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2018年8月18日 (土)

宇喜多&毛利の境目合戦~難攻不落の矢筈城と草刈重継

天正十一年(1583年)8月18日、本能寺の変の直後の秀吉と毛利の和睦によって決定した城の明け渡しに不満を持った草刈重継が佐良山城山下にて合戦しました。

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西への勢力拡大を図る主君=織田信長(おだのぶなが)に命じられ、天正四年(1576年)頃から中国地方の平定にまい進していた羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、天正八年(1580年)の1月には三木城(みきじょう=兵庫県三木市上の丸町)(3月29日参照>>)、天正九年(1581年)10月には鳥取城(とっとりじょう=鳥取県鳥取市)(10月25日参照>>)攻略して、徐々に駒を進めていきます。

一方、その中国地方には西国の雄とうたわれた大大名=安芸(あき=広島県)毛利(もうり)がおり、その間に立たされる多くの国人領主や地侍たちは、大きな勢力のハザマで独立して生き抜く事は難しく、当然「どちらに味方すべきか」の選択を迫られつつ、織田に降る者or毛利に着いて戦う者、様々いたわけです。

やがて天正十年(1582年)4月、いよいよ秀吉は、未だ毛利の傘下にある備中高松城(たかまつじょう=岡山県岡山市)へと迫り、ここを水攻めに・・・5月21日には毛利の援軍も現地に駆けつけますが(5月7日参照>>)、その時はすでに城は湖の上・・・

そんな中の6月2日、ご存じ、京都で本能寺の変が起こります(6月2日参照>>)

嘘かマコトか、謀反を起こした明智光秀(あけちみつひで)が毛利に放った密書が間違って秀吉に届くというラッキーサプライズで、多くの織田家臣たちより早く信長の死を知った秀吉は、一刻も早く、ここを片づけて京都へ戻りたい・・・

そこで秀吉は、信長の死を隠したまま安国寺恵瓊(えけい)を通じて「高松城主=清水宗治(むねはる)の自刃を以って、すべてを収める」旨の交渉をし、天正十年(1582年)6月4日に和睦を成立させ(6月4日参照>>)、一路京都へ・・・これが有名な中国大返し(6月6日参照>>)で、電光石火で舞い戻った秀吉が光秀を葬り去るのが6月13日に山崎の戦い(6月13日参照>>)という事になるのですが・・・

一方、今回の毛利との和睦によって高梁川(たかはしがわ=岡山県西部を流れる)を境界線とした西側は毛利の所領・・・そして東側になる美作(みまさか=岡山県東北部)のほとんどを割譲される事になったのが、途中で毛利から織田へと鞍替えした宇喜多直家(うきたなおいえ)(6月15日参照>>)の息子=宇喜多秀家(ひでいえ)でした(直家は天正九年(1581年)頃に死去)

しかし、和睦したとは言え、そう簡単に毛利が撤退するわけもないし、その傘下がアッサリ城を明け渡してくれるわけでもなく・・・まして「信長が死んだ」となれば、その状況も微妙に変わります。

そもそも、この美作あたりの武将には、現段階で大国である毛利の傘下となっているだけで、毛利がこれほど大きくなる以前から、すでに、このあたりを領地としていた国人領主もいたわけで、そんな彼らにとっては「宇喜多領になったから…」と言われて「ハイ、そうですか」と先祖伝来の領地を手放すわけにはいかない・・・

Dscf0478c800aa 矢筈城跡(岡山県津山市)

そんな、この地に根付いていた国人領主の一人が、矢筈山(やはずやま=別名:高山)に築かれた壮大な山城=矢筈城(やはずじょう=岡山県津山市加茂町山下:高山城・草刈城とも)を本拠としていた草刈重継(くさかりしげつぐ)でした。

なんせ、この重継の草刈氏は、そのご先祖様が藤原鎌足(ふじわらのかまたり)・・・その後、平安時代の藤原秀郷(ふじわらのひでさと)を経て鎌倉期に陸奥国斯波郡(しわぐん=岩手県盛岡市付近)草刈郷地頭職を賜った事から草刈と名乗りはじめ、その後、南北朝時代に美作の地頭となったので、この地にやって来た(もちろん諸説ありですが…)とされる名家ですから、その誇りもあろうという物・・・

しかも、この少し前、「織田に内通した」とされた兄=草刈景継(かげつぐ)死に追いやってまで毛利に忠誠を誓い、迫りくる秀吉傘下の武将たちと戦って来た重継ですから、ここに来てもなお、我が城を死守すべく宇喜多に対抗する事となります。

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矢筈城と周辺の位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして天正十一年(1583年)8月18日、草刈重継は、秀吉軍への備えとして因幡(いなば=鳥取県東部)に兵を派遣すると同時に、宇喜多の傘下である川端家長(かわばたいえなが)の居城=佐良山城(さらやまじょう=津山市加茂町公卿)を攻め、主たる合戦場となった山下(さんげ)多くの首級を挙げる勝利を収め、家長を城から退去させたのです。

さらに、その勢いのまま因幡口へと展開し、そこを守っていた荒木重堅(あらきしげかた=木下重堅)の軍勢にも勝利します。

9月1日には、合戦勝利の報告を受けた毛利輝元(もうりてるもと)から、その功績を賞賛されたものの、その一方で秀吉の領地割譲の方針が変わる事はなく、それ以降は、先の和議の使者であった安国寺恵瓊の説得工作も強くなって来て、徐々に輝元の意向も傾き始めたと見え、この天正十一年(1583年)という年が暮れようとする頃には、本格的に、城の明け渡しの交渉がなされるようになって来ます。

翌・天正十二年(1584年)になって、草刈重継は仕方なく矢筈城を明け渡し、その後は小早川 隆景(こばやかわたかかげ=毛利輝元の叔父)に仕えたと言いますが、この矢筈城は、結果的に、築城以来1度も落城した事の無い難攻不落の堅城として、広く知られる事になったのだとか・・・

その後、この周辺で、最後まで抵抗していた美作岩屋城(いわやじょう=岡山県津山市中北上)中村頼宗(なかむらよりむね)が、7月になってようやく明け渡しを承諾して安芸に退去した事で、秀吉の支援によって抵抗勢力に対峙していた若き秀家の美作統治が完了する事となります。

一般的には、草刈重継の動向を含む、この美作割譲における一連の戦いは、「宇喜多・毛利 境目(さかいめ)合戦」と称されます。

ちなみに、矢筈城について・・・
後の江戸時代に、この矢筈山を訪れた津山藩士=正木輝雄(まさきてるお)は、その著書の中で
「凡(およ)そ高山は国中無双の一奇峰にして絶頂の巖壁(がんぺき)実に矢筈(やはず=掛軸を掛ける時の棒)の如く或(あるい)は天を仰ぎて口を開く獅子吼(ししく=周囲を覚えさせるように獅子が吠える様子)のさまにも髣髴(ほうふつ)たり」
と、この山が、険しい断崖絶壁を擁している様子を記しています。
(津山城に行った時にコチラも訪問しましたが、実際、メッチャ山の中でした(゚ー゚;)

現在の矢筈城跡は、まさしく城跡で、石垣や石塁などの遺構のみで建物類は残っていませんが、それでも岡山県内最大規模の中世山城史跡なのです。
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コメント

いつも楽しいお話ありがとうございます。

あまり多くの人には知られていないであろう今回の話も大変面白かったです。国人領主というと大名と比べると大変小さな存在に感じますが、歴史ある由緒正しい家柄の国人も結構いてそれぞれが生き残る為に必死だった時代ですね。織田につくか毛利につくか、なんて岡山あたりの国人達にはまさに究極の選択だったんでしょうね。そしてこのように体を張ることでその後の立場もまた違ったものになったんでしょうね。
これからも楽しいお話楽しみにしています。

投稿: へいたろう | 2018年8月20日 (月) 15時43分

へいたろうさん、こんばんは~

おっしゃる通り、国人領主にとっては生きるか死ぬかの選択だったでしょうね。
いつもコメント、ありがとうございます。

投稿: 茶々 | 2018年8月20日 (月) 18時53分

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