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2018年2月 2日 (金)

織田信長~本圀寺の変からの二条御所の築造

永禄十二年(1569年)2月2日、織田信長足利義昭新御所の築造を開始しました。

・・・・・・・・・・

ややこしいので、まずは・・・
京都において歴史上、二条御所(にじょうごしょ)と呼ばれた建物は3つあり、二条城(にじょうじょう)と呼ばれる城も3つあります。

ただし、
このうち、1番目の二条御所が二条城と呼ばれる事はほとんど無く、2番目&3番目の二条御所が二条城とも呼ばれてカブッていて、最後の二条城が二条御所と呼ばれる事は無いので、合計で二条ナンタラは4ヶ所という事になります。

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二条城の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

  1. 二条御所(武衛陣御所)=足利義輝の居城
  2. 二条御所または二条城=足利義昭の御所
  3. 二条御所または二条城=織田信長の宿所
  4. 二条城または二条離宮=徳川家の宿所

この4番目の二条城が、徳川家康(とくがわいえやす)が京都に滞在する時の宿所として建てた現在も建物が残る世界遺産の二条城(5月1日参照>>)、明治維新で新政府に明け渡されて天皇家の離宮となっていた事から二条離宮元離宮とも呼ばれたりしますが、このブログでは、そのまま「二条城」と呼んでます。

また、上記の通り、3番目のは二条御所とも二条城とも二条御新造とも呼ばれますが、これが、織田信長(おだのぶなが)が京都に滞在する時の宿所として建てた物で、後に時の天皇である正親町天皇(おおぎまちてんのう)の第1皇子の誠仁親王(さねひとしんのう)に献上・・・有名な本能寺の変の時に、変を知った信長の嫡男=織田信忠(おだのぶただ)が、宿泊していた妙覚寺(みょうかくじ)から移動して籠城して最期を迎える場所(2015年6月2日参照>>)、このブログでは、いつも「二条御所」と呼ばせていただいてます。

で、今回の話題は、この2番目の第15代室町幕府将軍=足利義昭(よしあき)のために信長が建てた二条城の事で「旧二条城」と呼ばれたりもするのですが、ややこしいので、このブログでは「二条御所(義昭御所)と呼ばせていただく事にします。

ちなみに、1番目は剣豪将軍と呼ばれた第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる=義昭の兄)(5月19日参照>>)の居所で、規模は少し小さいものの、場所は今回の義昭御所とほぼ同じ場所であったとされています。
(このブログでは「二条御所(武衛陣御所)と表記させていただいてます)

・‥…━━━☆

ご存じのように、永禄十一年(1568年)9月、足利義昭を奉じて上洛を果たした信長(9月7日参照>>)・・・

これは、上洛の大義名分&手土産が欲しい信長と、将軍の座を狙うも従兄弟の足利義栄(よしひで=14代将軍)に先を越されてしまって、慌てて自分を担いでくれる武将を探していた義昭との利害関係が一致した結果でした(10月4日参照>>)

途中、義栄を支持する六角承禎(じょうてい・義堅)(9月13日参照>>)三好三人衆(みよしさんいんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)を蹴散らし(9月28日参照>>)、10月18日には、見事、義昭が15代室町幕府将軍に就任(10月18日参照>>)、ようやくの一区切りを迎えたのです。

とは言え、当然ですが、蹴散らされた敵勢も、そのまま黙って蹴散らされっぱなしって事は無いわけで・・・

信長上洛時の戦いで敗れて、一旦領国の阿波(あわ=徳島県)に逃れていた三好三人衆は、年が明けた永禄十二年(1569年)の1月4日、かつて信長に稲葉山城(いなばやまじょう:後の岐阜城=岐阜県岐阜市)を攻め落とされた斎藤龍興(たつおき)(8月15日参照>>)長井道利(ながいみちとし)(8月28日参照>>)などを抱き込んで、その時、義昭が仮御所として宿泊していた本圀寺(ほんこくじ=当時は京都市下京区付近)を包囲したのです。

この時、信長は、一旦、岐阜へ戻っていた・・・そのスキを狙われたわけですが・・・

とは言え、籠る義昭側も細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)(7月28日参照>>)らの幕府精鋭たち・・・翌1月5日に開始された攻撃に対して、斬りかかれば追いたて斬り崩し、何度も敵の侵入を阻みつつ応戦します。

そんな中、なかなか攻め込めずにいた三好三人衆方に、翌6日になって、あの上洛時に三人衆とは袂を分かち、信長の傘下となっていた三好家の嫡流である三好義継(みよしよしつぐ=長慶の甥で養子)(11月24日参照>>)が、「攻撃中の背後を攻めて来る」との報告が入り、徐々に攻撃の手が緩みます。

やがて、池田勝正(いけだかつまさ)などの摂津(せっつ=大阪府北部)の武将たちもが織田側として参戦するに至り、さすがに形勢不利とみた三好三人衆方は退却を開始・・・追う織田勢は桂川あたりで追いついて激戦となり、多くの者が討死にしたと言います。(「本圀寺の変」もしくは「六条合戦」と呼ばれます)

一方、その同じ1月6日に、岐阜にて本圀寺の仮御所が襲撃された事を知った信長は、義昭を救援すべく、配下の者に、すぐに出立の命令を出しますが、この日はあいにくの大雪・・・それでも、「たとえ自分一人でも駆けつける!」との意気込みで、アタフタと揉める輸送隊や人夫をしりめに、「後からついて来い!」とばかりに岐阜を出立します。

本来なら3日かかるところを2日での強行突破に脱落する者数知れず・・・信長が京都に着いた時には、従う者はわずか10騎だったとか・・・

到着後は、慌てて仮御所に駆け込む信長でしたが、ギリで守りぬいた事を知り一安心。

しかし、この襲撃を受けて、
「これではイカン!早急にちゃんとした御所を建設せねば!」
と信長は決意し、早速、配下の大名たちを招集し、御所の普請を命じたのです。

かくして永禄十二年(1569年)2月2日(『信長公記』では2月27日)、義昭の新御所・・・いや、それは四方に石垣を高く築きあげた、むしろ城と呼ぶにふさわしい堅固な造りの御所構築に取りかかったのです。

『信長公記』によれば、
工事監修の奉行は村井貞勝(むらいさだかつ)島田秀満(しまだひでみつ)が担当し、京都内外から鍛冶や大工の職人を召集・・・また、広く近隣の村々から木材を調達して、猛スピードでありながら手を抜く事なく務め上げたおかげで、わずか70日ほどで、ほぼ完成の状態となったのだとか・・・

将軍の御所らしく、あちらこちらに金銀を散りばめ、庭には流水の池や築山も造営されました。

その際、先の上洛の時に三好三人衆に担がれていた管領=細川昭元(ほそかわあきもと=晴元の息子)の屋敷にあった藤戸石(ふじといし)という名のある大石を、この庭に置こうとひらめいた信長は、自ら細川邸に出向き、大綱を何本もくくりつけた石に、いくつもの花を挿して飾り、笛や太鼓で囃したてつつ、まるでパレードのようにして御所の庭に引き入れたのです。

京都市民へのアピールですな!!
これからは俺らの時代やと・・・

さらに慈照寺(じしょうじ=銀閣寺)の庭に置かれていた九山八海(くさんはっかい)という有名石を取り寄せて御所のお庭に設置・・・って、昭元は敵対したからまだしも、銀閣寺は足利のご先祖様の造った寺やけど大丈夫やったんやろか?

とにもかくにも、春が楽しみな桜も、余すところなく植え、桜のそばには馬場を設け、美しく眺めの良い庭園に仕上げました。

そして、将軍御所の周囲には諸大名にそれぞれの自邸を造らせて、その(いらか)の波は将軍御所をいっそう惹きたて、まるで御所を守っているかのように見えたのだとか・・・

やがて4月14日、義昭が完成した新御所に入りました。

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洛中洛外図屏風に描かれた義昭御所(上杉本・左隻)

とは言え、ご存じのように、このわずか4年後の元亀四年(天正元年・1573年)正月、この義昭御所から、義昭は信長に反旗を翻します(2月20日参照>>)

この時は、一旦、和睦が成立するも、その半年後の7月、義昭は槇島(まきしま)に籠って、またまた信長に反旗を翻し、結果的に京都追放となるのですが、そのお話は
7月3日【琵琶湖の水運と信長の大船建造】>>
7月18日【槇島城の戦い秘話】>>
でどうぞm(_ _)m

にしても、この時の義昭さんの立位置ときたら・・・
信長さんの成すがまま、言う事を聞いていれば良かったのか?
はたまた、結果的に負けたとしても、やっぱり室町幕府将軍としてできうる限りの反発姿勢を出した事が○だったのか?

正解を出すのは難しいですわな(^-^;
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コメント

時代が時代ですから仕方なかったとも言えますが、彼には終始一貫したポリシーがなかったように思えます。
神輿が勝手に歩き出すと担ぎ手(信長)はそりゃ怒るでしょう。
でもいずれは琵琶湖にでも投げ捨てようと思っていた信長には、口実を設ける必要がなくなってニンマリだったかも。
曲がりなりにも将軍家ですから、弓を引くには躊躇いもあったと思います。
京都追放の後結構長生きしたようで、秀吉の御伽衆に加えられ穏やかな晩年を過ごしたとか。
それを思うと業火の中で滅した信長よりも幸せだった…のかな?。
そこで僕なりの結論、義昭は大阪で言う「ええしのボンボン」っだと思います。

投稿: masa | 2018年2月 2日 (金) 21時27分

この話とは無関係ですが、淀殿を詳しく扱ったサイトをご存知ではないでしょうか?
徳川方に稀代の悪女に仕立て上げられていますが、結構僕は好きなんです。
太融寺にあるお墓にも以前お参りに行きました。

投稿: masa | 2018年2月 2日 (金) 21時45分

masaさん、おはようございます。

私は、信長さんは意外にイイ人だったと思っていますので、反発さえしなければ、ウマくいってたような気もしますが、義昭さんは義昭さんなりのプライドがあったのかも知れませんね。

>淀殿を詳しく扱ったサイトをご存知ではないでしょうか?

すみません。
ネットでは古文書のデジタル保存や大学の論文などはよく見るのですが、一般の方の歴史のサイトを見る事があまり無いので、よくわかりません。
申し訳ないです。

投稿: 茶々 | 2018年2月 3日 (土) 06時03分

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