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2017年12月18日 (月)

赤沢朝経率いる京軍の大和侵攻~奈良の戦国

明応八年(1499年)12月18日、赤沢朝経率いる京軍が大和衆の籠る秋篠城を攻撃しました。

・・・・・・・・・・・

日本が真っ二つに分かれて戦った応仁の乱(5月20日参照>>)・・・約10年に渡るこの大乱は文明九年(1477年)11月に終わりを告げました(11月11日参照>>)が、もともと、将軍家や管領家などの複数の後継者争いが発端だった事や、そのそれぞれを支持する地方の武将が、それぞれ東西に分かれて戦った事、結果的にどっちが勝ったというハッキリした物も無かった事などがあって、京都を中心とした応仁の乱自体が終結しても、それぞれの地方の武将たちや、その配下の者の地元では、未だ小競り合いが続いていたわけで・・・

そんな地元のうちの一つが大和国(やまとのくに=奈良県)でした。

ここは、かの応仁の乱の口火を切る御霊合戦(ごりょうがっせん)(1月17日参照>>)をおっぱじめた畠山義就(よしなり・よしひろ)畠山政長(はたけやままさなが)らの河内畠山氏ドロ沼家督争い(7月17日参照>>)の影響をドップリ受けてる場所だったのです。

この河内畠山氏は、河内(かわち=大阪府東部)紀伊(きい=和歌山県&三重県南部)山城(やましろ=京都府南部)越中(えっちゅう=富山県)の守護を務め、足利将軍家の一門でもあり、室町幕府の三管領家(さんかんれいけ=幕府管領職(将軍の補佐役)をこなす三家:細川&斯波&畠山)の一つというスゴイ家柄・・・この時期、未だコレという突出する武将がいなかった大和地域では、それぞれの畠山家を支持する諸将が、応仁の乱さながらに東西に分かれて入り乱れ、反目を繰り返していたのです。
(大和衆の関わった応仁の乱の前哨戦=高田城の戦いは10月16日を参照>>)

しかし明応八年(1499年)10月、
大和の武士たちは「これではイカン!」と気がついた・・・

同じ大和の者同士で争い合うバカバカしさを悟った彼らは、それぞれの派閥トップである筒井(つつい)越智(おち)の間で10月27日に和議が結ばれた事をキッカケに、河内の争いを大和に持ち込まない事を約束し、今後は、大和を平和に導く事を誓い合ったのです。

残念ながら、古市(ふるいち)だけは、その合意に加わりませんでしたが・・・ま、この古市澄胤(ふるいちちょういん)は、去る明応二年(1493年)に山城の国一揆(12月11日参照>>)を鎮圧した事で大出世を遂げたうえ、時の管領=細川政元(ほそかわまさもと=応仁の乱東軍大将の細川勝元の息子)にも通じていたので、大和の国人衆の中でも一歩抜け出た雰囲気・・・なので「俺はお前らみたいなんとはツルまへんで~」てな感じだったのかも知れません。

ところが、ついこの間まで、政元が廃した前将軍=足利義稙(あしかがよしたね=義材・義尹)とツルんで政元に反発していた「筒井が、越智と和議なんてもってのほか!」「まだまだ河内の争乱に大和衆の勢力が必要だ」と思っていた政元が、今回の大和衆の合意に激おこ・・・大和の分裂を図るべく、配下の赤沢朝経(あかざわともつね=澤蔵軒宗益)を大和へ差し向けたのです。

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京軍の大和侵攻・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

こうして、朝経率いる数千の京軍が大和に隣接する南山城(みなみやましろ=京都府相楽郡付近)に押し寄せたのは12月12日・・・16日には、早くも、歌姫越えで大和に入り、秋篠村(あきしのむら=奈良県奈良市秋篠町)へ侵攻します。

迎える秋篠氏は、本拠の秋篠城(秋篠平城)に籠って徹底抗戦の構えを見せます。

この秋篠氏は、古代の渡来系埴輪作り集団=土師(はじ)の末裔とされる人物が、平安時代の初期に移り住んだ地名にちなんで秋篠安人(あきしののやすひと)と名乗ったのが始まりと言われますが、いずれかの頃からは、興福寺一乗院方の衆徒となっており、同じく興福寺に属していた筒井氏とは旧知の仲・・・ここ秋篠城には、筒井氏をはじめとする面々が籠っていたのです。

激しい戦闘が起こったのは、明応八年(1499年)12月18日でした。

大和衆の中で京側についた古市の軍を先頭に、大軍で押し寄せた京軍に対し、大和側は筒井に秋篠に宝来(ほうらい)超昇寺(ちょうしょうじ)といった弱小連合軍であったため、未だ全軍の統率がとれておらず・・・

逆に、一方の京軍は、その後ろ盾による武器の準備も万全なうえ兵糧の補給路などもすでに確保澄み・・・それゆえの士気の高さは最高潮です。

それでも、午前10時頃から始まった合戦では、大和勢も奮起して戦い、迎撃の軍勢を2度3度と繰り出して精一杯戦いますが、約6時間の戦闘の末、午後4時頃には、さすがの大和勢も疲弊し、まもなく、秋篠城は陥落しました。

敗れた者たちは散り々々に逃げ去り、勢いづいた京軍は、近くの法華寺(ほっけじ=奈良県奈良市法華寺町)喜光寺(きこうじ=奈良県奈良市菅原町:菅原寺)などの堂塔や僧坊に乱入し、破壊と略奪の限りを尽くし、しばらくの間奈良で大暴れしたのだとか・・・

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東大寺大仏殿のモデルとされる喜光寺本堂
(喜光寺への行き方は本家HP:奈良歴史散歩「西の京」のページでどうぞ>>)

その後、文亀元年(1501年)に、朝経は、古市と越智そして河内の遊佐(ゆさ)を、改めて大和の代官に任命して、一応の落ち着きを見せるのですが、やはり、「大和は大和武士の手で治めるべき」という考えが消える事は無く、永正二年(1505年)に再び、大和の国衆の間で盟約が成立したりしますが、翌年の3月には、またもや朝経率いる京軍が侵攻・・・

と、とにもかくにも、この間、春日大社(かすがたいしゃ)の御神木を持ち出して抗議したり、京軍の守りが手薄になる頃合いを見計らっては、手を変え品を変え場所を変え、メンバーも入れ替わったりしつつ、ゲリラ的活動を続けて行く大和の国衆たちと、それを鎮圧すべくやって来る京軍の戦いが続く事に・・・(9月21日参照>>)

しかし・・・
やがて、この堂々巡りな戦いが終わる時がやって来ます。

それは永正四年(1507年)・・・細川政元&赤沢朝経率いる京軍が、若狭(わかさ=福井県西部)丹後(京都府北部)の守護を務める若狭武田氏の第5代当主=武田元信(たけだもとのぶ)のピンチを聞きつけ、武田と対立する一色義有(いっしきよしあり)を攻めていた時、天皇からの帰京命令に、慌てて京都へと戻った政元が、自らの養子同士の後継者争いに巻き込まれて6月23日に暗殺(6月23日参照>>)・・・

その3日後の6月26日には、攻撃のさ中に、政元の死を知って京に戻ろうとした赤沢朝経も、不穏分子である丹後の国衆が起こした一揆によって命を落としてしまったのです。

こうして、大和侵攻のおおもとであった細川政元と、当事者であった赤沢朝経が、相次いで亡くなった事で、京軍からの脅威が無くなった大和の地・・・

これで、やっとこさ、大和の諸将は、自らの本拠地に戻って、領国の治世に力を注ぐ事ができる日々がやって来るわけです。

とは言え、世は戦国・・・奈良とて他者の影響を受けずにスルーし続けられるはずもなく、やがて、この大和の地も戦国の波に呑まれていく事になります。
天文十五年(1546年):貝吹山城攻防戦>>
永禄八年(1565年):筒井城攻防戦>>
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