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2018年3月27日 (火)

徳川家康、徹底根絶やし~気賀堀川城一揆

永禄十二年(1569年)3月27日、徳川家康の最大の汚点とも言われる気賀・堀川一揆がありました。

・・・・・・・・・・・

昨年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」で、その賑やかさが記憶に新しい気賀(きが=浜松市北区細江)

ドラマでもあったように、この町は、南に浜名湖(はまなこ=静岡県浜松市から湖西市)を持ち、東に川が流れ、北を街道が通るという陸路&水路の便利さがあるとともに、満潮になると周辺が湿地帯となるその地形が天然の要害であった事から、古くから人の往来する交通の要所として栄えていました。

しかし、永禄三年(1560年)の桶狭間の戦い(2007年5月19日参照>>)で、当時「東海一の弓取り」と称されていた遠江(とおとうみ=静岡県西部)の支配者=今川義元(いまがわよしもと)織田信長(おだのぶなが)に討たれると、息子の今川氏真(うじざね)が後を継ぐも、義元時代のような勢いは徐々に薄れつつあった今川家・・・

そこを狙ったのが、隣国=甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)と、かの桶狭間キッカケで今川から独立(2008年5月19日参照>>)した三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)でした。

Tokugawaieyasu600 永禄五年(1562年)に尾張(おわり=愛知県東部)統一(11月1日参照>>)を果たした信長は、この二人を結びつけ、やがて信玄と家康は阿吽の呼吸で以って遠江に侵攻を開始するのですが・・・

この家康の動きを知った土地の人々が、その侵攻に備えるために構築したのが、今回の堀川城(ほりかわじょう=静岡県浜松市北区細江町気賀)です。

土地の者が自分たちで建てた・・・という経緯から、おそらくは城というよりは砦のような物であったと思われますが、それ故、築城年数も、その様相も、ほとんどわかっていません。

ただ、『瀬戸文書』に残る永禄十一年(1568年)9月14日付けの氏真が発給した「徳政令を凍結する」旨の書かれた瀬戸方久(えとほうきゅう)宛ての安堵状には、
「…然者今度新城取立之条…」
と、新しい城を建てる?or建てた?事が記されていますので、おそらく、この頃に構築したとみられます。

以前、この3年後に起こる「伊平・仏坂(ほとけざか=静岡県浜松市)の戦い」のページ(10月22日参照>>)で、この家康の遠江侵攻の時、近藤康用(こんどうやすもち)をはじめとする井伊谷三人衆(いいのやさんいんしゅう)が道案内をしたと書かせていただきましたが、このように、遠江には、家康の侵攻を歓迎する者もいた反面、その仏坂で戦いがあった事でもお察しのように、家康の侵攻を拒む者も多くいたのです。

なんせ、もともとが今川の領地ですから・・・

そんな中、ここ気賀は後者=家康の侵攻を歓迎しない立場にあったのですね。

おそらく堀川城が構築されたであろうその永禄十一年(1568年)には、暮れの12月12日に、信玄が薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)で今川とぶつかり、翌日の13日には氏真の居館=今川館を攻撃(12月13日参照>>)・・・やむなく掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市掛川))へと逃げる氏真を、今度は家康が包囲したのが12月27日の事でした(12月27日参照>>)

これだけの今川相手の合戦が行われれば、当然、戦いに敗れて、気賀に落ちて来る者も多数・・・やがて、それらの今川の落武者たちに扇動されるように、気賀の住人は堀川城に立て籠もり、家康の支配に抵抗する事になります。

一説には、この頃、気賀には3000人ほどの住人がいた中、そのうちの約2000人~2500人が堀川城に籠城したとも言われています。

「気賀一揆」あるいは「堀川一揆」「堀川城の戦い」とも呼ばれる、この籠城戦・・・もちろん、ここには、近隣の土豪(どごう=半士半農の土着武士)は当然、商人や農民、非戦闘員とおぼしき女子供も含まれています。

この時、籠城戦を率いていた大将とされるのは、今川の家臣で、当時、居城の堀江城(ほりえじょう=静岡県浜松市西区)を家康勢に攻められていた大沢基胤(おおさわもとたね)被官(ひかん=部下)であった尾藤主膳(びとうしゅぜん)山村修理(やまむらしゅり)らであったとか・・・

『常山紀談』によれば・・・
堀川城に籠った彼らは、家康の暗殺を企てていたところ、「三河に戻る徳川軍が城の近くを通る」という情報を入手・・・

鉄砲にて討ち取らんと構えていたところ、その事を知らない家康が、無防備に、わずか7騎でその場所を通過・・・あまりの数の少なさに、一揆勢は、それとは知らずやり過ごして、「家康はまだか?」と、そのまま待ち構えていましたが、やがて、その後を石川数正(いしかわかずまさ)の大軍が通ったのを見て、やっと
「さては、もう家康は通り過ぎてしまったか…」
「簡単に討つ事ができたはずの好機を逃してしまった」

と大いに悔やんだ・・・さすが、神君家康公は神仏に見守られておる!
てな逸話が残ってますが・・・

さすがに、これは、後の江戸開幕を知ってるからこその家康ageでしょうが、長引く掛川城攻防戦のさ中に、家康が、堀川城の近くまで来たのに攻撃せず、一旦、三河に戻ったという話は確かな事で・・・実は、家康は干潮が最大になるのを待っていたのだとか・・・

そう、先にも書かせていただいた通り、この堀川城は、浜名湖のほとりに建っており、満潮の時には、舟で自由に出入りができるものの、干潮時には1ヶ所の出入口でしか通行できなかったのです。

かくして永禄十二年(1569年)3月27日、干潮時を狙って、約3000の家康軍が堀川城に一斉に攻撃を仕掛けます。

ちなみに、『浜松御在城記』には、「辰ノ三月七日」に堀川城への攻撃があったと記載されている事から、「辰の年=永禄十一年(1568年)」なので、「永禄十一年(1568年)の3月7日に1度めの堀川城への攻撃があった」とする説もありますが、上記の通り、遠江への侵攻が始まるのが永禄十一年(1568年)の12月頃からなので、それ以前の攻撃というは、おそらく無かった物と思われます。

とにもかくにも、上記の通り、干潮時には、ほとんど逃げ場が無かった堀川城・・・

『三河物語』によれば・・・
この戦いで1番乗りの大活躍をした17歳の若武者=大久保忠栄(おおくぼただなが・ただひで)が、一揆勢の鉄砲に当たって討死したした事とともに、
「男女供ニナデ切リニゾシタリケル」
と、かなりの人数の籠城組を撫で斬り(なでぎり=たくさんの人を片端から切り捨てる事)にした事が記されています。

一説には、このわずか一日の戦いで戦死した一揆勢の人数は1000人に達したのだとか・・・

その後、生き残った者の探索が行われ、捕縛された700人が半年後の9月9日に処刑され、その全員の首を、堀川城近くの小川に沿った土手に並べて晒したとの事・・・その場所は「獄門畷(ごくもんなわて)と呼ばれ、現在も、「堀川城将士最期の地」と刻まれた慰霊碑が建っています。

に、しても、住人が3000人ほどいて、そのうち約2000人~2500人が立て籠もって、1日の合戦で1000人が死んで、逃げたうちの700人が討首って・・・ホンマかいな?と思われる数字ですが・・・

そもそも、一般市民のほとんどが立て籠もるなんて事があるのか?

いや、「立て籠もる」というよりは、「そこに避難して来た」という事なら、あり得るかも知れません。

また、立て籠もった中で武士は100人ほどだったとも言われていますので、その多くが非戦闘員レベルの農民や女子供なら、一日の戦闘で1000人が討死にというのも、あり得るかも知れません。

ただ、捕縛された700人が一斉に斬首というのは・・・
もちろん、700人が一斉に捕まるわけでは無いので、約半年で何人かずつなのでしょうが、そんなに多くの者を押し込めておく場所は?

そもそも、住民がそんなに死んで、その後の気賀はどないなったん?
と、色々な疑問が残りますが・・・

ただ、この『三河物語』は徳川方の記録ですし、他の文献にも、かなり悲惨な状況だった事が記されていますので、やはり、この堀川城で、厳しい一件があった事は確かであろうと考えられており、今でも、その残虐さに、
「家康、やり過ぎ」とか
「家康、最大の汚点」とか
って言われる一件でもあります。

とは言え、この堀川城の一件は合戦というより一揆・・・一揆と言えば、家康は、この6年前に、あの三河一向一揆(みかわいっこういっき)(9月5日参照>>)を経験しています。

徳川を真っ二つに分け、徳川の存続が危ぶまれるほどの経験をした家康にとって、その記憶は鮮明に残っているでしょうから、「中途半端なやり方では根を残す」とばかりに、徹底的に根絶やしにした・・・という事なのかも、

いずれにしても、その残虐さ非情さも、現在の価値観と同じ物差しでは測れない物であります。
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2018年3月19日 (月)

小牧長久手~峯城&松ヶ島城の攻防戦

天正十二年(1584年)3月19日、小牧長久手北伊勢方面の戦いである松ヶ島城の戦いが終結しました。

・・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き後(6月2日参照>>)、仇となった明智光秀(あけちみつひで)山崎(やまざき=京都府)に討って(6月13日参照>>)織田家家臣内で優位に立ち、その後の清州(清須)会議(6月27日参照>>)を仕切った羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)を味方につけ、後継のライバルでもあった弟=織田信孝(のぶたか=神戸信孝・信長の三男)を追い落とし(5月2日参照>>)、その後推しをしていた柴田勝家(しばたかついえ)をも葬り去って(4月23日参照>>)、未だ幼い後継者=三法師(さんほうし=信長の孫・後の織田秀信に代わって、事実上の織田家後継者となっていた織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信意・信長の次男)でしたが、

今度は、これまで西の出来事を静観(10月29日参照>>)していた徳川家康(とくがわいえやす)を味方につけて秀吉に反発・・・天正十二年(1584年)3月6日、信雄は、自らの長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)重臣たちを呼び出して「秀吉に通じた」という名目で殺害したのです(3月6日参照>>)

『常山紀談(じょうざんきだん)によれば、その重臣殺害事件の発端となったのは、津川義冬(つがわよしふゆ)岡田重孝(おかだしげたか)浅井長時(あざいながとき=浅井田宮丸とも)滝川雄利(たきがわかつとし)という信雄の重臣4名が、秀吉に呼び出されて内応する約束をさせられたという出来事で、他の3人を裏切って、この事を信雄にチクッたのが滝川雄利、殺されたのは残りの3人という事になっています。

細かな経緯の真偽はともかく、ここで、重臣3人が謀反の疑いで殺害された事は確か・・・その勢いのまま、信雄は津川義冬の伊勢松ヶ島城(まつがしまじょう=三重県松阪市)を没収して滝川雄利に与えるとして、配下の佐久間正勝(さくままさかつ=信盛の息子・佐久間信栄)山口重政(やまぐちしげま)らを派遣します。

Komakinagakutekankeizu
小牧長久手の戦い・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

正勝&重政らは、その松ヶ島城へ向う道すがら、秀吉方の関盛信(せきもりのぶ)一政(かずまさ)父子が守る亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)を攻撃しますが、これは城兵の強固な守りに阻まれてしまいます(3月12日参照>>)

そんな亀山城攻防のあった同日深夜の3月13日には、東海地方にて犬山城(いぬやまじょう=愛知県犬山市)攻略戦(3月13日参照>>)が勃発するさ中、松ヶ島城に向った佐久間らではありましたが、留守を預かる津川義冬の一族が籠城を固めた城を思うように攻める事ができず、『大剛の人』として名を馳せた木造長政(こづくりながまさ=木造具康と同一人物か?)の援軍を得て、何とか包囲攻撃を仕掛けます。

寄せ手の猛攻に、さすがの松ヶ島城兵も数百人の死者を出し、あえなく開城・・・生き残った者は、ことごとく大和(やまと=奈良県)方面へと逃走して行きました。

こうして松ヶ島城に入城した滝川雄利に対し、信雄は「秀吉からの攻撃に備えるように」と指示し、更なる援軍を差し向けますが、その中には、家康から預かった服部半蔵(はっとりはんぞう=正成)率いる伊賀衆甲賀衆の鉄砲隊もいたとか・・・

一方、信雄による重臣殺害の一件を3月8日に耳にした秀吉は、早速、配下の堀尾吉晴(ほりおよしはる)らに北伊勢出陣の準備をさせ、自らも10日過ぎには近江(おうみ=滋賀県)へと向かいます。

そんな中、秀吉が目を付けたのが、信雄方が北伊勢守備の拠点としていた峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)・・・ここは、かの佐久間正勝の城でしたが、南北朝時代からの古城ゆえ、未だ城壁の補修が完璧では無かったのです。

そこを秀吉は、蒲生氏郷(がもううじさと)を総大将に長谷川秀一(はせがわひでかず)滝川一益(たきがわかずます)以下、1万余の軍勢で以って攻めさせたのです。

上記の通り、未だ守りが完璧でない峯城内は、「籠城戦は不利」と考え、城外へと撃って出ます。

しかし、これは秀吉の思惑通り・・・なんせ城外戦となれば、数に圧倒する秀吉軍が有利ですから・・・

激戦が展開されるも、所詮は多勢に無勢・・・多くの死者を出した信雄方の主将らは、やむなく城へと戻りました。

この敗戦を悔やんで自害しようとまで考えた佐久間正勝を、山口重政が思い留まらせたと言いますが、そんな中、家康配下の酒井忠次(さかいただつぐ)奥平信昌(おくだいらのぶまさ)らの援軍がコチラに向かっているとの知らせ・・・

この一報が秀吉方にも届いた事で、峯城を取り囲んでいた秀吉方の寄せ手が一里(約4km)ほど退きますが、この移動を見て取った峯城内の将兵は、その日の夜、闇に乗じて城を脱出し、尾張(おわり=愛知県西部)方面へと逃走していったのです。

秀吉方の将兵が峯城へと入城したのは、その翌朝の事・・・3月14日でした。

Toyotomihidenaga500a こうして峯城を攻略した秀吉軍は、つい先日奪い取られた松ヶ島城奪還に向けて、先の蒲生氏郷に加え、新たに羽柴秀長(ひでなが=秀吉の弟)羽柴秀勝(ひでかつ=秀吉の甥で養子)筒井順慶(つついじゅんけい)織田信包(おだのぶかね=信長の弟)ら、そして亀山城の関信盛父子に、もちろん津川義冬の一族も加わり、万全の態勢で松ヶ島城を包します。

秀吉は、この軍勢に田丸直息(たまるなおやす・なおおき)を通じて書状を送り、
「皆で分担して堀柵を構築し、一人として逃がさんように…さらに九鬼嘉隆(くきよしたか)の水軍で以って岸に舟を寄せ、これも縄で柵に結んで一人も逃がさんようにしろよ」
と、伊勢湾に面した城への攻略指南をしています。

もちろん、これは敵兵を逃がさないようにするとともに、海路からの兵糧の運び込みも防ごうとの作戦・・・『勢州軍記』によれば、この時の秀吉の軍勢は約5万との事ですが、さすがに、そこまで多くはなくとも、自らの弟や養子たちを大将に据えている所からみても、秀吉は、かなりの数で以って完全勝利を狙った物と思われます。

一方、この態勢を見て、「兵糧攻めにする気やな」と察した松ヶ島城内は、16日・17日・18日に3日間に渡って、しばしば門を開いて撃って出て、囲む諸将の陣所などを襲撃して回りますが、なんせ相手が多い・・・

対する秀吉方は力攻めをせず、ただひたすら相手の体力消耗を待つ・・・と、なると、やがては根負けして投降して来る者もチラホラ出始める。

で、結局、天正十二年(1584年)3月19日交渉に応じた城兵が開城し、秀吉軍は大した痛手を被る事無く松ヶ島城を取り戻す事に成功・・・大将の秀長は、ここを岡本良勝(おかもとよしかつ=重政とも)に守らせました。

とは言え、一方の小牧長久手方面では、この間の3月17日、羽黒の戦いは秀吉軍の森長可(ながよし・森蘭丸の兄で池田恒興の娘婿)にとって屈辱の戦いとなるのですが、それらのお話は、以下の関連ページでどうぞm(_ _)m

関連ページ
3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
3月12日:亀山城の戦い>>
3月13日:犬山城攻略戦>>
3月14日:峯城が開城
3月17日:羽黒の戦い>>
3月19日:松ヶ島城が開城←今ココ
3月22日:岸和田城・攻防戦>>
3月28日:小牧の陣>>
4月9日:長久手の戦い>>
      鬼武蔵・森長可>>
      本多忠勝の後方支援>>
4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
5月頃~:美濃の乱>>
6月15日:蟹江城攻防戦>>
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>
11月15日:和睦成立>>
11月23日:佐々成政のさらさら越え>>

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2018年3月12日 (月)

小牧長久手・前哨戦~亀山城の戦い

天正十二年(1584年)3月12日、小牧長久手の戦いの北伊勢方面の攻防となる亀山城の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月2日の『本能寺の変』によって命を落とした織田信長(おだのぶなが)・・・(6月2日参照>>)

信長と同時に、すでに家督を譲られていた嫡男の信忠(のぶただ)(11月28日参照>>)も亡くなってしまった事から、織田家の後継者は、信長の次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信意)か?、もしくは三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)か?と思われましたが、

その3ヶ月後に行われた清州(清須)会議では、変の寸前まで父=信忠とともにた息子の三法師(さんほうし=つまり信長の孫・後の織田秀信織田家の後継者と決まり(6月27日参照>>)、炎上した安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)(6月15日参照>>)を修復する間、三男の信孝が岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)にて後見人として三法師を預かるという形で、一旦は落ち着きます。

・・・が、水面下でのモメ事は、すでに動きつつあったのです。

なんせ後継者となった三法師は未だ3歳ですから、実質的には、その後ろにいる誰かが織田家を仕切る事になるわけで・・・

そんな中、かの信孝が、岐阜城に抱え込んだ三法師を、なかなか安土に戻そうとしなかった事から、次男の信雄が不満をつのらせる事になります。

こうして起こったのが、有名な賤ヶ岳(しずかたけ=滋賀県長浜市)の戦い(4月21日参照>>)です。

この後の歴史の流れを知ってる私たちからすれば、どうしても、信長が座りかけた天下のイスを狙う羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が、織田家家臣の筆頭である邪魔な柴田勝家(しばたかついえ)を消そうとした戦いのように思っちゃいますが・・・てか、それが一般的な見方かも知れませんが、

もちろん、実際に両者は戦ってますし、秀吉主導の信長の葬儀(10月15日参照>>)の雰囲気や、初の検地を実施したり(7月8日参照>>)なんぞを見ても、秀吉の心の中には、そのような思惑もあったのだろうとは思いますが、あくまで、この合戦開始の時点での表向きは、父の後を継ぎたい三男=信孝と彼を応援する勝家に、「ちょー待て!俺が次男や」と信雄が対抗した戦いで、秀吉は、そんな信雄のお手伝い・・・というのが前提の戦いだったように感じます。
(でないと、信雄は秀吉に協力しないし、信雄という看板無しに秀吉が信孝や勝家を攻撃すれば、謀反扱いになるかもですから…)

で、信雄に攻められた信孝は自刃し(4月23日参照>>)戦いに敗れた勝家も、奥さん=お市の方(信長の妹)とともに自害しました(5月2日参照>>)

Odanobuo400 すでに、この戦いの前から、父=信長が使用した「天下布武」のハンコに似せた「威加海内(天下に威力を示す)というハンコを使用し、信長の弟や自分の妹の徳姫(とくひめ=信長の長女・徳川信康室)をはじめとする織田一族を庇護下に置いたりなんぞしていた信雄は、こうして事実上の織田家後継者となったわけですが、ここで、信雄と秀吉の間に亀裂が生じます。

なんせ、信雄を後押してたはずの秀吉が、上記の一連の過程で、かなりの力をつけてしまっていて、この前年の天正十一年(1583年)には、かの清州会議で得た大坂の一等地に、巨大な大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)まで築城しちゃったりしてますから・・・

で、そんな中で事件が起こります。

どこかの誰かの画策で、その方向に行っちゃったのか?
それとも、複数の誤解が重なって、そうなっちゃったのか?
いやいや、自らが率先して、秀吉と対立する気になったのか?

そこらへんの心の内は本人のみぞ知るところでしょうが、とにもかくにも、天正十二年(1584年)3月6日、信雄は、自らの長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)重臣たちを呼び出して「秀吉に通じた」という名目で殺害してしまうのです(3月6日参照>>)

これはつまり・・・秀吉との縁を切る=秀吉に宣戦布告したという事になるわけですが、そんな信雄にも、もちろん勝算はあります。

なんせ、今、秀吉側にいる者も、もとはと言えば、お父ちゃん=信長の配下だったわけですし、今回は、信長の死後には、宙に浮いた武田の旧領を切り取る事に目を向けていて(10月29日参照>>)西の出来事(賤ヶ岳etc)を静観していた大物=徳川家康(とくがわいえやす)を味方につけてますから・・・

かくして、その重臣殺害事件から、わずか3日の3月9日・・・信雄から伊勢松ヶ島城(まつがしまじょう=三重県松阪市)の守備を命じられた佐久間正勝(さくままさかつ=信盛の息子・佐久間信栄)山口重政(やまぐちしげま)らは、松ヶ島城への道すがら、5000余の兵力で以って、秀吉方の関盛信(せきもりのぶ)一政(かずまさ)父子が守る亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)に押し寄せたのです。

この亀山城は、前年の賤ヶ岳の時には、滝川一益(たきがわかずます)方の佐治新(さじしんすけ=一益の従弟の滝川益氏と同一人物か?)が、関盛信から奪ったものの、その後の戦いの経過により、戦後は再び関盛信が預かっていた城だったのですが、もともと秀吉にとって北伊勢を守る重要な位置にあるばかりか、今回の相手が信雄&家康となれば、特に重視しなければならない城だったわけで・・・

とは言え、今は、単に松ヶ島城へ向う道すがら・・・この日は城下に放火して回っただけで、本格的な城への攻撃は無かったものの、これは、あくまで、宣戦布告した信雄側のごあいさつなわけで、当然、このままでは終わりません。

かくして天正十二年(1584年)3月12日、信雄方の林正武(はやしまさたけ=神戸与五郎)率いる500の軍兵が亀山城を奇襲したのです。

実は、この時、秀吉軍の主力は、未だ、その修復が未完成でありながらも信雄方が北伊勢の守りの拠点としていた峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)を、修復が完了する前に崩すべく準備していたところだったので、逆に、この亀山城の守りは手薄になっていたのです。

もちろん、信雄方は、そこを狙って先制攻撃を仕掛けて来たわけですが、一方の守る亀山城は、関盛信父子以下、名のある武士は、わずか13名・・・何とかせねばなりません。

そこで盛信は、侍だけでなく(足軽とか)も合わせた2~30名の部隊を編成し、敵勢を引きつけたところで、城下に放火・・・その煙に紛れて敵へと撃って出たのです。

煙で何も見えない中、城兵の数を把握できない林勢は、前に進むどころか、その気勢に圧倒されて後ずさり・・・混乱してワケがわからないまま、それぞれ近隣の村々へと退却して行ったのです。

敵の退却を確認した盛信は、深追いせず、急ぎ兵を城へと戻し、すぐさま、籠城戦への備えを固めます。

しかし、その後に籠城戦となる事は無く、結局、信雄方は、そのまま亀山城攻めを断念する事になります。

そうです。
実は、この亀山城の戦いと同じ日の深夜に決行されたのが秀吉方による奇襲=犬山城(いぬやまじょう=愛知県犬山市)攻略戦(3月13日参照>>)・・・秀吉VS家康の一連の直接対決として有名な、あの小牧長久手(こまき&ながくて)の戦いの勃発となるわけです。

しかも、犬山城が秀吉勢の手に落ちた翌日の14日には、準備していた峯城への攻撃も開始し、翌15日には、この城も秀吉方が制圧しています。

ご存じのように、小牧長久手方面での個々の戦いは微妙・・・というより、負けた感が濃い秀吉ですが、ここ北伊勢方面では、この後、松ヶ島城をも落としているのです【(3月19日参照>>)

まぁ、結局、この小牧長久手の戦いは、大きな合戦だったワリには、信雄の単独行動によって勝敗がハッキリしないまま終わっちゃうんですけど・・・そのお話は、下記のそれぞれのページでご覧あれm(_ _)m

小牧長久手・関連ページ
3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
●3月12日:亀山城の戦い←今ココ
3月13日:犬山城攻略戦>>
3月14日:峯城が開城>>
3月17日:羽黒の戦い>>
3月19日:松ヶ島城が開城>>
3月22日:岸和田城・攻防戦>>
3月28日:小牧の陣>>
4月9日:長久手の戦い>>
      鬼武蔵・森長可>>
      本多忠勝の後方支援>>
4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
5月頃~:美濃の乱>>
6月15日:蟹江城攻防戦>>
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>
11月15日:和睦成立>>
11月23日:佐々成政のさらさら越え>>
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2018年3月 5日 (月)

久米田の戦い~三好実休が討死す

永禄五年(1562年)3月5日、久米田の戦いで三好実休が討死しました。

・・・・・・・・・・

室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)として絶大な力を持っていた細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)亡き後の主導権争いに打ち勝って政権を握った細川晴元(はるもと)に対し、天文十八年(1549年)に江口の戦い(6月4日参照>>)にて勝利して彼を近江(おうみ=滋賀県)へと敗走させた三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)は、自らは芥川山城(あくたがわやまじょう=大阪府高槻市)を拠点として畿内を掌握し、京都には重臣の松永久秀(まつながひさひで)を所司代として置き、晴元に代わる政権を樹立したのです。

さらに、近江守護の六角義賢(よしかた=承禎)を味方につけて敵対していた第12代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる=義晴の息子)とも、永禄元年(1558年)の白川口の戦い(北白川の戦い)(6月9日参照>>)をキッカケに和睦し、事実上の天下人となった長慶・・・

しかし、そんな全盛期真っただ中の永禄四年(1561年)5月、これまで長慶の右腕として活躍してくれていた弟で岸和田城(きしわだじょう=言大阪府岸和田市)十河一存(そごうかずまさ・かずなが=長慶の3番目の弟)を亡くします(5月1日参照>>)

これまでに畿内を追われた敵方の面々が、この有能な弟の死を挽回のチャンスと見るは必至・・・

案の定、かの六角義賢は、晴元に代わる息子の細川晴之(ほそかわはるゆき=晴元の次男)を看板に掲げて、三好家に対抗するのですが、これが永禄四年(1561年)11月の将軍地蔵山の戦い(11月24日参照>>)です。

そのページで書かせていただいたように、近江(おうみ=滋賀県)に拠点を持つ義賢は、滋賀と京都の間にある将軍山城(しょうぐんやまじょう=京都市左京区北白川:瓜生山:将軍山)に籠って・・・つまり、北東から京都を攻めるスタイルに・・・

一方、この時、その義賢と連携して、南から同時攻撃しようと動いたのが、紀伊(きい=和歌山県)河内(かわち=大阪府東部)の守護でありながら、事実上、河内を三好家に掌握されていた畠山高政(はたけやまたかまさ=畠山政長>>の曾孫)でした。

この時、飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市)にて指揮を取る長慶は、息子の三好義興(よしおき=長慶の嫡男で嗣子)とともに松永久秀らを地蔵山城の備えとして北へ向かわせ、すぐ下の弟=三好実休(じっきゅう=義賢・之康)らを、岸和田城の備えとして南へ向かわせました。

一存亡き後、この岸和田城を治めているのは、長慶2番目の弟=安宅冬康(あたぎふゆやす=長慶の2番目の弟)・・・

Miyosizikkyuu500a 弟のピンチに駆けつける実休は、三好長逸(ながやす=三好三人衆)三好政康(まさやす=同三人衆・政勝・政生・宗渭)らなどの三好一族とともに、阿波(あわ=徳島県)淡路(あわじ=兵庫県淡路島)の軍勢を加えた7000余を岸和田に集結させますが、すでに、岸和田城が畠山勢に包囲されていたため、少し離れた久米田寺(くめだでら=大阪府岸和田市)周辺に布陣し、貝吹山城(かいぶきやまじょう=同岸和田市)に本陣を置いたのです。

京都側の地蔵山の戦いと同じ=まさに永禄四年(1561年)11月24日のその日、コチラ和泉(いずみ=大阪府南西部)側でも戦闘が開始されますが、コチラは三好勢がやや劣勢・・・

対峙と小競り合いを繰り返しつつ、12月25日には、飯盛山城の支城であった三箇城(さんがじょう=大阪府大東市)が畠山勢と、それに加勢する根来衆(ねごろしゅう=和歌山県岩出市の根来寺周辺の宗徒)の奇襲に遭って陥落し、城主の三好政成(まさなり=政康の兄で三好の重鎮)討死してしまいます。

年が明けた永禄五年(1562年)になっても、京都方面は、両者の一進一退が続くも、コチラ和泉は、どうも三好の分が悪い・・・

『西國太平記』によれば、
そんな小競り合いのさ中の、ある日、実休は不思議な夢を見たと言います。

それは、以前、自らの手で死に追いやった阿波守護の細川持隆(もちたか=晴元の従兄弟)が夢枕に現れ、実休を殺そうと刀を向けたという物・・・

「このまま斬られるわけにはいかぬ!」
とばかりに、実休は、取りあえずの時間稼ぎをすべく
「わかった!わかったけど、死ぬ前に時世の句を詠ませてくれ」
と言って、夢の中で句を詠みます。

それが
♪草枯らす 霜又今日の 日に消えて
 因果はここに 巡り来にけり ♪

「今日、露のように消えて行くのも、これまでして来た事の報いなんや」

句を詠み終えて、覚悟を決めた所で、夢が覚めた・・・にしても、我ながら不吉な句を詠んだ物やなぁ、と思いつつ、この話を、弟の安宅冬康にすると、

「確かに不吉な夢ですが、それは、きっと逆夢やと思います。ご心配なら、俺が、歌を返して、不吉な歌の厄払いをしましょう」
と・・・

♪因果とは はるか車の 輪の外に
 巡るも遠き 三好野々原 ♪

「俺らは、因果が巡る場所からメッチャ遠い所にいてます」

と詠んで、兄を勇気づけたのだとか・・・

そんなこんなの
永禄五年(1562年)3月5日、日付が変わった真夜中の0時、実休らの布陣する久米田に畠山勢が夜襲をかけたのです。

両者激しくぶつかり合う中、三好配下の篠原長房(しのはらながふさ)らが撃って出て根来衆の一団を崩します。

この勢いに乗じて押せ押せムードの三好勢・・・しかし、ここで三好の諸隊が一気に敵陣に撃って出たため、逆に総大将の実休の周辺が馬廻りや旗本のみの100騎前後と手薄になってしまいました。

ここを見逃さなかった畠山・・・この隙間を突いて実休めがけて突撃します。

『細川両家記』によれば、これを迎えた実休は、大傷を負いながらも一歩も退かず、そのまま周辺の30余名ともども、討ち取られたと言います。

『厳助大僧上記』では、「鉄砲により…」と記され、根来衆の放った鉄砲が致命傷となったとなっています。

こうして大将を討ち取られた三好軍は総崩れとなり、篠原長房や三好長逸らは、追撃して来る畠山勢をかわしながら飯盛山城へと敗走・・・安宅冬康も淡路へと逃走して行きました。

ただし、『常山紀談』によれば、
この日、飯盛山城にて連歌会に出席していた兄の長慶が、ちょうど、
♪すゝきにまじる 蘆の一むら…♪
「ススキの大群の中の蘆
(あし)の一群が…」
という句に、出席者の誰もが、次の句を付けあぐねて、皆がしばらく考え込んでいた状態だった時、ふと届いた書状に目をやりながら、
♪古沼の あさき潟より 野となりて…♪
「古い沼が浅い方から野原に変わって…」

と、次の句を付け加えた後、
「実休が討死にしたと言う…今日の連歌は、これにて…」
と、すぐさま、弟の仇を討つべく、兵を率いて出陣し、見事、畠山勢を破っています。

また、この和泉周辺での畠山勢の敗北を知った、京都の六角勢も、一旦、近江へと退いていますので、弟を失ったとは言え、未だ、この時点では三好の強さは維持されていたわけですが、ご存じのように、このあたりから三好家内では、家臣の松永久秀が力を持ち始め(11月18日参照>>)、やがて織田信長(おだのぶなが)の上洛(9月7日参照>>)によって決定打を放たれる事になるのですが・・・(9月28日参照>>)

ところで・・・
先程の実休が見た夢の話・・・

微妙に違う複数の逸話が残っているので、その真偽のほどはわかりませんが、実際に、
♪草枯らす 霜又今日の 日に消えて
 報いのほどは 終
(つい)に逃れず ♪
というのが、三好実休の時世の句とされ、どうやら、実休は本当に、敵将を死に追いやった自責の念にかられていたのではないか?と言われています。

以前、長兄の三好長慶さんのページでも
【やさし過ぎる戦国初の天下人…】>>
と題する記事を書かせていただきましたが、もし、本当に「自責の念にかられていた」のだとしたら、やはり、三好家の人々は、兄も弟も・・・戦国に生きるには難しいほどにやさしい人たちだったのかも知れません。

血で血を洗う戦国の世において、「これで良いのか?」と自問自答しながらも、殺らねば殺られる現状に奮起して生きていたのかな?と・・・ふと、

とは言え、実際問題として、そんなに弱気では戦国武将としてやって行けないし、ここまでの勢力を維持する事はできないでしょうから、あくまで話半分の逸話という感じなのかも・・・
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2018年3月 1日 (木)

島津斉彬の江戸入りと「お庭方」西郷隆盛

嘉永七年(安政元年=1854年)3月1日、島津斉彬の江戸入りに西郷隆盛が随行し、「お庭方」役につきました。

・・・・・・・・・・・

ご存じ!今年の大河ドラマ「西郷どん」の主役=西郷隆盛(さいごうたかもり=本名:隆永、通称:吉之助善兵衛吉兵衛→1周回って吉之助です。
(実は「隆盛」はお父さんの名前…維新後、位階を受ける際に友人が間違って父親の名を提出してしまったため、以後、自ら「隆盛」と名乗る事にしたらしい)←他に菊池源吾大島三右衛門とかの変名を名乗っている時期もあって、ややこしいので今日は「隆盛」の名前で通させていただきます。

Saigoutakamori700a 身長は180cm近くあり、(想像画→)
体重も100kgほどあったので、
見た目も大きく、その性格も細かい事にこだわらない大物感を感じさせるような人だったようですが、口数は少なく、重要な事しか話さなかったらしいので、ドラマのようなハッチャケ感は無かったものと思われます。

そんな隆盛は、鹿児島城下では下級武士が住む下加冶屋町(したかじやまち=鹿児島県鹿児島市加冶屋町)にて、薩摩藩の勘定方小頭(かんじょうがたこがしら)という役職の西郷吉兵衛隆盛(きちべえたかもり)の長男として文政十年(1828年)に生まれました。

ドラマでも描かれていたように、12歳の時に仲間と連れだって神社にお参りに行った際、ツレが上級武士の子とケンカし、そのケンカ相手の刀が、仲裁に入った隆盛の右腕を斬ってしまい重傷を負ったとされています(学校からの帰宅途中に暴漢に襲われた説もあり)

幸いにして命を落とす事はありませんでしたが、傷は神経に達しており、そのせいで刀が握れなくなったために、以後は、剣術ではなく、学問で身を立てて行こうと考えるようになりました。

やがて弘化元年(1844年)=17歳の時に、郡奉行(こおりぶぎょう=知行地の管理&徴税etc担当)迫田利済(さこたとしなり)を補助する役職=郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)に採用されました。

これって・・・「藩の土地を管理して税を徴収する」=農政って事ですから、当然、年貢を納める側の農民とも親しく接する事になるわけで・・・

ここで、武家としては下っ端の下っ端である自分よりも、さらに下にいる農民たちの厳しい実態を垣間見た隆盛が、「何とか年貢を下げてもらえない物だろうか」と迫田に訴えると、真面目で硬派な迫田も同じ思いを抱き、その事を藩に訴えますが聞き入れられず・・・憤慨した迫田は、そのまま辞職してしまいます

貧乏一家の長子として弟や妹たちを養わねばならない立場の隆盛は、さすがに辞職する事はしませんでしたが、おそらく心の内では、藩政の不合理に対する不満など抱いた事でしょう。

そんなこんなの嘉永二年(1849年)に勃発したのが、現藩主=島津斉興(しまづなりおき)の後継者争いです。

斉興の正室=弥姫(いよひめ=周子)が生んだ長男=斉彬(なりあきら)と、側室=由羅(ゆら)が生んだ五男=久光(ひさみつ)との間で起こった次期藩主の座を巡るお家騒動・・・世に「お由羅騒動」「高崎くずれ」とか呼ばれます(12月3日参照>>)

結局、このゴタゴタは、密貿易事件や幕府も巻き込んだ末、嘉永四年(1851年)に斉興が隠居して斉彬が第11代薩摩藩主となる事で落ち着くのですが、その過程で、隆盛の父が御用人(ごようにん=庶務係)を務めていた赤山靭負(あかやまゆきえ)が自刃に追い込まれてしまい、この一件は隆盛にとっても大きな衝撃を受ける事件となりました。

一方、その頃に、徳川将軍家から島津家への打診があったのが、後に第13代将軍となる徳川家定(とくがわいえさだ)正室(継室=いわゆる後妻さん)選びの一件・・・実は、家定は、この時すでに公卿出身の正室を2人、病気で亡くしてしていて、今回の嫁選びは3人目の嫁となるわけですが、先のお2人がひ弱なお育ちとも思える公家のお姫様だった事で「今度こそは丈夫な嫁を」と考え、島津家へ打診したのです。

と言うのも、第11代将軍=徳川家斉(いえなり)が正室に娶った姫が、この島津家出身・・・第8代藩主=島津重豪(しげひで)の娘で、元気で丈夫、夫を見送って72歳まで生きた篤姫(あつひめ=茂姫・後に近衛寔子)という女性だったのです。

もちろん、この篤姫の結婚自体が、それ以前に将軍家から島津へお嫁に来た竹姫(たけひめ)が両家の架け橋となり(12月5日参照>>)、将軍家と島津家の信頼関係を築いて、そのレールを敷いていた結果でもあるわけですが、

とにもかくにも、ここで将軍家が、かの「丈夫な篤姫の血筋」を要望した事で、斉彬は島津一門の中から一人の姫を選ぶ事になるのです。

一方、斉彬が将軍の嫁候補を吟味していたであろう嘉永五年(1852年)、最初の結婚をする隆盛でしたが、それから間もなく、父と母を相次いで亡くし、家督を相続して一家を支えていかねばならない立場となりますが、役職は相変わらず郡方書役助のまんま・・・

西郷家の苦しい家計がいっそう苦しくなる中、皆様ご存じの嘉永六年(1853年)6月・・・「イヤでござるよペリーさん」黒船来航です(6月3日参照>>)

さらに、同じ6月には第12代将軍=徳川家慶(いえよし=家斉の次男で家定の父)が死去、その2ヶ月後の8月には、品川沖にて砲台場の建設が開始(8月28日参照>>)されるという慌ただしさMAXの、まさにその頃、斉彬は、一門の島津忠剛(ただたけ)の長女であった(いち)を家定の正室候補として選び、自らの養女として江戸へと発たせたのです。

彼女は、先の丈夫で長生きな姫にあやかって、その名を篤姫(あつひめ)と改め、家慶亡き今となっては、「将軍御台所候補」として江戸に向かったのでした。

その篤姫が江戸に到着した10月には、ロシアプチャーチン下田(しもだ=静岡県下田市)に来航し(10月14日参照>>)、年が明けた嘉永七年(安政元年=1854年)の2月には、早くもペリーさん(2月24日参照>>)が再びの来日を果たし、その騒ぎを鎮静化させるため幕府が黒船見物禁止令を発布(2月3日参照>>)したり・・・
(ちなみに前回放送=第8回の大河ドラマは、まさに「今ココ↑」でしたね(*^-^))

とまぁ、色んな事が目まぐるしく起こる中、この嘉永七年(安政元年=1854年)の3月1日斉彬ご一行が江戸へと到着・・・そのお供の一人に抜擢され、斉彬の江戸入りに随行していたのが隆盛でした。

以前、かの農政に関する真摯な意見書を提出していた事が斉彬の目にとまっての抜擢です。

斉彬という人は、嘉永四年(1851年)に10年ぶりにアメリカから戻って来たジョン万次郎(まんじろう=中浜万次郎)を手厚くもてなして(1月3日参照>>)藩士たちへの西洋技術の指導を頼んだり、すでに嘉永五年(1852年)の段階で大砲鋳造のための反射炉の建設に着手したり・・・と、かなり先進的な考えの持ち主でしたから、おそらく、その人材登用も、身分にこだわることなく、実力重視で行っていたのでしょう。

そして、この江戸にて、隆盛は「お庭方(にわかた)という役を命じられます。

これは、その名の通り、斉彬の邸宅の庭園を管理する役職ですが、お察しの通り、それは表向き・・・ドラマ上では主役の特権で、藩主様とも何度か出会って会話し、相撲大会では恐れ多くも投げ飛ばしちゃった西郷どんではありますが、実際には、隆盛の身分があまりに低すぎて、殿様とは直接お話などできない立場だったんですね~

しかし、そんなエライお殿様でも、気晴らしにお屋敷のお庭を散歩なさる事は度々あるわけで・・・そんなお庭の散歩中に、たまたまお庭を手入れしている者に出会い、「この花は何という名じゃ?」ってな声をかける事もあるわけで・・・

そうです・・・斉彬から、公にできないような密命を直接受け、その手足となって江戸の町を駆け巡る・・・これが、隆盛に与えられた使命だったわけです。

この江戸滞在中には、奥さんの実家から離縁の相談を持ちかけられ、1度目の結婚が破たんしてしまうという出来事もあったりしましたが、若き隆盛にとっては、大抜擢してくれた斉彬への恩に感動し、忠誠を誓い、人生の一大転機となった事は確かでしょう。

なんせ、ここは江戸・・・尊王のカリスマ的存在の、あの藤田東湖(ふじたとうこ)(10月2日参照>>)橋本左内(はしもとさない)(10月7日参照>>)、後に天狗党のリーダーとなる武田耕雲斎(こううんさい)(10月25日参照>>)などなど、時代の最先端を行く人々と出会う事になるのですから・・・

ちなみに、かの篤姫の正式な婚儀が行われるのは、江戸入りから3年後の安政三年(1856年)12月・・・この間に準備された婚礼道具の数々は、贅の限りを尽くした将軍正室の腰入れにふさわしい豪華な品々でしたが、その道具類を吟味するに当たっても、隆盛は大いに活躍したとの事・・・

とは言え、皆様ご存じのように、この後、ほどなく幕末の動乱がやって来る事になります。

安政五年(1858年)7月に、尊敬して止まなかった斉彬が亡くなり(7月16日参照>>)、一時は殉死(じゅんし=主君の死をいたんで臣下や近親者が死を選ぶ事)を決意した隆盛を、清水寺成就院(じょうじゅいん=京都市東山区)の僧=月照(げっしょう)が思いとどまらせますが、間もなく、追いつめられた二人は心中をはかる事に・・・と、そのお話は、未だブログを始めて間もない頃の未熟なページではありますが、11月16日参照>>でどうぞm(_ _)m

★特別公開情報
普段は非公開の成就院(月の庭)ですが、
今年2018年
●冬の旅イベントの1月27日~3月18日
  (10時~16時)
●春の4月28日~5月6日

  (9時~16時)
●秋の11月17日~12月2日

  (9時~16時、夜間公開=18時~20時半)
の3度、特別公開が予定されています。
(予定は変更される場合もありますのでお出かけの際は事前に再確認を)

Zyouzyuintukinoniwa
清水寺成就院「月の庭」
…西郷と月照が、月影を愛でながら日本の未来を語り合った庭です
(内部は撮影禁止ですので右の庭園の写真は建物正面にあるイベントポスターの転載です)
成就院のくわしい場所は、本家HP:京都歴史散歩「ねねの道・幕末編」でご紹介しています>>(←別窓で開きます)

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