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2018年12月 5日 (水)

家康の祖父・松平清康殺害「森山崩れ」と井田野の戦い

天文四年(1535年)12月5日、徳川家康の祖父である松平清康が殺害された森山崩れがありました。

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松平清康(まつだいらきよやす)は、あの徳川家康(とくがわいえやす)のお祖父ちゃん・・・安祥(あんじょう=愛知県安城市)松平の2代目で松平宗家6代目だった父=松平信忠(のぶただ)が、隣国=駿河(するが=静岡県東部)今川(いまがわ)からの攻撃を受けて、うまく松平家内を統率できずにいたため、わずか13歳で家督を継ぎ、以後、祖父(つまり信忠の父)松平長親(ながちか)らの後見のもと、三河(みかわ=愛知県東部)統一に向けて走り始めます。

Matudairakiyoyasu700a 大永六年(1526年)に、これまで代々の居城であった安祥城(あんじょうじょう=愛知県安城市)から、2年前に奪った岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)に拠点を移してからは、城下町を整備して、現在の岡崎につながる町の発展&基礎を築きつつ、三河の諸城を攻め取り、国内の国衆を服属させていきます。

この頃から、清和源氏(せいわげんじ)新田(にった)の一門である徳川の庶流=世良田(せらた)姓を名乗り始めたようで、これが後に家康が松平から徳川に改姓する(12月29日参照>>)根拠となっているのですが・・・

とにもかくにも、西に東に軍を進めて快進撃を果たした清康は、享禄二年(1529年)11月、念願の三河統一を果たしますが、もちろん、ここで終わりはしません。

翌・享禄三年(1530年)には隣国=尾張(おわり=愛知県西部)に出兵して諸戦を展開・・・そしていよいよ天文四年(1535年)12月に、当時は清洲三奉行(きよすさんぶぎょう=尾張国守護代の清洲織田に仕える奉行)の一人だった織田信秀(おだのぶひで=信長の父)の弟=織田信光(のぶみつ)の守る守山城(もりやまじょう=愛知県名古屋市守山区)を攻めたのです。

ところが、その陣中にあった天文四年(1535年)12月5日、突如、家臣の阿部正豊(あべまさとよ)によって、未だ25歳の若さで清康は斬殺されてしまうのです。

これは組織的な裏切りや謀反ではなく、正豊が、彼の父である阿部定吉(さだよし)が清康から謀反の疑いをかけられて誅殺されたとの間違った噂を信じ込んで勘違いのまま「父の仇討ち」を決行してしまった結果だったと言われています。

この事件は、その起こった場所をとって「森山崩れ(もりやまくずれ=守山崩れ)と呼ばれますが、この阿部定吉という人は清康に仕えていた忠臣で、上記の通りの「間違った噂」ですから、当然、定吉は死んでませんし、謀反の疑いもかけられてはいません。

むしろ息子の行動を知った定吉は、すぐさま現場に駆け付けて、自らの手で息子を成敗し、その責任をとって自身も切腹しようとしますが、周囲に諭されて思いとどまります。

Ieyasukeizu2 何といっても、清康の嫡男である松平広忠(ひろただ=つまり家康の父)に、
「今後は、その命かけて俺を盛り立ててくれ」
と言われた事が大きかった・・・

その約束通り、以後の定吉は、松平家の危うさに多くの家臣が離反しても決して広忠の側を離れず、叔父の松平信定(のぶさだ)松平信孝(のぶたか)兄弟が結託して岡崎城を占拠した時に(8月27日参照>>)、命からがら逃げだした亡命先でも苦楽をともにして助けました。

また、この時期に駿河の今川義元(いまがわよしもと)傘下となる事を広忠に進言したのも定吉だったとされます。

それは、結果的には、未だ幼き息子=家康に長きに渡る人質生活を送らせる(8月2日参照>>)事にはなりますが、1番危ういこの時期に、お家が潰れる事もなく、曲がりなりにも独立を保ちながら、後に義元の死をキッカケに再び岡崎に戻った家康が(5月12日参照>>)最終的に天下を取ることになるのも、この時の定吉の進言あればこそなわけです。

そんなこんなで閑話休題、
お話を「森山崩れ」の直後に戻しますが・・・

今回の清康の死を絶好のチャンスととらえたのが織田信秀・・・森山崩れから10日もしないうちに、兵を率いて三河に駒を進めて来たのです。。。。井田野(いだの・井田)の戦いです。

『三河物語』によれば、
「森山崩れシテ十日モ過ザルニ 小田(織田)之弾正之中(忠) 三河エ打出 大拾(樹)寺ニ旗ヲ立ル」
と間髪入れず攻め入って来た事が記されています。

この時、約8000の兵を率いてやってきた織田方に対し、迎え撃つ松平方は、わずかに800ほど・・・

これを受けた松平方では岡崎城を出て井田野(いだの=愛知県岡崎市鴨田町)に陣を張ります。

その陣を置いた場所で戦いに突入した両者でしたが、松平方にとっては主君を失ったばかりの最大のピンチですので、全員が殉死覚悟の戦い・・・しかし、一方の織田方は、10倍近く数が勝るぶん
「何やっても勝てるだろう」
と高をくくり、大した作戦もないまま
「思ひ思ひ心々に戦ひければ 必死の勢に追立られ…右往左往に逃走する」『改正三河後風土記』
と、しばらくは戦ったものの、あまりに強く攻め立てられたため、結局、そのまま退いていったようです。

こうして、なんとか岡崎城を守り、わずか10歳で父=清康の後を継いで松平家の当主となった広忠でしたが、彼もまた24歳という若さでこの世を去ります(3月6日参照>>)

生涯に渡って広忠をバックアップして来た阿部定吉も、ほぼ同じ頃に亡くなったとされますが、この時点で、松平家の後を継ぐべき家康は、今川に行くはずが、途中で奪われて敵の織田家の人質になってる(同じく8月2日参照>>)という危機的状態・・・

しかし、定吉の敷いたレールは、この時、家康とともにいた石川数正(いしかわかずまさ)酒井忠次(さかいただつぐ)にしっかりと引き継がれ、その後の家康&徳川家の隆盛へと繋がっていく事になるのですが、続きのお話となる安祥城の戦い11月6日のページでどうぞ>>m(_ _)m
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