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2019年3月29日 (金)

秀吉の小田原征伐・開始~山中城落城

 

天正十八年(1590年)3月29日、豊臣秀吉による小田原征伐で山中城が落城しました。

・・・・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き後、天正十三年(1585年)には四国を平定(7月26日参照>>)し、翌・天正十四年(1586年)には九州へも侵出する(4月17日参照>>)と同時に、朝廷からは太政大臣に任命されて豊臣の姓を賜った豊臣秀吉(とよとみひでよし)(12月19日参照>>)は、その同・天正十四年の11月4日付けで『関東惣無事令(かんとうそうぶじれい)を発布します。

これは、西日本を制した秀吉が、まさに天下人として、未だ戦国の様相を呈している各地に「領地の奪い合い等で私的な合戦をしてはいけない」と命令するもの・・・

なんせ、あの本能寺の直後は、武田を滅亡させたわずか3ヶ月後に信長が亡くなってしまった事で、戦後の論功行賞(3月24日参照>>)で旧武田領を与えられた織田配下の者も未だ旧武田領をしっかりとは治め切れていない状況(6月18日参照>>)なもんで、結果的に宙に浮いた感じになっていた旧武田の領地を、越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)相模(さがみ=神奈川県)北条氏直(ほうじょううじなお)三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)とで奪い合うわ(10月29日参照>>)、このドサクサでアッチについたりコッチについたりしながらも、ホンネは独立を図りたい旧・武田家臣の真田昌幸(さなだまさゆき)がうごめくわ。。。(8月2日参照>>) で、秀吉も、彼らの間に入ってとりなりしたりなんぞしていたわけで・・・

そんなこんなの天正十七年(1589年)10月、沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市)に拠る北条配下の猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、真田の物となっていた名胡桃城(なぐるみじょう=群馬県利根郡)を奪ったのです(10月23日参照>>)

これを、上記の関東惣無事令に反する行為だとする秀吉・・・幾度かの交渉も決裂した事を受けて、秀吉は翌11月24日、条氏政(うじまさ=氏直の父)宛てに宣戦布告(11月24日参照>>)します。

ついに、北条の本拠である小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を攻める=世に言う『小田原征伐』が開始される事になります(12月10日参照>>)

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●↑小田原征伐・豊臣軍進攻図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

迎える北条・・・秀吉が東海道を東に進んで来ると予想し、本拠の小田原城に配下の諸将を集めるとともに、伊豆半島の付け根にあたりを、足柄城(あしがらじょう=静岡県駿東郡小山町と神奈川県南足柄市の境)山中城(やまなかじょう=静岡県三島市)韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆の国市)縦ラインで豊臣の大軍を防ぐべく、それらの城の防備を強化します。

明けて天正十八年(1590年)、2月7日の先発隊に続き、3月1日に京都を出陣した秀吉本隊も19日には駿府(すんぷ=静岡県静岡市)に到着・・・28日には秀吉自身が山中城周辺を視察して廻り、ここで小田原の防衛線となっている山中城と韮山城の同時攻撃を決定するのです。

かくして天正十八年(1590年)3月29日午前10時頃、総勢約22万の豊臣軍のうち、豊臣秀次(ひでつぐ=秀吉の甥)を総大将とする中村一氏(なかむらかずうじ)田中吉政(たなかよしまさ)山内一豊(やまうちかずとよ)一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)らをはじめとする約6万8千が山中城を攻めにかかります。

それは・・・まずは、岱崎出丸(たいざきでまる=岱崎砦とも)付近から合戦の火蓋が切られました。

対する山中城は、北条家臣の松田康長(まつだやすなが)城番とし、一族の北条氏勝(うじかつ)守将(しゅしょう=戦闘時の1次的な指揮官)間宮康俊(まみややすとし)ら、名だたる武将を含む約4千が守ります。

この出丸の攻防で一柳直末を失う豊臣勢ではありましたが、そもそも両者の数の差がハンパないわけで、結局、お昼頃には勝敗が決したとされます。

この戦いで豊臣方の先陣を務めた中村一氏配下の渡辺了(わたなべさとる=勘兵衛)なる武将の手記によると・・・
この日、秀吉から、
「岱崎出丸を奪い取って、コッチの攻撃ポイントにせよ」
との命令を受けた中村一氏に対し、渡辺了は
「それよりも、出丸前方に小高い丘がいくつかありますよって、その丘に20~30人の軍勢を入らせて、そこから出丸に鉄砲を撃ちかけ、向こうが慌ててる間に、出丸に登る土塁を構築したらよろしいかと……」
と進言したところ、その作戦が採用されたので、早速、渡辺了は3つあるうちの1番向こうの丘に登って周囲を見渡していると、出丸から鉄砲が撃ちかけられます。

怯むことなく、そこから城の端へと押し進み、(とき)の声を挙げつつ、50人ばかりがどゎ~っと堀に飛び込みますが、未だ、この1番乗りの中村一氏隊だけで、後に続く者の姿は見えず・・・

それでも中村隊が城の塀にとりつく頃には、秀吉の陣地から大きなほら貝が響き渡り、その勢いに乗じて、渡辺了は逆茂木(さかもぎ=敵の侵入を防ぐべく先端を鋭くとがらせた木の枝を外に向けて並べて結び合わせた柵)で固められた三の丸に飛び込みます。

しかし、ここまで来ても、まだ後に続く者が来ないので三の丸の隠し扉を開けるわけにはいかず・・・と、そこに前後から鉄砲が撃ちかけられ、ともに1番乗りをしたうちの4人が射殺されます。

やがて三の丸と二の丸に上がっていた煙が薄くなったので、渡辺らは枝折(しおり=木や竹でできて簡素な門)を飛び越えて門を打ち破り三の丸に突入・・・敵と戦いながら二の丸へ侵入すると、敵兵は西の丸の櫓に籠ります。

渡辺らは西の丸の土塁にとりついて、下から槍で突き上げると、敵も、もちろん応戦・・・土塁の下と上で激しい槍戦をしていると大将クラスの2人の武将が登場し、彼らと相まみえている最中に、ようやく寄せ手の大軍が到着し、もう、そこからは敵味方入り乱れての乱戦となりました。

『真書太閤記』を読むと、どうやら、この大将クラスの2人の武将というのは松田康長と間宮康俊の事のようで、歴戦のツワモノであった彼らは、ここで何十人もの豊臣勢を討ち取る勇姿を後輩たちに見せたものの、さすがに数の差には逆らえず、最後は華々しく散って行ったという事です。

800pxyamanakajo_shojibori 山中城の障子堀

ご存知の方も多かろうと思いますが、この山中城は、障子の桟(さん)のように幅の狭い畝(うね)を、わざと堀残して堀の底を細かく仕切った障子堀(しょうじぼり)が特徴的な城・・・障子堀の畝は敵の突進を妨げ、堀に落ちれば脱出し難く、そこを鉄砲で容易に狙う事ができました。

今回の岱崎出丸は城の最南端に位置し、約20000㎡もある縦に長い長方形の出丸で、南と北西に単列の障子堀がほどこされていました。

ここまでの守りを固めた山中城が、わずか半日で落ちてしまったのは、おそらく北条にとっても大誤算だった事でしょう。

また足柄城も、山中城の落城を知ってか、翌日には戦うことなく城を破棄して守備隊は小田原城へと逃避しています。

ただし山中城と同時に攻撃が開始された韮山城は、落ちる事無く持ちこたえ、攻めあぐねた豊臣方は、最終的に、城を守る北条氏規(うじのり=氏政の弟)(2月8日参照>>)と旧知の仲だった徳川家康に彼を説得させ、ようやく6月24日に開城の運びとなっています。

とにもかくにも、翌4月に本城である小田原城を完璧なまでに包囲した豊臣軍・・・ここから約4ヶ月に渡る小田原合戦は、ここ、山中城の落城から始まったわけです。

この後の状況はコチラ↓から……
(まだ書いてない箇所はこれからガンバリます(/ー\*))
●4月2日:小田原城包囲>>
●5月29日:館林城を攻略>>
●6月5日:伊達政宗参陣>>
●6月16日:忍城水攻めの堤防決壊>>
●6月23日:八王子城が陥落>>
●6月26日:石垣山一夜城が完成>>
●7月5日:小田原城・開城>>
小田原征伐・逸話集>>
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2019年3月24日 (日)

景勝、初の富山侵攻~上杉VS織田の小出城の戦い

 

天正九年(1581年)3月24日、謙信の後を継いだ上杉景勝による織田信長配下の小出城攻めが終結しました。

・・・・・・・・・・・・

戦国時代の越中(えっちゅう=富山県)・・・

そもそもは、室町幕府政権下での越中の守護(しゅご=今で言う県知事)だった(はたけやま)が、かの応仁の乱の火種ともなった後継者争い(1月17日参照>>)に忙しくて畿内の領地を離れる事ができなかったため、越中の事は守護代(しゅごだい=副知事)だった遊佐(ゆさ)神保(じんぼう)椎名(しいな)といった面々らが、ほぼほぼ仕切っていたわけですが、やがて起こった加賀一向一揆(かがいっこういっき)(6月9日参照>>)の勢力が隣国の越中にまで伸びて来た事で、当時の守護だった畠山尚順(はたけやまひさのぶ)が隣国の守護である越後(えちご=新潟県)守護の上杉房能(うえすぎふさよし)越前(えちぜん=福井県東部)守護の朝倉貞景(あさくらさだかげ)らに越中の救援を依頼し、それを受けて越中平定に派遣されて来たのが越後守護代の長尾能景(ながおよしかげ)=あの上杉謙信(うえすぎけんしん)のジッチャン・・・(9月19日参照>>)

そんな謙信は、天文二十二年(1553年)から始まった甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)との一連の川中島(かわなかじま)(9月1日参照>>)のさ中にも、永禄二年(1559年)に関東管領(かんとうかんれい=室町幕府政権下での関東支配者)並みの格式を得た(6月26日参照>>)時でも、おそらくジッチャンや父ちゃんの悲願であった越中平定の事は頭にあったはず・・・

すでにこの頃の越中は、神通川(じんつうがわ)の西に勢力を持つ神保長職(じんぼうながもと)と東の椎名康胤(しいなやすたね)との2大勢力の時代となっていましたが、その川中島に謙信の目が向いているのを絶好のチャンスと見た長職が勢力拡大を図って康胤の松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)を攻める勢力争いは、神保を支援する武田と椎名を支援する上杉の代理戦争のようにもなっていたわけで・・・(3月30日参照>>)

その抗争は支援する側される側が入れ替わりながらもしばらく続きますが、
●永禄十一年(1568年)松倉城攻防戦>>
●元亀三年(1572年)日宮城攻防戦>>
こうして謙信と信玄がドンパチやってる間に登場して来るのが、永禄十一年(1568年)に第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛(9月7日参照>>)を果たした尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)・・・

ここで、かの信玄が完全に今川潰しにシフトチェンジ(12月12日参照>>)した事もあって、川中島に終止符を打った謙信は越中へと侵攻するのです(3月17日参照>>)

そこに反対側から忍び寄って来るのが、越前一向一揆を制して(8月12日参照>>)加賀(かが=石川県西部)へと触手を伸ばし始めた信長・・・

そんな中、敵の敵は味方とばかりに一向一揆の教祖様=石山本願寺顕如(けんにょ)と和睦した(5月15日参照>>)謙信の戦いの相手は、これまでの一向一揆から、コチラも完全に織田へとチェンジ・・・「これ以上、信長を北上させるものか!」とばかりに、
●天正四年(1576年)8月:飛騨侵攻>>
●天正五年(1577年)9月:七尾城>>
その5日後には信長配下の柴田勝家(しばたかついえ)との手取川(9月13日参照>>)となるのですが、ご存知のように、その翌年の春の出兵の前に、謙信は亡くなってしまうのです(3月13日参照>>)

しかも、ここで、謙信の後継者を巡って養子同士の争いが勃発(2007年3月17日参照>>)した事から、上杉家では越中どころではなくなり、この間、大きな戦いも無いままに織田勢に越中の奥深くまで入られてしまいました(10月4日参照>>)

天正七年(1579年)3月、なんとかライバルの上杉景虎(かげとら)を死に追いやって(2010年3月17日参照>>)上杉を継いだ上杉景勝(かげかつ)は、そのお家騒動のさ中に黄金で以って味方につけた武田勝頼(かつより=信玄の四男)を後ろ盾に、加賀・能登・越中の一向一揆の残党を取り込んで織田への逆襲の機会を狙います。

一方の信長は、この天正八年(1580年)に金沢御坊(かなざわごぼう=石川県金沢市・加賀一向一揆の拠点)を陥落(3月9日参照>>)させ、本拠の石山本願寺との戦いも終わらせて(8月2日参照>>)、事実上、一向一揆は解散状態だったわけですが、当然の事ながら、おおもとが「終わり~」と言ったからとて、まだまだヤル気満々の宗徒は大勢いるわけで、すぐに一揆の衆がいなくなる事は無いですから・・・

この時、織田側の越中最前線にいたのは小出城(こいでじょう=富山県富山市水橋)を守る神保長住(ながずみ=長職の息子)・・・しかし、さすがに、ここだけで上杉の侵攻を阻むのはムリがあろうというもの・・・

そこで信長は、守備強化を図るべく佐々成政(さっさなりまさ)を越中に派遣します。

成政は、かつて越前の朝倉を倒した際(8月20日参照>>)に織田の北陸担当として北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)を与えられた柴田勝家の与力として北陸に配置された前田利家(まえだとしいえ)不破光治(ふわみつはる)とともに「府中三人衆」と呼ばれて小丸城(福井県越前市)を守り、信長の信頼を得ていた剛の者。

「まことに心強い!」
と長住も歓迎する中、富山城(とやまじょう=富山県富山市)に入った成政は、神通川を天然の堀とし、その支流を城の東側まで延長し、さらに土塁や櫓を要所々々に配置するなど、1年ほどかけて富山城を整備し、上杉の来襲に備えたと言います(現在の富山城より数段大きかったらしい)

そんなこんなの天正九年(1581年)、信長にとっての一大イベントが京都にて開催されます。

ご存知、天正九年(1581年)2月28日の御馬揃え(おうまぞろえ)です(2月28日参照>>)

さすがの一大イベントですから、もちろん柴田勝家以下、北陸の面々は越前衆として、これに参加・・・これを見逃さなかったのが、謙信の時代から越後の最前線=魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)を任され、現在は松倉城を居城とする河田長親(かわだながちか)

『信長公記』によれば、
3月6日に挙兵した長親は、越後から上杉景勝の軍を招き入れるとともに一向一揆の残党たちを引き連れて、3月9日に小出城を包囲し、即座に攻撃にかかったとか・・・

一方、留守となっている小出城を守るのは成政配下の久世但馬(くぜたじま)。。。

自らの城兵の10倍を超える敵を目の当たりにした小出城ではありますが、この城は平城とは言え、少し丘になった部分に構築されており、しかも「浮かぶ陸の孤島」と称されるほど、周囲が沼地となった要害の中にありました。

久世は、そんな城内をくまなく巡回して
「越後勢に沼を渡らせてはならぬゾ」
「力を尽くして戦ってくれ」

と城兵一人一人に声をかけて、彼らの士気を高めます。

おかげで、近づこうとすれば沼地に足を取られ、遠くからの鉄砲もなかなか命中せず、徹底包囲しながらも、小競り合いばかりで大きな戦いには発展せず・・・

そんな中、未だ小出城の異変を知らず、馬揃えの後片づけしながら安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)に滞在していた成政&長住・・・彼らに、その情報がもたらされたのは3月15日の事でした。

「すぐに小出城を救え!」
信長の激励とともに安土城を新発した彼らが、小出城周辺にやって来たのは天正九年(1581年)3月24日の事・・・

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●↑小出城攻防戦・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

ところが、そこは、すでに上杉勢が去ったあとでした。

どうやら、約1ヶ月にも渡って城を囲みながらも、大した成果を挙げられずにいたところ
「成政の軍勢が戻って来る」
との知らせが入り、囲みを解いて魚津城へと退きあげていった模様・・・

その時、三里(約12km)ほど先に火の手が上がっている様子を見た成政は、
「まだ、あそこにいる!」
とばかりに常願寺川を越え、小出も越えて追撃しますが、思いのほか上杉勢の撤退が早く、追いつけないまま・・・

結局、
「これ以上の深追いは得策ではない」
との判断により、成政自身は一戦も交える事無く、この戦いは終了しました。

とは言え、現在も、この小出周辺には多くの五輪塔が存在し、その中には「首塚」と呼ばれている物もあるとか・・・成政らの軍勢が到着するまで、ここで、この城を死守しようと踏ん張った人々が、数多くいた事がうかがえますね。

一方で、現在伝わるところの河田長親さんのご命日も、実は天正九年(1581年)3月24日・・・上杉勢がこの日に撤退したのも、何か関係があるのでしょうか?

長親自身は未だ39歳の若さ・・・

しかし、記録には松倉城にて急死(病死)とあるので・・・この時代、合戦にて亡くなったのなら名誉な事なので、おそらく、そういう風に書き残すでしょうから、やはり、たまたまこの日に亡くなったという事なのかな?(気になる(゚ー゚;)

とにもかくにも、謙信の跡目を継いだ勝にとっては、曾祖父→祖父→父からバトンを渡された初めての越中平定だったわけですが、謙信時代からの、その中心人物であった長親の死を受けて、ここ越中では、さらに織田勢が勢いづく事になるわけで・・・

しかし、その一方で、未だくすぶる本願寺門徒による一向一揆・・・この半年後に起こる、成政&長住の瑞泉寺(ずいせんじ=富山県南砺市井波)・井波(いなみ)の合戦については9月8日のページ>>でどうぞm(_ _)m

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2019年3月22日 (金)

リニューアル後のココログが変です!

ココログは先日の3月19日の1時~メンテナンスに入り、大幅リニューアルをされたのですが、その後、とてつもない不具合満載状態となってます。

幸いな事に、このブログはちゃんと表示され、私自身も管理画面にログインでき、こうして新しい記事を書く事ができていますが、未だにブログそのもが表示されない方や、ログインできなくて新しい記事も書けないでいる管理人の方もおられるようです。
(しかもメッチャ使い難いww)

このブログでも、サムネイル画像(ブログ内にある小さな画像)は表示されるものの、本来なら、それをクリックすれば表示される大きな画像が表示できずにいます
(↑この問題は3月22日に解消されました!)

HTMLタグを見てみると、どうやら今回のリニューアルで、大きい画像のアドレスが変わってしまったようで……
やむなく、メンテギリギリの時間にupした最新ページだけは、自分でHTMLを書き換えて、何とか表示できるようにしましたが、

ご存知のように、約2500ページほどある、このブログ……
一つ一つを手動で書き換えていくのは、ものズンゴイ時間と手間がかかります。

しかも、それが初期の不具合で、今後、改善されれば、またそれに合わせて書き換えねばならなくなってしまうため、今しばらく様子を見ようと思っています。
(不具合の報告は、すでにnifty運営側にしてあります)

なので、現段階では、以前の記事でブログ記事内にある画像をクリックしていただいても、黒い画面が出るだけになってしまいますが、今しばらくご辛抱願います。

上記の画像に関する不具合は、すでに解消されたのですが、
その後、4~5日経って気づいたのですが、どうやら、一部の個別ページのアドレスが変わってしまっているのです。

なので、記事中で「(●●参照>>)」てな感じでリンクを貼っている場合、そこをクリックしても、「ブログがありません」的な表示になってしまって……困惑しております。

気付いた場所から、手打ちでリンクを貼りなおしておりますが、なんせ2500ページほどあるため、確認にも時間がかかりますので、もし、リンク切れになっている箇所に気づかれましたら、コメント等でお知らせいただければありがたいです。

他にも、チョイチョイ変な部分があるかも…ですが、徐々に解消されていくと思いますので、よろしくお願いします。

 

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2019年3月19日 (火)

織田信秀VS今川義元&松平広忠~第2次小豆坂の戦い

 

天文十七年(1548年)3月19日、今川&松平連合軍と織田が戦った第2次小豆坂の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

享禄二年(1529年)、祖父の代からの念願だった三河(みかわ=愛知県東部)統一を果たした松平清康(まつだいらきよやす)は、次に隣国の尾張(おわり=愛知県西部)へと手を伸ばし、当時、清洲三奉行(きよすさんぶぎょう=尾張国守護代の清洲織田に仕える奉行)の一人で尾張古渡城(ふるわたりじょう=愛知県名古屋市)主だった織田信秀(おだのぶひで=信長の父)の弟=織田信光(のぶみつ)の守る守山城(もりやまじょう=愛知県名古屋市守山区)を攻めたのですが、その陣中にあった天文四年(1535年)、家臣によって斬殺されてしまいます(12月5日参照>>)

24歳という若さで亡くなった清康の後を継いだのは、わずか10歳の息子=松平広忠(ひろただ)でしたが、案の定、このドサクサを狙って、一族の松平信定(のぶさだ)が謀反を起こし、居城の岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)を追われて流浪の身となってしまったのです。

Imagawyosimoto600a やむなく叔母(父の妹)の嫁ぎ先である吉良持広(きらもちひろ)のもとへ身を寄せますが、その関係で、この後、駿河遠江(静岡県西部)今川義元(いまがわよしもと)からの支援を受ける事になって(*吉良と今川はともに足利宗家の流れを汲む関係)、何とか岡崎城を奪還・・・その後、ようやく三河に帰還します。

この頃に起こったのが第一次小豆坂(あずきざか=愛知県岡崎市)の戦い・・・(日付に関しては天文十一年(1542年)の8月説と12月説あり)

とは言え、日付も曖昧な時点でお察しのように、その勝敗も、一応、今川&松平連合軍の勝利だとされていますが、負けた織田側にも、さほど大きなダメージはなさげな雰囲気です。

その翌年=天文十二年(1543年)には、松平家内で叔父=松平信孝(のぶたか=清康の弟)との内紛が勃発し(8月27日参照>>)、その信孝が織田に降った事で、松平×織田の関係はますます悪化していきます。

一方の織田信秀は、松平が弱体化したこの間に三河へと侵攻し、松平に属する安祥城(あんじょうじょう=愛知県安城市)を奪い取ります。
(奪い取った時期に関しては天文九年(1540年)説と天文十三年(1544年)説あり)

これに対し、安祥城の奪還を図る広忠でしたが、あえなく敗北・・・しかも、この天文十三年(1544年)には、広忠の正室=於大の方(おだいのかた)の兄である水野信元(みずののぶもと)織田方に降る事態に・・・この一件により於大の方は広忠に離縁され、実家に戻っています(8月28日参照>>)

ますますの織田からの攻撃に耐えかねるとともに、かの水野信元が松平に仕える一方で今川に仕えていた事もあって、ここらで、今一度、今川との関係を強固にして、その支援を仰ごうと考えた広忠は、於大の方との間にもうけた嫡男=竹千代(たけちよ=後の徳川家康)を今川への人質として送りますが、この大事な人質が、途中で織田方に奪われてしまうという大失態(8月2日参照>>)

もちろん、これを機会に、信秀は広忠に織田の傘下に入るよう要求するのですが、広忠は断固拒否・・・現状のまま、今川を頼って織田と戦う事を選びます。

そんなこんなの織田信秀ですが、ここんとこ尾張の北東部分に勢力拡大を図っていた彼は、実は、松平=三河&その向こうの今川=遠江という東側と同時に、北側の隣国=美濃(みの=岐阜県南部)斎藤道三(さいとうどうさん=利政)とも度々衝突していた(9月23日参照>>)わけで・・・

しかし、天文十六年(1547年・天文十三年説もあり)加納口(かのうぐち=岐阜県岐阜市)の戦い(9月22日参照>>)で大敗を喰らった信秀は、とりあえずは北の脅威を削いで東の三河攻略に専念すべく、自らの息子=信長(のぶなが)と道三の娘=帰蝶(きちょう=濃姫)の結婚話(2月24日参照>>)を進めて、美濃の斎藤とは和睦をする事にします。

こうして天文十七年(1548年)3月、岡崎城の奪取を狙い、4000余の兵を率いて安祥城を出陣する信秀・・・

一方の今川義元も、織田×松平の境界の最前線となる安祥城は、味方の手に入れておきたいわけで・・・松平救援のために太原雪斎(たいげんせっさい=崇孚)を大将に据え、朝比奈泰能(あさひなやすよし)(2011年3月19日参照>>)とともに出陣させます。

矢作川(やはぎがわ)を渡って上和田(かみわだ=愛知県岡崎市)に着陣する織田軍・・・その向こうの小豆坂の頂上付近に陣取る今川軍・・・

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↑第2次小豆坂の戦い・合戦図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして天文十七年(1548年)3月19日未明、小豆坂にてぶつかった両者でしたが、『孫子の兵法・行軍編』(6月17日参照>>)でお馴染みの通り、こういう場合、高い位置に布陣してる側が断然有利・・・って事で、最初は今川勢が優勢で、織田の第一の備えは完全に崩されてしまいますが、

劣勢を悟った織田勢は、第二の備えが本隊付近まで後退して踏ん張り、本隊の力を借りて巻き返し、今度は今川勢の先陣を務めていた松平勢が崩れ始めます。

しかし、この時、これを予期していたかのように仕込まれていた岡部元信(おかべもとのぶ)率いる今川の伏兵が、勢いづいて突進する織田勢の横から突きかかりました。

予期せぬ方向から本隊を脅かされた織田勢は、それがキッカケとなり軍全体が総崩れとなり、あれよあれよという間に今川勝利に織田の負け・・・信秀は兵を退きあげて安祥城へと戻るしかありませんでした。

とまぁ、川&松平の勝利とは言え、結果的には信秀が安祥城を失う事もなく、両者の関係に大きな変化は無かったわけですが、その翌年の両者の運命が真逆に!

信秀は配下の謀反を見事抑える(1月17日参照>>)一方で、広忠は、自らの家臣によって殺害されてしまう(3月6日参照>>) のです。

このために岡崎城の城主はいなくなってしまったわけですが、先に書いた通り、この時、広忠の後を継ぐべき息子=竹千代は、今現在、織田のもとにいるわけで・・・

そこで、今川は、何とか松平の後継ぎ=後の家康を自らの保護下に置こうと、織田信広(のぶひろ=信秀の長男)が拠る安祥城へ迫る事になるのですが、そのお話は11月6日【安祥城の戦い~信長&家康に今川と絡む運命の糸】>>でどうぞ

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2019年3月13日 (水)

小早川隆景が宇喜多忠家に…「辛川崩れ」の大敗

 

天正八年(1580年)3月13日、小早川隆景率いる毛利軍を宇喜多勢が迎え撃った辛川合戦がありました。

・・・・・・・・

弘治元年(1555年)に周防(すおう=山口県の東南部)大内(おおうち)(10月1日参照>>)を、永禄九年(1566年)に出雲(いずも=島根県東部)尼子(あまこ・あまご)(11月28日参照>>)を事実上の滅亡へと追いやって、西国の雄となった安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)

一方、永禄十一年(1568年)に第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛した(9月7日参照>>)尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)は、石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)との戦いを繰り返しつつ(9月12日参照>>)、天正元年(元亀四年=1573年)には、かの義昭を京都から追放(7月18日参照>>)・・・その義昭が毛利を頼った事から、両者は敵対関係となり、信長から中国地方の平定を任された羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が西へと迫りくる(10月23日参照>>)

これまで様々なぶつかりを継続する中で(2月15日参照>>) 、ここに来て西と東の両者に挟まれた形となった備中(びっちゅう=岡山県西部)備前(びぜん=岡山県東南部)但馬(たじま=兵庫県北部)あたりの諸将たちですが、

Ukitanaoie300a そんな中で、毛利の力を借りて(6月2日参照>>)天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)浦上宗景(うらがみむねかげ)からの独立を成功させた元家臣の宇喜多直家(うきたなおいえ)は、天正五年(1577年)に信長配下の明智光秀(あけちみつひで)籾井城(もみいじょう=兵庫県篠山市)を攻略(10月29日参照>>)した事、毛利から自身が任されていた上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)を但馬を平定(10月23日参照>>)した秀吉に落とされた事、等々から方針を変えたか?天正七年(1579年)頃から毛利とは距離を置き、その年の10月、宇喜多直家は正式に織田の配下となります(10月30日参照>>)

とは言え、それ以前の天正七年(1579年)2月、すでに織田に寝返りそうな雰囲気を醸し出していた直家に、毛利輝元(もうりてるもと=元就の孫)は、叔父の吉川元春(きっかわもとはる=元就の次男)に3000の兵をつけて美作(みまさか=岡山県東北部)へ派遣し、宇喜多配下の諸城を攻撃させてはいたのです。

しかし、これが・・・序盤こそ、いくつかの城を落としたものの、後半に宇喜多勢の反撃に遭い、取った城も奪回されて、結局は、大きな成果が得られないまま断念・・・(2月17日参照>>)

とは言え、このまま宇喜多の離反を見過ごすわけにはいかない毛利・・・

天正八年(1580年)、今度は小早川隆景(こばやかわたかかげ=元就の三男)をが1万5千の兵を率いて備前から備中へと侵攻・・・宇喜多家の宿老=戸川秀安(とがわひでやす)の息子=戸川逵安(みちやす=達安)が拠る辛川城(からかわじょう=岡山県岡山市北区)間近へと迫ります。

早速、迎え撃つ宇喜多勢・・・この時、すでに病に伏せっていた直家に代わって、弟の富山城(とみやまじょう=同北区)宇喜多忠家(ただいえ)が総大将を務めます。

この時、流れた「毛利軍は直家居城の岡山城(おかやまじょう=岡山県岡山市)を攻略するのが目的」との噂に、「させるか!」とばかりに忠家が選んだ作戦は、辛川城に近い一宮(いちのみや)から、自身の富山城近くの矢坂(やさか)まで、7段の陣を立てて防戦を張り、辛川城から逵安率いる一隊を分けて、辛川村の北にある山陰に伏兵として潜ませるというもの・・・

Karakawakuzure
●↑辛川合戦の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

Ukitamourisakusyukassen位置の参考として
作州合戦の位置関係図(広域)
 も参照下さい

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かくして天正八年(1580年)3月13日備中高松城(びっちゅうたかまつじょう=岡山市北区)から加茂城(かもじょう=同北区)を経て辛川城近くへと進んだ毛利勢は、真正面に陣取る宇喜多勢めがけて襲いかかります。

先頭同士で激しいぶつかり合いとなりますが、この戦いは宇喜多側にとっては、敵を誘い込むエサ・・・適当に戦って負けた感を出しつつ、間もなく退却を開始します。

そうとは知らぬ小早川の先陣が、武功を挙げんと我先に後を追い、自然と、これに続く形で隆景の本陣が進み、さらに後陣が進む・・・その後陣が辛川村を通り過ぎた時!

まさに、この時、山陰に潜んでいた逵安率いる伏兵が一斉に飛び出し、小早川軍の背後から襲い掛かったのです。

逵安、わずか13歳の初陣でした。

さらに、この伏兵の登場と同時に、忠家は7段に構えた宇喜多軍に一斉出撃をかけた事から、小早川勢は、前からも後ろからも攻撃を受ける事に・・・

さすがの小早川も陣形が乱れるところを、隆景自らが采配を打ち振って踏ん張りますが、そこへ、隆景の本陣めがけて宇喜多軍が突入・・・少し、後ずさりする所に、今度は、近くの山上から、弓隊と鉄砲隊の一斉連射をお見舞い

さすがに総崩れとなった小早川軍は、結果的に一返しもできないまま、領国へと退却していきました。

この様子を見た忠家は
「敵は大軍…深追いは禁物である」
として、辛川村の入口あたりまで追撃しただけで、宇喜多軍も退きあげさせました。

これが、世に「辛川崩れ」と呼ばれる、毛利の大敗です。

ただし、今回の辛川合戦・・・(岡山藩士なのでたぶん)宇喜多側の史料となる『備前軍記』では「天正七年(1579年)8月の事」とされていますので、書籍によってはその日付になっている場合もあるのですが、毛利側の『湯浅文書』では「天正八年(1580年)3月13日辛川口敗戦」となっているのです。

この前後の出来事を踏まえ、近年では、おそらくは、この3か月後の6月に起こる祝山(いわいやま=岡山県津山市)合戦(6月15日参照>>)に向けての地固め&準備戦の意味合いでの出兵であるとの見方が強く、天正八年(1580年)3月13日が正しいのでは?とされているという事で、本日は、この日付でご紹介させていただきました。

辛川の次は、上記の祝山(いわいやま=岡山県津山市)合戦(6月15日参照>>)に突入・・・その後の毛利は宇喜多・・・というより、その上にいる織田を相手に~と展開していきます。

・・・にても、もともと毛利勢の中では小早川隆景が戦上手として1番カッコイイんじゃないか?と思っていたところに、今回は、その上をいく宇喜多忠家・・・しかも、13歳初陣の戸川逵安の勇姿を思い浮かべると・・・もう、戦国女子はメロメロですがな゜.+:。(*´v`*)゜.+:。

ま、出どころが軍記物なので、話半分な感じではありますが、本日は、この宇喜多勢のカッコ良さに浸らせていただきましょう~---------(*^ 0 ^A----------ドップリ
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2019年3月 7日 (木)

信長の雑賀攻め後に…雑賀同志の太田城の戦い

 

天正七年(1579年)3月7日、石山本願寺の下間頼廉が紀州の本願寺門徒に雑賀衆が味方についた事を報告しました。

・・・・・・・・・・・・

天正五年(1577年)2月~3月に行われた織田信長(おだのぶなが)による雑賀攻め・・・
孝子峠の戦いと中野落城>>
雑賀攻め・和睦>>

雑賀(さいが・さいか)とは、紀州(きしゅう=和歌山県)紀ノ川下流域に住む土着の人々の集団で、小説やドラマ当では鉄砲を駆使し、石山本願寺の要請に応えて信長と戦った集団」のイメージが強いですが、水軍を保有して交易をする人たちや、農業でお生計をたてる者もいて、決して一枚岩では無い地元民の集合体みたいな感じです。

以前、その雑賀衆のリーダーとされる雑賀孫一(まごいち・孫市?)をご紹介したページ(5月2日参照>>)で、その冠に「傭兵」とつけるかどうか悩んだ事なんかもお話させていただきましたが、私としては、やはり「傭兵」の冠が合うように思います。

もちろん、それは金銭だけではなく、「利害関係」や「主義主張」等が絡むので「100%金で雇われた傭兵」とは違うわけですが、信長と敵対する本願寺の第11代法主(ほっす)顕如(けんにょ)の要請で「信者ではない彼らが本願寺を手助けする」という構図は、やっぱ傭兵?って感じます。

現に、上記の通り一枚岩では無い雑賀衆は、この雑賀攻めの時も、信長と敵対する側と信長を受け入れる側に分かれていたわけですから・・・

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●↑雑賀衆の太田城攻防戦の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そもそも、この雑賀衆は、その支配圏により雑賀庄(さいかのしょう)十ヶ郷(じっかごう)宮郷(みやごう)中郷(なかつごう)南郷(なんごう)という五つの(そう=地域の共同体)に大まかに分かれていて、同郷の仲間とは言え、その境界線や利害関係でちょくちょくモメてる間柄でもあったのです。

で、結局、例の天正五年(1577年)の雑賀攻めの時は、宮郷&中郷&南郷の3ヶ所の土豪(どごう=その地に根付いた半農の武士たち)たちは、信長の味方だったわけで・・・

そんな中で、天正五年(1577年)2月に始まった雑賀攻めは、翌3月に和睦を結び、一応の終結となるのですが(双方が勝利したと言ってますので、結局は引き分けかな?)この雑賀の地には遺恨が残りました。

そう、味方した彼らに対してです。

特に太田党を中心とする宮郷の者たちが、道案内等、積極的に信長に協力していた事から、信長と戦った側の彼らは、信長軍が撤退して間もなく、報復を開始するのです。

ただし、ここらあたりの記録は文献によって曖昧で、そのキッカケも・・・

雑賀攻め以前に、宮郷の中にいた「本願寺に味方にしよう」と説いて回っていた者たちを、イザその時となったら追放して信長の味方になった事が、そもそもの原因・・・とされたり、

いやいや、
そもそも農耕に適した地に乏しい雑賀庄の者が、農業が盛んだった宮郷の地を「力づくで奪ったレ!」って暴れだしたのが発端・・・という話もあります。

結局は、信長云々というより、これまでの積年の恨みという感じだったのかも知れません。

なんせ、先に書いた「境界線でちょくちょくモメてる」というのも、雑賀庄の者たちが、農耕に適した豊かな土地を求めて進行していく中で、どんどん奥へ奥へと宮郷の地を侵食して行く・・・という形の境界線争いで、決して宮郷側から雑賀庄へ仕掛ける事は無かったのです。

つまり、今回も、たまたま雑賀攻めの直後だっただけで、通例の雑賀庄からの宮郷への押し込み・・・って事なのかも知れません。

というのも、今回の戦いで宮郷が本拠とする太田城(おおたじょう=和歌山県和歌山市太田)への攻撃側には、雑賀攻めで宮郷と同じように信長の味方となった中郷や南郷、そして十ヶ郷に属する貴志(きし=和歌山県紀の川市貴志川町)の人たちも加わっていたようなので、やはり、信長の件とは、また別の話かも・・・

とにもかくにも、こうして始まった雑賀衆による太田城攻め・・・

太田城を取り囲んだ攻め手の一手は、鍬(くわ)で以って城の堀を叩き崩し、もう一手は、城外にいる宮郷の者や、太田の援軍として迫りくる根来衆(ねごろしゅう=根来寺(和歌山県岩出市)を中心に居住する僧兵集団)を城へと近づかせないために、中間の要路を遮断しました。

そこに、応援に駆け付けた者たちと遮断組とが激しい戦いに・・・

このように、完全に周囲敵ばかりの状態となった太田城ではありましたが、最初の攻撃から約1ヶ月経っても城は落ちず、結局、和議となって、攻め手の雑賀衆が立ち去り、今回の一件は終了となりました。

しかし、直接的な戦いは終了したとは言え、この後も、何らかの圧迫は続けられていたのか?
結局、宮郷は、雑賀の(みなと)の人々に間に入ってもらって本願寺に頭を下げ、
「これからは、他の雑賀衆たちと心を一つにして、本願寺の奉仕します」
と許しを請うたのです。

おそらく天正七年(1579年)と思われる3月7日の日付の文書にて、石山本願寺の坊官(ぼうかん=寺の事務的方面の長)である下間頼廉(しもつまらいれん)が、紀州の本願寺門徒に宛てて
「アイツら、詫び入れて来よったから許したった」
との報告をしている事から、この頃に、雑賀の里から信長派が一掃された物と思われます。

しかし、現実とは皮肉なもの・・・
この翌年の天正八年(1580年)3月、顕如と信長との間に和睦が成立して、約半年後の8月に顕如が本願寺を退去した事で、約10年に渡った石山合戦が終結となります(8月2日参照>>)

信仰ではなく、あくまで雇われ?要請?によって信長と戦う立場だった雑賀衆の行く末は・・・?

石山合戦での活躍で一躍名を挙げた例の雑賀孫一(拠点は平井城)は、早速、信長に近づいて昔ながらの雑賀の筆頭であった土橋(どばし・つちはし)を倒したりなんぞしますが、その信長も天正十年(1582年)の本能寺で亡くなってしまうわけで・・・(6月2日参照>>)

しかも、この本能寺のドサクサで再燃した雑賀の内紛によって孫一自身も行方知れず?(6月4日参照>>)あるいは世代交代しちゃってる?可能性もあり・・・

一旦、その動向が読めなくなる雑賀の彼らたちですが、その後、信長の後に天下を狙う豊臣秀吉(とよとみひでよし=羽柴秀吉)の前に登場して来る事になるのですが・・・

そのお話は
小牧長久手~岸和田城・攻防戦】>>
【秀吉の紀州征伐~太田城攻防戦】>>
で、ご覧くださいませ~m(_ _)m
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2019年3月 3日 (日)

賤ヶ岳の前哨戦~亀山城の戦い

 

天正十一年(1583年)3月3日、賤ヶ岳の前哨戦となる伊勢での戦いで亀山城が開城されました。

・・・・・・・・

賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いの前哨戦である長島城攻防戦と同時進行で行われていた戦いです。

織田信長(おだのぶなが)亡き後の清須会議(きよすかいぎ=清洲会議)で織田家後継者が嫡孫の三法師(さんほうし=後の織田秀信)に決まり(6月27日参照>>)、その後見人に信長次男の織田信雄(のぶかつ・のぶお=北畠信雄)と三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)が就任しますが、亡き信長の葬儀(10月15日参照>>)を大々的に行って後継者の雰囲気を醸し出す羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)と彼に同調する信雄に、岐阜城(きふじょう=岐阜県岐阜市)に拠る信孝が反発・・・

しかし、信孝の1番の味方である柴田勝家(しばたかついえ)の拠点=北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)が雪深い北陸にあって冬場には援軍が望めない事から、信孝は一旦、秀吉と和睦して春を待つ事にしますが、その間に秀吉は勝家所領の最前線である長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を落とします(12月11日参照>>)

一方の信孝派も・・・もう一人の味方である滝川一益(たきがわかずます)が、自身の居城=長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)を拠点に伊勢(いせ=三重県南東部)周辺の秀吉傘下の城を奪ったのです。

Sizugatakezensyounagasimazyou2 ●←賤ヶ岳前哨戦
 長浜城の戦いの位置関係図

クリックで大きく(背景地理院地図>>)

これを受けた秀吉は天正十一年(1583年)2月、総勢7万5千の大軍を三方に分け、実弟=羽柴秀長(ひでなが)隊は美濃多羅口から、甥の羽柴秀次(ひでつぐ)隊は君畑越えで、秀吉自らは安楽峠越え北伊勢へと侵入し、2月12日には峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)を包囲すると同時に一益の本拠=長島城へと迫り(2月12日参照>>)、16日には亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)城下に攻め入ります。

とは言え、今回の亀山城・・・実は、一益に奪われた経緯にはお家騒動が絡んでいました。

この頃、亀山城の城主を務めていた関盛信(せきもりのぶ)は、次男の一政(かずまさ)の嫁に蒲生賢秀(がもうかたひで)(2017年6月2日参照>>)の娘を迎えて後継者とする事と決め、息子とともに秀吉のもとに年賀の挨拶に赴いていたのですが、そのスキに一部の家臣が三男の勝蔵(政盛?)を後継者に擁立・・・つまりクーデターを決行して盛信が留守の間に亀山城を奪ってしまったのです。

で、このクーデターを支援したのが一益で、今回の出陣で峯城を奪った後、この亀山城には腹心の佐治益氏(さじますうじ=滝川益氏?)を投入して守りを固めさせていたのです。

そこへやって来た秀吉・・・自ら騎馬で以って、亀山城の構えや防備を視察して回った後、敵方の土塁を破壊して進路を断ち、コチラ側に有利な柵を構築し、かの2月16日に包囲を完了し、即座に攻撃に取り掛かります。

この16日の戦いでは、城内から門を開いて撃って出た城兵に、混乱する寄せ手側が切り崩されて散らされまくりでしたが、細川忠興(ほそかわただおき)陪臣(ばいしん=家臣の家臣)である松井盛秀(まついもりひで)が、同僚の米田是政(こめだこれまさ)とともに、ただ二人で留まり、三の丸に放火して攻勢に転じさせたのだとか・・・

次の24日の戦いでは、病気のために出遅れてしまっていた盛秀の主君=松井康之(まついやすゆき=細川忠興の家臣)が現地に到着し、秀吉軍の先鋒の細川隊として突き進みますが、やはり敵の猛反撃に遭い、先の盛秀は討死・・・三の丸まで攻め込みながらも、城を落とす事はできませんでした。

続く26日の戦いでも、やはり攻め手を押し返す城兵に苦戦していたところ、ただ一人踏ん張る米田是政が、鉄砲の雨あられの中、その槍で以って目の前の将兵を突き倒して、城の中へ中へと奮戦・・・これを本陣から見ていた秀吉は、
「なんや、黄色に日の丸の指物(さしもの=戦場で本人の目印となる旗【姉川の七本槍】参照>>したヤツがメッチャ頑張ってるみたいやけど、誰なん?
忠興のとこの米田みたいに見えるけど、アイツの指物は日の丸ちゃうやんな?」

と、隣にいた小姓に尋ねます。

そこで、戦場を見渡せる位置に行って確認した小姓は、
「やっぱ、アレは米田ですわ。
あの指物は日の丸やなくて、鉄砲の弾が貫通したとこが穴になってて本陣からは日の丸のように見えたようです」

と報告・・・その勇姿に秀吉も大いに感激したのだとか・・・『細川家記』『細川忠興軍功記』

同じく26日の戦いに参加していた山内一豊(やまうちかつとよ)は、50騎ばかりの城兵が城外に出て来たのを確認すると、一豊自ら、1番に駆け出して槍で最前線の敵兵を一突き・・・この様子を本陣のある山上から見ていた秀吉が、歓喜のあまりに床几(しょうぎ=折り畳みイス)から転げ落ちたとか・・・

また、一豊の足軽だった小崎三太夫(こさきさんだいゆう)(たつみ)の櫓(やぐら)の堀下から従者の肩を踏み台に、自らの刀をはしご代わりにして、手傷を負いながらも堀をよじ登り、山内の旗を高々と掲げて
「山内猪右衛門(いえもん=一豊の事)、当城の一番乗り~!」
と叫び、味方を奮起させですが、
その一方で、三太夫の巽の櫓への1番乗りを加勢した父の代からの忠臣=五藤吉兵衛(ごとうきちべえ)一豊の目の前で討死してしまいました。『山内一豊武功記』『御家中名誉』

さらに、細川&山内と同じく、この日の先鋒を任されていた加藤清正(かとうきよまさ)は、敵からの鉄砲をかいくぐって突進し、自慢の長槍を敵の鉄砲の筒へと打ち入れて払い落し、すかさず肩先から突き仕留めました。『清正記』

てな感じですが、御覧の通り・・・これらの記録は『細川家記』やら『山内一豊武功記』やら『清正記』やらと、どう見ても題名の彼らを主人公にじた軍記物だったり、自己申告的な英雄伝であって、おそらく話は盛に盛られているはず・・・

ただ、それでも一豊家臣の吉兵衛が討死した事なんかは事実とされていますので、やはり、この26日の戦いは激しく、亀山城側にとって、かなりの痛手となった戦いであった事は確かでしょう・・・なんせ、このすぐ後、長島城の一益から、開城を勧める使者が亀山城にやって来るのです。

大軍に囲まれてひと月足らず・・・ここまでよく耐えた、いや、むしろ大軍相手に何度も撃退を成功させつつ守りに守った佐治益氏ではありましたが、天正十一年(1583年)3月3日亀山城は秀吉方の蒲生氏郷(うじさと=賢秀の息子・当時は教秀?)開け渡されました。

秀吉は戦後の論功行賞で、氏郷にこの亀山城を与えようとしますが、氏郷が辞退したため、関氏の後継者である一政が治める事に・・・そのおかげで、クーデターを起こした一部の家臣たちも罪を許され、彼らは再び関氏の家臣となって、元のさやに納まったとの事・・・
Sizugatakezikeiretu

とは言え、同時進行の長島城や峯城の攻防戦は、まだ続いています
【長島城の戦い】>>
【峯城の戦い】>>

しかも、何たって、この開城の6日後に、あの勝家がいよいよ出陣・・・ご存知の賤ヶ岳が待っておりますが、それらのお話はコチラをご参照に↓

【賤ヶ岳前夜】>>
美濃の大返し】>>
【賤ヶ岳…佐久間盛政の奮戦】>>
【前田利家の戦線離脱】>>
【北ノ庄城・炎上前夜】>>
【柴田勝家とお市の方の最期】>>
【織田信孝・自刃】>>
【佐久間盛政の処刑】>>
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