳥越城の攻防

天正十二年(1584年)10月14日、前田利家が鳥越城を攻撃しました。

・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き後の天正十一年(1583年)に、織田家臣の筆頭だった柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ)(4月23日参照>>)に破った羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)と、信長の三男=織田信孝(のぶたか=神戸信孝)を自害(5月2日参照>>)に追い込んだ信長の次男=織田信雄(のぶかつ・のぶお=北畠信雄)・・・・

上記の通り、初めは協力体制にあった両者でしたが、徐々に秀吉に不信感を抱いた信雄が、もう一人の大物=徳川家康(とくがわいえやす)に支援を求めて対抗したのが、天正十二年(1584年)の小牧長久手(こまきながくて)の戦いです。
●信雄の重臣殺害事件…(3月6日参照>>)
●犬山城攻略戦…(3月13日参照>>)
●羽黒の決戦…(3月17日参照>>)
●岸和田城・攻防戦…(3月22日参照>>)
●小牧の陣…(3月28日参照>>)
●長久手の戦い…(4月9日参照>>)
●蟹江城攻防戦…(6月15日参照>>)

戦況は、おおむね信雄&家康勢有利に進んだものの、この年の秋になって、なぜか信雄が単独で秀吉と講和してしまった事で、あくまで「信雄から頼まれて」参戦していた家康は、大義名分を失って兵を退く事になって、戦いは幕引き(11月16日参照>>)となるのですが・・・

この一連の合戦の際、開始当初は秀吉寄りを表明していたはずの越中(えっちゅう=富山県)富山城(とやまじょう=富山県富山市)佐々成政(さっさなりまさ)が、戦況が家康優位だった事や、隣国=加賀(かが=石川県南部)前田利家(まえだとしいえ)が、かの賤ヶ岳で戦線離脱(4月23日参照>>)してから秀吉側についている事などから、途中から家康派に転じたのです。

つまり、この小牧長久手のドサクサに乗じて前田を倒し、北陸の覇者になってやろう!と・・・

天正十二年(1584年)8月28日、突如、反秀吉の旗を挙げた成政は、加賀の最前線である朝日山砦(あさひやまとりで=石川県金沢市加賀朝日町)を攻撃しますが、この時は、前田家臣の村井長頼(むらいながより)何とか砦を守り切りました。

もちろん、まだまだ諦めない成政は、翌・9月9日に能登(のと=石川県北部)末森城(すえもりじょう=石川県羽咋郡宝達志水町)を攻撃します。

しかし、ここも・・・なかなか落ちない末森城に手こずっている間に、利家自らが率いる援軍が到着して、やむなく撤退するハメに・・・(8月28日参照>>)

とは言え、さすがは戦上手の成政・・・この撤退劇はなかなかの物で、敗軍とは思えない見事な撤退ぶりだったそうで、前田軍に追撃の余地を与えないばかりか、行き掛けの駄賃(この場合は帰り掛けか?)とばかりに途中にあった津幡城(つばたじょう=石川県河北郡津幡町)をも攻略しようとしていたのだとか・・・

ただ、この時は、津幡城近くにやって来た佐々勢に対して、利家の命を受けた近隣の百姓たちが、前田軍に似せた紙製の幟旗(のぼりばた)をいくつも掲げていたのを、数千の兵が守っている物と勘違いして、結局、佐々勢は城を攻撃しないまま撤退してしまったのでした。

2度の失敗に苛立つ成政・・・自らも戦上手との自信があったからこそ、その歯がゆい思いもひとしおだったと想像しますが、そんな成政が、再びの帰り掛けの駄賃として津藩から吉倉(よしくら=同津幡町吉倉)に布陣したのは、末森城攻防から3日後の9月12日の事でした。

今度は越中との境に近い鳥越城(とりごえじょう=津藩町鳥越)を攻略しようと、城を包囲したのです。

一方、城を守るは利家配下の丹羽源十郎(にわげんじゅうろう)目賀田又右衛門(めがたまたえもん)・・・といきたいところですが、残念ながら、すでに鳥越城はカラッポ・・・

実は、これ以前に、丹羽と目賀田のもとに「末森城が落ちた」との情報が入っていたのです。

これは、佐々方が意図的に流した嘘情報なのか?
あるいは、合戦のドサクサで流れた単純な誤報だったのか?

とにもかくにも、その情報を信じた丹羽と目賀田は、「末森城の戦いで前田軍が敗北した以上、鳥越城を守る意味は無い」と考え、すでに城を空にして立ち去ってしまっていたのです。

当然、包囲すれど、何の変化も無い城内を不審に思った佐々方は、寄せ手の幾人かを物見に出し、やがて、すでに城内が空っぽである事を知るに至り
「天は我らに味方した!」
とばかりに、難なく鳥越城を占拠したのです。

そうとは知らない利家は、津藩に着陣してすぐ、自軍の守りを固めようと、配下の各城に更なる兵を動員して防備の増強をするよう命じますが、鳥越城に向かった者からの報告で、城が、すでに佐々勢に占拠されている事を知ります。

当然の事ながら利家は怒り心頭・・・
「すぐに取り返したんねん!」
と息巻きますが、
「ここは、ひとつ、一旦金沢の戻られてから、再びの方が…」
と家臣に説得され、とりあえず利家は金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市丸の内)に戻る事にします。

一方の成政も、奪った鳥越城は、配下の久世但馬(くぜたじま)に任せて、自らは富山城に戻りました。

そんな中の9月16日付けの秀吉の書状では、今回の末森城を死守した事を喜ぶ一方で、
「もうすぐ、越前守(丹羽長秀の事)が帰陣するので、僕の気持ち察して待っててね」
と・・・つまり、秀吉は、自身が東海で展開した小牧長久手に決着がつかないうちに、北陸がややこしい事になって欲しく無いと考えていたようで・・・

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鳥越城攻防戦・位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

しかし、この後も、加賀・能登・越中の国境線では、しばしば、佐々と前田の小競り合いが繰り広げられている中で、どうしても鳥越城を奪回したくてたまらない利家は、天正十二年(1584年)10月14日、佐々方の守る鳥越城に攻撃を仕掛けたのです。

「なんの!こんな小城…落とすに難しい事もない!」
と、檄を飛ばす利家に応えるように、前田勢は一斉に攻めかかりますが、この日は、攻めるに難しいアラレ混じりの悪天候・・・そのうえ、守る久世勢も、一斉に矢を放ち、大石を投げ落として抵抗したため、前田方には多くの死傷者が出てしまいます。

やむなく、利家はこの日の奪還をあきらめ、城付近の民家に火を放って兵を退きました。

この後、翌年の2月には、鳥越城の代わり!とばかりに、利家は成政の蓮沼城(はすぬまじょう=富山県小矢部市)を焼き討ちにしますが、対する成政も、翌・3月に鷹巣城(たかのすじょう=石川県金沢市湯桶町)を攻撃して報復・・・さらに4月には、再び鳥越城を囲む利家でしたが、またまた奪い切れずに撤退する・・・

こうして、互いの国境線にて一進一退を繰り返していたさ中、成政は、越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)を味方に引き入れようと画策します。

しかし、その返事は・・・
「君の領地のうちの新川郡あたりは、もともと、僕のジッチャンやお父ちゃん(上杉謙信)らが必死で奪い取ってた場所(3月17日参照>>)やんか。
せやから、その土地を返還してくれるのと同時に人質も差し出してくれたら、僕も出陣しますわ」

と・・・到底承諾できない条件に、成政は怒りのあまり、使者を投獄してしまいます。

これに不満を持った景勝は、配下の者に命じて、越中の宮崎城(みやざきじょう=富山県下新川郡朝日町)を攻めさせ、付近に火を放って脅しをかけます。

一方、この時、上杉家に身を寄せていた土肥政繁(どいまさしげ=元越中弓庄城主)らが、利家の兄=前田安勝(やすかつ)を通じて
「上杉と前田で連携しませんか」
との書状を送り、仲介役をかって出た事から、上杉は前田と結ぶ事に・・・もちろん、そこには、すでに終了した小牧長久手の戦いの結果、その合戦を終えても揺るぎない秀吉の勢力を垣間見て、「朋友である利家を通じて秀吉に近づきたい」という景勝の思惑も見え隠れするわけですが・・・

ご存じのように、かの小牧長久手の戦いの終了直後には、命がけの北アルプスさらさら越え(11月23日参照>>)で家康に会いに行き、
「まだまだ戦いを続けて下さい」
と懇願した成政にとっては、まさに、家康&信雄が秀吉に対抗し続ける事が頼みの綱だったわけですが、残念ながら、合戦は終わるし、それとともに上杉まで秀吉に近づいて行くしで、成政は、北陸において孤立無援となってしまうのです。

そして天正十三年(1585年)の8月・・・かの秀吉は大軍を率いて、成政を屈服させるため、越中へやって来る事になるわけですが、そのお話は2017年8月29日にupした【富山城の戦いin越中征伐】のページ>>でどうぞm(_ _)m
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