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2018年8月13日 (月)

朝倉から若狭を守る~粟屋勝久の国吉籠城戦

永禄十一年(1568年)8月13日、朝倉義景の命を受けた軍勢が若狭に侵攻しました。

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今回の舞台となる国吉城(くによしじょう=福井県美浜町)は、現在の美浜駅から、少し東へ行った佐柿(さがき)の背後にある城山の山頂から尾根づたいに構築されていた山城です。

『若狭国志』によると、この城は、「かつて国吉(くによし)なる人物が構築した物を天文~弘治年間(1532年~1557年)頃に粟屋勝久(あわやかつひさ)が修復再興して、旧名をそのまま呼称した」とあります。

この粟屋勝久は、若狭(わかさ=福井県西部)守護(しゅご=現在の県知事)であった名門=若狭武田氏の被官ですので、つまりは、この城は、武田が本城とする小浜城(おばまじょう=福井県小浜市:現在の後瀬山城)出城の役割を果たしていた城です。

Asakurayosikage500a そんな中、隣国=越前(えちぜん=福井県東部)では、これまで守護であった斯波(しば)に取って代わり、去る応仁の乱(5月20日参照>>)で功績を挙げた朝倉孝景(あさくらたかかげ)越前守護に就任・・・その息子で、父亡き後に朝倉を継いだ朝倉義景(あさくらよしかげ)は、管領(かんれい=将軍補佐で幕府のNo.2)家で時の権力者である細川晴元(ほそかわはるもと)の娘を娶った事もあって、さらに力をつけて行く事に・・・

しかし一方の若狭武田氏では先代の武田信豊(のぶとよ)と息子で現守護の武田義統(よしずみ)の対立がお家騒動に発展して、力が衰えていくばかり・・・しかも、窮地に立った義統が朝倉に援助を求めた事から、他家の介入を不服に思う粟屋勝久は義統の息子=武田元明(もとあき)を擁立して抵抗します。

この状況・・・時の当主から支援を求められた朝倉義景にとっては、すでに若狭は自身が間接的に支配してるつもりなわけで、それに抵抗する粟屋らはせん滅するのみ・・・

そんな朝倉義景が、最初に若狭に侵攻したのは永禄六年(1563年)・・・この先、6年間に渡って繰り広げられる国吉城の戦いの始まりでした。

8月下旬、義景の命を受けた約1000騎が若狭に侵入すると、これを察した粟屋勝久は一円の地侍たちを即座に招集・・・地侍=約200と百姓=約800が国吉城に集結する中、その一部に弓や鉄砲を持たせて関峠(せきとうげ=福井県敦賀市と同県三方郡美浜町の境)にて防戦するように命じるとともに、残りの者で籠城の準備を開始します。

9月2日の未明、関峠に侵入して来た朝倉勢を待ち伏せていた粟屋方が一斉に迎撃を開始すると、フイを突かれた朝倉勢は大混乱となり、ここで一旦撤退・・・翌日は、朝倉勢も身構えつつ軍を進めますが、今度は城の間近まで引き寄せる作戦の粟屋方。

こうして城の城壁間近まで充分引き寄せたところで、百姓600人が一斉に、用意していた大石や木材を投げ落とします。

『国吉籠城記』によれば、朝倉勢は「大石や古木に当たる者が続出し、当たらない者も、その巻き添えを喰らって、皆、麓へとごろげ落ちて行った」とか・・・見ていた粟屋方は、このタイミングで城から出て追討を開始し、この最初の戦いは国吉城側の大勝利となったのです。

2度目の戦いは翌・永禄七年(1564年)またも夏の終わり・・・
この時の朝倉勢は、昨年のように直接城には向かわず、近くの芳春寺(ほうしゅんじ=福井県三方郡美浜町)に本陣を構えた後、弓や鉄砲を放ちながら尾根づたいに国吉城へと迫って来ますが、これが、なかなか城に当たらない・・・なんせ、国吉城は木々に囲まれた山城ですから・・・

やむなく、今度は反対方向から城へと向かって行きますが、これに対抗する粟屋方は、弓の名手を1組=14~15名の少人数に分けて木々の間に潜ませ、敵を間近まで引き寄せてゲリラ的戦法で対抗・・・まったく城に近づけない朝倉勢はまたしても退きます。

こうして長期戦を視野に入れた朝倉勢は、芳春寺に裏山に付城(つけじろ=攻撃の拠点となる城)芳春寺砦を築いて、ここを拠点に城・・・ではなく、近隣の村々に乱入して稲や野菜など農産物を略奪して自軍の兵糧を確保したのです。

これには地侍や百姓が激怒・・・自ら率先して砦に夜襲をかけて火を放つと同時に、別働隊が朝倉の本陣を襲撃し、またしても朝倉勢を退散させたのです。

このおかげか、翌永禄八年(1565年)は、朝倉勢による国吉城への直接攻撃は無く、8月下旬頃の近隣の村々への青田刈りで城内を枯渇させる心理戦、あるいは付城を修復するにとどまりました。

明けて永禄九年(1566年)8月下旬、もはや夏の恒例行事のように佐田村(さたむら=福井県三方郡美浜町)に押し寄せた朝倉勢は、馳倉山(ちくらやま=福井県三方郡美浜町:狩倉山城?)に、新たな付城を築いて、そこを前線基地として、またまた近隣の村々への略奪や放火を決行・・・しかし、「国吉城の籠城組が出撃!」の知らせを聞くなり、そそくさと城へと逃げ帰ったのだとか・・・

続いて、翌永禄十年(1567年)日本の夏・朝倉の夏・・・やって来ました8月下旬。

と言っても、この8月というのは旧暦なので、実は、その下旬ともなれば、そろそろ稲が実る時期・・・で、今回の侵攻の目的は、あくまで稲を刈る事だったようで、その作業を終えるとさっさと退散したようです。

もちろん、これも、敵の兵糧を失くして自軍の兵糧にするという、プラマイ大きい重要な作戦ではあるのですが・・・

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国吉城の戦い・関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなで、またもや!事実上の最終決戦となる永禄十一年(1568年)・・・安定の8月13日

しかし、今回の朝倉は少し違う・・・

国吉城を攻撃せず・・・いや、むしろ避けるように三方方面へ抜け、熊谷直之(くまがいなおゆき)が守る大倉見城(おぐらみじょう=福井県三方上中郡:井崎城)を攻めたのです。

しかし、結局、この大倉見城も落城させる事はできなかったのですが、その代わり(と言っては何ですが…)大倉見城攻撃の勢いのままに小浜へと向かい、粟屋勝久が担ぎあげた武田元明を拉致する事に成功します。

というより、先に書いた通り、すでに若狭を間接支配している気満々の義景から見れば「武田元明を保護した」・・・つまり、一部の抵抗者のために内乱が治まらないので当主を自分のお膝元に置いて、何とか収拾させようという事です。

現に、この後、朝倉の本拠地である一乗谷(いちじょうだに=福井県福井市)朝倉館に移住した武田元明は、再三に渡って粟屋勝久に対し「朝倉に同調するように」と勧告しています。

しかし「例え元明を敵に回しても!」の思いが強い粟屋勝久は、それでも国吉城に籠城を続けます。

再び『国吉籠城記』によれば、この国吉城攻防は、永禄十二年(1569年)にも、何かしらの小競り合いがあったようですが、さすがの国吉籠城組も、こう毎年々々「夏の元気なごあいさつ」をされても、うんざり気味・・・長陣に嫌気がさし始めた元亀元年(1570年)、あの男が登場します。

そう、この2年前に室町幕府第15代将軍=足利義昭を奉じての上洛を果たした織田信長(おだのぶなが)です(9月7日参照>>)

将軍の名のもと再三に渡って呼び掛けた上洛要請に応じない朝倉義景に対して、信長が攻撃を仕掛けた・・・あの「手筒山城・金ヶ崎城の攻防戦」(4月26日参照>>)

この時、仲間の若狭国人衆とともに信長のもとにはせ参じた粟屋勝久は、自身の国吉城を信長の宿所として提供したばかりか、朝倉本拠の一乗谷での戦い(8月6日参照>>)でも一番乗りの功名を挙げる大活躍をし、見事、武田元明を救出しています。

その後は、元明の守護復帰は叶わなかったものの、仲間とともに「若狭衆」として、織田政権下で若狭を与えられた重臣=丹羽長秀(にわながひで)の配下に組み込まれ、あの天正九年(1581年)2月の御馬揃え(おんうまそろえ)でも先頭を飾った(2月28日参照>>)と言います。

粟屋勝久自身は、本能寺の変のすぐ後の頃に亡くなったと言われ、当主と仰いでいた武田元明も、その本能寺で明智光秀(あけちみつひで)に味方した事で命を落としますが(10月22日参照>>)、その元明の美人の奥さんが、夫の死後に豊臣秀吉(とよとみひでよし)の側室になった=京極龍子(きょうごくたつこ=松の丸殿)だった縁もあり、粟屋の子孫たちは秀吉の配下を経て藤堂高虎(とうどうたかとら)に従い・・・江戸時代を生き抜いたようです。

見事な身の振り方で、結果的に戦国を生き残った粟屋勝久・・・国吉城を譲らなかったのは、ただの意地っ張りではなく先見の明があったという事でしょうか。
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コメント

いつも楽しく読ませて頂いております。
今回の話しは
とても分かりやすい構図でした。
きっと日本各地で色々な事が在ったのかな?
地味だけどグッと来るものがありました。
これからも楽しませて下さい。

投稿: 桜文鳥 | 2018年8月14日 (火) 08時53分

桜文鳥さん、こんばんは~

コメントありがとうございます。
ブログも13年目に突入し、最初の頃に紹介させていただいていた有名な合戦等のエピソードから、最近では徐々に、その有名な出来事の前後に起きた少々マニアックな、あまり知られていないような合戦をご紹介するよう心がけておりますが、それらの事を調べていると、
「なるほど…コレがあったから、あの有名な出来事につながったのか~」というような新たなエピソードを知る事も多く、まだまだ知らない事&新しい発見がたくさんある事を痛感させられます。
これからも、よろしくお付き合いくださいませ。

投稿: 茶々 | 2018年8月15日 (水) 02時32分

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