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2019年2月23日 (土)

関白・秀吉の政庁…絢爛豪華な聚楽第

天正十四年(1586)2月23日、羽柴秀吉が聚楽第の普請を開始しました。

・・・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)本能寺(6月2日参照>>)倒れて後、その翌年に筆頭家臣だった柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずかたけ=滋賀県長浜市)で倒し(4月21日参照>>)、三男の織田信孝(のぶたか)を次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ)に攻撃させ(5月2日参照>>)、その信雄と徳川家康(とくがわいえやす)小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市)で抑え込んだ(11月15日参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、

天正十三年(1585年)3月の紀州征伐(3月28日参照>>)を皮切りに、四国(7月26日参照>>)北陸(8月29日参照>>)をと次々と平定して行きますが、その四国平定の真っただ中の7月11日に受けたのが関白宣下(かんぱくせんげ)です。

当時朝廷内を二分し、関白職を争っていた二条昭実(にじょうあきざね)近衛信尹(このえのぶただ)の間をスルッと抜けて、「どっちが関白になりはっても遺恨を残すんやったら僕がやりましょか」と、近衞前久(このえさきひさ)猶子(ゆうし=相続重視では無い親子関係)となった秀吉が、ウマイ事周囲を丸め込んで、あれよあれよという間になちゃった感がありますが、

それでも関白は関白・・・思えば、織田家内の一家臣だった、あの本能寺からわずか3年・・・にしても、すンごいスピードですね~

そんな秀吉が、関白の拠る所として天正十四年(1586年)2月23日構築を開始したのが聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)です。

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『聚楽第図屏風』部分(三井記念美術館蔵)

屏風絵に描かれた姿や、大量の金箔瓦が出土する事から、おそらくは絢爛豪華な大御殿あった事が想像できるものの、上記の通り、この聚楽第は関白のための物・・・

なので、秀吉は、その関白の席を甥の秀次(ひでつぐ)に譲った際に、この聚楽第も彼に譲り、自身は伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)へと移転・・・しかし、その後、ご存知のように、秀次が切腹に追い込まれた事で(7月15日参照>>)、謀反人の城となった聚楽第は破却されてしまうのです。

そのため、地上に痕跡がほとんど残っておらず、聚楽第は『幻の城』と言われていましたが、平成三年(1991年)の発掘調査にて本丸東堀が発見された事をキッカケに、今現在も徐々に解明されつつあるようです。

そもそもは、応仁の乱、
いや、南北朝の頃からの長き々々戦乱による度々の市街戦で荒廃してしまった京の町・・・一説には、「上京から下京へと通れる道は室町通り1本だけだった」と言われるほど荒れていた都を整備すべく始められたのが、秀吉政権による都市改造計画・・・

その中で、秀吉は、「外敵から都を守るため」「鴨川の氾濫から市街地を守るため」に有効な、台形の土塁(どるい)と堀からなる御土居(おどい)なる堤防?壁?みたいなので、京の町をグルリと囲み、要所々々に合計7つの出入口を設け、御土居の内側を洛中(らくちゅう)、外側を洛外(らくがい)と呼んだのです。

今も、丹波口(たんばぐち)粟田口(あわたぐち)なんて地名が残るのはその名残りなんですね。

そんな中、工事の期間や完成の年数は前後するものの、おそらくは、最初の計画段階から、この御土居と聚楽第の位置は決定していたはず・・・で、現在の地図上で、その位置関係を確認してみると・・・

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●↑御土居と聚楽第の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

一目瞭然!
秀吉は、平安京を囲むように御土居を巡らし、平安京の内裏(だいり=天皇の住まい)の位置に合わせて聚楽第を構築しているんです。

この地図上にある、現在も残る御所というのは、戦火や火事等によって内裏が焼失した際に、再建するまでの天皇の緊急避難場所として複数設けられていた里内裏(さとだいり)の一つだった場所でしたが、結局、もとの内裏が再建されないまま、元弘元年(1331年)に北朝初代・光厳天皇(こうごんてんのう)が、そこで即位された事をキッカケに、その後は、そこが「御所」と呼ばれて天皇の住まう場所となりますが、もともとの平安京の内裏は、上記の左の細かな地図で示したように、聚楽第が建てられたとおぼしき場所だったわけです。

おそらく、これは偶然ではないはず・・・

天正十六年(1588年)4月に、秀吉は、時の天皇=第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう)を聚楽第に招いて、2日間に渡る儀式や和歌会(わかえ)・舞楽などを盛大に行っていますが、その中で最も重要な事は天皇権限を代行する関白秀吉の姿を、集まった諸大名に見せ、彼らに自分への忠誠を誓わせる事にあったと思います。

そのためには、千年の都と言われる京都の、最も重要な場所に、自らの権勢と財力の象徴を置く必要があったのでしょうね。

ところで、この「聚楽第」の読み方・・・

冒頭には「じゅらくてい」「じゅらくだい」の両方を書かせていただきましたが、以前は、一般的には「じゅらくだい」と言われる事が多かったのですが、『太閤記』「聚楽亭」と書かれいたり、「じゅらくてい」とフリガナが打ってある事から、最近ではドラマやテレビの歴史モノ等では「じゅらくてい」と読まれる事が多いです。

ただ、秀吉本人の書状では「じゅらくやしき」と書いていたり、家臣の日記に「聚楽本丸…」とか、ルイス・フロイスの書には「聚楽という宮殿…」と書いてあったり、別の文献では「聚楽城」の表記もあったりします。

なので、おそらく、本来は単に「聚楽=じゅらく」という名前だったんじゃないか?(←個人の感想です)
山田さんちを山田邸って呼ぶみたいな??

それこそ、秀吉は天下人という武家のトップでありながら、関白という公家のトップでもあるわけで・・・
関白の政庁としては「聚楽第」、武人として守る時は「聚楽城」、毎日住まう場所としては「聚楽屋敷」。。。

とにもかくにも、秀吉にとって一世一代の建物であった事は確かでしょう。

この後、秀吉は、この12月に「豊臣」の姓を賜って太政大臣に任じられ(12月19日参照>>)、その翌年の天正十五年(1587年)には九州を平定する(4月17日参照>>)事になります。

さらにくわしくは【豊臣秀吉の年表】からどうぞ>>
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