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2018年6月15日 (金)

織田へ降った宇喜多直家VS毛利軍の祝山合戦

天正八年(1580年)6月15日、織田方へと降った宇喜多直家が、毛利方の湯原春綱らが守る美作祝山城を包囲しました。

・・・・・・・・・・・

戦国時代の中国地方を、長きに渡って二分して来たのが、山陰を牛耳る出雲(いずも=島根県東部)尼子(あまこ・あまご)と、山陽に勢力を広げる周防(すおう=山口県の東南部)大内(おおうち)・・・中国地方の国人領主たちは、その大物の間に挟まれて、度々揺れ動く状態でしたが、

いつしか、その両者の間を縫うように頭角を現して来たのが安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)でした。

始めは尼子傘下だったのが、途中で大内に鞍替えし(1月13日参照>>)、やがて、その両方を倒して西国の覇者となりつつあった元就・・・
厳島の戦い(10月1日参照>>)
月山富田城の開城(11月28日参照>>)

それと前後して、上り調子の毛利の力を借りて、備中(びっちゅう=岡山県西部)の覇者となった松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市)主=三村家親(みむらいえちか)(2月15日参照>>)、毛利と敵対する備前(びぜん=岡山県東南部)天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)浦上宗景(うらがみむねかげ)の配下の宇喜多直家(うきたなおいえ)の放った刺客によって暗殺されてしまった事で、父の死を受けて後を継いだ息子の元親(もとちか)は直家を敵視するようになるのですが、

そんなこんなの天正元年(1573年)、5年前に上洛を果たして(9月7日参照>>)畿内を制していた織田信長(おだのぶなが)を、毛利に攻められて一旦滅亡した尼子が頼った事から(5月14日参照>>)、信長の中国攻めが確定的となり、当然、織田は毛利と敵対関係に・・・同じ頃には浦上宗景も信長を頼り、領地安堵の約束を取り付け、コチラも織田傘下という事になっています。

Ukitanaoie300a そうなった所で、主君=浦上からの独立を試みる宇喜多直家が、敵の敵は味方とばかりに、天正二年(1574年)に毛利の傘下となった事から、「父の仇」の恨みを持つ三村元親は、やっぱり敵の敵は味方とばかりに、逆に織田へ通じてコチラも毛利から鞍替え・・・

この三村の離反に怒った元就は、翌天正三年(1575年)、孫の毛利輝元(てるもと)と息子の小早川隆景(こばやかわたかかげ=元就の三男)を派遣して松山城を攻め、三村をせん滅します(6月2日参照>>)

その後も、毛利の傘のもと備中から美作(みまさか=岡山県東部)へと支配地域を拡大し、浦上宗景の追放をも果たす宇喜多直家でしたが、信長軍の中国方面攻略担当の羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の攻撃戦線が本格的となった天正五年(1577年)には、支城としていた上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)を落とされ、そこに、あの尼子の残党が入城・・・

当然、毛利はこれを奪い返そうとするわけですが・・・実は直家、この上月城奪還戦には参戦してません。

どうやら、このあたりから、日和見=つまり、毛利と織田のどっちが強いか?二股かけて様子見ぃしてたっぽい・・・もちろん、イケる方に味方しようと考えてたわけですが、

さりとて、他の城の攻略に忙しい織田方は、上月城への援軍に数を割けず、結局、上月城は天正六年(1578年)7月に落城し、毛利の手に・・・(5月4日参照>>)

そんなこんなの天正七年(1579年)、2月~3月頃から、ちょくちょく毛利への反発の姿勢を見せ、秀吉を通じて織田への内応を打診し始めた直家は、10月になって従兄弟の宇喜多基家(もといえ=直家の養子?)を信長のもとに派遣して降伏します。

こうして、正式に織田の傘下となった直家は、一族を動員して、備中で忍山城(しのぶやまじょう=岡山県岡山市北区)を陥落させ、天正八年(1580年)6月15日には、毛利方の属城である祝山城(いわいやまじょう=岡山県津山市)を包囲したのです。

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祝山合戦の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この祝山城は、医王山城(いおうやまじょう)岩尾山城(いわおやまじょう)とも呼ばれ、津山から加茂川に沿って鳥取方面へと抜ける街道沿いにある事から、古くから攻防の要所として、絶え間なく取ったり取られたりしていた場所で、戦国時代に入って、しばらくは尼子の物となっていたのを浦上が奪い、それをまた尼子が奪い返し、尼子の滅亡後は毛利の物となって、毛利配下の福田盛雅(ふくだ もりまさ)が城主を務め、この時は、湯原春綱(ゆはらはるつな)らが援軍として入城していました。

直家が祝山周辺に数ヶ所の付城(つけじろ=攻撃のための出城)を設置して完全包囲した事から、やがて祝山城は兵糧不足に陥り窮地に立たされます。

この状況を救援すべく、毛利輝元自らが小早川隆景とともに出陣・・・そこに吉川元春(きっかわもとはる=元就の次男)も加わって、まずは忍山城を総攻撃し、またたく間に陥落させます。

しかし、備前の忍山城から美作の祝山城までの間には、虎倉城(こくらじょう=岡山県岡山市北区)篠向城(ささぶきじょう=岡山県真庭市・篠葺城)など、まだまだいくつかの城が立ちはだかっていました。

それらの諸城に対し、城下に火を放って包囲したり、あるいは陥落させつつ、着々と侵攻していく毛利軍・・・しかし、やがて織田の支援を受けた宇喜多軍が反撃に出ます。

これまで、宇喜多家臣の江原親次(えばらちかつぐ)から昨年奪った大寺畑城(おおてらはたじょう=岡山県真庭市)を拠点に宇喜多に属する諸城を攻撃していた毛利方でしたが、今回の猛反撃で形成が不利となって陣を南下せざるを得なくなり、ここに来て祝山城の救援は限りなく難しくなって来ます。

それでも輝元は、9月には一旦戻っていた本拠=吉田郡山城(よしだこおりやまじょう=広島県安芸高田市)を再び出陣し、同じく小早川隆景とともに高田(たかだ=岡山県真庭市)に着陣しますが、宇喜多勢に阻まれて、どうしても、その先に進めません。

11月15日になって、未だ籠城して踏ん張る祝山城に向けて、銀10枚とともに、
「宇喜多が数か所の付城で包囲して昼夜を問わず攻撃して来るため、かなり進み難い…にも関わらず、籠城して持ち堪えている君らの忠義は素晴らしい!
救援の事は元春らと相談して早めに何とかするので、それまで、守りを固めて頑張ってくれ」

と激励の手紙を送っていますが、結局、その元春の救援を待つ事ができず、祝山城は、この年の12月下旬に城を明け渡す事になり、城を守っていた諸将も退去します。

このため、輝元&隆景の両人も、美作から撤退して備中へと帰還したのでした。

と言っても、もちろん、これはつかの間の休戦・・・これ以降も、直家は周辺を転戦して毛利傘下の諸将と合戦する事になりますが、一方で、秀吉も、この時すでに播磨(はりま=兵庫県南西部)を平定しており、
●4月1日:【英賀城の戦い】>>
●4月24日:【長水城の戦い】>>
翌・天正九年(1581年)10月には鳥取城(とっとりじょう=鳥取県鳥取市)を干殺しにし(10月25日参照>>)、さらに、その翌年の天正十年(1582年)には、有名な備中高松城(びっちゅうたかまつじょう=岡山県岡山市)の水攻め(6月4日参照>>)・・・となりますが、ご存じのように、ここで、あの本能寺(6月2日参照>>)

本能寺で死んだ信長の弔い合戦をすべく、一旦、毛利と和睦して京都へと向かう秀吉(6月6日参照>>)・・・一方で、その和睦で以って、美作一帯は宇喜多の物となったものの、本能寺の一件が影響したのか?毛利も簡単には撤退せず、宇喜多&毛利、両者の関係はさらに悪化するのですが、

実は、直家自身は、すでに天正九年(1581年)の末、もしくは天正十年(1582年)の正月に、居城の岡山城(おかやまじょう=岡山県岡山市)にて病死しており、この後の毛利とのアレやコレやは、幼くして宇喜多の家督を継いだ息子の秀家(ひでいえ)が、秀吉のサポートを受けながら挑んでいく事になるのですが、そのお話は、いずれまたの機会にさせていただきたいと思います。
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コメント

大阪で地震と聞き、心配になりました。
茶々さまにご被害がありませんように。

投稿: やぶひび | 2018年6月18日 (月) 17時15分

やぶひびさん、お気づかいありがとうございます。

立地は思いっきり震源地でしたが、わが家は何事も無く大丈夫です。
亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、しばらくは余震に気をつけながら、過ごしたいと思います。

投稿: 茶々 | 2018年6月19日 (火) 00時03分

またまたこんばんは。
秀吉の中国地方攻略戦、個人的に毛利元就+宇喜多直家VS羽柴の竹中と黒田の頭脳戦を見てみたかったです。もぅ、騙し合いのオンパレードで。周りの武将はたまりませんケドね苦笑
こんな妄想が楽しくて、一人でニヤリと悪い顔をしております。

投稿: 佐賀のモン | 2018年7月 5日 (木) 23時04分

佐賀のモンさん、こんにちは~

こういう頭脳戦…ドラマとかでも見たいですよね~
最近は、色々と制限も多いのか?合戦シーンがほとんど描かれ無くなりましたが、やはり見てみたいです。

投稿: 茶々 | 2018年7月 6日 (金) 12時07分

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