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2018年4月21日 (土)

信長VS顕如・石山合戦~高屋・新堀城の戦い

天正三年(1575年)4月21日、織田信長と本願寺顕如による石山合戦での高屋・新堀城の戦いが終結しました。

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永禄十一年(1568年)に、第15代室町幕府将軍=足利義昭(よしあき・義秋)を奉じて上洛(9月7日参照>>)を果たした織田信長(おだのぶなが)・・・

信長上洛の際、それまで畿内を牛耳っていた三好(みよし)では、嫡流の三好義継(よしつぐ=長慶の甥で養子)と重臣の松永久秀(まつながひさひで)は恭順したものの、三好三人衆と呼ばれた三好長逸(みよしながやす)三好政康(まさやす)石成友通(いわなりともみち)らは信長を受け入れる事ができずに敵対します。

2年後の元亀元年(1570年)、そんな三好三人衆と信長がぶつかった野田福島(のだ・ふくしま=大阪市都島区・福島区)の戦い(8月26日参照>>)をキッカケに、石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)を本拠とする本願寺の第11代法主(ほっす)顕如(けんにょ)対信長戦に参戦を表明(9月12日参照>>)した事から、10年の長きに渡る石山合戦(いしやまかっせん)が始まるのです。

野田福島の後に一旦は停戦するものの、全国に信者を持つ本願寺の教祖様が再び扇動し始めると、元亀二年(1571年)の5月には長島(ながしま=三重県桑名市)にて長島一向一揆(5月16日参照>>)、同年の9月には近江の一向一揆(9月3日参照>>)、天正二年(1574年)1月からは越前一向一揆(1月20日参照>>)と各地で一揆が勃発しますが、

Odanobunaga400a 一方の信長も、元亀四年(天正元年=1573年)には反発する足利義昭を追放(7月18日参照>>)し、浅井(あさい)(8月28日参照>>)朝倉(あさくら)(8月6日参照>>)滅亡させ・・・と、一つ一つ敵を潰していく中、天正二年(1574年)9月には、一向一揆の中で最も信長を困らせていた長島一向一揆をせん滅した(9月29日参照>>)事で、本家本元の石山本願寺への直接攻撃を画策しはじめます。

翌天正三年(1575年)3月に上洛した信長は、「この年の秋には大坂を攻めるゾ!」とばかりに、この戦闘の担当与力(よりき)細川藤孝(ほそかわふじたか=幽斎)に命じるとともに、配下の諸将たちに、その準備を整えるよう指示しました。

そして、信長自身は、その要路である平野(ひらの=大阪市平野区)周辺に戦闘時の禁令を発布して準備を整え、4月6日に河内(かわち=大阪府東部)に向け、軍勢を率いて出立しました。

『兼見卿記』によれば、その数は約1万余であったとか・・・

京都から八幡(やわた=京都府八幡市)を通り、7日に若江(わかえ=大阪府東大阪市)に到着した信長は、翌8日に、石山本願寺に与する三好康長(やすなが=長慶の叔父)の拠る高屋城(たかやじょう=大阪府羽曳野市古市)を攻撃したのです。

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古室山古墳より駒ヶ谷方面を望む

『信長公記』によれば、駒ヶ谷山(こまがだにやま=同羽曳野市)に本陣を構えて、眼下の合戦の様子を観望する信長は、自軍の伊藤与三右衛門(いとうよそうえもん)の弟=伊藤二介(ふたすけ)が、数か所の傷を負いながらも、先駆けとして何度も敵方に突進した後、壮絶な最期を遂げる姿を見て「晴れがましい働きである」と絶賛したのだとか・・・

その日、四方八方から高屋城に攻撃を仕掛けた織田軍は、佐久間信盛(さくまのぶもり)丹羽長秀(にわながひで)柴田勝家(しばたかついえ)塙直政(ばんなおまさ)らの諸将が、谷間やら田畑やら、近辺をくまなく焼き払ったと言います。

その後、12日に、本陣を住吉(すみよし=大阪市住吉区)に移した信長のもとには、畿内(山城・摂津・河内・和泉・大和)からはもちろん、若狭(わかさ=福井県西部)近江(おうみ=滋賀県)美濃(みの=岐阜県)尾張(おわり=愛知県西部)伊勢(いせ=三重県中北部)丹後(たんご=京都府北部)丹波(たんば=兵庫県北東部・京都府北部)紀伊(きい=和歌山県)根来衆(ねごろしゅう)まで、続々と援軍が集まって来ます。

信長はそれらの軍勢を天王寺から住吉・遠里小野(おりおの=大阪市住吉区)方面へと展開して石山本願寺をけん制・・・14日には石山本願寺周辺へ押し寄せて刈田を行い、大いに騒ぎ立てますが、その頃には軍勢の数は、なんと10万余に達していたとか・・・

16日からは、本陣を遠里小野に移し、近隣の刈田を実行した後、次のターゲットである新堀城(しんぼりじょう=堺市北区新堀町)を包囲するべく(さかい=大阪府堺市)に向かいます。

ここ新堀城には、先の三好康長と結んだ十河一行(そごういっこう)香西長信(こうざいながのぶ)立て籠もっていたのです。

17日に城を取り囲んだ織田軍は、19日の夜には火矢を射かけ、草で以って堀を埋め、大手と搦め手の二方向から攻撃を開始し、すばやく両門を突破・・・大将の一人である十河一行をはじめとする170余の首を挙げ、香西長信を生け捕りにした後、斬首にしました。

この新堀城の落城を知った高屋城の三好康長が、信長の側近である松井友閑(まついゆうかん)を通じて降伏を申し出て来たため、信長は康長を許し、高屋城も接収したのです。

天正三年(1575年)4月21日、ここに高屋・新堀城の戦いは終結しました。

その後、信長は、塙直政に命じて、高屋城&新堀城をはじめとする河内の城や砦をことごとく破却させました。

さぁ、これで、残るは石山本願寺そのものだけ!
いよいよ・・・という事になるはずだったのですが・・・

この高屋・新堀城の戦いの終結と、まさに同じ4月21日・・・遠く三河(みかわ=愛知県東部)で、今は亡き甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)の後を継いだ四男=勝頼(かつより)が、信長の同盟者である徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平元康)の娘婿=奥平貞昌(おくだいらさだまさ)長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市)を取り囲んだのです(4月21日参照>>)

家康からの援軍要請に応える信長・・・ご存じ、長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら)の戦いです(5月21日参照>>)

上記に書いた通り、おそらくはご本人は「この秋に…」と考えていたであろう信長による石山本願寺への直接攻撃は、翌天正四年(1576年)5月の天王寺合戦へと持ち越される事になりました。

その後のお話は関連ページで↓
【天王寺合戦】>>
【第1次・木津川口海戦】>>
【信長の鉄甲船完成】>>
第2次木津川口海戦】>>
【石山合戦の終結】>>
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