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2018年2月22日 (木)

織田信長の雑賀攻め序盤~孝子峠の戦いと中野落城

天正五年(1577年)2月22日、織田信長による雑賀攻め初の交戦=孝子峠の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・

元亀四年(天正元年=1573年)には、自らが担いでいた神輿(9月7日参照>>)=第15代室町幕府将軍=足利義昭(よしあき・義秋)追放(7月18日参照>>)し、その1ヶ月後には、越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)(8月6日参照>>)近江(おうみ=滋賀県)浅井長政(あさいながまさ)滅亡させ(8月28日参照>>)、2年後の天正三年(1575年)5月には長篠で武田勝頼(たけだかつより)破り(5月18日参照>>)、翌・天正四年(1576年)には安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)構築に着手(2月23日参照>>)、まさに天下への上り調子を見せつけていた織田信長(おだのぶなが)でしたが・・・

Odanobunaga400a 一方で、その間、そんな信長を最も手こずらせていたのが、各地の一向一揆を扇動する本願寺の第11代法主(ほっす)顕如(けんにょ)でした。

そもそもは元亀元年(1570年)9月、本拠の石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)に近い野田福島(のだ・ふくしま=大阪市都島区・福島区)で勃発した信長VS三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)の戦い(8月26日参照>>)に、教祖様自らが参戦を表明(9月12日参照>>)して以来、翌・元亀二年(1571年)の5月には長島(ながしま=三重県桑名市)にて長島一向一揆が勃発(5月16日参照>>)し、同年の9月には近江の一向一揆(9月3日参照>>)、天正二年(1574年)1月からは越前一向一揆(1月20日参照>>)と・・・

まぁ、とにかく、上記の武将たちと戦いながら、一方でそれらの一向一揆を潰して行く信長ではありますが、
長島一向一揆の終結】>>
【越前一向一揆の終結】>>
当然、本家本元の石山本願寺を何とかせねばならないわけで・・・

そんな中、上記の越前一向一揆を制しついでに加賀(かが=石川県)をも配下に治めたうえに、安土築城でルンルン気分の信長に迫るように、天正四年(1576年)3月、越中(えちゅう=富山県)に侵攻して来た上杉謙信(うえすぎけんしん)(3月17日参照>>) ・・・

その2ヶ月後の5月には、信長VS顕如の直接対決=石山合戦の中でも屈指の激戦である天王寺合戦(5月3日参照>>)が起こったばかりか、その半月後には、長年対立していた本願寺と謙信が、敵の敵は味方とばかりに和睦・・・(5月18日参照>>)

しかも、7月には第一次木津川口の海戦(7月13日参照>>)で本願寺に悩まされ、8月には謙信が飛騨制圧(8月4日参照>>)で信長のヤバさは倍増します。

そこで信長、石山本願寺を直接潰す事より先に、かの天王寺合戦で、かなり目立つ加勢をしていた雑賀(さいが・さいか)を潰す事にします。

この雑賀衆というのは、紀州(きしゅう=和歌山県)紀ノ川下流域に住む土着の人々の集団の事・・・このあたりは、もはや名ばかりとなった守護=畠山氏をしり目に、高野山(こうやさん=金剛峯寺を中心とした宗教都市・和歌山県伊都郡高野町)根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市)といった宗教勢力や彼らのような土着民が、それぞれに自治をする状況となっていたのですが、

そんな中で、雑賀衆と呼ばれる人たちは、現在の和歌山市から海南市あたりを支配していたものの、そこは、農業に適した土地もある一方で適さない地域もあって、その土地争いが激しかったり、農業に頼らず、その経済基盤を交易に求める者もいたり・・・

で、自然と利益を守るための武装も強化されるし、交易するならするで、和歌山という土地柄、船で海路を行くのが手っ取り早いし、各地を移動すれば、当然、最新のハヤリ物にも敏感になるわけで・・・結果お抱えの水軍も保持し、大量の鉄砲も保有し、その操作に熟練した者も、雑賀衆には数多くいたわけで、その戦闘力もハンパない。

そんな彼らが、石山本願寺側に付いて、あの天王寺合戦で・・・となったわけです。

おそらく信長は、この天王寺合戦のあたりから、「本願寺より、まずは雑賀を…」と考え始めたようで・・・というのも、雑賀衆と一口に言っても、決して一枚岩ではなく、彼らは、それぞれの利害関係によって別々に動く集団でもあったわけで・・・

たとえば、雑賀衆の支配圏は、大まかに分けて雑賀庄(さいかのしょう)十ヶ郷(じっかごう)宮郷(みやごう)中郷(なかつごう)南郷(なんごう)という五つの(そう=地域の共同体)に分かれていたとされますが、宮豪・中郷・南郷と呼ばれる農業が盛んな三組は、はなから信長側についていたわけで、信長としては、そこに攻撃の余地があったという事でしょう。

しかも、ここに来て、紀伊の宗教勢力の一角である根来寺も信長の味方・・・と言っても、コチラは積極的な味方ではなく、「敵には回らない」「道案内くらいならするよ」という感じで話をつけていたようですが・・・

とにもかくにも、信長一代の戦史でもトップクラスの数の多さ=数万(あるいは15万とも)と言われる大軍となった織田軍は、天正五年(1577年)2月13日に京都を出発・・・

途中、悪天候により、少々ストップしたものの、17日には雑賀衆の前線拠点である貝塚(かいづか=大阪府貝塚市)に到着・・・ここを襲撃するはずでしたが、ここの守りの者たちが、いち早く退却したため、ここでは、逃げ遅れた若干名が討ち取られたものの、大きな交戦とはなりませんでした。

これについては、「どうやら、信長軍を雑賀支配圏の奥深くまで行かせようとの作戦で、前線はさっさと退却をさせたのでは?」と言われていますが・・・

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信長の雑賀攻め・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして、その5日後の天正五年(1577年)2月22日志立(しだち=大阪府泉南市信達)に到着した織田軍は、ここから、海側を行く浜手と内陸を行く山方の2手に軍勢を分け、進撃していきます。

孝子峠(きょうしとうげ=大阪府泉南郡岬町と和歌山市の境)を越えて、紀ノ川の北岸の雑賀の支配地制圧を目指す浜手には、滝川一益(たきがわかずます)明智光秀(あけちみつひで)丹羽長秀(にわながひで)細川藤(ほそかわふじたか=幽斎)などの面々・・・

一方、風吹峠(かざふきとうげ=和歌山県岩出市)を越えて根来に入り、紀ノ川をを越えて小雑賀(こさいが)に迫ろうとする山方には、佐久間信盛(さくまのぶもり)羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)荒木村重(あらきむらしげ)別所長治(べっしょながはる)堀秀政(ほりひでまさ)根来や雑賀の味方衆を加えた面々・・・内陸を進むには地の利が重要ですからね。

こうして2手に分かれたうちの浜手は、さらに、その軍を3手に分け、中央には細川&明智、2の手に信長の息子たち=信忠(のぶただ)信雄(のぶお・のぶかつ)信孝(のぶたか)を据え、残りはもう1手・・・とに分かれて、浜から山から谷からと、入り乱れて進み、この22日の内に淡輪(たんのわ=丹和)から孝子峠まで進み、そこを守る雑賀衆と一戦を交えました。

雑賀衆にとっては、この孝子峠は貝塚の次ぎに控える重要な守りポイントであったわけですが、上記の通り、信長の息子3人が皆、この浜手に属している事からみても、おそらく、コチラが織田軍の主力?・・・その動員数はすざまじく、ここをまたたく間に突破した浜手軍はそのままの勢いで峠を下り、中野城(なかのじょう=和歌山県和歌山市)を包囲します。

この中野城は、現在、その遺構が残っていないので、どれほどの規模だったのか?微妙な所もあるようですが、「砦」ではなく「城」と言う限りは、それなりの装備を整えていたはず・・・しかし、
やはり、この数の差は何ともし難かったのか?
信長自身が淡輪まで進んで来たからなのか?
はたまた織田側の懐柔工作が功を奏したのか?

いずれにしても、1週間後の2月28日、中野城は降伏し、開城となったのです。

さらに3月1日、細川&明智らに命じて、雑賀衆の主将格である鈴木重秀(すずきしげひで=雑賀孫一)居城(位置関係から見ておそらく平井城)を包囲して猛攻撃を仕掛け、コチラも、即日落城してしまいました(落城の日付に関しては3月1日もしくは2日etc諸説あり)

一方、内陸を進んだ山方は・・・と、コチラの戦いぶりに関しては、今回の雑賀攻めが一応の決着を迎える3月15日の日付で、すでに書かせていただいていますので(2011年3月15日参照>>)…ただし、前半部分の雑賀攻めに至る経緯etcについて書いておりますので、その部分は内容がだだカブリであります事、ご了承くださいませm(_ _)m

ところで・・・
浜手の戦いぶりを見れば、突破→落城→落城と来て、なんだか織田軍の大勝利みたいに・・・
一方の山方の戦いぶりを見れば、雑賀側の様々なゲリラ的作戦に少々苦戦の織田軍・・・

てな感じに見受けられますが、実際のところは、よくわかっていません。

織田も雑賀も、双方ともに「俺とこが勝った」と言い、公家の日記もイロイロで、それぞれの覚書も微妙に違う・・・

結局のところは、「ゲリラ的にチョッカイを出す雑賀に対し、織田側は大軍で押し寄せて各地に放火して回る」的な戦いぶりで、最終的にはこう着状態に陥ったようで・・・

ハッキリしている事は、天正五年(1577年)3月15日付けで信長が発給した朱印状くらい?

ただし、これも・・・
「本当やったら成敗すべきだが、今回は赦免してやる」
的な?まるで、吉本新喜劇の池乃めだか兄やんバリの、
(散々ヤラれた末の)
「今日は、これくらいにしといたろかい!」
てな感じのハッタリに見えなくもない
わけで・・・

とは言え、この後、かの本願寺顕如が雑賀の本願寺門徒に対して
「中野の城兵が敵に同心した事は言語道断!」
と激おこの書状を出しているので、中野城が織田の手に落ちた事は事実なのでしょう。

『信長公記』では、疲労困憊した雑賀の一揆勢は、主要人物=7名の連名による誓(せいし=誓いの言葉)を信長の提出し、「今後、石山本願寺には協力しない」事、「信長に従う」事を約束したので赦免にした・・・てな事が書かれていますが、

この後すぐにゴタゴタがあるし、翌・天正六年(1578年)には、先の第一次木津川口の海戦での教訓を活かして、鉄鋼船を完成(9月30日参照>>)しつつあった信長に対抗すべく、顕如が雑賀へ、水軍の出陣要請の書状を何度も送ってるところから見ても、雑賀と本願寺の関係は切れていない感じですね。

やはり今回は、その勝敗はウヤムヤで、天正五年(1577年)3月15日に取りあえずの休戦をした・・・というところでしょうね。

その後いくつかの、史料の乏しいゴタゴタがあった後、天正八年(1580年)3月に本家本元の石山合戦が終結した後、雑賀の内紛もあり、徐々に時代は、群雄割拠から、一人の天下人による統一の時代へと流れて行き、雑賀衆も、その時代の波に呑まれていく事になります。

●関連ページ:
【織田信長の高野山攻め】>>
【重秀・重兼・重朝?…戦国の傭兵・雑賀孫一】>>
【「鳥居忠政の仁義」…雑賀孫一とのイイ話】>>
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