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2018年5月24日 (木)

前田利家~最大の汚点?越前一向一揆虐殺「呪いの瓦」

天正四年(1576年)5月24日、越前で起こった一向一揆にて前田利家が1000人を処刑しました。

・・・・・・・・・・・

第15代室町幕府将軍=足利義昭(よしあき・義秋)を奉じての織田信長(おだのぶなが)の上洛(9月7日参照>>)に反発した三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)との、元亀元年(1570年)に起こった野田福島(のだ・ふくしま=大阪市都島区・福島区)の戦い(8月26日参照>>)に参戦した事で、反信長を表明した石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)第11代法主(ほっす)顕如(けんにょ)

そんな教祖様の扇動もあって、翌元亀二年(1571年)から、各地の本願寺門徒が蜂起して一向一揆を起こします。
長島一向一揆(5月16日参照>>)
近江の一向一揆(9月3日参照>>)

その中の一つが天正二年(1574年)1月からの越前一向一揆です。

この越前(えちぜん=福井県東部)の地は、ご存じ朝倉義景(あさくらよしかげ)が領地としていましたが、天正元年(1573年)に、その朝倉を倒した(8月6日参照>>)信長によって、その本拠だった一乗谷城(いちじょうだにじょう=福井県福井市)を与えられて越前守護代に任ぜられたのが前波吉継改め桂田長俊(かつらだながとし)、そして龍門寺城(りゅうもんじじょう=福井県越前市)を与えられて府中領主に任じられていたのが富田長繁(とみたながしげ)だったわけですが、この二人の間に内紛が勃発し、長繁は一向一揆勢の力を借りて長俊を倒し、越前一国をほぼ掌握・・・(1月20日参照>>)

しかし、上記の通り信長と本願寺は抗戦中なわけで、越前を掌握した後に信長配下に戻る事を、ともに戦った一向一揆勢が許すはずもなく、長繁が、慌てて信長宛てに詫状を書いて領主の座を認めてもらおうとした途端、今度は一向一揆と町衆によって長繁は討たれてしまったのです(2月18日参照>>)

つまり、信長が朝倉から奪った越前が一向一揆の物になったわけで・・・

そこで天正三年(1575年)8月、信長は自ら越前へと出陣し、10日余りで一向一揆をせん滅するのですが、この戦いは、一向一揆側の死者と捕縛者とを合わせた数が3~4万にも達し、「府中の町は死体だらけで隙間もない」ほどだったのだとか・・・(8月12日参照>>)

こうして再び越前を平定した信長は、配下の柴田勝家(しばたかついえ)に越前8郡を与えて統治を命じ、以後、勝家は、北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)を居城としました。

Maedatosiie 同時に、この勝家の目付役=世に言う「府中三人衆」となったのが、小丸城(こまるじょう=福井県越前市)佐々成政(さっさ なりまさ)、龍門寺城の不破光治(ふわみつはる)、そして府中城(ふちゅうじょう=福井県越前市)前田利家(まえだとしいえ)でした。

この時、佐々成政の小丸城の築城には、捕虜となった一向一揆衆の多くが駆り出されたと言います。

当然、彼ら本願寺門徒の中には「いつかチャンスがあれば!!」との思いが残る物・・・

やがて年が明けて天正四年(1576年)・・・
2月に信長が安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)の築城に着手(2月23日参照>>)する一方で、北陸では、あの越後(えちご=新潟県)の雄=上杉謙信(うえすぎけんしん)富山に侵攻して来ます(3月17日参照>>)

さらに5月3日には、総本山=石山本願寺と信長との直接対決があり(5月3日参照>>)、その5日後には、長年に渡って反目していた謙信が石山本願寺と和睦し、反信長を表明したのです(5月18日参照>>)

これをチャンスと見た一向一揆衆は再び、あちこちから立ち上がり、かの府中三人衆を襲撃したのです。

しかし所詮は、急きょ集まった烏合の衆・・・プロの戦闘集団相手には太刀打ちできず、ほどなく鎮圧され、多くの者が捕縛されました。

かくして天正四年(1576年)5月24日、この時捕えられた1000人ほどの信者が、前田利家によって、ある者は(はりつけ)にされ、ある者は釜茹で(この頃の釜茹の刑は熱湯ではなく油)にされて殺されたのだとか・・・

この信長をも真っ青な大量虐殺は、前田利家の残虐性を示す物で、利家・・・いや、前田家最大の汚点!なんて事も囁かれたりします。

しかし、それは、現代の価値観を戦国に持ちこんだ故の錯覚???

実は、この出来事が世に知られるキッカケとなったのは、昭和七年(1932年)に、先の小丸城跡の本丸付近から発見された1枚の瓦・・・

この瓦に、瓦が焼きあがる前=まだ生乾きのうちに釘か何かで書かれたであろう文字が刻まれていたのです。

『一向一揆文字瓦』と名付けられたこの瓦に書かれていたのは、
『此書物後世ニ御らんじら□れ御物がたり可有候(あるべく)
然者(しからば)五月廿四日いき(一揆)おこり候まま
前田又左衛門尉殿いき
(一揆)千人ばかりいけどりさせられ候也
御せいばいハはっつけ
(磔)かま(釜)にいれられあぶられ候也
如此候
(かくのごとく) 一ふで書きとどめ候』

これは、
「この話が後世まで語られるよう…
5月24日に一揆が起こり、
前田利家殿が1000人ほど生捕りにされ、
その処刑は磔や釜茹ででした。
このような事があった事を一筆書き残しておきます」

という事なのですが、

ここに書かれてあった文字が達筆過ぎて怪しかった事や、
未だ文献の記録として残っていたのは、先の天正三年(1575年)8月の越前一向一揆の記録だけであったため、この瓦に書かれている「5月24日」は天正三年(1575年)の5月の事だと推測され、その頃には、鉄砲隊を率いて長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら)の戦い(5月21日参照>>)に出ていたはずの利家にできるわけない・・・と考えられた事から、発見当時、この瓦は偽物説が有力だったのです。

また、もしかして本物だったとしても、その内容がかなり衝撃的な事から、利家を恨みに思う一向一揆側の生き残りが、後世にその悪行を伝えるために、密かに書き残したのでは?と思われていて、『呪いの瓦』なんて別名で呼ばれたりもしていたのですが・・・

しかし、近年になって同時代の城や遺構の発掘調査も進み、また最新技術による最新の解析等によって、この瓦は確かに信長の時代に作られた物、しかも、信長配下の職人集団の手による作品である事が有力になって来たのです。

んん?信長側の人が書いたの???
という事を踏まえて、あらためで原文を読むと、
『前田又左衛門尉殿』
『…いけどりさせられ候』
『…いれられあぶられ候』

どう見ても敬語で書いてます。

そう!
これは「呪いの瓦」ではなく、「自慢の瓦」だった・・・

つまり、彼らにとって、この一件は、悪行でも汚点でもなく、むしろ後世に残したいほど誇れる武勇だったわけです。

当時の「大量虐殺して鬼のように恐れられる」という表現は悪口はなく、誉め言葉でしたからね。

古くは「悪源太(あくげんた)と呼ばれた源義平(みなもとのよしひら)(1月25日参照>>)・・・
近くは、森長可(もりながよし)「鬼武蔵(おにむさし)しかり(4月9日参照>>)
佐久間盛政(さくまもりまさ)「鬼玄蕃(おにげんば)しかり、
そう言えば、柴田勝家も「鬼柴田」でした~

て事は、信長さんの長島比叡山(9月12日参照>>)も・・・
家康さんの気賀(きが)のアレ(3月27日参照>>)も・・・
汚点ではなく名誉・・・

もちろん、現代社会において殺戮や虐殺は許される事ではありません。

しかし、平和な時ではなく戦時下・・・それも戦国時代の事を現在と同じ物差しで測っては、本当の歴史を見失ってしまうと思います。

そこを踏まえつつ、歴史のあれやこれやを考えねば!!

戦国とは、ここまで人の価値観を変えてしまう物なのですから・・・
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コメント

な~るほど、言葉を解読すると誉め言葉になるのですね。加賀100万石はやはり凄い

投稿: げん | 2018年5月28日 (月) 22時13分

げんさん、こんばんは~

戦いも、結婚も、人間関係も
…今と同じ感覚で考えてはいけませんね~
さすが加賀百万石です!

投稿: 茶々 | 2018年5月29日 (火) 03時07分

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