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2018年10月28日 (日)

応仁・近江の乱~京極×六角の近江争奪戦

文明七年(1475年)10月28日、応仁の乱に絡む京極政経と六角高頼の戦い「佐々木庄の戦い」がありました。

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Ouninnoransoukanzu2 第8代室町幕府将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の後継者を巡っての争いに、管領家(かんれいけ=将軍の補佐・No.2になる家柄)である斯波(しば)畠山(はたけやま)のそれぞれの後継者争いが加わって、応仁元年(1467年)から約10年に渡って日本全国が東西に分かれて戦った応仁の乱(5月20日参照>>)・・・

この時、近江(おうみ=滋賀県)に拠点を置く京極持清(きょうごくもちきよ)は、甥っ子(妹の子)細川勝元(ほそかわかつもと=東軍総大将)や娘の嫁ぎ先である畠山政長(はたけやままさなが)が属する東軍につき、同じく近江に拠点を置く西軍の六角高頼(ろっかくたかより)との合戦を展開しておりました。

この京極と六角は、ともに宇多源氏(うだげんじ)の流れを汲み、平安時代終盤の源平合戦で活躍した佐々木信綱(ささきのぶつな)の息子の代で枝分かれしたものの、同じ近江源氏と呼ばれ全国に広大な領地を持つ同族であり近江2大勢力だったわけですが、上記の通り、同族でも・・・いや、同族だからこそ、立場や損得によって東西に分かれるのが応仁の乱だったわけで・・・

Kyougokusourankeizu ←京極家略系図

ところが応仁二年(1468年)から文明三年(1471年)にかけて、その京極持清と、すでに家督を譲られていた息子の京極勝秀(かつひで)、さらに勝秀の嫡男であった孫童子丸(まごどうじまる)が相次いで亡くなった事から、持清の三男=京極政経(まさつね・政高)と、孫童子丸の兄(叔父または従兄弟の説あり)京極高清(たかきよ・乙童子丸)との間に京極家の後継者争いが勃発するのです。

この間にも、かの応仁の乱は継続中・・・なので東軍に属している政経と敵対すべく、高清一派は六角氏と和睦して西軍へと寝返ります。

この頃、政経派の主将として活躍していた多賀高忠(たがたかただ)と、六角氏で東軍に属していた六角政堯(まさたか=高頼の従兄弟)の勢いに押され気味だった六角高頼と京極高清は美濃(みの=岐阜県南部)斎藤妙椿(さいとうみょうちん)に援助を要請します。

妙椿も、その主家である土岐氏(ときし)も、応仁の乱には西軍として参加していますので、高頼&高清からの要請があろうがなかろうが、味方のピンチを救うは必至ですから、当然、要請を受けた妙椿は、即座に出陣して国境を越え米原山(まいばらやま=滋賀県米原市)にて京極と一戦した後、近江南部へと進出します。

これを知った高頼も、身を隠していた甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)を出発して妙椿と合流・・・文明三年(1471年)の3月には京極政経&多賀高忠らに勝利して若狭(わかさ=福井県西部)へと敗走させ、近江の地を奪回しました。

この西軍=高頼の勢いを削ぎたい東軍大将=細川勝元は、六角政堯に高頼討伐を命令・・・これを受けて、政堯の拠る清水鼻城(しみずはなじょう=滋賀県東近江市・後の箕作城)には近隣の西軍武将が集結しはじめますが、この動きを知った高頼は、早速、六角旧臣たちをかき集め、先手必勝とばかりに大挙して清水鼻城を攻めまくり、支えきれなくなった六角政堯は文明三年10月(11月とも)、自ら城に火を放って自害しました。

一方、先の米原山の戦いで敗れて若狭に逃走していた京極政経&多賀高忠は、文明四年(1472年)6月頃に近江へと戻り、高頼勢を小競り合いを繰り返していましたが、一旦美濃へ戻っていた斎藤妙椿が、9月になって美濃の大軍を率いて再び高頼の加勢にやって来た事から、西軍=細川勝元側も政経らに援軍を派遣・・・ここに畠山義就(よしひろ・よしなり=西軍)も加わって江北(こうほく=滋賀県の北側)を中心に大きな戦いへと発展きていきます。

そんな中で、高頼が比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)の寺領の横領を画策した事で、比叡山の僧兵や山門衆徒らが政経の味方につき、文明七年(1475年)頃からは一進一退・・・

しかし、やがて、この江北での戦いにも終止符が打たれる時が来るのです。

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観音寺城・本城跡

文明七年(1475年)10月28日、斎藤妙椿の加勢を受けた高頼が、六角氏の本拠である佐々木庄(ささきしょう=滋賀県近江八幡市・観音寺城)において、比叡山の山門衆徒と連合を組む政経勢と大激戦を繰り広げ、高頼方が大勝利を治めるのです。

上記の通り、すでに寺社の荘園の横領等、好き勝手やり始めていた六角高頼の勝利を見た将軍=義政は、比叡山に、再び政経勢と組んで高頼を討伐するようハッパをかけますが・・・実は、この間の文明五年(1473年)に西軍総大将の山名宗全(やまなそうぜん=持豊)&東軍総大将の細川勝元の両巨頭が相次いで亡くなった(3月18日参照>>)ために、全国武将を巻き込んだ応仁の乱は急速に勢いを失い、翌文明六年(1474年)には両巨頭の息子たち(山名政豊&細川政元)よって和睦が成立していたのです。

結局、応仁の乱に絡む江北での戦いは、この佐々木庄の戦いが最後になりました。

とは言え、高頼は、今度は将軍家の敵となり、それはやがて近江鈎(まがり)の陣(12月2日参照>>)へと発展・・・この流れに乗じた京極政経が、逃走先の出雲(いずも=島根県)から、近江奪回=高頼討伐を目指して上洛して来るのは長享元年(1487年)の事ですが、

そのお話は【京極騒乱~祇園館の戦い】の後半部分でどうぞ>>(前半部分は今回のお話とカブッてますが、ご了承を…)

・・・にしても、応仁の乱の時は、ホント、あっちもこっちも後継者争いで・・・結局、それが、同族同士でのつぶし合いとなってしまって、室町幕府政権下で大物として君臨していた武将たちの多くが、その配下である守護代、あるいは、もっと配下の国人に取って代わられる事になっていくのでしょうね。

このあたりの事、もはや描きつくされた織豊時代(しょくほうじだい=信長&秀吉の時代)よりも断然おもしろくなりそうなので、ぜひとも、ドラマ等で見てみたい物ですね~

まぁ、出演者が多すぎて難しいかも知れませんが・・・
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2018年10月23日 (火)

秀吉の但馬攻略~岩州城&竹田城の戦い

天正五年(1577年)10月23日、織田信長の命による但馬攻略のために姫路城に入った羽柴秀吉が播磨諸将の人質を取りました。

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永禄十一年(1568年)9月に足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛した織田信長(おだのぶなが)(9月7日参照>>)、翌10月に、その義昭が第15代室町幕府将軍に就任(10月18日参照>>)した事で、一旦、岐阜(ぎふ)へと戻りました。

その翌年の永禄十二年(1569年)、自らが滅ぼした大内氏(おおうちし)(4月3日参照>>)の残党=大内輝弘(おおうちてるひろ)との交戦中だった安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)が、その背後を突いて出雲(いずも=島根県)を奪回しようと動き始めた尼子氏(あまこし)(10月28日参照>>)の残党に協力する姿勢を見せた但馬(たじま=兵庫県北部)の守護=山名祐豊(やまなすけとよ)「けん制してほしい」と信長に依頼します。

これを受けて、信長は直ちに配下の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)を大将にした2万の軍を派遣・・・居城の此隅山城(このすみやまじょう=兵庫県豊岡市)を攻撃された山名祐豊は(さかい=大阪府堺市)へと亡命し、ここで一旦、山名は滅亡となりますが、その後、祐豊が信長に謁見して配下となる事を約束した事で、元亀元年(1570年)、今度は、信長の威光を背景に有子山城(ありこやまじょう=兵庫県豊岡市)主として、祐豊は再び但馬に戻っていました。

その後、信長が、越前(えちぜん=福井県東部)朝倉(あさくら)(8月6日参照>>)北近江(きたおう=滋賀県北部)浅井(あざい)(8月28日参照>>)、さらに将軍=義昭(7月18日参照>>)とも本願寺顕如(けんにょ)(9月12日参照>>)らとも敵対した事から、信長は、彼らを支援する毛利とも敵対関係になり、逆に天正元年(1753年)に尼子の再興を願う尼子勝久(かつひさ)が信長の傘下となった事から、その尼子の家臣である山中幸盛(やまなかゆきもり=鹿介)らと協力して山名祐豊も毛利と戦う事になるのですが、

この頃は、山名の但馬を含め、東からの新興勢力の信長と西国に君臨する毛利とのハザマで揺れる丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部)播磨(はりま=兵庫県南西部)因幡(いなば=鳥取県東部)美作(みまさか=岡山県東北部)備前(びぜん=岡山県東南部)等の近隣の国人領主たちは皆、どちらの強国に属するべきか?を模索していたわけで・・・

そのため、毛利方についた赤井忠家(あかいただいえ)(8月9日参照>>)武田高信(たけだ たかのぶ)らの侵攻を受けて戦う山名祐豊でしたが、いかんせん、以前に一旦滅亡している事もあってか、家臣団の統率をうまくとる事ができず、ここに来て、山名の宿老であった垣屋氏や八木氏らが毛利と通じるようになってしまうのです。

Hideyositazimakouryaku←クリックで大きく
秀吉の但馬攻略ルート

 (背景は地理院地図>>)

播磨支配を目指す秀吉としては、進行方向の側面に当たる但馬には静かにしておいてもらいたい・・・ちょうどその頃、いち早く信長の才能を見抜いて、自らの主君=小寺政職(こでらまさもと)に信長傘下になる事を進言して、すでに味方になっていた黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか=後の如水・当時は小寺孝高)(11月29日参照>>)が、自らの居城であった姫路城(ひめじじょう=兵庫県姫路市)秀吉に提供する事を申し出たのです。

かくして天正五年(1577年)10月23日官兵衛の迎えで姫路城に入った秀吉は、周辺の諸将に人質を出させて服従を誓わせますが、もちろん、ここに来ても毛利側につく気満々の武将もいるわけで・・・

そんな中、10月28日には「11月の10日頃には決着つくと思います」と報告して信長を大いに喜ばせていた秀吉は、未だ従わない諸城を攻略すべく、11月初め、市川(いちかわ)に沿って北上して朝来(あさご)へと浸行していきます。

このルートは播磨からの防御とともに生野(いくの)銀山という金のなる木を入手できる絶好の要路・・・そのルートの先にあったのが岩州城(いわすじょう=兵庫県朝来市)でした。

この岩州城を守っていた武将については、物部(もものべ)山口(やまぐち)など複数の伝承があるものの、この時の秀吉が、岩州城を攻略した後、間髪入れず、その北側にある竹田城(たけだじょう=兵庫県朝来市)に向かう事を踏まえれば、山名宗全(やまなそうぜん=応仁の乱の西軍大将)の時代から、その竹田城の守備を任されていた太田垣氏(おおたがきし)の将が守っていたとする『武功夜話』の記述が、案外当たっているかも知れません。

ただし、『武功夜話』では、この時の但馬侵攻の総大将は羽柴秀長(ひでなが=秀吉の異父弟)で、秀吉自身は出陣していないと記していますが、11月9日の日付で発給された秀吉の禁制が現地の法宝寺(ほっぽうじ=朝来市和田山町)というお寺に残っているそうなので、やはり秀吉は総大将として現地入りしていたものと思われます。

・・・で、この通り、秀吉のいるいないが疑問になる事や、『信長公記』などの文献でも、この戦いの事がいたくアッサリとしている事から、この岩州城の戦いは、城兵の抵抗も、ほとんど無かったと考えられています。

ほどなく岩州城を攻略した秀吉は、その足で、さらに北に位置する竹田城へ・・・この竹田城を守っていたのは、山名祐豊の重臣でありながら、すでに毛利の吉川元春(きっかわもとはる=毛利元就の次男)に通じていた太田垣輝延(おおたがきてるのぶ)でした。

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竹田城跡(兵庫県朝来市)

今や、天空の城または日本のマチュピチュとして全国的に有名になった竹田城(12月21日参照>>)ですが、雲海に浮かぶ華麗な石垣群が構築されたのは、この竹田城の最後の城主となった赤松広秀(あかまつひろひで)(10月28日参照>>)の頃であったとされ、おそらく、この天正五年の段階では、未だ(とりで)と呼ぶべき小規模な要塞であった事でしょうが、

そんな竹田城に秀吉の大軍が押し寄せたのですから、ひとたまりもありません・・・

なので、かの『信長公記』でも
「小田垣(太田垣)楯籠(たてこも)る竹田へ取り懸(かか)げ、是(こ)れ又、退散」
と、やはりここも、いたくアッサリと攻略した雰囲気で書かれています。

とは言え、山名四天王とまで言われた太田垣氏が、この竹田城の落城で以って滅亡するわけですし、丹波・播磨・因幡を結ぶ要所であるこの地を抑えれば実質的に但馬を制圧したも同然の場所なわけですから、それなりの戦いがあった事は確か・・・そこの詳細な部分は、今後の歴史研究や新発見に期待すべきところでしょう。

とにもかくにも、10月下旬から11月にかけての20日余りの期間に、岩州城から竹田城、そして太田垣氏と同じく山名四天王の一角であった八木氏(やぎし)八木城(やぎじょう=兵庫県養父市八鹿町)三方城(みかたじょう=兵庫県養父市大屋町)などの諸城を攻略した秀吉は、

いよいよ11月29日、赤松政範(あかまつまさのり)上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)に攻めかかるのですが、そのお話はの【信長の山陽戦線~秀吉の上月城攻め】のページ>>でどうぞ
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2018年10月16日 (火)

三好長慶の八上城攻略戦

弘治三年(1557年)10月16日、三好長慶が丹波八上城を攻め、龍蔵寺城を攻略しました。

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丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部)地方の小さな国人(こくじん=在地の武士)の一人に過ぎなかった波多野稙通(はたのたねみち)が、応仁の乱での功績によって細川勝元(ほそかわかつもと=東軍の大将)配下の有力武将となって築城したとされる八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)

その後の細川家内の後継者争いの真っ最中だった大永六年(1526年)、重臣として仕えていた弟を殺害された事で、その主君であった細川高国(たかくに=勝元の孫(養子))と敵対し(10月23日参照>>)、高国との後継者争いの相手であった細川晴元(はるもと=勝元の孫(養子)の息子)に近づいて、ともに高国を京都から追い出して(2月13日参照>>)晴元政権樹立に成功し、稙通も評定衆(ひょうじょうしゅう=政権下の最高機関)の一人に名を連ねたのです。

とは言え、稙通自身は天文十四年(1545年)頃に死没したようで、波多野の家督は嫡男の波多野晴通(はるみち)が受け継ぎます。

Miyosinagayosi500a ところが、今度は、その晴元が重臣の三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)と対立・・・長慶は、晴元の領国である阿波(あわ=徳島県)守護代を務める重臣中の重臣で、稙通も自らの娘(晴通の妹)を嫁に出して縁を繋いでいた相手だったのですが、この一件により、その奥さんも離縁の憂き目に・・・

そんな中、天文十八年(1549年)の江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦いで長慶に完敗した晴元は、第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)を伴って近江(おうみ=滋賀県)へと逃れました(6月24日参照>>)

ただし、翌年の天文十九年(1550年)5月には、その将軍=義晴が避難場所の坂本にて病死・・・それを受けて、義晴の嫡子である義藤(よしふじ)足利義輝(よしてる)第13代室町幕府将軍に就任しています。

その後、志賀の戦い(2月16日参照>>)を経た天文二十一年(1552年)の正月には晴元が出家した事で両者の間に和議が成立し、事実上の三好政権が誕生していたわけですが、やはり、京都奪回の夢を捨てきれない晴元は、軍を起こしてなんやかやの動きを見せていたのです。

そんな晴元に同調したのが波多野晴通・・・この動きを知った長慶は、八上城を攻略すべく、この年の4月に、重臣の松永久秀(まつながひさひで)を伴って丹波に出陣します。

しかし、八上城包囲中のさ中に、味方として三好軍に従っていた芥川孫十郎(あくたがわまごじゅうろう=長慶の妹婿もしくは娘婿)池田長正(いけだながまさ)が波多野側に内通して謀反を計画している事を察知した長慶は、5月23日に八上城の包囲を解いて一旦、越水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)へと帰還します。

これにより、少しは勢いづいた晴元&晴通側でしたが、翌天文二十二年(1553年)8月、長慶はすかさず反撃・・・芥川城(あくたがわじょう=大阪府高槻市)を攻めて孫十郎を阿波へと敗走させたうえ、この混乱で京に攻め入っていた丹波勢を破って将軍=義輝を再び近江へと退けて京を制圧し、むしろ三好政権を盤石な物にしたのです。

と、なると、やはり、未だ攻略できていない波多野が目障り・・・って事で9月3日、長慶の命を受けた松永久秀が八上城を包囲します。

しかし、ほどなく、晴元方の香西元成(こうざいもとなり=細川家臣)三好政康(まさやす・宗渭=後の三好三人衆の一人)が背後から奇襲をかけて来たため、やむなく松永勢は退去しました。

次に三好軍が八上城を攻撃するのは天文二十四年(1555年=10月に弘治に改元)の事・・・すでに長慶は、畿内全域と阿波に加え、淡路(あわじ=兵庫県淡路島)播磨(はりま=兵庫県南西部)の東半分も手に入れて、もはや敵無しの状態になっていましたが、それでもやっぱり敵対する八上城の波多野・・・

そこで長慶は、その年の9月になって、いつの間にか長慶の傘下になっていた、かの三好政康を八上城攻略に当たらせる事にし、政康軍は生瀬(なませ=宝塚市)から丹波に入り、八上城を包囲します。

ところが、この時は、晴元自身が援軍を率いてやって来た事から、またもや攻略に失敗してしまいました。

しかし・・・
たび重なる失敗にもめげない長慶は、またまた八上城を攻めるべく軍を起こし、弘治三年(1557年)10月16日、波多野方の龍蔵寺城(りゅうぞうじじょう)を攻略します。

とは言え、ここらあたりの記録は不明な事が多いです。

実は、この龍蔵寺城の位置もハッキリとはわかっておらず、多紀郡(たきぐん)周辺にあったであろう」との事なのですが、この多紀郡は現在の篠山市ですので、おそらくは八上城の近くにあった支城なのでしょう~くらいの事しかわかっていません。

『細川両家記』では
「三筑(長慶)の衆い又 屋上(八上)へ出陣して龍蔵寺責落也」
とあり、ここからしばらく波多野が消息不明となります。

次に波多野が登場するのは、長慶亡き(5月9日参照>>)後の三好から、この八上城を奪回する永禄九年(1566年)2月26日の時の事・・・

そこに
「丹州屋上(八上)城に松永弾正正忠(久秀)の甥松永孫六と申人入城候処」
とあるので、先の弘治三年の八上城攻めで龍蔵寺城を攻略した後に八上城も落とし、そこに松永久秀の甥っ子が入城して城主となっていた事がうかがえます。

ここで、元八上城主だった波多野晴通の息子=波多野秀治(はたのひではる)が、包囲した八上城内の水の手を断って枯渇させたところ、飢えに苦しむ兵士たちが次々に逃亡していく事態となり、やむなく孫六も城を脱出して尼崎(あまがさき=兵庫県尼崎市)へと退却・・・

こうして、新当主=秀治によって、波多野は9年ぶりに八上城を奪回したのでした。

以後、秀治は、ここを拠点に武勇を誇り、
やがて織田信長(おだのぶなが)の命を受けて丹波平定にやって来る明智光秀(あけちみつひで)と対峙する事となるわけです。

※光秀の丹波平定に関しては
【籾井城の戦い】>>
【福知山攻略戦】>>
【八上城攻防戦】>>
【黒井城の戦い】>>
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2018年10月10日 (水)

大仏炎上~東大寺大仏殿の戦いby松永×三好・筒井

永禄十年(1567年)10月10日、松永久秀対三好三人衆&筒井順慶連合軍の東大寺大仏殿・多門城の戦いで大仏殿が炎上しました。

・・・・・・・・・・

もともと、興福寺(こうふくじ)春日大社(かすがたいしゃ)の勢力が強かった大和(やまと=奈良県)は、やがて寺社の荘園の管理などを任されていた在地の者たちの中から、興福寺に属する『衆徒』の代表格である筒井(つつい)や、春日大社に属する『国民』の代表格=越智(おち)十市(とおち)、さらにこの3家に箸尾(はしお)を加え、『大和四家』と称される者たちが群雄割拠する室町時代を迎えていましたが、ここ奈良の守護(しゅご=室町幕府政権下でも県知事的役割)管領家(かんれいけ=将軍の補佐をする家柄)畠山(はたけやま)であった事もあって、その畠山氏や、同じく管領家の細川(ほそかわ)などの争いに巻き込まれていたわけですが・・・
【京軍の大和侵攻】参照>>
【井戸城・古市城の戦い】参照>>
【天文法華の乱~大和一向一揆】参照>>

そんな中、これまで長年抗争を繰り返していた越智氏に勝利し(9月15日参照>>)、その後、抵抗する勢力を次々と傘下に組みこんで大和の大半を手中に治めつつあった筒井順昭(つついじゅんしょう)が天文十九年(1550年)に病死し、わずか3歳の息子=筒井順慶(じゅんけい)が引き継ぐ事になった頃、

このタイミングで新たな支配者となるべく大和に乗り込んで来たのが、天文十八年(1549年)の江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦い細川晴元(はるもと)を破って(6月24日参照>>)後、第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)とも和睦して(6月9日参照>>)事実上の天下人となっていた三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の家臣=松永久秀(まつながひさひで)でした。

永禄二年(1559年)頃から大和への侵攻を開始した久秀は、信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を大幅改修して拠点とし、奈良盆地に点在した諸城を次々と攻略していきます(7月24日参照>>)

しかし、そんな久秀の活躍とはうらはらに、永禄四年(1561年)に3番目の弟=十河一存(そごうかずまさ・かずなが)(5月1日参照>>)、翌・永禄五年(1562年)にすぐ下の弟=三好実休(じっきゅう=義賢・之康)(3月5日参照>>)、さらに、その翌年の永禄六年(1563年)に息子の三好義興(よしおき=長慶の長男)を失った三好長慶は一気に病気がちになり、しかも永禄七年(1564年)には2番目の弟=安宅冬康(あたぎふゆやす=元長の三男で安宅氏の養子に入ったを長慶自らの勘違いで手にかけてしまい、その後悔の念からか?その冬康の死から、わずか2ヶ月後に長慶は廃人のようになってこの世を去ってしまう(5月9日参照>>)のです。

やむなく、三好家では長慶の甥=三好義継(よしつぐ)を当主に迎え、補佐役として三好長逸(みよしながやす)三好政康(まさやす)石成友通(いわなりともみち)の3人=三好三人衆が若き当主を支えていく体制となりますが、そんな三好三人衆は永禄八年(1565年)5月に将軍の足利義輝を暗殺して(5月19日参照>>)、自分たちの意のままになる足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)を新将軍に擁立しようと企みます。

この将軍暗殺劇には、晩年に病気がちになっていた長慶に代わって、事実上、三好政権を切り盛りしていた久秀も協力していたとも言われていますが、一方で、その暗殺劇から、わずか半年後の11月には、奈良の支配を巡って未だ久秀と絶賛敵対中だった筒井順慶と三好三人衆が同盟を結んで、久秀が入っていた飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)を攻撃していますので、おそらく久秀は、将軍暗殺には関わっていないかも・・・

で、これを受けた久秀は、電光石火の速さで、その2日後に順慶の筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を急襲して奪い取りました。

ただし翌年、紀伊(きい=和歌山県)河内(かわち=大阪府東部・南部)の守護でもあった畠山高政(はたけやまたかまさ)らに協力して、(さかい=大阪府堺市)にいた三好の当主=三好義継を攻撃すべく、久秀が本拠の多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を留守にしたスキを狙って筒井順慶は筒井城を奪回しています。

ところが、その堺での合戦の後、久秀と和睦した義継が対立気味だった三好三人衆と決裂・・・永禄十年(1567年)4月に信貴山城に戻ってきた久秀とともに、その義継も信貴山城に入ったのです。

その6日後の4月11日、久秀が多聞山城に戻った事を受けて三好三人衆と筒井勢、さらに池田勝正(いけだかつまさ=摂津池田城主)らを加えた連合軍が奈良近辺の大安寺(だいあんじ=奈良県奈良市)白毫寺(びゃくごうじ=同奈良市)等に布陣を開始・・・その数、約1万~2万

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白毫寺から奈良市街を望む

これを迎撃すべく、久秀は東大寺(とうだいじ=奈良市)戒壇院(かいだんいん)転害門(てがいもん)に軍勢を配置します。

4月24日夜には、すでに南大門(なんだいもん)周辺に両軍が放つ銃声が響き渡り、両者の小競り合いも後を絶たず、僧や市民も眠れぬ夜を過ごす事になる中、三好&筒井連合軍は大乗院山(だいじょういんやま=奈良市高畑)天満山(てんまやま=同高畑)に陣を移動させますが、久秀の本拠である多聞山城は、東大寺より北にあるため距離が遠い・・・

そこで順慶は縁のある興福寺を通じて東大寺の境内に布陣させてもらえないか?打診すると、コレが即OK・・・なんせ、上記の如く、すでに松永勢はことわりもなく布陣しちゃってますから、寺側も「戦火に見舞われないか」必死なわけで、松永勢けん制のためには、彼ら連合軍に近くにいてもらった方が安心というもの・・・

そして、5月2日に連合軍のうち約1万が二月堂(にがつどう)大仏殿回廊に布陣すると、この日から、久秀自らも戒壇院に立て籠もります。

Tegaimonkaidanin
東大寺:戒壇院           転害門

連合軍は随時、東大寺境内の陣所を変えながら、たまに一隊が多聞山城を攻めつつ、しばらくの間、一進一退のこう着状態が続きますが、この間、連合軍の陣所に利用される事を防ぐべく、松永勢はアチラコチラに火を放ち、一部の門や生垣等が、この時点ですでに焼失・・・少し離れた般若寺(はんにゃじ=奈良市般若寺町)なども、この時に焼失しています。

そんなこう着状態が破られるのは8月25日の事・・・三好三人衆の配下であった飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)の城主=松山安芸守(まつやまあきのかみ)松永方に寝返ったのです。

そのため、やむなく連合軍は、その一部を河内(かわち=大阪府東部)へと派遣せざるを得なくなりますが、もちろん、これは久秀の作戦で、数に劣る松永勢は、このおかげでちょっと楽に・・・この頃には、松永勢が寺院を焼く事も、ほぼ無くなっていたものの、両軍の小競り合いは相変わらず続き、徐々に、数に勝る連合軍が有利になっていくのです。

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東大寺大仏殿の戦い位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなの永禄十年(1567年)10月10日この状況を打開すべく、久秀が動きます。

東大寺の大仏殿付近に布陣していた三好軍に攻撃を仕掛けた松永軍・・・
『多聞院日記』では・・・「数度の合戦の後、穀屋の兵火が法花堂へ飛火し、それが大仏殿回廊へ延焼して深夜に大仏殿が焼失した」

『東大寺雑集録』には・・・
「大仏中門堂へ松永軍が夜討をかけて中門堂と西の回廊に火が放たれて焼失した」
とあります。

しかし、一方で宣教師=ルイス・フロイス『日本史』では、
「連合軍の中に我ら(イエスズ会)の同僚がおり、夜、密かに火を放った」
と、キリシタン兵士が大仏殿に放火した事が書かれています。

この「誰が放火したのか?」の犯人探しについては、未だ様々な説があって結論は出ていないのですが、とにもかくにも、ここで大仏殿が炎上した事で、布陣じていた連合軍は総崩れとなり、備えの兵として残した一部を除いて、ほとんどが摂津(せっつ=大阪府北中部と兵庫県の南東部)山城(やましろ=京都府南部)へと退去していったのです。

焦土と化した一帯では、寺院や宿坊を狙った強盗&略奪・・・いわゆる火事場泥棒が頻発した事により、翌11日には、三好義継と松永久秀、そして松永久通(ひさみち=久秀の息子)の連名で禁制(きんせい=犯行を禁じる)を発布しています。

この禁制発布は、イコール、この奈良の地が彼らの統治する場所になった事を意味しますので、合戦の結果としては松永方の勝利というところは間違いないでしょう。

もちろん、かと言って、三好や筒井らが、このまま引っ込んでしまうはずはなく、その後もチョコチョコ多聞山城に攻撃を仕掛けたりと、小競り合いを展開していくのですが・・・

そんなこんなの永禄十一年(1568年)・・・あの大仏殿炎上から約1年後の9月、三好三人衆に暗殺された前将軍=義輝の弟である足利義昭(よしあき)(10月4日参照>>)を奉じてアノ男が上洛して来ます(9月7日参照>>)

織田信長(おだのぶなが)です。

9月29日に摂津に侵入した信長のもとに、いち早く参じてその傘下となり、領地安堵を取り付ける三好義継と松永久秀・・・一方、敵対覚悟の三好三人衆と出遅れてしまった筒井順慶。

当然ですが、もはや三好三人衆は信長相手に手いっぱいで松永と筒井の抗争に人数を割く余裕すらありません。

こうして信長という後ろ盾を得た久秀は永禄十一年(1568年)10月に筒井城を攻撃し、敗れた順慶は福住(ふくすみ=奈良県天理市福住町)を目指して落ちていきました(11月18日後半部分参照>>)

とは言え、乱世の梟雄(きょうゆう)松永久秀が、このまま、親子ほどの年の差がある信長のもとで大人しくしているはずは無いわけで・・・

て事で、そのお話は
【多聞山城の戦い】>>
【信貴山城の戦い】>>
でご覧あれ(o^-^o)

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2018年10月 3日 (水)

長束正家、無念の自刃~関ヶ原・水口岡山城の戦い

慶長五年(1600年)10月3日、関ヶ原での敗戦の後に籠っていた近江水口(岡山)城を出た長束正家が近江桜井谷で自刃しました。

・・・・・・・・・・

豊臣政権下の五奉行の一人=長束正家(なつかまさいえ=「ながつか」とも)は、かつて近江(おうみ=滋賀県)の覇者だった六角氏(ろっかくし)の家臣で、もとは水口城(みなくちじょう滋賀県甲賀市水口町=岡山城)主だった水口盛里(みなくちもりさと)の長男として尾張(おわり=愛知県西部)に生まれたとされますが、そのあたりの事はよくわかっていません。

正家がハッキリと歴史上に登場するのは、織田家の家老として活躍していた丹羽長秀(にわながひで)家臣としての登場・・・

どうやら彼は、もともと計算に長けていたようで、その才能をかわれて長秀のもとに就職していた頃、
「算勘(さんかん)に達し、其外(そのほか)兵術を得たる事、世に隠れなし」(『名将言行録』)
だったようで・・・そのために、彼に「その術を習いたい」という若者が、領国の内外からひっきりなしに訪れ、正家宅は常に人で賑やかだったと・・・

その噂を聞きつけた豊臣秀吉(とよとみひでよし)が長秀に彼を所望して、正家は金銀出納係として秀吉に仕えるようになります。
(一説には、ここで秀吉に仕える事で、敵に内通した疑いをかけられていた長秀の窮地を救ったと言われています)

まずは試しに金銭にまつわる細かな作業をさせてみると、これがなかなか良い・・・
そこで、諸国からの献上金の入出の運営を任せてみると、これまた、官民誰もが損をしないよう見事に処理してみせる・・・

感心した秀吉は、正家を豊臣の直参として抱えますが、間もなく勃発した小田原攻め(11月24日参照>>)で、兵糧奉行を任された正家は、すばやく兵糧を確保して現地へ輸送したばかりか、小田原周辺の米を買い占めて敵地を兵糧不足に追い込みました。

ちなみに、この時、同じく小田原攻めに従軍していた徳川家康(とくがわいえやす)は、配下の兵糧係が事前に兵糧の準備をしていたものの「現地で調達すれば、運送費もかからんし…」と、その兵糧を沼津(ぬまづ=静岡県)に置いたままにしていたため、その兵糧担当を呼びつけ、
「今回は、してやたれた~合戦には武功も大事やけど、こういう計算も大事や。
せやからこそ秀吉さんもヤツを重用するのやろ~」

と正家の才能を認め、話を聞いた兵糧係は「申し訳ございません!(ノ_-。)」と冷や汗をかいて退散したのだとか・・・

そんな徳川家と正家は、彼が、徳川四天王の本多忠勝(ほんだただかつ)の妹を娶った縁もあって、徳川秀忠(とくがわひでただ=家康の三男)が上洛した際には、その出迎え係をするほどに、徳川家とも密接な関係だったと言います。

その間にも、検地や蔵入地(くらいりち=直轄地)の運営等もこなしていた正家は、文禄4四年(1595年)に近江水口5万石を拝領し水口城主に・・・そして、豊臣政権の五奉行にも名を連ね、ますます政権内での事務方の手腕を発揮する事になるのですが。。。

しかし、やがて訪れた御大=秀吉の死(8月9日参照>>)・・・この慶長三年(1598年)8月の秀吉の死によってバランスを崩し始めた豊臣政権は、その翌年の大御所=前田利家(まえだとしいえ)の死を引き金に、正家らの事務方(文治派)と、加藤清正(かとうきよまさ)福島正則(ふくしままさのり)武闘派合戦で武功えを挙げる派)との亀裂が表面化するのです(3月4日参照>>)

その亀裂をウマイ事利用し、画策し始めたのが五大老筆頭の徳川家康・・・なんせ、亡き秀吉から豊臣政権を任された五大老のうち、利家が亡くなって、その座を息子の前田利長(としなが)受け継げば、残りの3人は天文二十二年(1553年)生まれの毛利輝元(もうりてるもと)、元亀三年(1572年)生まれの宇喜多秀家(うきたひでいえ)、亡き小早川隆景(こばやかわたかかげ=毛利輝元の叔父)に代わって五大老になった弘治元年(1556年)生まれの上杉景勝(うえすぎかげかつ)・・・と、1番年上の輝元とも10歳の隔てがある家康は、その老獪ぶりを発揮して、まさに豊臣政権の筆頭としてふるまうようになったのです。

こうして徐々に五大老や五奉行の追い落としを図る家康は、上記の文治派と武闘派のモメ事関連で五奉行の一人の石田三成(いしだみつなり)を謹慎処分に追い込んだ後、前田と上杉、そして五奉行の一人の浅野長政(あさのながまさ)「謀反の疑いあり」と主張・・・この時、反発を抑えた前田家は利家の奥さん=まつを江戸へと下向させて(5月17日参照>>)合戦を回避し、浅野家も長政が隠居して恭順姿勢をとります。

しかし、残った上杉は喧嘩上等!とばかりに反発(4月14日参照>>)・・・この上杉に対し、家康が大軍を率いて会津征伐を行うべく東に向けて出陣するのですが、この家康が畿内を留守にしていた間の慶長五年(1600年)7月17日に、諸大名に向けて『内府ちがひの条々』が発布されるのです。

これは、これまでの家康の、秀吉の遺言に背くあんな事やこんな事を書き連ねた告発状で、事実上の宣戦布告・・・その書状の署名は、五奉行のうち謹慎中の石田三成と浅野長政を除いた前田玄以(まえだげんい)増田長盛(ましたながもり)、そして本日の主役=長束正家でした(7月18日参照>>)

つまりは、五大老のうち3人(毛利・上杉・宇喜多)&五奉行のうちの4人(前田・増田・長束・石田)を敵に回した家康・・・
(前田家は兄=利長が東軍(徳川)、弟=利政は西軍…7月14日参照>>

しかし、その見事な手腕で、自分が率いていた会津討伐隊を自身の徳川軍にする事に成功(2012年7月25日参照>>)した家康は、会津征伐を中止し、Uターンして西へと戻ります・・・こうして両者がぶつかったのが、ご存じの関ヶ原の戦い・・・(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】で>>)

この時の正家は、上記の『内府ちがひの条々』の一件でもお察しの通り、早い段階から三成主導の西軍として行動し、一説には会津征伐に向かう家康の暗殺まで企てていたと言われますが(その時は家康が水口を素通りしたため決行ならずだったらしい)・・・その後の前哨戦では安濃津城(あのつじょう=三重県津市)を攻略(8月25日参照>>)するなど東海方面で転戦した後、9月15日の本チャンの関ヶ原では南宮山に布陣しました(関ヶ原の合戦・布陣図を別窓で開く>>)

しかし、この時、ともに南宮山に布陣していた毛利勢が・・・実は、家康と密約を交わしていたのです(くわしくは9月28日参照>>)

「戦いに参加しなければ所領を安堵する」
という家康との密約を信じていた吉川広家(きっかわひろいえ=毛利輝元の従兄弟)の判断で、大坂城に詰めていた西軍総大将の輝元の名代で現地にいた毛利軍の大将である毛利秀元(ひでもと=輝元の従兄弟)も、まったく軍勢を動かさなかった事から、その後方に布陣していた正家も、まったく関ヶ原の本戦に参加する事ができなかったのです。

そんな中、ご存じのように、その日の午後2時頃には、西軍の負けがほぼ決定的となり(2008年9月15日参照>>)、やむなく正家は戦線を離脱し、一旦、佐久良(さくら=滋賀県蒲生郡日野町)に身を隠した後、9月の末頃になって、ようやく本拠の水口城に入る事ができました。

しかし、関ヶ原本戦が西軍の負けとなった以上、当然、この水口城にも勝者=東軍の追手がやって来るわけで・・・やがて、この水口城を囲んだのは、池田輝政(いけだてるまさ)の命を受けた池田長吉(ながよし=輝政の弟)率いる池田隊と亀井茲矩(かめいこれのり)らの軍勢でした。

とは言え、なかなかの堅城であった水口城を攻めあぐねた池田勢・・・

そこで、池田の家臣であった舟戸久左衛門なる武将が懐に3~4寸の鉄板を忍ばせて城へと出向き、正家を説得します。

「今、降伏されたなら、あなた方や兵卒の命はもちろん、所領も安堵するとウチの殿様が言うております。
ソチラは安濃津の城攻めに疲れ、関ヶ原では武功を挙げられなかった事に憤り、城を枕に討死覚悟と思っておられるのかも知れませんが、今なら平和的に解決できます」

と、舟戸が、そばにいた小姓に持って来た鉄板を火であぶらせ、同じく懐に用意していた牛王(ごおう=牛王宝印・起請文を書くための牛頭天王の護符)を取り出して、その旨を訴えると、正家は涙を流しながらその説得に応じ、開城を決意したのだとか・・・
(この時代、神に誓う約束事は違えない=破れば神罰が下るという暗黙の了解がありました)

また一説には、
「兄=輝政は、正家殿の事を、幼き頃よりともに育った竹馬の友だと思っていますので、友達とは戦いたくないと言うてます。
もう、西軍は負けました…これ以上は何のために籠城する必要がありましょうか。
速やかに降伏して城を明け渡してくださったなら、命の保証と所領安堵をしてもらえるよう徳川様に取り計らいます」

という池田長吉の説得に応じたとも言われます。

とにもかくにも、何かしらの説得に応じて、水口城を明け渡す決意を固めた正家でしたが、これが池田勢の謀略であり、正家らは城を出たところを捕縛されてしまった後に切腹したとも、
城を出てすぐに欺かれた事に気づき、何とか、再び佐久良まで逃げたものの、追手に囲まれて中之郷にて自刃したとも・・・

また、白装束で池田隊&亀井隊を出迎え、家臣の介錯によって覚悟の自刃を遂げたとも言われますが、いずれにしても、慶長五年(1600年)10月3日長束正家はこの世を去り、その首は、家康の命により、三条橋の袂に晒されたのです。

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長束正家の逃亡経路
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

男盛りの39歳・・・おそらくは、同じ死ぬのであれば、欺かれてからの切腹より、あの天下分け目の戦場にて大いに腕を奮い、華々しく散るのが戦国男子の本望だった事でしょう。

しかも・・・
さらに悲しい事に、この時、臨月だった奥さんは逃亡生活のさ中に出産するも、産後の肥立ちが悪く、間もなく死亡してしまったのだとか・・・悲しすぎる(ρ_;)
(残された男児は生き残った家臣に育てられ、後に僧になったとか…)

一方、今回の関ヶ原での一連の功績で、大幅加増されて播磨(はりま=兵庫県西部)姫路城(ひめじじょう=兵庫県姫路市)の城主となった池田輝政は、勝利の象徴とも言うべきその城を、現在の国宝&世界遺産になるほどの大きな城に作り替える事になります。

とは言え、その立派な城郭とはうらはらに、姫路城は、輝政の病気がち(7月22日参照>>)を皮切りに、その後も、様々な理由で城主が頻繁に交代する城でもありました。

そこには、噂される怨霊や七不思議(7月28日参照>>)・・・というよりも、友を欺いてでも、勝たねば生き残れなかった戦国武将の苦悩が見え隠れするような気がします。
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