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2018年1月25日 (木)

枚方宿~夜歩き地蔵と遊女の話

 

本日は、大阪は枚方(ひらかた)に伝わる昔話?民話?言い伝え?伝説?的なお話を一つ・・・
(今日は何の日?でなくてスミマセンm(_ _)m)

・‥…━━━☆

枚方は、京都から大阪湾へと流れる淀川(よどがわ)沿いの中間あたりに位置する事から、古くは『古事記』『日本書紀』にもその名が登場するほどに、古来より人の往来の盛んな場所でしたが、

Kyoukaidou
江戸時代の京街道と枚方の地図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

やがて豊臣秀吉(とよとみひでよし)が淀川治水のために構築した堤防=文禄堤(ぶんろくつつみ)の上に道をつけた形の京街道を整備し、それを受けた徳川家康(とくがわいえやす)が江戸時代になって、東海道を延長して、大津(おおつ)から伏見(ふしみ)宿(よど)宿枚方宿守口(もりぐち)宿と起点となる高麗橋(こうらいばし)を加えて、正式に「東海道五十七次」とした事で、益々賑やかな宿場町へと発展し、さらに淀川を三十石船が往来するようになると、その中継場所として、以前にも増して人の往来が盛んになっていました。(2007年8月10日参照>>)

Kurawankafunaydo
三十石船に物を売る             舟宿の賑わい(右)
枚方名物「くらわんか舟」(左)

そんな枚方宿には、最盛期には50軒以上の旅籠(はたご)舟宿(ふなやど)が軒を連ね、その中には旅人相手に春を売る遊女たちがたむろする遊郭のような物も存在していて、常に50人~150人の遊女たちが存在していたとされます。
(ちなみに、枚方宿において宿屋と遊郭の建つ場所が分けられるのは明治に入ってからです) 

現在の京阪電車枚方市駅の近くには、今も、東側に「大坂みち」、北側に「左京六り やわた二リ」と刻まれた「宗左の辻(そうざのつじ)と呼ばれる道標が建っているのですが、ここは、かの京街道と磐船(いわふね)街道の分岐点にあたり、言わば枚方宿の北の端・・・
Souzanotuzi1000
♪送りましょうか送られましょか
 せめて宗左の辻までも ♪

と、枚方宿の遊女たちが客を、ここまで見送りに来た場所と言われています。

そんな遊女たちに、恋愛成就の御利益があるとして信仰されてたのが、京街道沿いにある臺鏡寺(だいきょうじ)のお地蔵様・・・

Dscn2057a900
現在の臺鏡寺

このお地蔵様は、今も臺鏡寺の境内にある地蔵堂の中におわし、身の丈2mほどの堂々としたやさしいお顔のお地蔵様なのですが、その足元に少しキズがあり、汚れたような感じに見える事から、いつしか
Dscn2061a600 「これは、皆が寝静まった真夜中に、お地蔵様がこっそりと修行のために出かけられるためだ」
と囁かれるようになり
←「夜歩き地蔵と呼ばれて親しまれていたのです。

そんな賑やかなりし江戸時代の枚方宿で、毎日、この夜歩き地蔵様にお参りする、一人の遊女がおりました。

17歳になったばかりの彼女の願いはただ一つ・・・
愛しい男との恋を叶える事。。。。そう、彼女は恋をしていたのです。

それは、客として店にやって来た、(なぎさ)のお百姓の息子。

たまたま遊女と客という関係で知り合ったものの、彼女に一目ぼれした若者が、何度も何度も店に通い、逢瀬を重ねるうち、彼女の方にも恋心が芽生え、いつしか二人ともが「夫婦になりたい」と願うようになっていたのです。

しかし、貧しい家に生まれ、家族のためにその身を売って、ここにやって来ていた彼女には、この先、まだ10年ほどは遊女として働かねばなりません。

若者としては、何とか彼女を身請けするしかありませんが、それには五十両もの大金が必要です。

一介の百姓のセガレである若者に、そんな大金は作れません。

それどころか、客として彼女の店に通うお金すら、徐々に用意できなくなって来る・・・そこに追い打ちをかけるように、遊女にうつつを抜かして、農作業もウワの空になっている若者に、父親は激おこ(-゛-メ)

とうとう、若者を勘当同然で家から追い出してしまいます。

もはや、身請けどころか、会う事さえできなくなった二人・・・しかし、二人はあきらめる事ができませんでした。

「こうなったら、あの世で添い遂げよう」
いつしか、二人の間には、ともに死ぬ=心中の二文字が浮かび上がってきます。

まもなく春が来ようかという、ある夜、二人は示し合わせて、葦(あし)が生い茂る淀川の河原へと打ち出でて、最後の名残りを惜しんだ後、若者は、小刀で彼女の胸を一突きし、自身の喉を掻っ切って心中を計ったのです。

しかし、人間、自分自身ではなかなか死ねないもの・・・彼女は亡くなりましたが、若者自身の傷は思ったより浅く、その痛みに耐えかねて堤の上に這い上がったところを、通りがかった者に、彼は助けられてしまったのです。

ご存じのように、この江戸時代、心中は天下の御法度(2月20日参照>>)・・・男と女、両方が死んだ場合は「不義密通」として罪人扱いとなり、遺族らは葬儀も埋葬する事も許されません。

また、両方が生き残った場合も罪人として扱われ、一般人の身分をはく奪され、その後は非人として生きて行かねばなりませんでした。

そして、今回の二人のように、片方が生き残った場合は、生き残った者を死罪・・・それも、極刑にした後、先に死んだ者の遺体とともに公道に並べられて晒される事になっていたのです。

若者は、事件から3ヶ月ほど経った夏の暑い日、一旦埋められて、このために掘り起こされた彼女の遺体と対面し、その傍らで斬首され、その首は、彼女の遺体とともに晒されたのでした。

その日、死ぬ事でしか一緒になれなかった二人の悲しみを思い、かの「夜歩き地蔵」のお堂の前には、枚方中の遊女が集まって嘆き悲しむ姿があったのだとか・・・

もちろん、江戸時代の枚方宿においても、このような出来事は彼と彼女のただ一度ではなく、遊女と客の心中などは、何度か起こった事件なのだそうですが、なぜか、この二人のお話は、夜歩き地蔵の逸話とともに、今に伝わります。

・‥…━━━☆

高麗橋・守口宿・枚方宿・伏見の地図や写真&散策コースを本家HP「京阪奈ぶらり歴史散歩」にupしています。

よろしければ、
下記リンクからどうぞ(別窓で開きます)
大阪歴史散歩:中之島周辺(高麗橋)>> 
大阪歴史散歩:文禄堤と守口宿>>
大阪歴史散歩:京街道枚方宿へ>>  
京都歴史散歩:伏見周辺を歩く>>
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2018年1月18日 (木)

武田VS北条~薩埵峠の戦い(第2次)

永禄十二年(1569年)1月18日、北条氏政武田信玄を攻撃するため四万五千の軍を率いて駿河に出陣し、薩埵峠に布陣しました。

・・・・・・・・・・・

北東方面へと手を伸ばしたい甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)、上洛を見据えて西へと手を広げたい駿河(するが=静岡県中北部)今川義元(いまがわよしもと)、関東支配を強めたい相模(さがみ=神奈川県)北条氏康(ほうじょううじやす)・・・お互いの利害関係が一致した、この3者の間で相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)が結ばれたのは天文二十三年(1554年)の事でした。

しかし、その6年後の永禄三年(1560年)・・・強固な同盟の一角であった今川義元が、未だ領国の尾張(おわり=愛知県西部)一国すら統一していない若造(←失礼m(_ _)m)織田信長(おだのぶなが)に、あの桶狭間の戦い(2015年5月参照>>)敗れ、命を落としてしまったのです。

父の死を受けて義元の嫡男=今川氏真(うじざね)後を継ぎますが、これが、なかなかうまく行かない・・・氏真は、世間で言われているほどボンクラなボンボンではありませんが(3月16日参照>>)、なんせ、父の義元が大物過ぎましたから、早々に見切りをつけて離反する者もチラホラ・・・

それでも、しばらくは様子見ぃで同盟関係を保っていた信玄・・・なんたって、あの永遠のライバル=越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)との川中島(9月10日参照>>)だって、未だ決着ついて無いワケですし・・・

ところが、かの桶狭間キッカケで今川での人質生活から独立(2008年5月19日参照>>)した三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)が、このドサクサで旧領を自分の物にしたばかりか、隣国の織田信長と同盟を結んで、今川領の遠江(とおとうみ=静岡県西部)にまで手を伸ばす姿勢を見せ始めます。

Takedasingen600 「イカン!このままでは全部家康に取られてしまう~」
とばかりに、今川との同盟破棄に反対する息子の義信(よしのぶ)を死に追いやって(10月19日参照>>)まで信玄は方針転換・・・信長が間に入って「信玄が駿河を、家康が遠江奪う」という両者間の約束事を取り決めたのです。

もちろん、氏真から見れば
「何、勝手に取り決めとんねん!」です。

かくして永禄十一年(1568年)12月、信玄の南下を知った氏真は、重臣の庵原安房守(いはらあわのかみ)らに1万5千の兵をつけて薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)に出陣させます。

そこは甲斐から駿府(すんぷ=駿河国府)へ侵攻する際に必ず通るであろう重要箇所・・・氏真としては意地でも守らねばなりません。

「ここで武田軍を喰い止めておけば、遅かれ早かれ、必ず背後から北条が援助してくれるはず」・・・でした。

しかし、残念ながら、この薩埵峠で起こったのは小競り合い程度の小さな衝突のみ・・・現地に赴いた今川配下の者が早々に離脱し、戦いらしい戦いも無いままに、今川方は崩れてしまったのです(薩埵峠の戦い~第1次:12月12日参照>>)

これが第1次薩埵峠の戦いと言われる合戦です。

この勢いのまま翌12月13日、信玄は、氏真の本拠である今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市葵区)の攻防戦へと突入(12月13日参照>>)・・・猛攻を抑えきれない氏真は、妻子を連れて掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)へと逃走します。

そんな掛川城を包囲したのは信玄・・・ではなく家康
年が明けた永禄十二年(1569年)1月12日、いよいよ総攻撃を仕掛けるのですが・・・

そんなこんなの永禄十二年(1569年)1月18日、信玄の勝手な同盟破棄に激おこの北条氏政(うじまさ=氏康の息子)は、「敵の敵は味方」とばかりに謙信と結んだ後、武田と徳川に挟まれて窮地に追い込まれた氏真を支援すべく、4万5千の軍勢を率いて出陣し、かの薩埵峠へとやって来たのです。

氏政は、まず、掛川城への援軍として下田城(しもだじょう=静岡県下田市)の城将=清水康英(しみずやすひで)らに約300の兵をつけて海路より送り込み、主力は陸路を蒲原(かんばら=静岡県の中部)まで進み、信玄の背後を狙おうという作戦です。

Hojoujimasa200a ところが、この薩埵峠で1万8千もの武田軍に阻まれ、なかなか前へ進めません。

結局、この1月18日から4月20日までの間、小競り合い程度はあったものの、両者ほぼ対峙したままのこう着状態が続く事になるのです。

最終的に、掛川城にいた氏真が、謙信に信玄の背後を突く事を要請した事で、信玄は兵を甲斐へと戻し、一方の氏政も、信玄が常陸国(ひたち=茨城県)佐竹義重(さたけよししげ)などに工作を要請していた事を知って、自軍を一旦、相模へと戻しました。

結果、この第2次薩埵峠の戦いは「引き分け」という形で幕を閉じます。

ただし、この間も、徳川相手に籠城戦を続けていたかの掛川城は、結局、永禄十二年(1569年)5月17日に北条の仲介により開城を決意し、徳川と北条の和睦交渉が展開される中、氏真は北条を頼って相模へと逃れました(12月27日参照>>)

氏真が相模へ去った後も信玄は、駿河における更なる優位性を求めて関東各地を転戦するのですが、そんな信玄を、北条は三増峠(みませとうげ=神奈川県愛甲郡愛川町)にて待ち伏せして奇襲(10月6日参照>>)・・・互いに多くの死者を出しながらも、コチラもなんだかんだで引き分けに・・・

そんなこんなの11月28日、氏真の重臣であった岡部正綱(おかべまさつな)が、かの今川館を襲撃し、一時的に占拠します。

時を同じくして、北条に庇護を受ける氏真も、氏政の息子=北条氏直(うじなお)を養子に迎え、彼が駿河領有の正統な後継者である事を主張したのです。

こうして、さらに深刻化する武田VS北条・・・ここで武田を一気に潰そうと周辺の諸将への大動員をかける北条でしたが、一方の信玄も、「負けてはならじ!」とばかりに、12月6日には蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区)を攻撃して、城主の北条綱重(ほうじょうつなしげ=氏信・氏康の従兄弟)を討ち取り(12月6日参照>>)、続く12日には、北条勢が薩埵峠付近に展開していた砦(とりで)を次々に落として行ったのです。

これらの信玄の怒涛の進撃により、やむなく北条は駿河周辺から撤退する事に・・・

とは言え・・・
皆様ご存じのように、そんなこんなしている間に、将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて永禄十一年(1568年)に上洛を果たした(9月7日参照>>)あの織田信長が、畿内にて、その将軍にさえ物申す大きな存在になりつつあった(1月23日参照>>)わけで・・・

こうして、戦国は、更なる時代へと突入していく事となります。
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2018年1月10日 (水)

細川管領家後継者争い~高国VS澄元の腰水城の戦い

永正十七年(1520年)1月10日、細川高国摂津越水城を包囲する細川澄元三好之長勢に決戦を挑みました。

・・・・・・・・・・・・

あの応仁の乱に終止符を打ち乱世の梟雄と呼ばれた管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(ほそかわまさもと=細川勝元の息子)・・・

この政元に実子がいなかった事から、その死後に3人の養子
関白・九条政基(まさもと)の子・澄之(すみゆき)
阿波(徳島県)の細川家から来た澄元(すみもと)
備中(岡山県)細川家の高国(たかくに)
の間で繰り広げられた後継者争奪戦で、

Hosokawatakakuni600aはじめは、澄元と高国が組んで澄之を追い落としたものの(8月1日参照>>)、澄之がいなくなると、今度は澄元と高国の争いに・・・

永正八年(1511年)8月、京都の船岡山(京都市)でぶつかった両者(8月24日参照>>)・・・この船岡山の戦いで勝利した高国は事実上京都を制し、負けた澄元は、摂津(せっつ=大阪府北部)に逃亡した後、領国の阿波に戻って、態勢を立て直す事に・・・

Hosokawasumimoto400a やがて永正十六年(1519年)、秋頃になって、態勢を立て直した澄元が、四国勢を率いて、まもなく上洛するとの噂が立ち始めます。

この情報を知った池田城(いけだじょう=大阪府池田市)池田信正(いけだのぶまさ)は、父=貞正が命を落とした永正五年(1508年)の敗戦以来、奪われたままになっている領地を回復せんと、いち早く澄元に連絡をつけて田中城(たなかじょう=兵庫県三田市)に籠城し、
「その時には先陣を務めますので、ここを足がかりに上洛を…」
と、洛中へ入る拠点としての場所を提供します。

もちろん、高国方も、コレにすばやく反応・・・瓦林正頼(かわらばやしまさより=政頼)はじめとする高国配下の者が、すばやく集結し、永正十六年(1519年)10月22日夜、突如として田中城を攻撃したのです。

しかし、この時、敵方に内応者がいたため瓦林勢の動きは、池田側に筒抜け・・・しかも、この攻撃を察知して事前準備も万全にしていた事や、当日たまたま雨が降って、攻めるに困難を極めた事から、ほどなく瓦林勢は大敗し、兵は夜陰に紛れて敗走して行き、正頼自身は居城の腰水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)に籠城しました。

勝利した池田信正は、恩賞により弾正忠(だんじょうのちゅう=警察)に任ぜられ、豊島郡(てしまぐん=大阪府池田市周辺)を領地として与えられました。

こうして上洛の足がかりを得た澄元は、その10月のうちに、三好之長(みよしゆきなが)をはじめ、1万とも2万とも言われる四国勢を率いて兵庫(ひょうご)に上陸し、神呪寺(神咒寺=かんのうじ=兵庫県西宮市)に本陣を置いて、瓦林正頼らが籠った腰水城を包囲したのです。

一方、この澄元の状況を知った高国も、山城(やましろ=京都府南部)丹波(たんば=京都府中部・兵庫県東部)摂津など支配下の諸国人たちをかき集めて翌・11月21日に京都を出陣し、12月2日(もしくは6日)には池田城に入城し、ここを拠点として臨戦態勢に入ります

その後、高国勢は武庫川(むこがわ)に沿うように、その上流から下流に向けての昆陽(こや=兵庫県伊丹市)野間(のま=同伊丹市)瓦林(かわらばやし=兵庫県西宮市)浜田(はまだ=兵庫県尼崎市)などに布陣し、しばらくの間、睨み合いが続きました。

そんな中、こう着状態をたち割るように12月19日(18日とも)に大きな戦闘が行われ、四国勢数百人が討死にし、「その中には三好之長父子も…」という噂も流れましたが、三好父子の討死には誤報でした。

とは言え、この時は大きな痛手を受けた四国勢・・・しかも、瓦林勢には「那須与一(なすのよいち=参照>>の再来」とうたわれた弓の名手=一宮三郎なる人物がいて、四国勢もなかなか攻めあぐねていたのです。

そんなこんなの永正十七年(1520年)1月10日いよいよ両者は大決戦となります。

さすがに現政権派とあって、高国軍も、この頃には2万ほどにふくれあがっておりました。

『細川両家記』によれば・・・
午後4時頃から開始された戦いは、高国方の伊丹国扶(いたみくにすけ)中村口(伊丹市)から切り崩しを開始し、四国勢に襲いかかると同時に腰水城からは瓦林勢が撃って出て四国勢の諸将を相手に奮戦・・・この局地戦では高国方が大いに成果をあげました。

しかし、この日の午後8時頃まで・・・約4時間に渡って繰り広げられた戦いは、上記の夕方の局地戦では高国側が有利だったものの、全体では、四国勢の戦死者は100余名、高国勢は、その倍の200余名の犠牲者を出してしまっていたのです。

その後も、断続的に戦いは繰り広げられていきましたが、やがて腰水城の兵糧が枯渇しはじめ、籠城を維持できなくなってしまった事から、永正十七年(1520年)の2月3日、劣勢を挽回できないまま城将の瓦林正頼は、腰水城を放棄し、武庫川の左岸へと逃亡したのです。

この時、高国自身は、腰水城の救援に向かうべく本隊を移動させていましたが、腰水城の落城には間に合わず・・・やむなく撤退するところを、澄元に同調する国衆=西岡衆(にしのおかしゅう=京都・乙訓地域の自治を担った武士集団)に襲撃されたため、六角定頼(ろっかくさだより)を頼って(この時の六角氏は定頼の父=六角高頼が主導の説もあり)近江(おうみ=滋賀県)坂本(さかもと=大津市)へと逃れて行きました。

こうして、京の町は、一時的に澄元派が牛耳る事になりますが、もちろん高国も、このままでは終われません・・・いや、むしろ、ここから、ラッキーも加わって、高国はこの世の春を迎える事になるのですが、その続きのお話は、わずか4ヶ月後の永正十七年(1520年)5月5日に勃発する等持院表(とうじいんおもて)の戦い(5月5日参照>>)でどうぞo(_ _)oペコッ
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2018年1月 5日 (金)

恭賀新春!「おんな城主 直虎」と「アシガール」の感想とか

 

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明けましておめでとうございますfuji

本年も、どうぞ宜しくお願いしますm(_ _)m

・‥…━━━☆

早速ですが・・・
新しき年の大河ドラマが始まって、気持ちがソッチに切り替わらないうちに、昨年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」ドハマリした「アシガール」について、あくまで、個人的な感想をチョコチョコと書かせていただきたいと思います。

まずは、「おんな城主 直虎」・・・
と、言っても、昨年の冒頭に1度チョコッと書かせていただいた限りで(昨年1月のページ>>)、ほとんど感想は書いていないのですが、その冒頭に書かせていただいた通り、結局は韓流時代劇っぽい少女漫画のようなドラマでしたね。

あ、でも、これは「悪い」という意味では無いです~私は韓流時代劇も見ますし、少女漫画も大好きです。

ただ、大河ドラマでのソレはちょっと残念かな?
個人的な思い込みの問題ですが、大河では、もう少しダイナミック感?重量感?みたいな物が欲かったように思います。

・・・にしても、これほど合戦シーンの無い戦国モノも珍しいと思いますが、そこは、合戦に出た記録が無い・・・てか、そもそも史料自体がほとんど残っていない女性が主人公なのだから、戦国モノと言えどいたしかたない部分もありますね。

ただ、やっぱり、あの少女漫画のようなラブラブシーンには、もともと恋愛モノ自体が苦手な私には受け入れがたく・・・(←個人の感想です)

最近の回で言えば、本能寺の変の時に、南蛮人の協力を得るために美人局(つつもたせ)的な事やってましたが・・・
惹かれ合う男女が、その思いを素直に表現できず、
不良っぽい男が、「そんなら、お前、援助交際やってみろや!(そんな勇気もないくせに)みたいな雰囲気で言えば、
お嬢様な女は、(できないと思ってるのね)やるわよ!」と意地になって・・・

けど、実際に、その場面になれば、結局、彼女を救おうと、愛しい男が、現場に助けに来る・・・て、
往年の学園ドラマか?・・・「愛と誠」かいな?

いや、私は「愛と誠」は毎週少年マガジン買ってたし、学園ドラマもメッチャ見てましたが、これは、やっぱり青春真っただ中の10代の二人がやるべき展開なのでは?

確かに、演じている柴咲コウさんは36歳で、柳楽優弥さんは27歳なので絵的には大丈夫ですが、物語の設定としては、直虎は、すでに50歳前後ですよね?
もそっと、大人の恋をしても良いお年頃かと・・・

直虎の死を連想させる場面では、直虎以下、井伊直親小野政次龍雲丸らが子供時代の姿に戻って井戸を覗き込むシーンがありましたが、これが、一人の女=直虎に、男3人が恋をしているイケメンパラダイス状態かと思うと、なんだか複雑ですな。

とは言え、最終回はかなり良かったです。
天正壬午の乱からの井伊の赤備えの誕生(10月29日参照>>)もやってくれはりましたしね。
直虎主演で最終回を迎えるなら、ここがベストというポイントでの見事な最終回でした。

ただ、その一つ前の本能寺の変は、やはりサブタイトル通り「本能寺が変」でしたね。

もちろん、これまでドラマ等では描かれて来なかった『信長による家康暗殺計画説』を採用されたのは斬新でした。

私は、以前も書かせていただいていますように、この『信長による家康暗殺計画説』(2016年6月2日参照>>)には否定的ですが、ドラマや小説などの創作物語として描くぶんには、なかなかオモシロイと思います。

ただ、これも・・・
昨年最後の更新のページ=「日本史の新発見&発掘…2017年総まとめ」(12月31日参照>>)でお話させていただいたように、本来ならばトップシークレットで秘密裏に進めないといけない謀反の話を、ドラマでは、いろんな人がいろんなところにしゃべりまくり・・・よく、この状態で、信長側に謀反がバレなかったな~と
(まぁ、ドラマの中では、「家康暗殺計画」自体が信長の命なのか?光秀の虚言なのか?がハッキリしてませんでしたが…)

しかも、ターゲットがもし信長なら約100名、もし家康なら約4~50名ほどを相手に戦うはずなのに(信忠の馬回りを入れても数百です)、結局、明智光秀は自軍の1万3000もの大軍を率いて謀反を起こす・・・この状況に、人質まで差し出して今川氏真や直虎や徳川家康に、何を協力してほしかったのか???

さらに、
案の定、織田信忠(信長の嫡男)の件は、「二条御所で合戦になっております」の一言でスルーされてしまったし・・・
秀吉は出てこないし・・・
そんで、かの南蛮人相手の美人局(←未遂)だし・・・
残念ながら、アホな私には理解できない展開でした~ゴメンナサイ。

ほんで以って、戦国を終わらせ平和を願うという直虎が、「それができるのは家康様」って・・・
そりゃ、井伊家は徳川によって盛りたてられたので、ドラマ的には仕方ないとは思いますが、いち秀吉ファンといたしましては、
「家康の前に秀吉が天下統一して、一旦、平和な日本を造ってますやん」
「それを家康が一度壊してから、新政権樹立するんですやん」

と、あまりの秀吉シカトぶりが悲しい・・・

とは言え、上記の感想は、あくまで重箱の隅・・・全体的に見れば、なかなかオモシロく、特に後半は盛り上がった感ありました。

そんな中、今回の大河ドラマと並行するように、この10月~12月にかけて、個人的に楽しんでいたのが、同じくNHKの土曜時代ドラマ「アシガール」です。

いや、楽しんだでは済まされ無いほど・・・不肖ワタクシ、ウン10年生きて来た中で1位・2位を争うほどに面白いドラマでしたホント。

原作は少女漫画で、土曜日の18時代の放送・・・つまり、主たるターゲットは10代の女子だと思われる時代劇で、出て来る人は全員架空の人物。

陸上部員で、走る事が得意なだけの普通の女子高生が、発明が得意な弟が作ったタイムマシンで戦国時代に行って、そこで出会った若君に一目惚れをする中、その若君の一族が、まもなくの永禄二年(1559年)に滅亡する事を知って、何とか若君を助けようと足軽になって奔走するという(足の速い女子高生が足軽=なのでアシガールです)
まさに荒唐無稽な内容で、実際にはあり得ないようなご都合主義な展開が繰り広げられます。

なんせ、よくあるタイムスリップと違って、コチラはタイムマシンなので、平成と戦国を行き来でき、負けるはずの戦いに勝つためのアイテムを平成で調達して戦国に飛ぶとか、ひん死の重傷を負った若君を平成に送って治療しちゃうとか・・・もう、やりたい放題です。

そんなこんなで、フツーの平成の女子高生が、危険いっぱいの戦国時代を見事に生き抜くどころか、氏素性もわからないまま若君に近づいて、最終的には、その若君とラブラブになっちゃうわけですから・・・

少女漫画原作ならではの主人公と若君の胸キュン場面もワンサカで、それこそ直虎のラブラブシーンどころの騒ぎじゃありません。

ところが、この「アシガール」は、なぜか嫌悪感を抱かせない・・・この違いは何だろう???
(上記の通り、本来は恋愛モノはあまり好きじゃないんですが…)

てな事で、自分なりに色々分析してみましたが・・・
1番は、何といっても、大河で鍛えたNHK様の戦国時代の再現度の素晴らしさ!です。

その放送時間帯をみても・・・
大河で使用された衣装がリサイクルされる事山の如しなところからみても、
おそらくは大河よりはるかに少ない予算で撮影されているであろうにも関わらず、これまで培った、さすがのNHK様の時代劇作りのスキルを生かしての戦国再現がお見事!

ストーリーはおおむね原作に沿いながらも、少女向けの作品を、見事に老若男女が楽しめるドラマになるよう、うまく変更された脚本や演出もさることながら、

原作では、天守閣が描かれていた若君の居城が、ドラマでは、まさに永禄二年っぽい、居館の周囲に柵や土塁を張り巡らせたような造りになっていたり(天守閣らしき物は永禄七年(1564年)の多聞山城参照>>、ハッキリと天主と明記されたのは天正四年(1576年)の安土城が初かと…参照>>

同じく原作では、その名の通りの女性だった主人公を助ける猿楽一座のあやめ姉さんが、ドラマでは女形の男性役者になっていたり・・・(出雲阿国の登場は、もうチョイ先…慶長の頃かな?=参照>>

セットに関しても、
若君のお城は、ほとんどが板の間で、殿様の座る部分にだけ畳があるのに対して、敵方の武将の城には畳敷きの広間があって、この永禄二年(1559年)の段階で(数は多く無いものの)鉄砲隊もいる(鉄砲伝来は天文十二年頃(1543年=参照>>)で、例の長篠の合戦は天正三年(1575年=参照>>)・・・つまり、ナレーションも説明も無しに両者の力関係がわかる造りになってたり・・・

と、ストーリーは荒唐無稽ながら、戦国時代の再現度は、歴史好きを満足させるに充分なレベルなわけで・・・。

ちなみに、原作にも登場する主人公の家来になる黒人さんについてはギリセーフ?(日本に来た黒人さんの初記録は天文十五年(1546年)=参照>>
また、最終回で兄上様が「西の丸に美しい桜がある」と、「曲輪(くるわ=郭)の事を「丸」と言ったのは、ご愛敬という事で・・・(←ちょいと早い気もするけど、もともと曲輪が丸に変化した理由や時期がハッキリしないし曲輪だとお城とかに興味の無い人には解り難いでしょう)

さらに、予算の都合上、やや小ぶりではあるものの、最近の大河では、とんとお目にかかれなくなった合戦シーンもちゃんと描かれ、そこここに登場する太刀合いもなかなかの迫力!!
そして、何といっても、キャストの皆様の立ち居振る舞いが美しい~

あの戦国武将が床に座る時の胡坐(こざ・あぐら)・・・その胡坐の姿勢から、上半身をほとんど動かさず、膝もつかず、手も使わず、スッと立つ、あの感じ。

また、ピンとした姿勢で音も無くスススッと廊下を歩いたり、
部屋に入って来て、クルリと回って上座を向いて、そのまま胡坐する、一連の流れるような動作とか・・・若君もジイも、ちゃんと右側から乗馬するしねww

合戦も太刀合いも所作も、まるで往年の大河ドラマを見ているよう・・・だからこそ、戦国時代の人々が、まるで、そこに生きているかのようにリアルに感じられて感情移入ができ、視聴者が嫌悪感を抱かないのだと思います。

もともと、主役からチョイ役に至るまで、「神か」と思うほど役にピッタリな俳優さんたちが生き生きと動く・・・
(もちろん、現代のシーンの俳優さんたちもピッタリ役にハマッてますが…)

そんな、往年の大河のような立ち居振る舞いは、何度も時代劇を経験されているベテラン勢は、すでに身につけておられるのかも知れませんが、主人公の相手役の若君を演じた健太郎さんは、今回が時代劇初出演だとか・・・おそらく、かなりの練習をされたのだと思います。

主人公の黒島結菜さんとともに、主役を張った若いお二人は、その演技力も含め、これからの活躍に目が離せません。
(なんせ、この3ヶ月の撮影の間にも、どんどん成長してはったので…
若いってイイなぁ(*^-^))

残念ながら、最近の大河での若手の方は、乗馬や太刀合いの場面もほとんどなく・・・たまに入る胡坐から立ち上がるシーンでも、途中から上半身や顔へのズームアップになっていて、全身や足元が、あまり映らず、何となく、カメラワークで誤魔化されてる?感が拭えない・・・
まぁ、それもスタッフ様のテクニックの一つでしょうし、そもそも最近は時代劇自体が少なく、若い俳優さんが経験を積む場も、ほぼ無いのが現状なので仕方ない事なのかも知れませんし。。。

とにもかくにも、
昨年秋の「アシガール」を見ていて、つくづく感じたのは、物語の中でつじつまが合っていて、時代考証がしっかりしていて、俳優さんの立ち居振る舞いが美しければ、例えストーリーがファンタジー満載でも、見ている側は嫌悪感を抱かないのだという事・・・

どうぞ、NHK様、これからも、このような時代劇を作って行ってくださいませ。
(原作が、まだ継続中のようですので、良かったら続編をm(_ _)m)
まぁ、タイムマシンありきのドラマが時代劇か?と言われると困るんですけどね(*´v゚*)ゞ

以上、
年が明けた今も、どっぷりハマったまま、「アシ抜け」できない茶々のつぶやきでした~

さぁ!今年の大河に期待するゾ~~~o(*^▽^*)o

・‥…━━━☆

2018年2月18日追記:
「アシガール」の続編SPの制作
が決定しました!

再放送の最後に告知があり、続編SPが制作されるようです。
詳細はおいおい告知されるみたいですが・・・
上記の通り、原作はまだ続いてますからね。

原作者の方は、コミックのあとがきに
「この結末を思いついたからこそ、この物語を書き始めた」
とおっしゃっているので、ラストの落とし所が難しいタイムスリップ物の秀逸なラストシーンを期待しております。

もちろん、ドラマはドラマなので、原作とは違う感じに持っていかれるやも知れませんが、
それはそれで期待大ヽ(´▽`)/

いずれにしても、ホント楽しみです。
ワクワクしながら、待ってますheart01平成で…

追記の追記:
「アシガール」の続編SP2018年12月24日のクリスマスイブに放送予定!
だそうです。
楽しみです(*^ω^*)ノ彡
 .

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