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2018年6月21日 (木)

遠江の支配を巡って今川氏親VS大河内貞綱&斯波~引馬城の戦い×3

永正十四年(1517年)6月21日、遠江を巡る争いで引馬城に籠った大河内貞綱斯波義達に対し、今川氏親が攻撃を仕掛けました・・・第3次・引馬城の戦いです。

・・・・・・・・・

引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市中区)は、引間城とも曳馬城とも表記され、住所をご覧になってお察しの通り、現在の浜松城(はままつじょう)の場所に、かつてあったお城です。

かの武田信玄(たけだしんげん)と協力して今川氏真(いまがわうじざね)を倒した(12月27日参照>>)徳川家康(とくがわいえやす)が、遠江(とおとうみ=静岡県西部)に乗り込んだ(3月27日参照>>)元亀元年(1570年)に、この引馬城に入城して、その名を浜松城に改称したわけですが、その浜松城内の北東部分が、かつての引馬城の中心部分で、あの元亀三年(1572年)の三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)時にも、浜松城の本丸を捨てて、コチラ=北東部分の防備を固めたとされるくらい、この引馬城の建ってた場所は重要拠点だったようです。

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安政元年に描かれた浜松城絵図…二の丸右上の出っ張り部分が引馬城の痕跡

そんな引馬城のあった遠江・・・そもそも、室町幕府政権下で、この遠江の守護(しゅご=県知事みたいな)を任されていたのは今川(いまがわ)でした。

ご存じのように、この今川は、足利(あしかが)一門の吉良(きら)の分家にあたる名門で代々駿河(するが=静岡県東部)の守護を世襲するとともに、この遠江も支配していたわけですが、応永年間(1394年~1427年)の終わり頃から、遠江今川家5代の今川範将(のりまさ)が一揆に関わった事や、守護代の狩野(かのう)が力をつけて来た事などから、息子で6代目の今川貞延(さだのぶ)遠江を追い出されて駿河の今川義忠(よしただ=義元の祖父)を頼り、以後、この遠江は斯波(しば)が守護となったという経緯がありました。

このため、今川と斯波の間には大きな亀裂が・・・

とは言うものの、一方の斯波氏も、室町幕府将軍家の足利一門であり、なんなら細川(ほそかわ)畠山(はたけやま)とともに、三管領(さんかんれい=将軍を補佐する執事を輩出する3つの家柄)の一つ=つまり、室町幕府政権下ではメッチャ中心部の力のある家柄だったわけで、代々守護を任されていた領国も、越前(えちぜん=福井県東部)尾張(おわり=愛知県西部)と広大でしたし、義忠の時代には、あの応仁の乱(5月28日参照>>)も絡んで敵味方の入り乱れ状態となっていましたから、何度か刀を合わせつつも、遠江の情勢は混沌としたまま、結局、文明八年(1476年)の2月、不意を突いた一揆勢に襲われて、義忠は命を落とします。

当主の急死に、後継者を巡る家督争いが勃発した今川家でしたが、そこに仲裁に入ってくれた叔父=北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時:氏親の母は早雲の姉もしくは妹のおかげで、無事、義忠の長男の今川氏親(うじちか)が家督を継ぐ事で落ち着きました。

こうして、今川の当主となった氏親は、父の時代にウヤムヤになっていた遠江を奪回すべく侵攻を試みるのです。

永正十年(1513年)、この氏親の動きを受けて、遠江引馬荘の代官で引馬城主の大河内貞綱(おおこうちさだつな)反今川の狼煙を挙げ、そこに見付城(みつけじょう=静岡県磐田市見付・見付端城とも)堀越貞基(ほりこしさだもと=用山・今川貞延の息子)も加わったため、氏親は即座に討伐隊を構成し、引馬城へ攻撃を仕掛けました。

これを見込んで、すでに斯波義達(しばよしたつ)に援軍を要請していた大河内貞綱でしたが、氏親軍の動きが予想以上に早く、援軍が未だ来ない永正十年(1513年)3月7日引馬城は陥落し、第1次・引馬城の戦いは終結しました。

この時、敗軍の将となった大河内貞綱は、当然、その命奪われるはずでしたが、貞綱の主家である吉良家が仲裁に入って謝罪したため・・・と、先に書かせていただいた通り、今川家と吉良家は同族なので、その好で氏親は城を奪っただけで、貞綱の命を取る事はしなかったのです。

こうして、貞綱に代わって城には、同じく吉良を主家に持つ、親今川派の飯尾賢連(いのおかたつら)が入ったのですが・・・

ところが、その翌年・・・貞綱は、氏親が軍勢とともに領国へ戻ったのを見計らって、弟の巨海道綱(こみみちつな・おおみみちつな)と組んで飯尾賢連を追い落とし、引馬城に立て籠もってしまったのです。

永正十一年(1514年)8月18日、再び戻って来た氏親軍は、引馬城へと総攻撃を仕掛けるのですが、これがなかなか手ごわい・・・

しかし、やがて一人の武将が、うまく塀を乗り越えて城内へと侵入し、城門を開ける事に成功・・・怒涛の如く流入する兵士を抑えきれず引馬城は陥落し、大河内貞綱らは、裏門から逃走して行ったのです。

これが第2次・引馬城の戦い・・・またしても引馬城を追われた大河内貞綱でしたが、まだ諦めません。

やがてチャンスがやって来ます。

永正十年(1513年)頃から始まった甲斐(かい=山梨県)河内領(かわちりょう=山梨県の西八代郡と南巨摩郡)を領していた穴山(あなやま)(甲斐武田氏の一族)の内紛の末、当主の座を得た穴山信風(あなやまのぶかぜ)が今川派となった事、また、周辺の国衆もが乗っかって今川指示の姿勢を見せた事で、「これはイケる!」とばかりに、氏親が永正十二年(1515年)10月、大軍を率いて甲斐に出陣したのです。

当然、駿河や遠江は手薄になるわけで・・・

こうして、翌・永正十三年(1516年)3月、大河内貞綱が氏親に対する反乱を起こした事で、第3次・引馬城の戦いが始まったのです。

その3ヶ月後の6月には斯波義達も引馬城へと入り、反今川派によって城は占拠されてしまいます。

この状況に、一刻も早く甲斐を出て遠江に向かいたい氏親は、配下の宗長(そうちょう)を使者として、交戦中だった武田信虎(たけだのぶとら=信玄の父)のもとに送ります。

この宗長という人は、島田(しまだ=静岡県島田市)出身の僧で、京都の大徳寺(だいとくじ=京都府京都市北区)にて一休宗純(いっきゅうそうじゅん)から禅を学び、宗祇(そうぎ)から連歌を教わった連歌師・・・当時は、氏親に仕えていた今川お抱え連歌師でしたが、ご存じのように、僧という立場は現世とは無縁ですし、連歌師もまた合戦とは無縁の者・・・

宗長の尽力により、何とか、武田との戦いを講和に持ちこんだ氏親は永正十四年(1517年)6月、連日の雨により、川幅が大幅アップし、海のようになっている天竜川に船橋を架けて渡り、永正十四年(1517年)6月21日引馬城に到着後、早速、城への攻撃を開始します。

しかし、正面から力づくでぶつかっても、なかなか落とせない堅固な守りに苦戦した氏親は、長期戦へと方向転換・・・梅ヶ島金山(うめがしまきんざん=静岡県静岡市葵区・安倍金山とも)の金堀り職人を召集し、穴を掘らせて井戸の水を抜き、引馬城の水の手を断ちます。

籠城戦において、最も重要な水・・・これを断たれては、もはや時間の問題です。

案の定、合戦開始から約3ヶ月後の8月19日・・・枯渇による飢餓状態に陥った城兵が、作戦も何もなく、無我夢中で撃って出て来たところを迎え撃って一網打尽にしたのです。

この戦いで大河内貞綱&巨海道綱兄弟は覚悟の自殺を図りますが、斯波義達は普済寺(ふさいじ=静岡県浜松市中区)に入って頭を丸めて、家督を息子の斯波義統(よしむね)に譲って降伏の意を表明した事で、その命は守られ、尾張へと送られました。

ただし、引退して後継に命つないだとは言え、その失脚感はハンパなく・・・しかも、この一連の対今川の戦いに反対して参戦していなかった斯波配下の尾張守護代=織田(おだ)が、義達の失脚によって盛り返して来て、やがて、頭角を現してくる織田信秀(おだのぶひで)(3月3日参照>>)からの織田信長(おだのぶなが)・・・と、最終的に尾張は織田の物になってしまうわけで・・・

一方、完全勝利となった氏親は、これによって、この先、浜名湖周辺を抑える事ができ、その支配は、息子の今川氏輝(うじてる)からの弟=今川義元(いまがわよしもと)海道一の弓取りへと引き継がれる事になります。

に、しても・・・ドラマで戦国、と言えば、この後の時代から~てのばかりですが、なんで?このあたりのドラマをやらないのだろう???

やっぱ有名どころが出ないと視聴率が取れないのでしょうか?
いつか、信長や義元の父ちゃんたちの時代劇も見てみたい物ですね~
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コメント

茶々様、こんにちは。
いつも同じ主人公ではなく、ちょっとマイナーな人物のドラマも見たいですよね。視聴率を考えると微妙でしょうが。信長や家康ばかりでは・・・。

投稿: いんちき | 2018年6月21日 (木) 18時20分

いんちきさん、こんにちは~

やはり知名度と視聴率がネックなのでしょうね~~

投稿: 茶々 | 2018年6月21日 (木) 19時00分

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