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2019年2月27日 (水)

枚方~意賀美神社の梅林

 

京阪沿線の梅の名所=意賀美神社の梅林に行ってきました~

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意賀美(おかみ)神社は、京阪電車の枚方市駅枚方公園駅の間にある、こんもりとした万年寺山に鎮座するお社ですが、もともとは山の麓の、もう少し南側にあったと言われ、その誕生の歴史は開化天皇(かいかてんのう)(【欠史八代】参照>>)の時代(西暦では紀元前150年頃)とされるくらいメッチャ古いです。

なので、、平安時代頃から近代までは意賀美神社は、この場所にはなく、この万年寺山には須賀神社と麓の村の鎮守であった日吉神社があり、そして同時期、流行していた疫病退散のために建立された万年寺(まんねんじ)というお寺があったのですが、明治の頃の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐によって、万年寺が廃されて、須賀神社と日吉神社が意賀美神社に合祀されて、今に至っているのです。

一方、以前も書かせていただいたように(9月27日参照>>)、ここには、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、自身の側室となった枚方城主の本多政康の娘・乙御前(おとごぜん)のために建築した御茶屋御殿(おちゃやごてん)が建っていた場所でもあります。

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梅林越しの御茶屋御殿跡…以前は草ボーボーやったのにキレイになりました

もともとは、眼下に雄大な淀川の流れ望むこの場所に神社やお寺が建立され、360°見渡せる高台に枚方城が構築されて社寺と共存じ、そこに秀吉も魅了された風光明媚な場所だったのです。

もちろん、その頃には、まだ梅林はありませんが・・・

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今は七分咲きといったところでしょうか。。。
満開には、もう少し・・・

今週の日曜=3月3日には「梅まつり」が開催される予定ですので、ひょっとしたら、その頃がベストかな?
晴れると良いですね。

●意賀美神社のくわしい場所は、本家ホームページの大阪歴史散歩「枚方宿」のページでご紹介しています>>(別窓で開きます)
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2019年2月23日 (土)

関白・秀吉の政庁…絢爛豪華な聚楽第

 

天正十四年(1586)2月23日、羽柴秀吉が聚楽第の普請を開始しました。

・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)本能寺(6月2日参照>>)倒れて後、その翌年に筆頭家臣だった柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずかたけ=滋賀県長浜市)で倒し(4月21日参照>>)、三男の織田信孝(のぶたか)を次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ)に攻撃させ(5月2日参照>>)、その信雄と徳川家康(とくがわいえやす)小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市)で抑え込んだ(11月15日参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、

天正十三年(1585年)3月の紀州征伐(3月28日参照>>)を皮切りに、四国(7月26日参照>>)北陸(8月29日参照>>)をと次々と平定して行きますが、その四国平定の真っただ中の7月11日に受けたのが関白宣下(かんぱくせんげ)です。

当時朝廷内を二分し、関白職を争っていた二条昭実(にじょうあきざね)近衛信尹(このえのぶただ)の間をスルッと抜けて、「どっちが関白になりはっても遺恨を残すんやったら僕がやりましょか」と、近衞前久(このえさきひさ)猶子(ゆうし=相続重視では無い親子関係)となった秀吉が、ウマイ事周囲を丸め込んで、あれよあれよという間になちゃった感がありますが、

それでも関白は関白・・・思えば、織田家内の一家臣だった、あの本能寺からわずか3年・・・にしても、すンごいスピードですね~

そんな秀吉が、関白の拠る所として天正十四年(1586年)2月23日構築を開始したのが聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)です。

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『聚楽第図屏風』部分(三井記念美術館蔵)

屏風絵に描かれた姿や、大量の金箔瓦が出土する事から、おそらくは絢爛豪華な大御殿あった事が想像できるものの、上記の通り、この聚楽第は関白のための物・・・

なので、秀吉は、その関白の席を甥の秀次(ひでつぐ)に譲った際に、この聚楽第も彼に譲り、自身は伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)へと移転・・・しかし、その後、ご存知のように、秀次が切腹に追い込まれた事で(7月15日参照>>)、謀反人の城となった聚楽第は破却されてしまうのです。

そのため、地上に痕跡がほとんど残っておらず、聚楽第は『幻の城』と言われていましたが、平成三年(1991年)の発掘調査にて本丸東堀が発見された事をキッカケに、今現在も徐々に解明されつつあるようです。

そもそもは、応仁の乱、
いや、南北朝の頃からの長き々々戦乱による度々の市街戦で荒廃してしまった京の町・・・一説には、「上京から下京へと通れる道は室町通り1本だけだった」と言われるほど荒れていた都を整備すべく始められたのが、秀吉政権による都市改造計画・・・

その中で、秀吉は、「外敵から都を守るため」「鴨川の氾濫から市街地を守るため」に有効な、台形の土塁(どるい)と堀からなる御土居(おどい)なる堤防?壁?みたいなので、京の町をグルリと囲み、要所々々に合計7つの出入口を設け、御土居の内側を洛中(らくちゅう)、外側を洛外(らくがい)と呼んだのです。

今も、丹波口(たんばぐち)粟田口(あわたぐち)なんて地名が残るのはその名残りなんですね。

そんな中、工事の期間や完成の年数は前後するものの、おそらくは、最初の計画段階から、この御土居と聚楽第の位置は決定していたはず・・・で、現在の地図上で、その位置関係を確認してみると・・・

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●↑御土居と聚楽第の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

一目瞭然!
秀吉は、平安京を囲むように御土居を巡らし、平安京の内裏(だいり=天皇の住まい)の位置に合わせて聚楽第を構築しているんです。

この地図上にある、現在も残る御所というのは、戦火や火事等によって内裏が焼失した際に、再建するまでの天皇の緊急避難場所として複数設けられていた里内裏(さとだいり)の一つだった場所でしたが、結局、もとの内裏が再建されないまま、元弘元年(1331年)に北朝初代・光厳天皇(こうごんてんのう)が、そこで即位された事をキッカケに、その後は、そこが「御所」と呼ばれて天皇の住まう場所となりますが、もともとの平安京の内裏は、上記の左の細かな地図で示したように、聚楽第が建てられたとおぼしき場所だったわけです。

おそらく、これは偶然ではないはず・・・

天正十六年(1588年)4月に、秀吉は、時の天皇=第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう)を聚楽第に招いて、2日間に渡る儀式や和歌会(わかえ)・舞楽などを盛大に行っていますが、その中で最も重要な事は天皇権限を代行する関白秀吉の姿を、集まった諸大名に見せ、彼らに自分への忠誠を誓わせる事にあったと思います。

そのためには、千年の都と言われる京都の、最も重要な場所に、自らの権勢と財力の象徴を置く必要があったのでしょうね。

ところで、この「聚楽第」の読み方・・・

冒頭には「じゅらくてい」「じゅらくだい」の両方を書かせていただきましたが、以前は、一般的には「じゅらくだい」と言われる事が多かったのですが、『太閤記』「聚楽亭」と書かれいたり、「じゅらくてい」とフリガナが打ってある事から、最近ではドラマやテレビの歴史モノ等では「じゅらくてい」と読まれる事が多いです。

ただ、秀吉本人の書状では「じゅらくやしき」と書いていたり、家臣の日記に「聚楽本丸…」とか、ルイス・フロイスの書には「聚楽という宮殿…」と書いてあったり、別の文献では「聚楽城」の表記もあったりします。

なので、おそらく、本来は単に「聚楽=じゅらく」という名前だったんじゃないか?(←個人の感想です)
山田さんちを山田邸って呼ぶみたいな??

それこそ、秀吉は天下人という武家のトップでありながら、関白という公家のトップでもあるわけで・・・
関白の政庁としては「聚楽第」、武人として守る時は「聚楽城」、毎日住まう場所としては「聚楽屋敷」。。。

とにもかくにも、秀吉にとって一世一代の建物であった事は確かでしょう。

この後、秀吉は、この12月に「豊臣」の姓を賜って太政大臣に任じられ(12月19日参照>>)、その翌年の天正十五年(1587年)には九州を平定する(4月17日参照>>)事になります。

さらにくわしくは【豊臣秀吉の年表】からどうぞ>>
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2019年2月17日 (日)

信長に降った宇喜多直家VS毛利輝元~作州合戦の始まり

 

天正七年(1579年)2月17日、毛利に反旗を翻して信長に降った宇喜多直家の寺畑城を、毛利輝元が落としました。

・・・・・・・・・・・

戦国時代、長きに渡って中国地方を二分していた山陰の雄=出雲(いずも=島根県東部)尼子(あまこ・あまご)と、山陽の雄=周防(すおう=山口県の東南部)大内(おおうち)

この両家を倒して
厳島の戦い(10月1日参照>>)
月山富田城の開城(11月28日参照>>)
新たなる中国地方の覇者となりつつあったのが安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)でしたが、その東に位置する備中(びっちゅう=岡山県西部)備前(びぜん=岡山県東南部)では、勢いある毛利の支援を受けて領国を拡大しようという者もいれば、敵対して己の領地を守ろうとする者も・・・

というより、それぞれが自らの損得を計算しつつ動き回り、そこに尼子の残党も加わって、「昨日の敵が今日の友⇔今日の味方は明日の敵」な混乱を状態だったわけですが、(2月15日参照>>)

そんな中、毛利に滅ぼされた尼子の残党=山中幸盛(ゆきもり=鹿介)らが、新当主=尼子勝久(かつひさ)をひっさげて旧領回復に勤しみ(1月22日参照>>)、そこに協力する姿勢を見せる但馬(たじま=兵庫県北部)の守護=山名祐豊(やまなすけとよ)らを、「東側からけん制して欲しい」との毛利からの依頼に応えた尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)は、配下の明智光秀(あけちみつひで)細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らに丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)丹後(たんご=京都府北部)を、羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)但馬の平定を命じます。

つまり、最初の段階では、信長は、毛利の要請によって西へと兵を向けたはずだったのですが・・・

やがて、石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)が信長と敵対した事(9月12日参照>>)、また、天正元年(元亀四年=1573年)に、信長によって京都を追われた(7月18日参照>>)足利義昭(あしかがよしあき=第15代室町幕府将軍)が毛利を頼って安芸に身を置く事になった事などから、いわゆる信長包囲網が形成されるに至って、義昭や本願寺に味方する毛利(7月13日参照>>)は信長と敵対する事になります。

そうなると、この両者に挟まれた形となる中国地方東半分(現在の兵庫県&岡山県&鳥取県)あたりの武将は、ここでどう動くのか?自身の身の置き所次第で、この先の運命が決まる状況になって来る・・・お察しの通り、毛利から織田に行く者、逆に織田から毛利に降る者と様々に入り乱れて来る。。。

Ukitanaoie300a そんなこんなの天正三年(1575年)、毛利に敵対する立場をとっていた天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)浦上宗景(うらがみむねかげ)の配下である宇喜多直家(うきたなおいえ)は、今や浦上家内で主人に匹敵する力を持ち始めた事から、独立を画策して毛利と結んで浦上に反旗・・・毛利の配下として兵乱に参戦する中で、天神山城の戦いに勝利して、直家は浦上宗景を追放する事に成功するのです。
●備中兵乱・松山合戦(6月2日参照>>) 

一方、この同じ年の東海では、三河(みかわ=愛知県西部)徳川家康(とくがわいえやす)と組んだ信長が、甲斐(かい=山梨県)武田勝頼(たけだかつより=信玄の息子)長篠設楽原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市)にて撃破し(5月21日参照m>>)、翌・天正四年(1576年)には、あの安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)の築城に着手して、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いを見せ始めます。

なので、はじめは、毛利の要請によって西へと侵攻した秀吉や光秀は、そのまま、今度は毛利配下の武将たちを攻略する軍として進んでいくわけで・・・

天正五年(1577年)10月23日には秀吉が但馬を平定(10月23日参照>>)
6日後の29日には丹波攻略中の明智光秀が籾井城(もみいじょう=兵庫県篠山市)を攻略(10月29日参照>>)
さらに、敵の敵は味方とばかりに、毛利に敵対する尼子残党もチャッカリ織田の傘下となり、続く11月に秀吉が落とした上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)の守備係に抜擢されます(11月29日参照>>)

この上月城は、今まさに織田と毛利の覇権境界線に建つ城・・・当然ながら、すぐに奪回を試みる宇喜多直家は翌・天正六年(1578年)1月に上月城を奪い返しますが、そのわずか2か月後に、またまた秀吉の猛攻に遭い、またまた奪い返されてしましました。(5月14日参照>>)

ただ、この頃の秀吉は播磨(はりま・兵庫県南西部)三木城(兵庫県三木市)の攻略中(3月29日参照>>)でもあり、しかも、その三木城がなかなか落ちなかったため、どうしても上月城の守りは手薄になってしまう・・・

そこで、直家からの救援要請を受けた毛利は、翌4月、元就の後を継いで当主となっていた毛利輝元(もうりてるもと=元就の孫)自らが総大将となって、大軍で以って上月城を包囲・・・

それを受けて、5月には、秀吉が三木城攻防戦の合間を縫って近くまで駆け付け、信長に更なる援軍を要請しますが、例の信長包囲網で東西南北敵だらけの信長からは「三木城に集注…上月からは撤退せよ」との命令・・・やむなく翌6月に秀吉は上月城周辺から兵を退きます。

それからほどない7月9日、上月城は毛利の手に落ちたのです(5月4日参照>>)

ところが・・・実は、この最後の上月城攻防戦には、、弟の宇喜多忠家(ただいえ)を宇喜多軍の大将に据えてはいるものの、直家自らは不参加なのですよ。

そもそもは直家の支援要請に応じて毛利本隊が上月城へと動いたはずなのに・・・です。

実は・・・すでに、この頃には宇喜多直家は織田に寝返る事を考えていたわけで・・・
(正式に宇喜多が織田の傘下となるのは直家の従兄弟で養子の宇喜多基家(もといえ)織田信忠(のぶただ=信長の嫡男)に謁見してた翌年の10月ですが…)(10月30日参照>>) 

当然、毛利も、この直家の動きを察していたわけで・・・

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●↑作州合戦の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

早速、明けて天正七年(1579年)の2月・・・吉川元春(きっかわもとはる=元就の息子で輝元の叔父)自らが3000の兵を率いて出陣し、高田城(たかだじょう=岡山県真庭市・勝山城とも)に本陣を置いて宇喜多配下の諸城へ迫ります。

こうして始まった毛利×宇喜多の作州(さくしゅう=岡山県東北部:美作の別名)合戦・・・まずは、毛利の先鋒を任された草刈重継(くさかりしげつぐ)らが、当時、宇喜多の支配下にあった寺畑城(てらはたじょう=岡山県真庭市久世:大寺畑&小寺畑)へと猛攻を仕掛けます。

この時、寺畑城内にいた内通者が材木庫に火をかけ、そのドサクサで毛利軍を寺畑城内に引き入れたため、城内は大混乱となり、やむなく城主の江原親次(えばらちかつぐ)は寺畑城を捨てて篠向城(ささぶきじょう=岡山県真庭市三崎)へと逃走・・・天正七年(1579年)2月17寺畑城は落城したのです。

勢いづく毛利勢は、そのまま篠向城を落とし、さらに篠向の城兵が敗走した宮山城(みややまじょう=岡山県真庭市高屋)へと迫りますが、ここには、かつてこの周辺に隆盛を誇った美作三浦(みまさかみうら)(1月22日参照>>)の残党が籠っていて「ここに退路は無い」とばかりに命懸けの防戦に加え、毛利勢が城下の民家に風呂を借りに行ってる事を嗅ぎつけた宮山城兵が、その風呂場を襲撃して大混戦となり、多くの攻め手を討ち取った事から、毛利は宮山城を断念・・・ここは、何とか阻みました。

さらに、吉川元春は本陣を移動させて、次に湯山城(ゆやまじょう=真庭市湯原)を攻撃します。

この時には、毛利配下の杉原盛重(すぎはらもりしげ)旭川に3000もの筏を並べて湯山城を攻め立てたと言いますが、激しい反撃に遭い、結局落とせずに撤退しました。

やがて3月上旬から宇喜田勢の反撃が開始されます。

直家率いる2万余騎の軍勢は、またたく間に寺畑城&篠向城を奪回したかと思うと、その勢いのまま枡形城(ますがたじょう=岡山県苫田郡鏡野町)へ向かいますが、堅固なここが落とせないとなると次に岩屋城(いわやじょう=岡山県津山市中北上)へ・・・

そこも、落とすに難しいと判断した直家は矛先を変えて、今度は三宮城(さんのみやじょう=岡山県久米郡美咲町西垪和)へと向かいます。

ここでは激しい銃撃戦が展開されるも、途中から雨が降ったため鉄砲が使えなくなり、宇喜多軍は、急遽、弓矢の攻撃に切り替えますが、遅れをとった三宮城側が対処できず・・・やむなく城将の村上久成(むらかみひさなり)が撃って出たところを組み合いの末に敗れて首を取られる事に・・・

さらに宇喜多配下で荒神山城(こうじんやまじょう=岡山県津山市荒神山)主の花房職秀(はなぶさもとひで)が、吉井川を隔てた向かい側に位置する神楽尾城(かぐらおじょう=岡山県津山市上田邑)夜討ちをかけて落城させました。

加えて、4月には宇喜多配下の新免宗貫(しんめんむねつら)が草刈重継の矢筈城(やはずじょう=岡山県津山市加茂町山下:高山城・草刈城とも)を攻撃させますが、天然の要害である矢筈城は落とす事ができませんでした。

とまぁ・・・勝った負けたが入り乱れるこの作州合戦はこの天正七年(1579年)4月の矢筈城攻防を最後に一旦収まり、この続きは、直家が正式に織田傘下となった翌年3月の辛川崩れ(からかわくずれ)(3月13日参照>>)、さらに同6月の祝山合戦(いわいやまかっせん)(6月15日参照>>)へと持ち越される事になるのですが・・・

その祝山のすぐ後には、10年続いた石山合戦が終結して(8月2日参照>>)毛利が本願寺の加勢をする事もなくなるのですが、

一方で、宇喜多家では直家が病死し、未だ幼い秀家(ひでいえ)が家督を継ぐものの、すでに鳥取城(とっとりじょう=鳥取県鳥取市)まで手中に収めた(10月25日参照>>)秀吉軍の配下に組み込まれつつ、あの本能寺の変(6月2日参照>>) を迎える事になるのです。

ご存知のように、この本能寺の時に、絶賛水攻め中だった備中高松城(たかまつじょう=岡山県岡山市北区高松)での戦いにて、毛利と秀吉が和睦を成立させたために(6月4日参照>>)、これまで毛利VS宇喜多で散々ドンパチやってきた美作周辺のほとんどが宇喜多の物になる事に・・・

これを受けて、最後まで毛利への義理を貫いていた草刈重継も、やむなく難攻不落と言われた矢筈城を明け渡す事になります。。。

ここに美作の戦国が終わるわけですが、その宇喜多VS毛利の最後の戦いとなる境目合戦については8月18日のページでどうぞ>>o(_ _)oペコッ
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2019年2月12日 (火)

賤ヶ岳の前哨戦~長島城の戦い

 

天正十一年(1583年)2月12日、賤ヶ岳の前哨戦となる戦いで、羽柴秀吉が滝川一益の長島城へと迫りました。

・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月2日、本能寺にて織田信長(おだのぶなが)(6月2日参照>>)と、すでに家督を譲られていた嫡男の織田信忠(のぶただ)(11月29日参照>>)が共に亡くなった事を受けて、織田家の後継者は、次男の織田信雄(のぶかつ・のぶお=北畠信雄)か三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)かと思われましたが、その後に開かれた織田重臣たちによる清須会議(きよすかいぎ=清洲会議)にて、亡き信忠の嫡男=三法師(さんほうし=後の織田秀信)後継者に、その後見人に信雄&信孝兄弟が就任する事に決定します(6月27日参照>>)

何度か書かせていただいておりますが・・・
以前は、この会議の決定は、羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が、仇である明智光秀(あけちみつひで)山崎(やまざき=京都府向日市)で討った(6月13日参照>>)事を武器にムリクリで決定したように思われていましたが、近年は至極真っ当な決定であったという考えが主流です。

というのも、すでに他家を継いでいる弟たちより、亡き後継者の嫡子が継ぐのは不思議では無いですし、その幼さをカバーするために信雄と信孝の二人が後見人となったうえに、山崎の合戦のドサクサで燃えてしまった安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)(6月15日参照>>)を修復する間は、信孝が自身の居城である岐阜城(きふじょう=岐阜県岐阜市)三法師を預かる事になったのですから、むしろ秀吉は、信孝を後継者に推していた先輩=柴田勝家(しばたかついえ)に華を持たせた感すらあります。

なんせ、他家を継いでてもOKなら、秀吉は、すでに自分の養子になってる「四男の秀勝(ひでかつ)にだって権利ある」って、力で推し通す事もできたかも知れませんからね。

まぁ、領地配分は、秀吉が京都に近いえぇトコを分捕ってますが、もともとそこは敗者=光秀の領地だった場所が主ですので、山崎での功績を考えれば当然のようにも思います。

ただ・・・この後、少々ギクシャクし始めます。

なんせ信孝は、城の修復が終わったら安土に戻す約束の三法師を、いつまでも手放そうとしないばかりか、自分の味方の勝家とお市(いち)の方(信長の妹もしくは姪)の結婚を勝手に決めて、秀吉を排除すべく岐阜城に籠ったのです。

まぁ、一方の秀吉も亡き信長の葬儀を京都で盛大に行って(10月15日参照>>)後継者になりたい感を思いっきり出しちゃってますが・・・

この一触即発の険悪ムードに、勝家は自身の与力である前田利家(まえだとしいえ)不破勝光(ふわかつみつ=不破直光とも)金森長近(かなもりながちか)の3人を秀吉のもとに派遣して和議に当たらせますが、これを「雪深い北陸の冬に合戦をしたくないがための時間稼ぎ」と見抜いた秀吉は、12月、池田恒興(いけだつねおき)筒井順慶(つついじゅんけい)細川忠興(ほそかわただおき)ら5万の軍勢とともに近江(おうみ=滋賀県)に入り、勝家領地の最前線である長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を包囲・・・城主の柴田勝豊(かつとよ=実際には勝家の姉の子)は12月15日、降伏を表明します(12月11日参照>>)

Sizugatakezensyounagasimazyou2 ●←賤ヶ岳前哨戦
 長浜城の戦いの位置関係図

クリックで大きく(背景地理院地図>>)

この勢いのまま秀吉は岐阜へと兵を向けますが、未だあの本能寺から半年余り・・・さすがに秀吉も、亡き殿様の息子をモロ攻撃しては、他の織田家臣の手前マズイと思ったか?岐阜城を、いつでも攻撃できる布陣で包囲はしたものの、実際に攻撃を仕掛ける事はありませんでした。

一方、籠城する信孝は、こういう場合、稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)(6月8日参照>>)氏家直昌(うじいえなおまさ=卜全の息子)など美濃(みの=岐阜県南部)の国人衆は、皆、自分の味方になってくれる物と踏んでいましたが、稲葉&氏家両者をはじめ多くの者が、すでに秀吉に懐柔されていてアテが外れてしまいます。

なんせ、この時、秀吉は自分ではなく、織田信雄の名前を前面に出して諸将を懐柔しており、名前を出された信雄も、織田家後継者になる気満々の雰囲気を醸し出してますので、あくまで「信雄VS信孝の…」というテイで事を進めていたのでしょう。

なので信孝としては、囲まれた→周辺に味方はいない→北陸の勝家は雪のため援軍は出せない・・・で、この状況を知った伊勢(いせ=三重県南東部)滝川一益(たきがわかずます←彼は信孝の味方です)「ここは一旦和睦して春を待ちなはれ~」と進言し、信孝は、その一益の忠告を聞いて、問題の三法師はもちろん、自らの母や妻子を秀吉のもとに引き渡すとして和睦を交渉。

秀吉も、その申し出を呑む形で三法師らを安土に送り、12月29日に岐阜城の包囲を解いて京都へと戻りました。

しかし、このしばしの休息の間に、一益は、秀吉側についていた峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)(3月3日参照>>)国府城(こうじょう=三重県鈴鹿市国府町)などを相次いで攻略して、伊勢における守備を固め、来るべき秀吉軍に備えるのです。

それを受けて、天正十一年(1583年)2月12日秀吉軍が3方から北伊勢に侵出し、一益に奪われた支城を囲むと同時に、秀吉自らが3万余騎を率いて一益が拠る長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)へと迫ったのです。
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秀吉の動向を知った一益は、先手を取って各要所に人員を配置し、様々な予防線を張って、その進路を妨害しようとしますが、大軍によって破られ、やむなく、自らが兵を率いて城外へ撃って出ますが、それもかなり押し戻されて城の外構え近くまで攻め入られてしまい、さらに城下に放たれた火によって、民家も寺社も、ことごとく焼き尽くされてしまいます。

その後、秀吉は一旦、桑名(くわな)から数里(約20km)ほど離れた場所に陣を移動させますが、そこでは夜に大きなかがり火を焚いて、滝川勢の夜討ちに備え、沢山の柵も設けました。

そう、実は一益は夜討ちを得意とした武将だったのですが、残念ながら、これまで同じ織田配下の同士であった秀吉は、その事も重々承知・・・「多勢のコチラに対して無勢の一益なら夜討ちしかない」と感づいていたのです。

この毎夜のかがり火に、「夜討ちは見抜かれている」と察した一益は、作戦を変更し、人数の少ない徒歩(かち)組の鉄砲隊を組織してゲリラ戦を展開する事に・・・

3月某日、秀吉軍の先鋒を務めていた中村一氏(ながむらかずうじ)隊が、鉄砲を所持した隊を組織していなかったところを狙われたか?この一益の徒歩組に散々に打ち負かされ、秀吉軍は大打撃を受けてしまいます。

その後も、長島城攻略においては大軍を擁したワリには大きな成果が得られないまま、しばらくの膠着状態が続きます。

他の城も・・・
国府城はほどなく開城されますが、亀山城&峯城にはなかなかの苦戦・・・3月3日、ようやく亀山城を落としますが、その6日後の3月9日、春を待っていた柴田勝家が居城の北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)を出陣。。。

この勝家の動きを知った秀吉は、一旦、近江へと戻り、柴田軍と睨み合う形となりますが(3月11日参照>>)、その間に、岐阜城の信孝が挙兵し、伊勢の滝川一益も巻き返しの大暴れ・・・

北ノ庄(福井県)→岐阜城(岐阜県)→長島城(三重県)
このラインが一つにつながって連携してしまっては、ちとヤバイ!

とばかりに、秀吉は再び岐阜へと向かうのですが、これをチャンスと見た勝家が仕掛け、そこに秀吉の大返しが・・・と、ご存知の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いとなるわけです。

関連ページ
【賤ヶ岳前哨戦~亀山城の戦い】>>
【決戦開始!賤ヶ岳…美濃の大返し】>>
【決着!賤ヶ岳…佐久間盛政の奮戦】>>
【9人いるのに「賤ヶ岳の七本槍」】>>
【前田利家の戦線離脱】>>
【北ノ庄城・炎上前夜】>>
【柴田勝家とお市の方の最期】>>
【織田信孝の自刃】>>
【「鬼玄蕃」佐久間盛政の処刑】>>
【福井・九十九橋の怨霊伝説】>>
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2019年2月 8日 (金)

「真実」を貫いた交渉の達人…北条氏規

 

慶長五年(1600年)2月8日、北条氏康の息子で小田原征伐から生き残った北条氏規が、この世を去りました。

・・・・・・・・・・・

天文十四年(1545年)に、相模(さがみ=神奈川県)を制する北条(ほうじょう=鎌倉時代の北条と区別して後北条とも)の第3代当主=北条氏康(ほうじょう じやす)の四男として生まれた北条氏規(うじのり)は、幼い頃に駿河(するが=静岡県東部)今川(いまがわ)に、人質として送られたと言います。

もともと、今川家内での後継者争いの時に、北条初代の北条早雲(そううん)こと伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき)が、自らの姉(もしくは妹)が嫁いでいた縁から、その息子の今川氏親(うじちか)を支援して第9代当主に据える事に成功し、その後も家臣として補佐(6月21日の前半部分参照>>)した事から、本来、北条と今川の関係は良かったはずだったのですが、

ご存知のように、その後の早雲が、堀越公方(ほりごえくぼう)から伊豆(いず)を奪い(10月11日参照>>)小田原城(おだわらじょう)を奪取し(2月16日参照>>)、さらに立河原(たちがわら=東京都立川市)の戦い(9月27日参照>>)から相模制覇(7月13日参照>>)へと、どんどん関東に侵出していき、これが、今川との亀裂を生じさせてしまうのです。

なんせ、自力で奪い取った以上、その場所は、当然、北条自身が支配する事になる・・・つまり、一応、今川の配下という立場を取りながらも、実質支配している領地が増えていくわけです。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

そんな北条は、公方(古河公方&小弓公方=室町幕府政権下での公式関東支配者)関東管領(かんとうかんれい=公方の補佐役)両上杉家(扇谷上杉&山内上杉)などの旧来の関東支配者から見ると、いわゆる「成り上がりのヨソ者」ように感じるわけで・・・

そんな中、早雲が没して第2代当主の北条氏綱(うじつな=早雲の息子)の時代に入ると、敵の敵は味方とばかりに、それまで敵対していた両上杉家は和睦し、そこに公方らも加わり、さらに甲斐(かい=山梨県)武田信虎(たけだのぶとら)安房(あわ=千葉南部)里見(さとみ)も味方につけ、まるで北条包囲網のような物が形成されていくのですが、

そんなこんなの天文六年(1537年)、後継者争いに打ち勝って(6月10日参照>>)、亡き先代=氏親の後を継いだ今川義元(よしもと)が、北条包囲網の一翼である武田信虎の娘を娶って同盟を結んだ事から、氏綱は今川と完全に決別し、逆に、公方同士でモメはじめた小弓公方(おゆみくぼう)を倒して、古河公方(こがくぼう)足利晴氏(あしかがはるうじ)に接近・・・娘を嫁がせて、足利の身内となったばかりか、晴氏から関東管領職に任じられ『伊佐早文書』に依る)、両上杉をよそに、もはや「関東を支配してもイイヨ権」を獲得したような状態になっていくわけで(11月28日参照>>)

さらにノリノリの北条は駿河へと侵攻し、北条と今川の間には世に河東一乱(かとういちらん)と呼ばれる戦いが展開されますが、間もなく、北条&武田&今川には三者三様の転換期が訪れるのです。

北条では、氏綱の後を継いだ北条氏康(うじやす)が戦国三大奇襲の一つに数えられる川越(かわごえ=埼玉県川越市)夜戦を成功させて(4月20日参照>>)、公方や上杉を壊滅状態に追い込み(天文十五年=1546年)

武田家では信虎の嫡子=武田信玄(たけだしんげん=当時は晴信)による父の追放劇(6月14日参照>>)政権交代(天文十年=1541年)して方針転換・・・新当主の信玄の目は駿河&関東ではなく隣国=信濃(しなの=長野県)→北東方面へと向く事に(6月24日参照>>)・・・

さらに今川でも、支援を望む三河(みかわ=愛知県東部)松平広忠(まつだいらひろただ=徳徳川家康の父)との関係から、三河の向こうにある尾張(おわり=愛知県西部)織田信秀(のぶひで=信長の父)との対立が激しくなり(3月6日参照>>)、どっちかと言うとそっちに集注したい義元としては、自身の後方と側面にあたる甲斐や関東とはモメたくないわけで・・・

で、天文二十三年(1554年)、北条&今川&武田による甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)が結ばれるわけですが、ご存知のように、その同盟の証となるのが、三者それぞれの息子と娘による婚姻・・・
武田義信(よしのぶ=信玄の息子)×嶺松院(れいしょういん=義元の娘)
北条氏政(うじまさ=氏康の息子)×黄梅院(おうばいいん=信玄の娘)
今川氏真(うじざね=義元の息子)×早川殿(はやかわどの=氏康の娘)

以前、「偶然にも、この時のそれぞれの息子たちが全員同い歳」てな事を書かせていただきましたが、息子は同じ歳でも、娘はそうでは無かったようで・・・北条の早川殿の生年が不明なので確実な事は言えないのですが、どうやら、この同盟の話が出た時点での早川殿は、未だ結婚できるような年齢では無かったようなのです。

上記の天文二十三年(1554年)という年号は、最後までお預けだった氏真と早川殿の婚姻が行われた事によって「正式に同盟が締結された」年でありますが、当然、同盟がその日一日で成る事はないわけで・・・現に、他の2組は、前年や前々年に正式に婚姻してます。

つまり、同盟の話が出始めた段階では、未だ婚姻の年齢に達していなかった早川殿の代わりに北条氏規は今川へと送られた・・・という事のようです。
(書いてるうちに、ものすご~く長い前置きになってしまって申し訳ないデスm(_ _)m)

なんせ、この氏規でさえ、天文二十三年(1554年)なら9歳か10歳くらいですから、その妹である早川殿で、しかも同盟の話が出始めたであろう3~4年前なら、かなり幼いですので、その話もアリかな?と思います。

とは言え、早川殿が今川に嫁に行き、正式に同盟が成された後も、氏規は、しばらくの間は駿河に留まっていたようですが、ご存知のように、この頃には、あの徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平竹千代→元信)も、今川にて人質生活を送っており(2月5日参照>>)、2歳違いで同じ人質という境遇の二人ですから、おそらくは互いを知る間柄であった事でしょう。

そんな中、永禄五年(1562年)もしくは永禄六年(1563年)に北条家に戻ったとおぼしき氏規は、韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆の国市)館林城(たてばやしじょう=群馬県館林市安房)の城主を歴任しつつ、安房の里見や上総(かずさ=千葉県中部)武田(たけだ)との戦いで功を挙げる武勇の持主でありましたが、何と言っても、特筆すべきは、他国との交渉術・・・

永禄十二年(1569年)の上杉謙信(うえすぎけんしん)との越相同盟(えつそうどうめい)(上杉景虎のページ参照>>)やら、天正四年(1576年)の足利義昭(よしあき=第15代室町幕府将軍)との交渉やら、天正五年(1577年)の武田勝頼(かつより=信玄の息子)との甲相同盟(こうそうどうめい)強化(北条夫人のページ参照>>)やら、天正十年(1582年)の信長横死直後の天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)(10月29日参照>>)でも・・・とにもかくにも、こういった同盟や和睦交渉の舞台に、氏規は頻繁に登場して来ます。

そんな氏規の一世一代の交渉となったのが天正十八年(1590年)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)による、あの小田原征伐(おだわらせいばつ)の時です。

信長亡き後のこの数年・・・賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦い(4月21日参照>>)に勝利して織田家内の主導権を握った秀吉は、小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦い(11月15日参照>>)織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)を丸め込んで家康を黙らせた後、紀州(きしゅう=和歌山県)(3月28日参照>>)四国(7月25日参照>>)北陸飛騨(8月6日参照>>)九州(4月17日参照>>)次々に平定し、天正十四年(1586年)には太政大臣に任命されて豊臣の姓を賜る(12月19日参照>>)という快挙を成し遂げ、北野大茶会を開く(10月1日参照>>)わ、自身の豪邸=聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)後陽成天皇(ごようぜいてんのう=第107代)を招く(4月14日参照>>)わ、もはや、ほぼほほ天下人だったわけですが、その秀吉にとって未だ手つかずの場所だったのが、関東の北条と、その向こうにある東北一帯(←ただし越後を除く…上杉景勝(かげかつ=謙信の養子)は天正十四年に上洛して臣従…6月15日参照>>だったのです。

ただし、そんな北条も、いち時は秀吉の傘下となるそぶりを見せていた事で、あの天正壬午の乱以来、徳川と北条の境界線あたりで、どちらにも属さぬ独立を模索していた元武田の家臣=真田昌幸(さなだまさゆき)とのゴタゴタ(8月2日参照>>)では、秀吉が彼らの間に入って話を収める一幕もあった事はあったのですが、

一方で、かの後陽成天皇の聚楽第行幸の際に、傘下の武将はもちろん東国の武将までもが使者を派遣したにも関わらず、北条が完全スルーして未だに支配地域の拡大姿勢を見せていた事に、秀吉は少々カチンと来ていたようで・・・

そこで、天正十六年(1588年)には、その弁明のために氏規が上洛して秀吉に謁見・・・今年中には前当主の氏政(すでに当主の座は氏直に譲るも実権は握っていた)を上洛させるので…との約束を交わし、何とか、このきな臭い雰囲気を払拭しようとしていたのです。

しかし、そんな氏規の思いは、喧嘩上等イケイケ満杯の兄ちゃんたち=氏政&北条氏照(うじてる=氏康の三男)らには届かなかったようで、結果的にその約束は果たされる事はありませんでした。

そんなこんなの天正十七年(1589年)、北条が真田の名胡桃城(なぐるみじょう=群馬県利根郡)を奪取する(10月23日参照>>)という出来事が起こります。

戦国の世を終わらせるべく、秀吉は、有名な太閤検地(たいこうけんち)刀狩り令(7月8日参照>>)とともに、すでに天正十四年の11月4日付けで『関東惣無事令』を、翌・天正十五年の12月3日付けで『奥両国惣無事令』を発布しています。

この『惣無事令(そうぶじれい)というのは、「これまで、戦国の世のおいて武力で以って行われていた領地の奪い合いなど、大名の私的な争いを禁止する」という事で、秀吉が関白の権限で以って行った、まさに、天下統一の証とも言える命令だったわけですが、今回の北条の行為は、完全に違反しているわけで・・・

かくして天正十七年(1589年)11月24日、秀吉は当主=北条氏直宛てに、宣戦布告状を送り、小田原征伐が開始されるのです(11月24日参照>>)

聚楽第での軍議を経て(12月10日参照>>)迫りくる豊臣軍・・・迎え撃つ北条でも、何度も軍議が開かれますが、これが小田原評定(おだわらひょうじょう)=後に長いワリには何も決まらない会議の例えにされるような軍議だったわけで・・・

結局、天正十八年(1590年)の4月に20万の大軍に完全包囲(4月3日参照>>)された小田原城は、3ヶ月後の7月5日、北条の降伏によって開城される事になるのです(7月5日参照>>)

この間には、あの『のぼうの城』のモデルとなった忍城(おしじょう)(6月16日参照>>)や、最も悲惨な八王子城(はちおうじじょう)(6月23日参照>>)、秀吉の巧みさが見える石垣山(いしがきやま)一夜城(6月26日参照>>)・・・など、様々な場面があるのですが、一つ一つは【北条五代の年表】>>(最後のの氏直のところ)から見ていただくとして、

この開城のページにも書かせていただいたように、この小田原城が開城に至った背景には、6月26日の韮山城の開城が大きく影響しているのです。

そう、この時に韮山城の城主だったのが氏規さんで、その説得をしたのが家康・・・今川にて同じ境遇で育った二人が、ここで話し合い、氏規は落城して開城するのではなく、方針転換による開城をしたのでした。

そして氏規は、そのまま小田原城へと入って、未だヤル気満々だった兄たちを説得し、ようやく7月5日の開城となったのです。

もちろん、この後の北条家への処分に関しても、彼はその交渉術を発揮したかも知れません。

なんせ、「自分が切腹する代わりに城兵の命は助けてやってくれ」と願った当主=氏直は高野山への追放に留まり、イケイケだった氏政と氏照の切腹で以って幕が閉じられるのですから・・・(氏直の正室が家康の娘=督姫(とくひめ)だった事も影響していると言われますが)

一族のうちの多くが命断たれる中、その交渉術で、見事、北条宗家の血脈を残した氏規・・・残念ながら、氏直はほどなく病死しますが、氏直とともに高野山に送られていた氏規自身は、その後、秀吉の配下として狭山(さやま=大阪府狭山市)6980石を与えられて生き残り、慶長五年(1600年)2月8日56歳の生涯を閉じます。

その少し前、氏直の死を受けて池田輝政(いけだてるまさ)と再婚する事になった督姫が、氏直の肩身の品だったお守りを、「あなたこそ北条を継ぐ人」とばかりに氏規に渡しにに来るエピソード(11月4日参照>>)は戦国の世に咲く一輪の花のように美しい~ヽ(´▽`)/

Ujinorisyuin ところで、この北条家は、それぞれの武将が、それぞれ特殊な印文が書かれている印判を使用していましたが、今回の氏規さんが用いていたのは『真実』と書かれた印判。
(印判画像は神奈川県立歴史博物館>>様から引用させていただきました→)

その神奈川県立歴史博物館>>(別窓で開きます)によれば、氏規は、高野山へ追放になって以降、この印判を使用するのを止めた?ようなのだとか・・・何か思う所があったのでしょうか?

ひょっとして・・・
その若き頃、真実を胸に秘めて戦場を駆け回り、敵陣に乗り込んで交渉を重ねて来た氏規は、小田原落城で一族を見送り、戦国の終わりを見、血気盛んな武将の心を封印して、北条を残す事、北条を守る事に徹する決意を固めた・・・という事なのかも知れません。
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2019年2月 3日 (日)

「る」で始まる日本史の歴史人物~マジで0人説!を検証

 

以前、とある質問サイトで
「いろいろ調べているのですが…どなたか、『ろ』で始まる歴史人物をご存じの方いらっしゃいますか?」
と・・・

この質問に回答される方々には、世界史の歴史人物の名を挙げる方はおられましたが、日本史の歴史人物に関してはトント挙がらず・・・
「いないね~」
と困惑気味でした。

歴史好きのハシクレとしては
「いやいや、六角承禎(じょうてい・義賢)以下、六角氏の方々がおるで~」
と思いましたが、

ふと、その時に、
『ろ』より『る』の方がヤバイんちゃうん?」
と思って、現段階で1538名が登場している我がブログの歴史人物索引(目次)>> を見返したところ・・・

案の定、『る』>>の項目にあるのはルイス・フロイスただ一人・・・
「外国人ですやん!」

しかも、「ルイス」が名前で「フロイス」が苗字なら本来は「ふ」やからね。。。
(ちなみに確かに『ろ』>>『ぬ』>>も、非常にヤバイです(@Д@;)

で・・
「これは、本当に、『る』から始まる日本の歴史人物は、マジで0人なんじゃないか?と思い、私なりに検証してみる事に・・・

・‥…━━━☆

とは言え、その人が歴史人物かどうかの線引きは難しい・・・

先のフロイスだって、日本史の歴史人物である事は確か・・・だけど、検証する以上は、やはり日本人の歴史人物であってほしい(←個人的なこだわりですが…)

また、有名or無名の度合いも難しい・・・

現実として今、「る」で始まる苗字の人がいらっしゃる限り、その方々のご先祖様は昔々に確実に生きていらっしゃったわけで、ご子孫の方々からみればご先祖様の事は周知の歴史・・・また、長い日本の歴史ですから、地域限定の有名な歴史人物もいるわけで・・・

先の六角氏だって、
近江(おうみ=滋賀県)の覇者なので、近畿に住む私はたまたま知ってるけど、関東以北にお住まいなら、たまたま知らない方も多いかも知れません。

そんな私も、未だ知らない歴史人物は山ほどいるわけで・・・

かと言って「歴史にまったく興味が無い人」「老若男女の誰もが」知ってる歴史的有名人となると織田信長(おだのぶなが)豊臣秀吉(とよとみひでよし)徳川家康(とくがわいえやす)の戦国三英傑と・・・あとは聖徳太子(しょうとくたいし)坂本龍馬(さかもとりょうま)?とか・・・かなり限定されてしまう可能性も無きにしも非ず???・・・

で、色々と思案した結果・・・
やはり「歴史人物」という限りは、
『物語』や『史料』&『逸話集』的な物に登場する方、
あるいは現在の『人物辞典』等で引けば出て来る方、
あるいは、大河等の時代劇で有名な役者さんが演じた方、
みたいな(独断的ではありますが)「条件」を設けて調べてみる事にしました。

まずは、いつも参考にさせていただいている自分の手元にある『日本逸話大事典』(人物往来社)・・・

なんと、2万人の歴史逸話を収録している(帯に書いてある…数えた事無いけど)この事典でも、人物索引の『る』の項目に載ってるのは呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)ただ一人・・・

確かに、このブログには、堺の町を旅した時に「その邸宅に行った」(2010年5月21日参照>>)程度の事しか書いてないのでブログの人物索引には入れて無いですが、けっこう有名な歴史人物である事は確か・・・大河の主役にもなってますしね。

ただし、これはOKなのか?

だって、呂宋助左衛門の本名は納屋助左衛門(なやすけざえもん)で、フィリピンルソン島で大儲けして豪商と呼ばれるようになった事からルソン助左衛門なわけで、通称というか~言わばニックネームのような物?しかも、その出どころは外国の地名・・・

もちろん、この通称自体が有名というか本名より知れ渡ってる感じなので、これでOKっちゃぁOKなのですが、できれば、本名で「る」から始まる方、あるいは通称でも、その由来が日本にある方を見つけたい・・・

と、色々考えを巡らせているうちに、ここらあたりでハタと気づきました~てか、思い出した~(A;´・ω・)アセアセ

実は、我がブログに、すでに・・・
人物索引には入れてないものの、記事の中に登場している方がいるんです!

関ヶ原と同時進行で起こった長谷堂の戦いで、上杉景勝(うえすぎかげかつ)配下の直江兼続(なおえかねつぐ)に攻められて苦戦中の長谷堂城(はせどうじょう=山形県山形市長谷堂)を救うべく、最上義光(もがみよしあき)伊達政宗(だてまさむね)に援軍を要請した時に、その命を受けて駆けつけたのが留守政景(るすまさかげ)(9月16日参照>>)

いてました~「る」ではじまる人物!

Rusumasakage500a 念のため、手持ちの『戦国人名事典』(人物往来社)を見てみると、上記の政景さんのほかにも、留守顕宗(るすあきむね)留守景宗(るすかげむね)留守郡宗(るすくにむね)留守一族が登場します。

この全員が伊達家の一門で配下・・・こんだけ伊達家とはただならぬご縁なのですから、本来、伊達政宗のファンの皆様にとっては、知ってて当たり前だし、即座に名前の挙がる人物だったんですね~(゚ー゚; マジで失礼しました

って事は大河にも???
と確認してみたところ、昭和六十二年(1987年)の「独眼竜政宗(どくがんりゅうまさむね)(主演は渡辺謙さん)で、長塚京三(ながつかきょうぞう)さんが演じておられる・・・これは、もう、立派に有名歴史人物ですがな!

・・・て事で、今回は~
「説、立証ならず~~~」でありました。
(歴史好きとしては「ならず」の方がウレシイ( ̄ー ̄)ニヤリ)

ちなみに、その留守政景さんがお亡くなりになったのが慶長十二年(1607年)2月3日・・・そう、本日は没後412年めのご命日という事で、実は、今回は「今日は何の日?」関連のページでもあるわけです。

・‥…━━━☆

で、その留守氏のルーツを尋ねると・・・

そもそもは、藤原北家の流れを汲む鎌倉幕府の御家人=伊沢家景(いさわいえかげ)が、建久元年(1190年)に陸奥(むつ=青森県・岩手県・宮城県・福島県・秋田県北東部)留守職に任ぜられて赴任した際に「留守」と名乗ったのが始まりだとか・・・(諸説あり)

以来、多賀城(たがじょう=宮城県多賀城市)を拠点に、陸奥一帯の地頭を統括する立場を代々世襲して勢力を拡大しつつ南北朝時代を乗り切ったようですが、大永年間(1521年~1527年)の第12代=留守詮家(あきいえ)の時代に、その詮家亡き後の後継者を巡ってお家騒動が勃発し、結果的に勝利して第13代当主となる留守持家(もちいえ)が、その家督争いの過程で伊達持宗(だてもちむね)を頼った事から、その後は伊達からの介入を受ける事になります。

なんせ、この頃の持宗は、室町幕府に反発した鎌倉公方=足利持氏(あしかがもちうじ)に敵対して永享の乱(えいきょうのらん)(2月10日参照>>)でも武功を挙げてノリノリの状態でしたから・・・

結局、持家は、持宗の息子=郡宗を養子に迎えざるを得なくなり、この郡宗が第14代当主の座につき、ここからは、留守氏のバックには必ず伊達がいるという構造に・・・

Rusudatekeizu_2 (伊達家&留守家の略系図→)

以後、伊達13代の伊達尚宗(ひさむね=持宗の孫)の次男の景宗が、郡宗の娘と結婚して婿養子として16代めの留守当主に。

その息子の17代の留守顕宗を経て、永禄十年(1567年)には伊達14代の伊達晴宗(はるむね)の三男=政景を養子に迎えて留守18代の留守政景と・・・

この晴宗の次男が伊達15代の輝宗(てるむね)なので、留守政景と独眼竜政宗は叔父と甥の関係になるわけですね。

もちろん、この間にも内戦&外戦イロイロあって・・・だからこそ、何度も伊達から養子に入るなんて事になってるわけですが、それらの事は、また、いずれ書かせていただくとして・・・

そんな中、この政景の代にあった、例の伊達政宗の小田原参陣大遅刻の一件(6月5日参照>>)で、留守氏の本領を秀吉に没収されてしまったため、ここからは伊達一門&伊達政宗の家臣という扱いになり、さらに文禄元年(1593年)には伊達姓を拝領・・・

その後、この政景の長男である宗利(むねとし)が、寛永八年(1631年)に水沢城(みずさわじょう=岩手県奥州市水沢)主となった事から、この家系は水沢伊達氏と呼ばれる事に・・・つまり宗利さんは、留守宗利というよりは伊達宗利。

こうして江戸時代を通じて、元留守様は伊達と名乗っておられたようですが、明治の世になってから、ご子孫の方が「留守」に複姓され、今では再び留守の苗字に戻っておられるとの事・・・

ちなみに、大人気のお笑い=サンドウィッチマン伊達ちゃんは、伊達から婿養子に入った留守16代の景宗の三男=宗安(むねやす)のご子孫で、コチラは江戸を通じて大條(おおえだ)と名乗っておられたのを、明治の世になって「伊達」に戻されたようです。

長き江戸時代を経て、新しい世となり、伊達からもともとの留守に複姓された方、逆に伊達に戻された方・・・どちらの方々も、それぞれが持ち続けておられたご先祖様への篤い思いと誇りを感じますね。

・‥…━━━☆

て事で、とりあえずは「説、立証ならず」となりましたが、おそらく、他にも「る」のつく方はおられるはず・・・これからも、どんどん発掘するゾ~~

「ぬ」「ろ」も頑張ろう!
あと、「ね」>>「へ」>>もね~~

ちなみに、伊達政宗の頃は「伊達」を「いだて」と発音してた(ローマ教皇に宛た手紙に「Idate Masamune」の署名がある)らしいので「留守」さんも「るす」と発音してない可能性もゼロではありませんが、今回は、そこンとこは棚の上でお願いします(人><。)

ちなみのちなみに、我がブログの歴史人物索引『る』>>の項目のところには即座に留守様を追加させていただいときますψ(`∇´)ψ
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