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2018年7月10日 (火)

堺・南宗寺の無銘の塔~徳川家康のお墓説

元和九年(1623年)7月10日に第2代江戸幕府将軍=徳川秀忠が、その約1ヶ月後の8月18日に第3代将軍に就任した徳川家光堺・南宗寺を参詣しました。

・・・・・・・・・・・

大阪にある南宗寺(なんしゅうじ=大阪府堺市堺区)臨済宗大徳寺(だいとくじ=京都府京都市北区)のお寺で、もともとは南宗庵(なんしゅうあん)と呼ばれていた(いおり)を、その3代目法嗣(ほうし)となっていた大林宗套(だいりんそうとう)に帰依した三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)(5月9日参照>>)が、無念の死を遂げた父=三好元長(もとなが)(7月17日参照>>)を弔うために壮大な伽藍を建てて、その名を南宗寺としたのが始まりです。

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南宗寺の坐雲亭

その境内に、現存する建物としては最古の物とされる坐雲亭(ざうんてい)という下層が茶室となっている2階建ての建物があるのですが、この建物の内部に、
「征夷大将軍徳川秀忠公 元和九年七月十日  御成」
「征夷大将軍徳川家光公 同年八月十八日  御成」

(現物は非公開です)
てな事が書かれた板額があるのです。

徳川秀忠(とくがわひでただ)家光(いえみつ)父子は元和九年(1623年)の6月に上洛し、7月27日に伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)にて将軍宣下を受け、晴れて家光が第3代将軍となっていますので、まさに、その交代の時期にやって来た事になりますが・・・

Dscn0947a600 ところで、この南宗寺の一角には、「葵」の紋が描かれた瓦(←)がズラリと並ぶ回廊に囲まれた部分があります。
 .

実は、この回廊の内側には文政年間(1818年~1831年)に建立されたとされる東照宮(とうしょうぐう)があったのです。

Dscn0946a600 残念ながら太平洋戦争の空襲により焼失してしまい、今は「東照宮跡」の石碑(→)が建つだけになってしまいましたが、現在も、回廊とつながる南側に残る重要文化財の立派な唐門は、この東照宮にお参りするための物だったのです。

東照宮とは、ご存じのように、東照大権現(とうしょうだいごんげん)となった徳川家康(とくがわいえやす)を祀る神社で(4月10日参照>>)、現在では日光(にっこう)が有名ですが、江戸時代には全国各地に・・・当時は700社ほどあったと言われています。

大阪にも、この堺以外に、あの大塩平八郎の乱の時、皮肉にも幕府に刃向かう者たちの集合場所となった川崎東照宮(かわさきとうしょうぐう=大阪市北区)というのがありました(2月19日参照>>)

なので、江戸時代の南宗寺は、徳川家にとって重要な場所であった事は確かなのですが、上記の通り、秀忠&家光が参詣した時には、まだ東照宮は建立されていなかったわけで・・・

・・・で、ここで有名なアノ話・・・

この東照宮跡の北側に位置する開山堂(かいざんどう)の跡というところに、物議と妄想をかきたてる、「徳川家康の墓」と伝わる墓石があるのです。
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南宗寺の伝承によれば・・・
「大坂夏の陣、最後の戦いとなった慶長二十年(1615年)5月7日、天王寺茶臼山(ちゃうすやま=大阪市天王寺区)(4月14日参照>>)に本陣を構えていた家康でしたが、その日の天王寺口の戦いで、大坂方の毛利勝永(もうりかつなが)(2015年5月7日参照>>)真田幸村(ゆきむら=信繁)(2017年1月6日参照>>)に本陣間近まで迫られ、命の危険を感じて撤退を開始するのですが、敵にさとられぬよう、死者を運ぶ駕籠に乗って脱出します。 

しかし、逃げる途中に後藤又兵衛(ごとうまたべえ=基次)に見抜かれて追撃され、その槍に突かれてしまいます。 

とっさに持っていた布で槍の穂先についた血を拭い、相手に何事も無かったように見せかけたおかげで、確かに手ごたえがあったものの、血がついていない状況を見た又兵衛は、それ以上追撃して来る事は無かったので、そのまま、味方の町衆がいる堺にまで逃げて来たものの、南宗寺の前まで来た時に家臣が駕籠の中を確認すると、すでに絶命していたと・・・ 

やむなく、遺骸を南宗寺の軒下に埋葬して、後に、静岡の久能山(くのうさん)に埋葬し、さらに、ご存じの日光に至る」・・・と、

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徳川家康の墓とされる墓石

つまり、徳川家康が亡くなったのは、幕府公式記録にある元和二年(1616年)4月17日(4月17日参照>>)ではなく、慶長二十年(1615年)5月7日のここ堺であったものの、未だ江戸幕府が安定していない状態だったため、その死は隠され、後に別の日付で正式発表されたのだという事らしい。。。

この話は、『歴史ミステリー』的なテレビ番組でもやったりしてますので、ご存じの方も多かろうと思いますが、お察しの通り、この伝承には、いくつかのツッコミどころがあります。

まず、家康を仕留めたとされる後藤又兵衛は、前日の5月6日に道明寺(どうみょうじ=大阪府羽曳野市)の戦いにて戦死してしまっています(5月6日参照>>)

仮に、この家康と又兵衛の云々が前日の5月6日の戦い中に起きた出来事だったとしても・・・
この時、大坂を攻めるために、東からやって来る徳川軍は、大軍での生駒(いこま)山地越えが困難である事から、軍は、生駒の北側=枚方(ひらかた=大阪府枚方市)を抜ける本隊と、生駒と金剛の合間を抜ける大和(やまと=奈良県)方面隊の2手に分かれて大阪平野を目指したのですが、又兵衛が戦った道明寺は大和口=松平忠輝(まつだいらただてる=家康の六男)を総大将にした本多忠政(ほんだただまさ=本多忠勝の息子)伊達政宗(だてまさむね)といった面々との戦いだった(4月30日参照>>)わけで、枚方方面を行った家康や秀忠と又兵衛は直接対決もしていないのです。

また、この堺自体も・・・
実は、同じく夏の陣の中の4月29日に起こった樫井(かしい・泉佐野市)の戦い(4月29日参照>>)の時に、豊臣方の大野治胤(はるたね=道賢・道犬)によって焼き打ちされ(6月27日参照>>)、堺の町はことごとく焦土と化していて、この南宗寺も瓦を残して、ほぼ焼失しまった事が記録されています。

しかも、その焼失した南宗寺の場所はここではないのです!
なんとお寺の由緒には、
「大坂夏の陣で焼失したため、当時の住職であった沢庵宗彭(たくあんそうほう)と堺奉行=喜多見勝忠(きたみかつただ)の尽力によって、元和五年(1619年)に現在の場所に再建された」
と書いてある・・・つまり、「大坂夏の陣の時点では、南宗寺は別の場所にあって、その後、ここに移転して来た」って事です。

大阪の陣の時の南宗寺が今とは違う場所だったなんて!!
「そら!完全にアウトですやん!」
と、言いたいところですが・・・

実は、この南宗寺の家康の墓には、まだ付録があります。

このお墓とされる石の右側・・・四角い石があるの見えますか?

この石・・・かなり古くなっているので写真(左)では見えにくいので、白文字で書き起こして(右)みますが・・・                          

Dscn0952as1000 Nansyuuzihibunn1000

『無銘ノ塔 家康サン諾ス 観自在』
つまり「この名前の無い塔は家康さんの墓で間違いない」と書かれているのです。

で、コレを書いたのは山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)らしい・・・江戸時代には徹底的に伏せられいて、いつしかその場所がわからなくなっていた家康の墓を、幕末になって「南宗寺にある」と聞きつけた鉄舟が、第15代将軍=徳川慶喜(よしのぶ)の意向を受けて、資料調べと現地調査を行って、ここに書き残して行ったのだそうで・・・

つまり、幕府の公認を受けた事になりますが・・・
ただ・・・それにしては『家康サン』って書くかな??
普通『家康公』でしょ。

ちなみに、祖父=家康をリスペクトして止まなかった3代将軍の家光が、自身の心の支えとして常に持っていた直筆のメモには
『生きるも 死ぬるも みな 大権現さま次第に』
と書かれていたらしい・・・つまり、家光は家康の事を「大権現さま」と呼んでいたと・・・

普通、尊敬するご先祖様や主君を「サン」づけでは呼ばないですよね~

ただ、言葉ってのは変化しますからね~
たとえば、主君の「君」なんかも、
『君が代』の歌詞の元になったと言われている『古今和歌集』にある
♪我が君は 千代にやちよに
 さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで♪

でわかるように、この「君」とは天皇の事なのに、現在では、「○○くん」と呼んだり「きみは…」と言ったりすると、親しい同僚や目下の人に対して言ってる感じなるわけで・・・

そして「公」も、
家康公の「公」は、公人の「公」でもちろん敬意を表す言葉ですが、一方で、上から目線のさげすむ感じで、犬の事を「わん公」(今はカワイイ感じでワンコと言いますが)と言ったり猿を「エテ公」と言ったり、不良が、先生を「先公」とか警察を「ポリ公」とかって言い方したりする場合もあるわけで・・・

言葉という物は時と場合と昔と今でイロイロある・・・その場その場に立ち会わない限り「絶対に言ってない」と言いきれない物ですよね~

そんな中、最大に引っかかるのは、やはり、冒頭の秀忠&家光の連続参詣ですよ!

何たって、将軍宣下を挟んで前と後・・・

将軍を息子に譲って、これからは、父=家康がしたように大御所となって政務を行う
秀忠が元和九年(1623年)7月10日・・・

そして、将軍宣下を受け、
第3代将軍となった家光が8月18日・・・

まるで、その交代を初代に報告するかのような訪問は、何とも不可解さを感じます。

それを踏まえると、先の寺地移転お話も・・・「大坂の陣の後に寺が移転してるのだから、家康が南宗寺の門前で亡くなって、そこに葬ったなんて話しは信用できない」と一蹴する事はできなくなってきます。

そう、話の前後が逆な可能性も・・・
つまり、家康が寺の門前で絶命したので南宗寺に葬ったのではなく、大坂の陣で家康が絶命した場所=その時にとっさに葬った場所に、江戸時代になって南宗寺を移転させた・・・

むしろ、ここが家康最期の地であるからこそ、わざとこの場所に南宗寺を持って来て、山門やら仏殿やらの大伽藍に整備し、さらに、その後には東照宮まで建てて・・・と、すべてが、慌てて密かに埋葬したであろう無銘の塔を守るために廻っていたと考える事もできるわけで~

ワォ!!!(゚ロ゚屮)屮
ミステリーですね~

個人的には、横にある碑文よりも、秀忠&家光の連続参詣の真偽の方が、よっぽど気になるんですけど・・・

いつか謎は解けるのでしょうか?
楽しみです。
 .

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コメント

逆に徹底した情報統制を敷いていた家康サン→徳川幕府が後藤又兵衛戦死の場所と日付を改竄した可能性もありますね?(^ ^;

投稿: 下総の若者 | 2018年7月11日 (水) 20時25分

下総の若者さん、こんばんは~

確かに…その可能性もゼロではありませんね~

ただ、道明寺の戦いや又兵衛討死の史料は徳川幕府公式史料以外にもけっこうあるので、その場合は全員グルでないと成立しない事になり、難しい気もしないでは無いですが…

一方で、豊臣が滅んだ以上、この先気を使わねばならないのは徳川一本なので、「全員がグル」というよりは「全員が忖度」した可能性も無きにしもあらず…

色々妄想してしまいますね~

投稿: 茶々 | 2018年7月12日 (木) 02時03分

忖度... 実はこんな昔からの伝統芸能だったんですね(^ ^; 笑

投稿: 下総の若者 | 2018年7月19日 (木) 06時46分

下総の若者さん、こんにちは~

おっしゃる通り、伝統芸ですね。

投稿: 茶々 | 2018年7月19日 (木) 17時15分

信州上田よりこんばんは、しかし最近は暑いですね、夕方は鬼のような嵐がきました。茶々さまもお身体大事にしてくださいませ。家康さんのなくなった場所が違うかもしれないというのはミステリーですねー

投稿: げん | 2018年7月20日 (金) 23時42分

げんさん、こんばんは~

今年の暑さは異常ですね~
熱中症にお気をつけくださいませ。

投稿: 茶々 | 2018年7月21日 (土) 01時43分

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