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2019年3月24日 (日)

景勝、初の富山侵攻~上杉VS織田の小出城の戦い

 

天正九年(1581年)3月24日、謙信の後を継いだ上杉景勝による織田信長配下の小出城攻めが終結しました。

・・・・・・・・・・・・

戦国時代の越中(えっちゅう=富山県)・・・

そもそもは、室町幕府政権下での越中の守護(しゅご=今で言う県知事)だった(はたけやま)が、かの応仁の乱の火種ともなった後継者争い(1月17日参照>>)に忙しくて畿内の領地を離れる事ができなかったため、越中の事は守護代(しゅごだい=副知事)だった遊佐(ゆさ)神保(じんぼう)椎名(しいな)といった面々らが、ほぼほぼ仕切っていたわけですが、やがて起こった加賀一向一揆(かがいっこういっき)(6月9日参照>>)の勢力が隣国の越中にまで伸びて来た事で、当時の守護だった畠山尚順(はたけやまひさのぶ)が隣国の守護である越後(えちご=新潟県)守護の上杉房能(うえすぎふさよし)越前(えちぜん=福井県東部)守護の朝倉貞景(あさくらさだかげ)らに越中の救援を依頼し、それを受けて越中平定に派遣されて来たのが越後守護代の長尾能景(ながおよしかげ)=あの上杉謙信(うえすぎけんしん)のジッチャン・・・(9月19日参照>>)

そんな謙信は、天文二十二年(1553年)から始まった甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)との一連の川中島(かわなかじま)(9月1日参照>>)のさ中にも、永禄二年(1559年)に関東管領(かんとうかんれい=室町幕府政権下での関東支配者)並みの格式を得た(6月26日参照>>)時でも、おそらくジッチャンや父ちゃんの悲願であった越中平定の事は頭にあったはず・・・

すでにこの頃の越中は、神通川(じんつうがわ)の西に勢力を持つ神保長職(じんぼうながもと)と東の椎名康胤(しいなやすたね)との2大勢力の時代となっていましたが、その川中島に謙信の目が向いているのを絶好のチャンスと見た長職が勢力拡大を図って康胤の松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)を攻める勢力争いは、神保を支援する武田と椎名を支援する上杉の代理戦争のようにもなっていたわけで・・・(3月30日参照>>)

その抗争は支援する側される側が入れ替わりながらもしばらく続きますが、
●永禄十一年(1568年)松倉城攻防戦>>
●元亀三年(1572年)日宮城攻防戦>>
こうして謙信と信玄がドンパチやってる間に登場して来るのが、永禄十一年(1568年)に第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛(9月7日参照>>)を果たした尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)・・・

ここで、かの信玄が完全に今川潰しにシフトチェンジ(12月12日参照>>)した事もあって、川中島に終止符を打った謙信は越中へと侵攻するのです(3月17日参照>>)

そこに反対側から忍び寄って来るのが、越前一向一揆を制して(8月12日参照>>)加賀(かが=石川県西部)へと触手を伸ばし始めた信長・・・

そんな中、敵の敵は味方とばかりに一向一揆の教祖様=石山本願寺顕如(けんにょ)と和睦した(5月15日参照>>)謙信の戦いの相手は、これまでの一向一揆から、コチラも完全に織田へとチェンジ・・・「これ以上、信長を北上させるものか!」とばかりに、
●天正四年(1576年)8月:飛騨侵攻>>
●天正五年(1577年)9月:七尾城>>
その5日後には信長配下の柴田勝家(しばたかついえ)との手取川(9月13日参照>>)となるのですが、ご存知のように、その翌年の春の出兵の前に、謙信は亡くなってしまうのです(3月13日参照>>)

しかも、ここで、謙信の後継者を巡って養子同士の争いが勃発(2007年3月17日参照>>)した事から、上杉家では越中どころではなくなり、この間、大きな戦いも無いままに織田勢に越中の奥深くまで入られてしまいました(10月4日参照>>)

天正七年(1579年)3月、なんとかライバルの上杉景虎(かげとら)を死に追いやって(2010年3月17日参照>>)上杉を継いだ上杉景勝(かげかつ)は、そのお家騒動のさ中に黄金で以って味方につけた武田勝頼(かつより=信玄の四男)を後ろ盾に、加賀・能登・越中の一向一揆の残党を取り込んで織田への逆襲の機会を狙います。

一方の信長は、この天正八年(1580年)に金沢御坊(かなざわごぼう=石川県金沢市・加賀一向一揆の拠点)を陥落(3月9日参照>>)させ、本拠の石山本願寺との戦いも終わらせて(8月2日参照>>)、事実上、一向一揆は解散状態だったわけですが、当然の事ながら、おおもとが「終わり~」と言ったからとて、まだまだヤル気満々の宗徒は大勢いるわけで、すぐに一揆の衆がいなくなる事は無いですから・・・

この時、織田側の越中最前線にいたのは小出城(こいでじょう=富山県富山市水橋)を守る神保長住(ながずみ=長職の息子)・・・しかし、さすがに、ここだけで上杉の侵攻を阻むのはムリがあろうというもの・・・

そこで信長は、守備強化を図るべく佐々成政(さっさなりまさ)を越中に派遣します。

成政は、かつて越前の朝倉を倒した際(8月6日参照>>)に織田の北陸担当として北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)を与えられた柴田勝家の与力として北陸に配置された前田利家(まえだとしいえ)不破光治(ふわみつはる)とともに「府中三人衆」と呼ばれて小丸城(福井県越前市)を守り、信長の信頼を得ていた剛の者。

「まことに心強い!」
と長住も歓迎する中、富山城(とやまじょう=富山県富山市)に入った成政は、神通川を天然の堀とし、その支流を城の東側まで延長し、さらに土塁や櫓を要所々々に配置するなど、1年ほどかけて富山城を整備し、上杉の来襲に備えたと言います(現在の富山城より数段大きかったらしい)

そんなこんなの天正九年(1581年)、信長にとっての一大イベントが京都にて開催されます。

ご存知、天正九年(1581年)2月28日の御馬揃え(おうまぞろえ)です(2月28日参照>>)

さすがの一大イベントですから、もちろん柴田勝家以下、北陸の面々は越前衆として、これに参加・・・これを見逃さなかったのが、謙信の時代から越後の最前線=魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)を任され、現在は松倉城を居城とする河田長親(かわだながちか)

『信長公記』によれば、
3月6日に挙兵した長親は、越後から上杉景勝の軍を招き入れるとともに一向一揆の残党たちを引き連れて、3月9日に小出城を包囲し、即座に攻撃にかかったとか・・・

一方、留守となっている小出城を守るのは成政配下の久世但馬(くぜたじま)。。。

自らの城兵の10倍を超える敵を目の当たりにした小出城ではありますが、この城は平城とは言え、少し丘になった部分に構築されており、しかも「浮かぶ陸の孤島」と称されるほど、周囲が沼地となった要害の中にありました。

久世は、そんな城内をくまなく巡回して
「越後勢に沼を渡らせてはならぬゾ」
「力を尽くして戦ってくれ」

と城兵一人一人に声をかけて、彼らの士気を高めます。

おかげで、近づこうとすれば沼地に足を取られ、遠くからの鉄砲もなかなか命中せず、徹底包囲しながらも、小競り合いばかりで大きな戦いには発展せず・・・

そんな中、未だ小出城の異変を知らず、馬揃えの後片づけしながら安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)に滞在していた成政&長住・・・彼らに、その情報がもたらされたのは3月15日の事でした。

「すぐに小出城を救え!」
信長の激励とともに安土城を新発した彼らが、小出城周辺にやって来たのは天正九年(1581年)3月24日の事・・・

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●↑小出城攻防戦・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

ところが、そこは、すでに上杉勢が去ったあとでした。

どうやら、約1ヶ月にも渡って城を囲みながらも、大した成果を挙げられずにいたところ
「成政の軍勢が戻って来る」
との知らせが入り、囲みを解いて魚津城へと退きあげていった模様・・・

その時、三里(約12km)ほど先に火の手が上がっている様子を見た成政は、
「まだ、あそこにいる!」
とばかりに常願寺川を越え、小出も越えて追撃しますが、思いのほか上杉勢の撤退が早く、追いつけないまま・・・

結局、
「これ以上の深追いは得策ではない」
との判断により、成政自身は一戦も交える事無く、この戦いは終了しました。

とは言え、現在も、この小出周辺には多くの五輪塔が存在し、その中には「首塚」と呼ばれている物もあるとか・・・成政らの軍勢が到着するまで、ここで、この城を死守しようと踏ん張った人々が、数多くいた事がうかがえますね。

一方で、現在伝わるところの河田長親さんのご命日も、実は天正九年(1581年)3月24日・・・上杉勢がこの日に撤退したのも、何か関係があるのでしょうか?

長親自身は未だ39歳の若さ・・・

しかし、記録には松倉城にて急死(病死)とあるので・・・この時代、合戦にて亡くなったのなら名誉な事なので、おそらく、そういう風に書き残すでしょうから、やはり、たまたまこの日に亡くなったという事なのかな?(気になる(゚ー゚;)

とにもかくにも、謙信の跡目を継いだ勝にとっては、曾祖父→祖父→父からバトンを渡された初めての越中平定だったわけですが、謙信時代からの、その中心人物であった長親の死を受けて、ここ越中では、さらに織田勢が勢いづく事になるわけで・・・

しかし、その一方で、未だくすぶる本願寺門徒による一向一揆・・・この半年後に起こる、成政&長住の瑞泉寺(ずいせんじ=富山県南砺市井波)・井波(いなみ)の合戦については9月8日のページ>>でどうぞm(_ _)m

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