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2019年1月 5日 (土)

信長上洛後…本圀寺の変と桂川の戦い

永禄十二年(1569年)1月5日、三好三人衆足利義昭の仮御所を襲撃した本圀寺の変と、それに関連する桂川の戦いがありました。

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第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)暗殺(5月19日参照>>)し、自分たちの意のままになる14代将軍=足利義栄(よしひで=義輝の従兄弟)を擁立して畿内を牛耳る三好三人衆三好長逸三好政康石成友通らに対して、幕臣の細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らに救い出されて(7月28日参照>>)難を逃れた義輝の弟=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)は、亡き兄に代わって将軍の座を奪回すべく、当時身を寄せていた朝倉(あさくら)の家臣であった明智光秀(あけちみつひで)を通じて岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)織田信長(おだのぶなが)に接触(10月4日参照>>)・・・

Odanobunaga400a この義昭の意を受けた信長が上洛を開始したのは永禄十一年(1568年)9月7日の事でした(9月7日参照>>)

行く手を阻む南近江(滋賀県南部)六角承禎(じょうてい・義堅)を蹴散らし(9月13日参照>>)、三好三人衆らの富田・芥川・越水・高屋etcの城に一挙に攻撃を仕掛けた事で、押された三人衆は義栄を奉じて阿波(あわ=徳島県)へと逃れました

ちなみに、すでに、この時点で三人衆と決別していた三好家嫡流を継ぐ三好義継(みよしよしつぐ=十河重存)と三好家重臣の松永久秀(まつながひさひで)は、ここで信長の傘下となっており、義継は若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市)を安堵、久秀は「大和(やまと=奈良県)一国切り取り次第」の許しを得ています(11月16日参照>>)

Asikagayosiaki600 その後、信長は京都に禁制を布き、事実上の支配を固めて義昭を迎え入れて、永禄十一年(1568年)10月18日、朝廷からの将軍宣下を受けた義昭が第15代室町幕府将軍に就任(10月18日参照>>)すると、大体の戦後処理を終えた信長は、一旦岐阜へと戻りました。

一方、信長を見送った義昭は、とりあえずは六条の本圀寺(ほんこくじ=当時は京都市下京区付近)を仮御所として住んでいましたが、今回の信長の岐阜帰還をチャンスと見たのが、阿波へと退いた三好三人衆・・・

永禄十二年(1569年)正月元日・・・三好三人衆は、かつて信長に稲葉山城=現岐阜城を攻め落とされた(8月15日参照>>)」斎藤龍興(さいとうたつおき)などの美濃(みの=岐阜県)の浪人衆を誘い、薬師寺九郎左衛門(やくしじくろうざえもん)を先鋒の大将として本圀寺の仮御所を取り囲み、門前の家々を焼き払って寺内へ攻め込もうとします。

もちろん本圀寺も、数は劣るとは言え将軍の側近く配下の精鋭部隊が、その身を挺して防戦に当たります。

そこには、前義輝の時代から側近=細川藤賢(ふじかた)に、あの明智光秀もいました。

そんな中、先頭に立つ若狭衆の山県盛信(やまがたもりのぶ)宇野弥七(うのやしち)は、薬師寺勢の旗本衆に喰らいつき、多くの敵を斬って捨てながらの見事な討死を遂げます。

なおも続く敵を、幕府勢が斬っては追いながら、矢で射抜き・・・と、攻め手の三好勢はなかなかの苦戦を強いられ、とても御所内へ攻め込む事はできませんでした。

そんな小競り合いが数日続いた頃、「信長方についた三好義継や細川藤孝らの援軍が、軍勢を率いて、攻撃側の背後を攻めに来る」という情報が現地に飛び交った事で、薬師寺九郎左衛門は攻撃の手を緩め、永禄十二年(1569年)1月5日、包囲を解いて撤退を開始したのでした。

実は、この同じ日・・・実際に、三好義継や細川藤孝、さらに荒木村重(あらきむらしげ)池田勝正(いけだかつまさ)らを加えた面々が本圀寺の救援に向かっていたのです。

そんな彼らは、桂川方面(京都市西京区桂付近)にて三好三人衆の部隊とぶつかります。

早速、池田隊が敵と激突・・・三好方の高安権頭(たかやすごんのかみ)岩成勘助(いわなりかんすけ)など、名のある武将を次々と討ち取って敵勢を突破して、更に突き進んだのです。

5日に始まった戦いは、翌6日に終結しましたが、上記の通り、この桂川の戦いの頃には、すでに本圀寺の三好方の兵は撤退していましたから、当然、彼らが駆け付けずとも仮御所は無事だったわけですが・・・

この京都での異変を、同じ6日の日に岐阜で聞いた信長は、義昭を救援すべく、配下の者に、すぐに出立の命令を出しますが、この日はあいにくの大雪・・・それでも、「たとえ自分一人でも駆けつける!」との意気込みで、アタフタと揉める輸送隊や人夫を後目に、即座に岐阜を出立する信長・・・

本来なら3日かかるところを2日で駆け抜けた強行突破には、さすがの軍勢も追いつかず、信長が京都に着いた時には、従う者はわずか10騎だったとか・・・

しかし、ここで配下の者たちの働きによって義昭と仮御所が守られた事を知った信長は一安心・・・皆の働きを大いに喜んだと言います。

そして、この出来事をキッカケに、信長は義昭の御所=二条御所の建造を急ぐ事になります。
●義昭の御所については2月2日参照>>

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洛中洛外図屏風に描かれた義昭御所(上杉本・左隻)

とは言え、ご存知のように、義昭と信長のこのような蜜月時期は短く・・・わずか4年後に義昭は信長に反旗を翻し(2月20日参照>>)、将軍の妹婿となっていた三好義継も若江城にに散る(11月16日参照>>)事となります。

何とも・・・目まぐるしく情勢が変わるのが戦国の世というもの。
現在進行形でこの時代に生きていた武将たちには、どうにもこうにも先の読めない時代・・・当の信長すら、あの最期ですからね。。。
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コメント

ちょうど450年前ですね。
ところで今週の朝ドラ「まんぷく」の展開ですが、来年の大河ドラマの内容を暗示させるような脚色に…

投稿: えびすこ | 2019年1月 8日 (火) 08時59分

えびすこさん、ごめんなさいです。

私は、これまで1度も朝ドラというのを見た事がないので、よくわかりません。
申し訳ないです。

投稿: 茶々 | 2019年1月 8日 (火) 17時46分

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