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2018年8月 1日 (水)

細川政元の後継を巡って~永正の錯乱と百々橋の戦い

永正四年(1507年)8月1日、細川京兆家の後継者を巡っての戦いで細川澄元と細川高国に攻められた細川澄之が自害しました。

・・・・・・・・・・・

あの応仁の乱(5月28日参照>>)の東軍・総大将として知られる細川勝元(ほそかわかつもと)・・・彼が息を引き取る時、わずか8歳の息子=政元(まさもと)をそばに呼び、
「この政元あらば、細川家は安泰だ」
と言って息をひきとったと言われるほど、政元は優れた息子でした。

その期待通り、政元は「半将軍」「観音の申し子」「八幡太郎の生まれ変わり」と呼ばれるほどの人物となって政権を掌握・・・管領(かんれい=室町幕府で将軍に次ぐ最高の役職)時代の明応二年(1493年)には、自らの意のままになる将軍に挿げ替える(第10代・足利義稙→第11代・足利義澄)という明応の政変(めいおうのせいへん)をやってのけ、もはや敵無しの状態でしたが、ただ一つ・・・

いや、これは噂の域を出ない話ですが、どうやら彼は男色一本=まったく女性を側に寄せ付けない人だったのだとか・・・

それだと、当然、子供は望めないわけですが、室町幕府政権下でのトップクラスの細川家を絶やすわけにはいかないわけで・・・で、かの明応の政変の少し前の延徳三年(1491年)2月に、養子として彼のもとにやって来たのが、前関白九条政基(くじょうまさもと)の息子=澄之(すみゆき)でした。

この時、まだ2歳だった澄之に、自らも名乗った細川京兆家(細川の嫡流)の世子(後継ぎ)が代々名乗る幼名=聡明丸(そうめいまる)を名乗らせ、13歳になった文亀二年(1502年)には、正式に嫡子(ちゃくし=後継者)に指名し、丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部)の守護としました。

これで澄之も細川も安泰・・・と思いきや、その翌年、いきなり澄之を廃嫡(はいちゃく=嫡子でなくなる・相続権はく奪)して、分家の阿波(あわ=徳島県)細川家の細川澄元(すみもと)を養子にして、コッチを後継者に指名したのです。

実は、澄之が元服して聡明丸から澄之になったのは、この澄元が養子になった翌年の永正元年((1504年)の事・・・ジッチャンが勝元、父ちゃんが政元でお察しの通り、本来なら細川家の後継ぎが継承していく通字(とおりじ=代々受け継いでいく文字)は「元」だったわけですが、その文字はキッチリ前年の養子縁組と同時に元服しちゃった澄元に取られてしまってたわけで・・・

しかも、この二つの養子縁組の前後には(高国を養子…の時期はハッキリしてない)、やはり分家の野洲(やす)細川家からの高国(たかくに)という養子もプラスされ、何となく、後継者候補は三つ巴感満載に・・・

そりゃ~そもそもは最初に後継者指名されていたんですから、聡明丸澄之くんが激おこプンプン丸にならないはずは無いわけで・・・永正三年(1506年)には、父=政元の命を受けて、澄元らの細川勢とともに丹後(たんご=京都府北部)一色義有(いっしきよしあり)の討伐に向かってますが、そんなもん形だけで、ホントは、はなやからヤル気ゼロ・・・いや、ヤル気ゼロなら、まだ良かった。

逆に、別の方向にヤル気満々な澄之は、他の細川勢をよそにそそくさと撤退してしまったばかりか、この討伐劇キッカケで家老=三好之長(みよしゆきなが)らの大軍を従えて上洛して来た澄元に危機感を持った政元の重臣=薬師寺長忠(やくしじながただ)らとくっつくのでした。

薬師寺らは、三好が阿波の実力者で澄元との信頼関係もハンパない事から、「このまま次代が澄元になれば、もともとの細川家の重臣である自分たちの立場と彼ら三好家が逆転するのでは?」との思いを抱いていたのです。

かくして、澄之と結んだ薬師寺長忠は、同じく細川家家臣の香西元長(こうざいもとなが)と組んで政元の暗殺を計画・・・永正四年(1507年)6月23日、スピリチュアルな魔法体験が大好きな政元が、修行のための行水を行おうと湯殿に入ったところを家臣に襲わせて殺害したのです。(6月23日参照>>)

ところで・・・
その名の通りの聡明であるはずの政元が、あきらかに後々の争いのタネになるであろう3人を養子に迎えた要因については、様々に語られますが、

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

澄之の場合は、前関白という摂関家の看板とともに、澄之の母が、政元の推す第11代将軍=足利義澄(あしかがよしずみ)の母と姉妹の関係にあるという将軍家との繋がりを考えての事と推測されます。

しかしその養子縁組が行われた、わずか5ヶ月後の延徳三年(1491年)7月、義澄の弟で、将来は堀越公方(ほりこしくぼう=幕府公認の関東支配者)(堀越公方については「永享の乱」参照>>)になるはずだった足利潤童子(じゅんどうじ)が、幽閉状態から脱走した長兄の足利茶々丸(ちゃちゃまる)に殺害され・・・と同時に茶々丸が堀越公方を名乗り始めたところ、その7年後の明応七年(1498年)8月に、その茶々丸が、あの北条早雲(ほうじょうそううん)に滅ぼされてしまうという・・・(10月11日参照>>)

澄之を養子にして→後継者にして→やっぱ澄元を養子にして後継者に~の間に、関東ではこのような変化があったわけで・・・つまりは、明応の政変にて、自らの意のままになる将軍=義澄を擁立して、同じく意のままになる堀越公方を~という政元の構想が崩れてしまった事で、その後の政元は、後継者を模索せねばならない状況になっていたと・・・

ただ、この後の細川家の展開を踏まえれば、政元が自らの意のままになる将軍や公方を推したと同じように、今度は政元自身が家臣や被官(ひかん)たちの力に押されて政元と配下が分裂、さらに、その配下たち同士の分裂等々により、細川家自身が、力のある配下の意のままになるトップを据えなけらばならない争いに巻き込まれていった感があります。

つまり、これまでは幕府トップに将軍がいて、各地の守護を統率して~という感じだったのが、ここらあたりから、畿内や近国内の領国争いが将軍自身に、また畿内の守護たちにも影響を及ぼすようになり・・・と、そうなると、当然、畿内や近国以外の地方では、守護云々より力のある者が、その領国拡大によって力を持つようになり~と、まさに、この後の群雄割拠の戦国時代への幕を開けてしまったのが、この細川家の後継者争いなのではないか?と・・・

とにもかくにも、そんな中で起きたのが政元の暗殺で、それを実行したのが澄之派の者たち・・・未だ一色との抗戦中だった残りの細川勢は、この政元暗殺の一報を受けて、すぐに撤退を開始しますが、おそらく澄之らとの和睦の際に、すでに約束事ができていたとおぼしき一色義有は、反撃を開始して細川勢の一翼であった赤沢朝経(あかざわともつね)を自害に追い込んでいます。

その後、政元暗殺の勢いのまま、澄之派は澄元の屋敷を襲撃しますが、澄元は三好之長らに守られつつ、甲賀(こうか=滋賀県甲賀市・湖南市)山中長俊(やまなかながとし)を頼って近江(おうみ=滋賀県)への逃走を図ります。

そんな中で、すかざず政元の葬儀を行い、将軍=義澄の承認を得て、正式に細川京兆家の後継者となった澄之でしたが、ここで、もう一人の養子=高国が澄元側につき、反撃を模索し、もちろん、澄元自身も近江で態勢を整えます。

こうして、かの暗殺劇から1ヶ月後の7月28日、畿内の澄元派の諸将をまとめた高国が香西元長の居城である嵐山城(あらしやまじょう=京都市西京区嵐山)を攻め落とします。

Dscn6589a800_2 現在の宝鏡寺の門前には「宝鏡寺門跡」の文字とともに「百々御所跡」と刻まれた石碑が…宝鏡寺については11月19日参照>>

それから遅れる事2日・・・永正四年(1507年)8月1日、近江の国人たちを加えた澄元&之長軍が京へと攻め上り、百々橋(どどばし=京都市上京区百々町)近くにあった澄之の居館=百々館(現在の宝鏡寺の付近)攻め、さらに、高国勢と合流して、澄之を最後の砦となった遊初軒(ゆうしょけん=嵐山付近)へと追い込み、覚悟を決めた澄之は自害・・・未だ19歳の短い生涯でした。

澄之を推した薬師寺長忠や香西元長らも討死に、もしくは自害して、ここにわずか40日の澄之短期政権が終わったのでした。

勝利した澄元は、ソッコー翌8月2日、将軍=義澄に承認してもらい、晴れて細川京兆家の後継者に・・・

しかし案の定・・・ほどなく争いが

先の明応の政変で、細川政元によって交代させられて周防(すおう=山口県)に流れていた前将軍の足利義稙(よしたね=義材・義尹)が、西国の大物=大内義興(おおうちよしおき)に奉じられて上洛し、その復権を画策すると、いち早く高国が同調・・・高国に先を越されて義稙との和睦の機会を逃した澄元は、そのまま義澄とともに、彼らと敵対する事になり、永正八年(1511年)の船岡山(ふなおかやま=京都府京都市北区)の戦いへと突入するのです(8月24日参照>>)

そこから、世代を越えての長い々々細川同士の政権争いが展開していく事になります。

★その後の流れ
直後の【船岡山】>>
【腰水城の戦い】>>
【等持院表の戦い】>>
【神尾山城の戦い】>>
【桂川原の戦い】>>
【東山・川勝寺口の戦い】>>

ま、結局、最後の最後に畿内を制するのは、この時に澄元の家老として畿内にやって来た三好之長の曾孫(もしくは孫)三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)なんですけどね【江口の戦い】参照>>
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