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2018年2月22日 (木)

織田信長の雑賀攻め序盤~孝子峠の戦いと中野落城

天正五年(1577年)2月22日、織田信長による雑賀攻め初の交戦=孝子峠の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・

元亀四年(天正元年=1573年)には、自らが担いでいた神輿(9月7日参照>>)=第15代室町幕府将軍=足利義昭(よしあき・義秋)追放(7月18日参照>>)し、その1ヶ月後には、越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)(8月6日参照>>)近江(おうみ=滋賀県)浅井長政(あさいながまさ)滅亡させ(8月28日参照>>)、2年後の天正三年(1575年)5月には長篠で武田勝頼(たけだかつより)破り(5月18日参照>>)、翌・天正四年(1576年)には安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)構築に着手(2月23日参照>>)、まさに天下への上り調子を見せつけていた織田信長(おだのぶなが)でしたが・・・

Odanobunaga400a 一方で、その間、そんな信長を最も手こずらせていたのが、各地の一向一揆を扇動する本願寺の第11代法主(ほっす)顕如(けんにょ)でした。

そもそもは元亀元年(1570年)9月、本拠の石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)に近い野田福島(のだ・ふくしま=大阪市都島区・福島区)で勃発した信長VS三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)の戦い(8月26日参照>>)に、教祖様自らが参戦を表明(9月12日参照>>)して以来、翌・元亀二年(1571年)の5月には長島(ながしま=三重県桑名市)にて長島一向一揆が勃発(5月16日参照>>)し、同年の9月には近江の一向一揆(9月3日参照>>)、天正二年(1574年)1月からは越前一向一揆(1月20日参照>>)と・・・

まぁ、とにかく、上記の武将たちと戦いながら、一方でそれらの一向一揆を潰して行く信長ではありますが、
長島一向一揆の終結】>>
【越前一向一揆の終結】>>
当然、本家本元の石山本願寺を何とかせねばならないわけで・・・

そんな中、上記の越前一向一揆を制しついでに加賀(かが=石川県)をも配下に治めたうえに、安土築城でルンルン気分の信長に迫るように、天正四年(1576年)3月、越中(えちゅう=富山県)に侵攻して来た上杉謙信(うえすぎけんしん)(3月17日参照>>) ・・・

その2ヶ月後の5月には、信長VS顕如の直接対決=石山合戦の中でも屈指の激戦である天王寺合戦(5月3日参照>>)が起こったばかりか、その半月後には、長年対立していた本願寺と謙信が、敵の敵は味方とばかりに和睦・・・(5月18日参照>>)

しかも、7月には第一次木津川口の海戦(7月13日参照>>)で本願寺に悩まされ、8月には謙信が飛騨制圧(8月4日参照>>)で信長のヤバさは倍増します。

そこで信長、石山本願寺を直接潰す事より先に、かの天王寺合戦で、かなり目立つ加勢をしていた雑賀(さいが・さいか)を潰す事にします。

この雑賀衆というのは、紀州(きしゅう=和歌山県)紀ノ川下流域に住む土着の人々の集団の事・・・このあたりは、もはや名ばかりとなった守護=畠山氏をしり目に、高野山(こうやさん=金剛峯寺を中心とした宗教都市・和歌山県伊都郡高野町)根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市)といった宗教勢力や彼らのような土着民が、それぞれに自治をする状況となっていたのですが、

そんな中で、雑賀衆と呼ばれる人たちは、現在の和歌山市から海南市あたりを支配していたものの、そこは、農業に適した土地もある一方で適さない地域もあって、その土地争いが激しかったり、農業に頼らず、その経済基盤を交易に求める者もいたり・・・

で、自然と利益を守るための武装も強化されるし、交易するならするで、和歌山という土地柄、船で海路を行くのが手っ取り早いし、各地を移動すれば、当然、最新のハヤリ物にも敏感になるわけで・・・結果お抱えの水軍も保持し、大量の鉄砲も保有し、その操作に熟練した者も、雑賀衆には数多くいたわけで、その戦闘力もハンパない。

そんな彼らが、石山本願寺側に付いて、あの天王寺合戦で・・・となったわけです。

おそらく信長は、この天王寺合戦のあたりから、「本願寺より、まずは雑賀を…」と考え始めたようで・・・というのも、雑賀衆と一口に言っても、決して一枚岩ではなく、彼らは、それぞれの利害関係によって別々に動く集団でもあったわけで・・・

たとえば、雑賀衆の支配圏は、大まかに分けて雑賀庄(さいかのしょう)十ヶ郷(じっかごう)宮郷(みやごう)中郷(なかつごう)南郷(なんごう)という五つの(そう=地域の共同体)に分かれていたとされますが、宮豪・中郷・南郷と呼ばれる農業が盛んな三組は、はなから信長側についていたわけで、信長としては、そこに攻撃の余地があったという事でしょう。

しかも、ここに来て、紀伊の宗教勢力の一角である根来寺も信長の味方・・・と言っても、コチラは積極的な味方ではなく、「敵には回らない」「道案内くらいならするよ」という感じで話をつけていたようですが・・・

とにもかくにも、信長一代の戦史でもトップクラスの数の多さ=数万(あるいは15万とも)と言われる大軍となった織田軍は、天正五年(1577年)2月13日に京都を出発・・・

途中、悪天候により、少々ストップしたものの、17日には雑賀衆の前線拠点である貝塚(かいづか=大阪府貝塚市)に到着・・・ここを襲撃するはずでしたが、ここの守りの者たちが、いち早く退却したため、ここでは、逃げ遅れた若干名が討ち取られたものの、大きな交戦とはなりませんでした。

これについては、「どうやら、信長軍を雑賀支配圏の奥深くまで行かせようとの作戦で、前線はさっさと退却をさせたのでは?」と言われていますが・・・

Saigazeme
信長の雑賀攻め・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして、その5日後の天正五年(1577年)2月22日志立(しだち=大阪府泉南市信達)に到着した織田軍は、ここから、海側を行く浜手と内陸を行く山方の2手に軍勢を分け、進撃していきます。

孝子峠(きょうしとうげ=大阪府泉南郡岬町と和歌山市の境)を越えて、紀ノ川の北岸の雑賀の支配地制圧を目指す浜手には、滝川一益(たきがわかずます)明智光秀(あけちみつひで)丹羽長秀(にわながひで)細川藤(ほそかわふじたか=幽斎)などの面々・・・

一方、風吹峠(かざふきとうげ=和歌山県岩出市)を越えて根来に入り、紀ノ川をを越えて小雑賀(こさいが)に迫ろうとする山方には、佐久間信盛(さくまのぶもり)羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)荒木村重(あらきむらしげ)別所長治(べっしょながはる)堀秀政(ほりひでまさ)根来や雑賀の味方衆を加えた面々・・・内陸を進むには地の利が重要ですからね。

こうして2手に分かれたうちの浜手は、さらに、その軍を3手に分け、中央には細川&明智、2の手に信長の息子たち=信忠(のぶただ)信雄(のぶお・のぶかつ)信孝(のぶたか)を据え、残りはもう1手・・・とに分かれて、浜から山から谷からと、入り乱れて進み、この22日の内に淡輪(たんのわ=丹和)から孝子峠まで進み、そこを守る雑賀衆と一戦を交えました。

雑賀衆にとっては、この孝子峠は貝塚の次ぎに控える重要な守りポイントであったわけですが、上記の通り、信長の息子3人が皆、この浜手に属している事からみても、おそらく、コチラが織田軍の主力?・・・その動員数はすざまじく、ここをまたたく間に突破した浜手軍はそのままの勢いで峠を下り、中野城(なかのじょう=和歌山県和歌山市)を包囲します。

この中野城は、現在、その遺構が残っていないので、どれほどの規模だったのか?微妙な所もあるようですが、「砦」ではなく「城」と言う限りは、それなりの装備を整えていたはず・・・しかし、
やはり、この数の差は何ともし難かったのか?
信長自身が淡輪まで進んで来たからなのか?
はたまた織田側の懐柔工作が功を奏したのか?

いずれにしても、1週間後の2月28日、中野城は降伏し、開城となったのです。

さらに3月1日、細川&明智らに命じて、雑賀衆の主将格である鈴木重秀(すずきしげひで=雑賀孫一)居城(位置関係から見ておそらく平井城)を包囲して猛攻撃を仕掛け、コチラも、即日落城してしまいました(落城の日付に関しては3月1日もしくは2日etc諸説あり)

一方、内陸を進んだ山方は・・・と、コチラの戦いぶりに関しては、今回の雑賀攻めが一応の決着を迎える3月15日の日付で、すでに書かせていただいていますので(2011年3月15日参照>>)…ただし、前半部分の雑賀攻めに至る経緯etcについて書いておりますので、その部分は内容がだだカブリであります事、ご了承くださいませm(_ _)m

ところで・・・
浜手の戦いぶりを見れば、突破→落城→落城と来て、なんだか織田軍の大勝利みたいに・・・
一方の山方の戦いぶりを見れば、雑賀側の様々なゲリラ的作戦に少々苦戦の織田軍・・・

てな感じに見受けられますが、実際のところは、よくわかっていません。

織田も雑賀も、双方ともに「俺とこが勝った」と言い、公家の日記もイロイロで、それぞれの覚書も微妙に違う・・・

結局のところは、「ゲリラ的にチョッカイを出す雑賀に対し、織田側は大軍で押し寄せて各地に放火して回る」的な戦いぶりで、最終的にはこう着状態に陥ったようで・・・

ハッキリしている事は、天正五年(1577年)3月15日付けで信長が発給した朱印状くらい?

ただし、これも・・・
「本当やったら成敗すべきだが、今回は赦免してやる」
的な?まるで、吉本新喜劇の池乃めだか兄やんバリの、
(散々ヤラれた末の)
「今日は、これくらいにしといたろかい!」
てな感じのハッタリに見えなくもない
わけで・・・

とは言え、この後、かの本願寺顕如が雑賀の本願寺門徒に対して
「中野の城兵が敵に同心した事は言語道断!」
と激おこの書状を出しているので、中野城が織田の手に落ちた事は事実なのでしょう。

『信長公記』では、疲労困憊した雑賀の一揆勢は、主要人物=7名の連名による誓(せいし=誓いの言葉)を信長の提出し、「今後、石山本願寺には協力しない」事、「信長に従う」事を約束したので赦免にした・・・てな事が書かれていますが、

この後すぐにゴタゴタがあるし、翌・天正六年(1578年)には、先の第一次木津川口の海戦での教訓を活かして、鉄鋼船を完成(9月30日参照>>)しつつあった信長に対抗すべく、顕如が雑賀へ、水軍の出陣要請の書状を何度も送ってるところから見ても、雑賀と本願寺の関係は切れていない感じですね。

やはり今回は、その勝敗はウヤムヤで、天正五年(1577年)3月15日に取りあえずの休戦をした・・・というところでしょうね。

その後いくつかの、史料の乏しいゴタゴタがあった後、天正八年(1580年)3月に本家本元の石山合戦が終結した後、雑賀の内紛もあり、徐々に時代は、群雄割拠から、一人の天下人による統一の時代へと流れて行き、雑賀衆も、その時代の波に呑まれていく事になります。

●関連ページ:
【織田信長の高野山攻め】>>
【重秀・重兼・重朝?…戦国の傭兵・雑賀孫一】>>
【「鳥居忠政の仁義」…雑賀孫一とのイイ話】>>
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2018年2月15日 (木)

猿掛城攻防~庄為資と毛利元就と三村家親と…

永禄二年(1559年)2月15日、三村家親から救援要請を受けた毛利元就猿掛城を攻撃すべく、備中伊原に布陣しました。

・・・・・・・・・・

備中(びっちゅう=岡山県西部)猿掛城(さるかけじょう=岡山県小田郡矢掛町)は標高230mの猿掛山に築かれた山城で、山の北側には東西に流れる小田川があり、それと並行するように走る旧山陽道を抑えた要所にありました。

その歴史は古く、平安時代の終わり頃には、ここに領地を与えられた庄家長(しょういえなが=荘家長)によって、館や城郭らしき物が構築されていたと見え、以来、鎌倉時代には幕府御家人として、南北朝には南朝の北畠の配下として活躍した(しょう=荘)が、この城を拠点として来ました。

やがて、戦国の天文の頃の城主であった庄為資(しょうためすけ=荘為資)は、天文二年(1533年)4月、備中中南部にあった松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市)を攻めます。

この松山城は、一昨年の大河ドラマ「真田丸」のオープニングにも使用され、現存12天守の一つとして重要文化財に指定され、竹田城に勝るとも劣らない雲海に浮かぶ「天空の城」として有名な、あの松山城ですが・・・(現存する建物は江戸時代の物です)

ここには、源氏の支流で室町幕府にて奉公衆として足利(あしかが)氏に仕えた上野(うえの)が、備中の守護だった細川守護代として入城し、この当時は上野頼氏(うえのよりうじ)が城主を務めていましたが、今や守護もへったくれも無い世は下剋上・・・ご多分に洩れず、当時、西国(中国地方)を二分していた周防(すおう=山口県の東南部)大内(おおうち)と、出雲(いずも=島根県東部)尼子(あまこ・あまご)氏との権力闘争に翻弄される状況だったのです。

そんな中、尼子氏の支援を受けた庄為資が、この松山城を襲撃したというワケですが、この戦いで頼氏は討死・・・まもなく、頼氏に代わって為資が松山城の城主となり、自身の猿掛城には一族の穂井田実近(ほいださねちか=庄実近)を城代に据えたのです。

この勢いにより、庄氏は下道(かとう=岡山県倉敷市&総社市の一部)小田(おだ=同笠岡市付近)上房(じょうぼう=高梁市の高梁川以東)の三郡を治める備中最大の勢力となりました。

Mourimotonari600 しかし、ここに大内×尼子の間を縫って登場して来るのが、西国第三の男毛利元就(もうりもとなり)です。

はじめは、彼もまた、大内と尼子に翻弄される小さな国人領主の一人就でしたが、天文十年(1541年)に、尼子傘下から大内傘下に鞍替えした時、この元就を潰すべく、当主=尼子晴久(あまごはるひさ=当時は尼子詮久)が元就本拠の郡山城(こおりやまじょう=広島県安芸高田市・吉田郡山城)を攻めるも、大内の援軍を得ていた郡山城は落ちる事無く・・・逆に尼子軍は大将を討ち取られ、痛い敗北を喫してしまうのです(1月13日参照>>)

もちろん、この時点での元就は、上記の通り、未だ大内の支援を受けている状態ですが、そんな中で、天文十三年(1543年)には、安芸竹原(たけはら=広島県竹原市)の国人領主=小早川興景(こばやかわおきかげ)の死去にともなって、三男の隆景(たかかげ)養子に送りこんで竹原小早川家を掌握し、その6年後には小早川の本家にあたる沼田(ぬまた・ぬた=広島県広島市)を領する小早川繁平(しげひら)を出家に追い込んで、コチラも隆景に乗っ取らせます。

また、これと同時進行で、妹の旦那=吉川興経(きっかわおきつね)の養子に次男の元春(もとはる)を送り込んでおいて後、天文十九年(1550年)には、その興経父子を殺害して吉川家も乗っ取ってしまうのです(9月27日参照>>)

こうして力をつけて来た元就は、天文二十年(1551年)に大内氏の重臣=陶晴賢(すえはるかた・当時は隆房)がクーデターを起こして、事実上大内の実権を握ってしまった(8月27日参照>>)事をキッカケに大内に反旗を翻した石見(いわみ・島根県)吉見正頼(よしみまさより)に同調して、彼も大内氏を離反・・・

天文二十三年(1554年)には折敷畑(おしきばた)の戦いで勝利し(9月15日参照>>)、翌・弘治元年(1555年)には、あの戦国三大奇襲の一つ=厳島(いつくしま)の戦い(10月1日参照>>)で晴賢を葬り去り(10月5日参照>>)、2年後の弘治三年(1557年)には、大内の後継者であった大内義長(よしなが・当時は大友晴房=大内義隆の甥で大友宗麟の弟)自刃に追い込んで(4月3日参照>>)西国の名門=大内氏を滅亡させていたのです。

Sarugakezyoukoubousen800c
猿掛城攻防戦・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなの永禄二年(1559年)2月上旬、上り調子の毛利に支援を求めつつ、備中に侵攻して来たのが星田(ほしだ=岡山県井原市美星町)を本拠としていた成羽城(なりわじょう=岡山県高梁市成羽町・鶴首城)城主=三村家親(みむらいえちか)でした。

三村家親は、元就がここまで大きくは無い、かなり早いうちから、すでに毛利の味方となっていたらしく、両者の信頼関係は非常に篤い物だったようで・・・家親からの援軍要請を受けた元就は、早速、嫡男の隆元(たかもと)以下、元春・隆景の3人の息子を従えて安芸を発ち、永禄二年(1559年)2月15日、毛利本隊は伊原(いばら=岡山県井原市)に、元春は矢掛(やがけ=岡山県矢掛町)に、それぞれ陣を敷いたのです。

家親は、この毛利軍を先鋒として、まずは、城下の民家に放火して回って猿掛城へと迫って来ます。

しかし、城主=庄為資はまったくひるまず、逆に三村の軍勢を少数で追い散らしたタイミングを見計らい、この間に別働隊を動かして元春の本陣にも迫りました。

このため、家親の軍勢は大いに乱れますが、一方の元春の軍勢は、まったく動じず・・・この元春の威勢に恐れをなした為資勢は、やむなく退却したとか・・・(ま、『毛利家文書』内の話やからね~チョイと元春age?

その後、約50日ほどに渡って小競り合いが繰り返されますが、元就の毛利本隊は持久戦を視野に入れて力を温存する作戦をとったため、合戦の主体となったのは家親の軍勢と元春の軍勢・・・両者は、そんな小競り合いを繰り返しつつも、この間に猿掛城を包囲し、やがて決戦となる春を迎えます。

4月3日、家親が1500余騎で先陣、元春が2000余騎の軍勢で後陣の態勢で以って、再び井原へと陣を進めますが、この動きを察知した為資は、敵が攻撃を始める前日に夜襲をかけて蹴散らすべく準備に入ります。

しかし、この夜襲計画の情報をいち早く手に入れた家親は、二段構えの伏兵を置いて態勢を整え、自らは1000余の軍勢を率いて敵の本陣に斬り込む作戦に出ます。

ところが、この三村軍の動きも為資側はキャッチ・・・夜襲を待ち伏せされてはマズイとばかりに、夜襲のための兵を早々に退き始めます。

この動きを見た家親・・・「このまま退かせるわけにはいかぬ」とばかりに、自ら先陣を切って敵の追撃に乗り出しますが、この時の大きな(とき)の声により、隠れていた伏兵も一気に動き、全軍で以って敵の追撃を開始したのです。

このため、静かに退くはずだった為資の軍勢は大混乱・・・為資自身が、わずかの側近とともに猿掛城へとやっとこさ戻るの精一杯だったというほどの大敗となってしまいました。

しかも、この直後、元就が来島水軍(くるしますいぐん=村上水軍)を使って瀬戸内の海上を封鎖して他の同盟者との連絡を絶たせて為資を孤立させた事により、ついに為資は降伏し、猿掛城を開城したのでした。

結果、三村家親の長男=元祐(もとすけ)が為資の養子になって庄元資(しょうもとすけ=・荘元祐・穂井田元祐)と名乗って庄氏を継ぎ、猿掛城主となりました。

さらに三村方は、猿掛落城後も庄為資の息子=庄高資(しょうたかすけ=荘高資)が守っていた、かの備中松山城を永禄四年(1561年)と永禄九年(1566年)の2回に渡って攻め、最終的に松山城を攻略・・・高資を討ち取って本来の庄氏は壊滅し、代わって三村が備中の覇者となるのです。

しかし、世は戦国・・・実は、上記の松山城攻めの間に、当時は備前(びぜん=岡山県東南部)天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)浦上宗景(うらがみむねかげ)の配下にあった宇喜多直家(うきたなおいえ)の放った刺客により、家親は暗殺されています。

それを受けて三村家の後を継いだのは、この松山城攻めにも、父=家親とともに参加していた次男=元親(もとちか)なのですが・・・

ご承知の通り、この後、浦上からの独立を狙う宇喜多と、毛利&三村・・・この微妙なトライアングルが更なる展開を見せるのですが、そのお話は、6月2日【備中兵乱~第3次・備中松山合戦、三村元親の自刃】でどうぞ>>m(_ _)m
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2018年2月10日 (土)

永享の乱~鎌倉公方・足利持氏が自刃

 

永享十一年(1439年)2月10日、『永享の乱』で敗れた第4代鎌倉公方足利持氏が自刃しました。

・・・・・・・・・

ともに鎌倉幕府を倒した(5月22日参照>>)後醍醐(ごだいご)天皇と対立し、室町幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)(8月11日参照>>)でしたが、当時は、一方の後醍醐天皇が吉野(よしの=奈良県)にて南朝を開いており、未だ動乱の真っ只中・・・

故に結局、尊氏は、足利家の本拠地が関東であるにも関わらず、不穏な空気が収まらない京都を離れる事ができなかったため、京都の室町で幕府を開く事になってしまったわけで・・・

そのため、鎌倉を拠点に関東を治めるべく、最初は弟=直義(ただよし)鎌倉に派遣し、次に嫡男の義詮(よしらきら)、そして貞和5年(1349年)、後に2代将軍となるべき義詮に代わって四男の基氏(もとうじ)を派遣します。

この基氏以降、鎌倉を守る役目は基氏の息子からまたその息子へと代々受け継がれていく事になり、この後、それは鎌倉公方(かまくらくぼう)と呼ばれ事になります。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

とは言え、この鎌倉公方は、関東はもちろん、伊豆甲斐(山梨県)をも含めた広大な範囲を統轄する役職で、幕府に准ずる組織ですから、最初こそウマく行っていたものの、徐々に「畿内を牛耳る将軍家と関東を牛耳る鎌倉公方は同等にも感じられる」ような雰囲気が持ち上がって来るわけで、代が進むにつれ、その色が濃くなって来る・・・

そんな中の応永三十二年(1425年)2月、第5代室町幕府将軍の足利義量(あしかがよしかず)が、わずか19歳で病死・・・さらに、その3年後の応永三十五年(1428年)1月に、義量の父で第4代将軍だった足利義持(よしもち)も死亡します。

この義持は、息子が第5代将軍になった後も、実権を握り続けていた人なので、先の義量の死の後も、父の義持が政務をこなしていたため、そこらへんは義持が亡くなるまでは大丈夫だったわけですが、若くして亡くなった息子には後継ぎがいなかったわけで・・・

その状況で、続いて父の義持も亡くなれば・・・しかも、次期将軍を指名せずに死んでしまったおかげで、当然のごとく後継者問題が勃発するのです。

そこで、義持の3人の弟たちの中から時期将軍を選ぶ事になりますが、あーだこーだの協議の末、結局は、くじ引きによって選ばれ、正長二年(1429年)3月に第6代将軍となったのが足利義教(よしのり)だったのです(2016年6月24日参照>>)

ま、この時代のくじ引きは、今で言う抽選という感覚とは違い、「神のお告げ」「神様が選んだ」という意味合いだったわけですが、このドタバタ劇にカチンと来たのが、義持の猶子(ゆうし=両者の結束目的とした養子縁組)で、関東にて4代目の鎌倉公方をやっていた足利持氏(もちうじ)でした。

なんだかんだで血筋は足利家やし、なんやったら猶子やし、
「くじ引きするくらいモメてるんやったら、俺にもちょっとくらい絡む権利あるんちゃうん?」
と・・・

この時、
「一発、文句言いに行ったる!」
とイキリまくって上洛を考える持氏を
「まぁ、まぁ、まぁ」
と説得したのが、若き関東管領(かんとうかんれい)上杉憲実(うえすぎのりざね)でした。

この関東管領という役職は、初期には関東執事(かんとうしつじ)とも呼ばれ、鎌倉公方を補佐する役職なのですが、その任命権は将軍にあり・・・つまり、役職は支店長の下の副支店長なんだけど、実は、本社の社長から派遣されてて、社長の指揮下にあるみたいな?

なので、憲実は、これまでも度々、関東周辺で起こる戦いやモメ事を穏便に治めつつ、時には持氏に厳しい苦言を呈しながらも、幕府将軍家と鎌倉公方の融和を計って来たわけですが・・・

その憲実の姿勢が、どうしても、「自立したい」感溢れる持氏とは相容れず、両者の溝は徐々に深まりつつあったのです。

そんなこんなの永享九年(1437年)6月、持氏は、不穏な動きをする信濃(しなの=長野県)小笠原(おがさわら)を抑えるべく、上杉憲直(うえすぎのりなお=持氏の側近:宅間上杉家)を大将とした軍勢を派遣しようとします。

しかし、これが・・・
「小笠原攻撃とは名ばかりで、実は憲実を討とうとしている」
との噂が立ち、鎌倉は一気に不穏な空気に・・・ただ、これは、本当に持氏の本意では無かったらしく、すぐさま持氏は、自ら憲実の宿所に出向いて誤解を解き、大事には至らなかったのですが、どうやら、表面では収めたものの、水面下では、もう、お互いの亀裂は修復不可能になりつつあったようで・・・

翌・永享十年(1438年)6月、持氏の嫡男である賢王丸(かんおうまる)の元服がとり行われるのですが、なんと!この時、持氏は賢王丸に義久(よしひさ)と名乗らせたのです。

そう、これまでの鎌倉公方は、その元服する際、時の将軍にお願いし、その将軍の名から一字を賜って名乗るのが通例・・・当の持氏は、先の4代将軍=義持から、持氏の父である満兼(みつかね)は、あの3代将軍=義満(よしみつ)からいただいてます。

ところが持氏・・・自らの息子には、将軍家の通字(とおりじ=家に代々継承される字)である「義」の文字の名を名乗らせたのです。

つまり、「俺らは将軍家と対等や」と・・・

もちろん、この時も憲実は反対して元服式をボイコットし、
「将軍様にお願いしては?」
と提言しますが、持氏の決意は固く、両者の亀裂が決定的となります。

この関東での不穏な空気は、早い段階で、駿河(するが=静岡県東部)守護の今川範忠(いまがわのりただ)によって京都に知らせられ、義教は
「状況を監視して、動きがあったら、すぐに憲実に味方しろ」
と範忠に指示する一方で、奥州(おうしゅう=東北)伊達(だて)芦名(あしな)といった面々に
「憲実が窮地に陥ったときは、すぐに救援できるよう準備しておけ」
との命令を発していました。

間もなくの8月になると、
「持氏が憲実追討の兵を集めている」
との噂が流れ出しますが、
「今度は、ホンマモンやぞ!」
と察した憲実は、慌てて上野(こうずけ=群馬県)平井(ひらい=藤岡市)へと身を隠します。

この憲実の動きを知った持氏は、その2日後、自らが兵を率いて鎌倉を出立・・・武蔵府中(むさしふちゅう=東京都府中市)高安寺(こうあんじ)に布陣し、一触即発の状態となりました。

もちろん、この「持氏出陣」の知らせも、間もなく京都に届き、幕府側は、すばやく持氏追討の軍を編成するとともに、後花園(ごはなぞの)天皇綸旨(りんじ=天皇の命令)も得て、幕府軍は錦の御旗(にしきのみはた=天皇の軍という証)を掲げた官軍として京都を出発するのです。

この時、将軍義教も自ら出陣しようとしましたが、さすがにそれは側近に止められ、何とか思い留まっています。

こうして、斯波持種(しばもちたね)甲斐将久(かいゆきひさ)を中心とした幕府軍が東へ向っていた頃、すでに出兵していた駿河や信濃の武士たちが箱根あたりで公方方と遭遇して一戦を交え、敵陣を突破したりしてますが、

そんなこんなの9月27日、相模の早川尻(はやかわじり=神奈川県小田原市)にて幕府軍と一戦交えたのは、あの上杉憲直と、同じく持氏側の大将格だった一色直兼(いっしきなおかね)の軍勢・・・両者激しく戦いますが、何たって幕府軍はあまりの大軍にて、自軍に多くの戦死者を出してしまった憲直は、やむなく兵を退きました。

この敗北を受けた2日後、高安寺にいた持氏は、陣を海老名(えびな=神奈川県海老名市)に移動させますが、この時、持氏の側にいた千葉胤直(ちばたねなお)が裏切り、幕府側へと転じます。

実は胤直は、以前より憲実との和睦の道を進言していたのですが、持氏には、まったく聞き入れられず・・・ここに来て、とうとう持氏に見切りをつけたのでした。

さらに10月になると、鎌倉にて留守居役を命じられていた三浦時高(みうらときたか)までもが、その役目をすっぽかして自身の領地に帰ってしまいます。

これを好機と見た憲実・・・10月19日、自ら分倍河原(ぶばいがわら=東京都府中市)に布陣し、一戦交える覚悟を決めます。

しかし、それから間もなくの11月1日、あの時、一旦領国に戻った三浦時高が、今度は鎌倉に攻め入り、御所を攻め落として持氏の息子たちを拘束・・・これを知った持氏は、急いで鎌倉に戻ろうとしますが、その帰路の途中、憲実の重臣である長尾忠政(ながおただまさ)にバッタリ出会います。

「もはや、これまで!」
と観念した持氏は、自らの身を忠政に預け、降伏したのです。

忠政によって鎌倉の永安寺(ようあんじ=神奈川県鎌倉市二階堂)に幽閉された持氏は、一旦、称名寺(しょうみょうじ=神奈川県横浜市金沢区)に入って出家した後、再び永安寺にて千葉胤直監視のもと幽閉されます。

この間、主人の投降を知った上杉憲直と一色直兼は、自ら恭順姿勢を見せて称名寺に入りましたが許されず・・・長尾忠政に攻められて、11月7日に、両者ともに自刃します。

そんな敗者二人の首は、やがて京都に送られて将軍=義教が検分する事になるのですが、この時、義教は持氏の首が無い事に、たいそうお怒りだったとか・・・

そう、実は持氏に対しては、今回は敵に回った配下の者たちからも、助命の願いが出されていたのです。

上記の通り、持氏は出家しましたし、拘束された息子=義久も、寺に入って喝食姿(かっしきすがた=元服前の少年の髪形)になって降伏の意を表明していたので、おおもとの被害者である憲実でさえ、
「命ばかりは助けてさしあげたい」
と懇願していたのです。

しかし、義教は許しませんでした。

相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)柏心周操(はくしんしゅうそう)を通じて、憲実に持氏追討の命を下し、それを受けた千葉胤直らによって永安寺を攻撃された持氏は、永享十一年(1439年)2月10日自刃して果てたのでした。

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結城合戦絵詞に描かれた足利持氏の自刃

その後、報国寺(ほうこくじ=神奈川県鎌倉市)にいた嫡男の義久のもとにも「討伐」の報告が入り、覚悟を決めた義久は、仏前で焼香した後、念仏を唱えながら自害したと言います(ただし義久の死に関しては、日付や場所、亡くなった年齢などが複数あり、諸説入り乱れてます)

こうして永享の乱(えいきょうのらん)と呼ばれる持氏の反乱は終焉を迎えましたが、当の持氏やその息子、大将格の面々こそ討伐されたものの、関東には持氏恩顧の武将たちがまだまだいて、彼らは無傷だった事から、この後、事態は更なる展開へと進みます。

持氏の次男&三男である春王(しゅんのう・はるおう)安王(あんのう・やすおう)を抱え込んだ結城城(ゆうきじょう=茨城県結城市)結城氏朝(ゆうきうじとも)による結城合戦が勃発(4月16日参照>>)・・・敗色濃くなった氏朝は、春王と安王を女装させて城から脱出させますが、まもなく発見された二人は護送中に処刑されてしまいます(2008年2月10日参照>>)←以前、永享の乱と結城合戦を同時に書いてしまったため、前半部分の内容がだだカブリですが、お許しを(*_ _)人ゴメンナサイ 

ところが、この春王&安王の死から、わずか1ヶ月後の嘉吉元年(1441年)6月、義教が嘉吉の乱(かきつのらん)(6月24日参照>>)にて殺害されるのです。

この義教の死によって、未だ幼児であった持氏の四男坊=永寿丸(永寿王とも)赦免されるのですが、この四男坊が成長して足利成氏(しげうじ)に・・・(9月30日参照>>)

「我こそが鎌倉公方の後継者!」
とばかりに関東支配に乗り出す成氏に対し、幕府は、
「コッチが幕府公認の鎌倉公方や!」
とばかりに、亡き義教の息子=足利政知(まさとも)を関東に送りこみますが、現地が乱れに乱れていたため、政知は鎌倉に入る事ができず、御所を構えた地名を取ってコチラは『堀越公方』呼ばれます。

一方、政知の進出により勢力範囲を制限された成氏は下総古河(こが=茨城県古河市)を本拠地とする事となり、コチラは『古河公方』と呼ばれますが、

ご存じのように、そんなこんなしているうちに、将軍家も公方家も、やがて、力のある武将の推しがなければやってけない戦国へと突入していく事となります。
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2018年2月 2日 (金)

織田信長~本圀寺の変からの二条御所の築造

永禄十二年(1569年)2月2日、織田信長足利義昭新御所の築造を開始しました。

・・・・・・・・・・

ややこしいので、まずは・・・
京都において歴史上、二条御所(にじょうごしょ)と呼ばれた建物は3つあり、二条城(にじょうじょう)と呼ばれる城も3つあります。

ただし、
このうち、1番目の二条御所が二条城と呼ばれる事はほとんど無く、2番目&3番目の二条御所が二条城とも呼ばれてカブッていて、最後の二条城が二条御所と呼ばれる事は無いので、合計で二条ナンタラは4ヶ所という事になります。

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二条城の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

  1. 二条御所(武衛陣御所)=足利義輝の居城
  2. 二条御所または二条城=足利義昭の御所
  3. 二条御所または二条城=織田信長の宿所
  4. 二条城または二条離宮=徳川家の宿所

この4番目の二条城が、徳川家康(とくがわいえやす)が京都に滞在する時の宿所として建てた現在も建物が残る世界遺産の二条城(5月1日参照>>)、明治維新で新政府に明け渡されて天皇家の離宮となっていた事から二条離宮元離宮とも呼ばれたりしますが、このブログでは、そのまま「二条城」と呼んでます。

また、上記の通り、3番目のは二条御所とも二条城とも二条御新造とも呼ばれますが、これが、織田信長(おだのぶなが)が京都に滞在する時の宿所として建てた物で、後に時の天皇である正親町天皇(おおぎまちてんのう)の第1皇子の誠仁親王(さねひとしんのう)に献上・・・有名な本能寺の変の時に、変を知った信長の嫡男=織田信忠(おだのぶただ)が、宿泊していた妙覚寺(みょうかくじ)から移動して籠城して最期を迎える場所(2015年6月2日参照>>)、このブログでは、いつも「二条御所」と呼ばせていただいてます。

で、今回の話題は、この2番目の第15代室町幕府将軍=足利義昭(よしあき)のために信長が建てた二条城の事で「旧二条城」と呼ばれたりもするのですが、ややこしいので、このブログでは「二条御所(義昭御所)と呼ばせていただく事にします。

ちなみに、1番目は剣豪将軍と呼ばれた第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる=義昭の兄)(5月19日参照>>)の居所で、規模は少し小さいものの、場所は今回の義昭御所とほぼ同じ場所であったとされています。
(このブログでは「二条御所(武衛陣御所)と表記させていただいてます)

・‥…━━━☆

ご存じのように、永禄十一年(1568年)9月、足利義昭を奉じて上洛を果たした信長(9月7日参照>>)・・・

これは、上洛の大義名分&手土産が欲しい信長と、将軍の座を狙うも従兄弟の足利義栄(よしひで=14代将軍)に先を越されてしまって、慌てて自分を担いでくれる武将を探していた義昭との利害関係が一致した結果でした(10月4日参照>>)

途中、義栄を支持する六角承禎(じょうてい・義堅)(9月13日参照>>)三好三人衆(みよしさんいんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)を蹴散らし(9月28日参照>>)、10月18日には、見事、義昭が15代室町幕府将軍に就任(10月18日参照>>)、ようやくの一区切りを迎えたのです。

とは言え、当然ですが、蹴散らされた敵勢も、そのまま黙って蹴散らされっぱなしって事は無いわけで・・・

信長上洛時の戦いで敗れて、一旦領国の阿波(あわ=徳島県)に逃れていた三好三人衆は、年が明けた永禄十二年(1569年)の1月4日、かつて信長に稲葉山城(いなばやまじょう:後の岐阜城=岐阜県岐阜市)を攻め落とされた斎藤龍興(たつおき)(8月15日参照>>)長井道利(ながいみちとし)(8月28日参照>>)などを抱き込んで、その時、義昭が仮御所として宿泊していた本圀寺(ほんこくじ=当時は京都市下京区付近)を包囲したのです。

この時、信長は、一旦、岐阜へ戻っていた・・・そのスキを狙われたわけですが・・・

とは言え、籠る義昭側も細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)(7月28日参照>>)らの幕府精鋭たち・・・翌1月5日に開始された攻撃に対して、斬りかかれば追いたて斬り崩し、何度も敵の侵入を阻みつつ応戦します。

そんな中、なかなか攻め込めずにいた三好三人衆方に、翌6日になって、あの上洛時に三人衆とは袂を分かち、信長の傘下となっていた三好家の嫡流である三好義継(みよしよしつぐ=長慶の甥で養子)(11月16日参照>>)が、「攻撃中の背後を攻めて来る」との報告が入り、徐々に攻撃の手が緩みます。

やがて、池田勝正(いけだかつまさ)などの摂津(せっつ=大阪府北部)の武将たちもが織田側として参戦するに至り、さすがに形勢不利とみた三好三人衆方は退却を開始・・・追う織田勢は桂川あたりで追いついて激戦となり、多くの者が討死にしたと言います。(「本圀寺の変」もしくは「六条合戦」と呼ばれます)

一方、その同じ1月6日に、岐阜にて本圀寺の仮御所が襲撃された事を知った信長は、義昭を救援すべく、配下の者に、すぐに出立の命令を出しますが、この日はあいにくの大雪・・・それでも、「たとえ自分一人でも駆けつける!」との意気込みで、アタフタと揉める輸送隊や人夫をしりめに、「後からついて来い!」とばかりに岐阜を出立します。

本来なら3日かかるところを2日での強行突破に脱落する者数知れず・・・信長が京都に着いた時には、従う者はわずか10騎だったとか・・・

到着後は、慌てて仮御所に駆け込む信長でしたが、ギリで守りぬいた事を知り一安心。

しかし、この襲撃を受けて、
「これではイカン!早急にちゃんとした御所を建設せねば!」
と信長は決意し、早速、配下の大名たちを招集し、御所の普請を命じたのです。

かくして永禄十二年(1569年)2月2日(『信長公記』では2月27日)、義昭の新御所・・・いや、それは四方に石垣を高く築きあげた、むしろ城と呼ぶにふさわしい堅固な造りの御所構築に取りかかったのです。

『信長公記』によれば、
工事監修の奉行は村井貞勝(むらいさだかつ)島田秀満(しまだひでみつ)が担当し、京都内外から鍛冶や大工の職人を召集・・・また、広く近隣の村々から木材を調達して、猛スピードでありながら手を抜く事なく務め上げたおかげで、わずか70日ほどで、ほぼ完成の状態となったのだとか・・・

将軍の御所らしく、あちらこちらに金銀を散りばめ、庭には流水の池や築山も造営されました。

その際、先の上洛の時に三好三人衆に担がれていた管領=細川昭元(ほそかわあきもと=晴元の息子)の屋敷にあった藤戸石(ふじといし)という名のある大石を、この庭に置こうとひらめいた信長は、自ら細川邸に出向き、大綱を何本もくくりつけた石に、いくつもの花を挿して飾り、笛や太鼓で囃したてつつ、まるでパレードのようにして御所の庭に引き入れたのです。

京都市民へのアピールですな!!
これからは俺らの時代やと・・・

さらに慈照寺(じしょうじ=銀閣寺)の庭に置かれていた九山八海(くさんはっかい)という有名石を取り寄せて御所のお庭に設置・・・って、昭元は敵対したからまだしも、銀閣寺は足利のご先祖様の造った寺やけど大丈夫やったんやろか?

とにもかくにも、春が楽しみな桜も、余すところなく植え、桜のそばには馬場を設け、美しく眺めの良い庭園に仕上げました。

そして、将軍御所の周囲には諸大名にそれぞれの自邸を造らせて、その(いらか)の波は将軍御所をいっそう惹きたて、まるで御所を守っているかのように見えたのだとか・・・

やがて4月14日、義昭が完成した新御所に入りました。

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洛中洛外図屏風に描かれた義昭御所(上杉本・左隻)

とは言え、ご存じのように、このわずか4年後の元亀四年(天正元年・1573年)正月、この義昭御所から、義昭は信長に反旗を翻します(2月20日参照>>)

この時は、一旦、和睦が成立するも、その半年後の7月、義昭は槇島(まきしま)に籠って、またまた信長に反旗を翻し、結果的に京都追放となるのですが、そのお話は
7月3日【琵琶湖の水運と信長の大船建造】>>
7月18日【槇島城の戦い秘話】>>
でどうぞm(_ _)m

にしても、この時の義昭さんの立位置ときたら・・・
信長さんの成すがまま、言う事を聞いていれば良かったのか?
はたまた、結果的に負けたとしても、やっぱり室町幕府将軍としてできうる限りの反発姿勢を出した事が○だったのか?

正解を出すのは難しいですわな(^-^;
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