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2018年10月28日 (日)

応仁・近江の乱~京極×六角の近江争奪戦

文明七年(1475年)10月28日、応仁の乱に絡む京極政経と六角高頼の戦い「佐々木庄の戦い」がありました。

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Ouninnoransoukanzu2 第8代室町幕府将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の後継者を巡っての争いに、管領家(かんれいけ=将軍の補佐・No.2になる家柄)である斯波(しば)畠山(はたけやま)のそれぞれの後継者争いが加わって、応仁元年(1467年)から約10年に渡って日本全国が東西に分かれて戦った応仁の乱(5月20日参照>>)・・・

この時、近江(おうみ=滋賀県)に拠点を置く京極持清(きょうごくもちきよ)は、甥っ子(妹の子)細川勝元(ほそかわかつもと=東軍総大将)や娘の嫁ぎ先である畠山政長(はたけやままさなが)が属する東軍につき、同じく近江に拠点を置く西軍の六角高頼(ろっかくたかより)との合戦を展開しておりました。

この京極と六角は、ともに宇多源氏(うだげんじ)の流れを汲み、平安時代終盤の源平合戦で活躍した佐々木信綱(ささきのぶつな)の息子の代で枝分かれしたものの、同じ近江源氏と呼ばれ全国に広大な領地を持つ同族であり近江2大勢力だったわけですが、上記の通り、同族でも・・・いや、同族だからこそ、立場や損得によって東西に分かれるのが応仁の乱だったわけで・・・

Kyougokusourankeizu ←京極家略系図

ところが応仁二年(1468年)から文明三年(1471年)にかけて、その京極持清と、すでに家督を譲られていた息子の京極勝秀(かつひで)、さらに勝秀の嫡男であった孫童子丸(まごどうじまる)が相次いで亡くなった事から、持清の三男=京極政経(まさつね・政高)と、孫童子丸の兄(叔父または従兄弟の説あり)京極高清(たかきよ・乙童子丸)との間に京極家の後継者争いが勃発するのです。

この間にも、かの応仁の乱は継続中・・・なので東軍に属している政経と敵対すべく、高清一派は六角氏と和睦して西軍へと寝返ります。

この頃、政経派の主将として活躍していた多賀高忠(たがたかただ)と、六角氏で東軍に属していた六角政堯(まさたか=高頼の従兄弟)の勢いに押され気味だった六角高頼と京極高清は美濃(みの=岐阜県南部)斎藤妙椿(さいとうみょうちん)に援助を要請します。

妙椿も、その主家である土岐氏(ときし)も、応仁の乱には西軍として参加していますので、高頼&高清からの要請があろうがなかろうが、味方のピンチを救うは必至ですから、当然、要請を受けた妙椿は、即座に出陣して国境を越え米原山(まいばらやま=滋賀県米原市)にて京極と一戦した後、近江南部へと進出します。

これを知った高頼も、身を隠していた甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)を出発して妙椿と合流・・・文明三年(1471年)の3月には京極政経&多賀高忠らに勝利して若狭(わかさ=福井県西部)へと敗走させ、近江の地を奪回しました。

この西軍=高頼の勢いを削ぎたい東軍大将=細川勝元は、六角政堯に高頼討伐を命令・・・これを受けて、政堯の拠る清水鼻城(しみずはなじょう=滋賀県東近江市・後の箕作城)には近隣の西軍武将が集結しはじめますが、この動きを知った高頼は、早速、六角旧臣たちをかき集め、先手必勝とばかりに大挙して清水鼻城を攻めまくり、支えきれなくなった六角政堯は文明三年10月(11月とも)、自ら城に火を放って自害しました。

一方、先の米原山の戦いで敗れて若狭に逃走していた京極政経&多賀高忠は、文明四年(1472年)6月頃に近江へと戻り、高頼勢を小競り合いを繰り返していましたが、一旦美濃へ戻っていた斎藤妙椿が、9月になって美濃の大軍を率いて再び高頼の加勢にやって来た事から、西軍=細川勝元側も政経らに援軍を派遣・・・ここに畠山義就(よしひろ・よしなり=西軍)も加わって江北(こうほく=滋賀県の北側)を中心に大きな戦いへと発展きていきます。

そんな中で、高頼が比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)の寺領の横領を画策した事で、比叡山の僧兵や山門衆徒らが政経の味方につき、文明七年(1475年)頃からは一進一退・・・

しかし、やがて、この江北での戦いにも終止符が打たれる時が来るのです。

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観音寺城・本城跡

文明七年(1475年)10月28日、斎藤妙椿の加勢を受けた高頼が、六角氏の本拠である佐々木庄(ささきしょう=滋賀県近江八幡市・観音寺城)において、比叡山の山門衆徒と連合を組む政経勢と大激戦を繰り広げ、高頼方が大勝利を治めるのです。

上記の通り、すでに寺社の荘園の横領等、好き勝手やり始めていた六角高頼の勝利を見た将軍=義政は、比叡山に、再び政経勢と組んで高頼を討伐するようハッパをかけますが・・・実は、この間の文明五年(1473年)に西軍総大将の山名宗全(やまなそうぜん=持豊)&東軍総大将の細川勝元の両巨頭が相次いで亡くなった(3月18日参照>>)ために、全国武将を巻き込んだ応仁の乱は急速に勢いを失い、翌文明六年(1474年)には両巨頭の息子たち(山名政豊&細川政元)よって和睦が成立していたのです。

結局、応仁の乱に絡む江北での戦いは、この佐々木庄の戦いが最後になりました。

とは言え、高頼は、今度は将軍家の敵となり、それはやがて近江鈎(まがり)の陣(12月2日参照>>)へと発展・・・この流れに乗じた京極政経が、逃走先の出雲(いずも=島根県)から、近江奪回=高頼討伐を目指して上洛して来るのは長享元年(1487年)の事ですが、

そのお話は【京極騒乱~祇園館の戦い】の後半部分でどうぞ>>(前半部分は今回のお話とカブッてますが、ご了承を…)

・・・にしても、応仁の乱の時は、ホント、あっちもこっちも後継者争いで・・・結局、それが、同族同士でのつぶし合いとなってしまって、室町幕府政権下で大物として君臨していた武将たちの多くが、その配下である守護代、あるいは、もっと配下の国人に取って代わられる事になっていくのでしょうね。

このあたりの事、もはや描きつくされた織豊時代(しょくほうじだい=信長&秀吉の時代)よりも断然おもしろくなりそうなので、ぜひとも、ドラマ等で見てみたい物ですね~

まぁ、出演者が多すぎて難しいかも知れませんが・・・
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