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2019年4月28日 (日)

信長ピンチの「金ヶ崎の退き口」で殿の木下藤吉郎秀吉は…

 

元亀元年(1570年)4月28日、金ヶ崎城の戦いにて浅井と朝倉の挟み撃ちに遭った織田信長が無事に退くため、織田軍の殿を務めた木下藤吉郎が金ヶ崎城より撤退しました。

・・・・・・・

永禄十一年(1568年)7月に、越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)(9月24日参照>>)のもとに身を寄せていた足利義昭(あしかがよしあき・義秋)からの要請を受けた(10月4日参照>>)織田信長(おだのぶなが)は、義昭を奉じて上洛すべく、妹(もしくは姪)お市の方を嫁にやって縁を結んでいた北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)の下を、出発の前月に訪れて上洛の道筋を再確認(6月28日前半部分参照>>)、永禄十一年(1568年)9月7日、いよいよ岐阜(きふ=岐阜県岐阜市)を出立しました(9月7日参照>>)

途中、浅井とは逆に上洛の道筋を譲ってはくれなかった六角承禎(ろっかくじょうてい=義賢)(9月13日参照>>)三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好宗渭・岩成友通)(9月23日参照>>)などを蹴散らして、無事、上洛を果たし、10月18日に朝廷からの将軍宣下を受けた義昭が第15代室町幕府将軍に就任する(10月18日参照>>)という、ご存知の展開・・・

その後、信長は将軍=義昭の名のもとに、各地の諸将に将軍就任の挨拶に上洛するよう要請するのですが、それを拒んだのが、かの朝倉義景でした。

Asakurayosikage500a それは、かつては同じ主君=斯波(しば)氏のもとにいた織田へのプライドなのか?それとも、すでにギクシャクし始めていた義昭と信長の関係(1月23日参照>>)を見据えてか?・・・とにかく、翌年になっても信長の要請を拒みつづけます。

かくして元亀元年(1570年)4月20日、信長は3万の軍勢を率いて越前への遠征に出立し、同月25日から、朝倉の前線である天筒山金ヶ崎城(てづつやま・かながさきじょう=福井県敦賀市)への攻撃を開始したのです(4月26日参照>>)

これに困惑したのが近江の浅井長政です。

なんせ朝倉とは長期に渡って同盟を結んでいる旧知の友・・・一方の信長とも、嫁の兄(もしくは叔父)として同盟を結んでいるわけで。

悩んだ末に結局、朝倉に味方する事とした長政に対し、この状況を知った信長が、「このままでは挟み撃ちになる!」とばかりに、即座に撤退を決断し、わずかの手勢を連れて金ヶ崎を出発する・・・という、有名な「金ヶ崎の退き口」ですが、
Anegawaitikankeizucc
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために、趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

この信長さんの状況については、以前の4月27日のページ>>を見ていただくとして、本日は、その殿(しんがり)を務めたとされる木下藤吉郎秀吉(きのしたとうきちろうひでよし=後の豊臣秀吉)のお話を、『絵本太閤記』に沿ってご紹介させていただきたいと思います。

ご存知のように、殿とは、軍を撤退する時の最後尾の位置・・・合戦における行軍は、向かう時よりも撤退する時の方がはるかに難しく、その中でも最後尾は、敵に追われながらの死を覚悟の乱戦となるは必至な場所ですから、最も危険な任務なわけで・・・

そんな危険な任務に秀吉が自ら名乗り出て・・・と、言いましても、実のところ、この「秀吉が殿軍の大将」という一件に関しては信ぴょう性が疑われる部分もあり、まして「太閤記」などは主人公が秀吉=殿下様々なので、まさにヒーロー伝説盛りまくりな部分も感じられるのではありますが、本日は、そこンとこを踏まえつつ、話半分な感じでよろしくお願いします。

・‥…━━━☆

絶賛攻撃中の4月27日、「浅井長政の挙兵に合わせ、朝倉義景も自らが本拠=一乗谷(いちじょうだに=福井県福井市城戸ノ内町)を出馬する」。。。との一報が届いた織田軍の陣中にて、すぐに行われた評議の席にて、
「大量の旗を立てて、本隊が本道を退いて行って、本隊に信長さんがおると思って、朝倉の目をソチラに向けて食い止めてる間に信長さんは側近を連れて間道を進んで下さい。
例え朝倉勢が何千何万とおろうとも、この藤吉郎が殿を務め、2~3日は食い止めてみせますから安心しといて下さい」
と、秀吉が殿軍の大将を買って出ると、信長は
「よし!」
と・・・

かくして元亀元年(1570年)4月28日夜、佐久間信盛(さくまのぶもり)佐々成政(さっさなりまさ)など、一部の諸将を連れて陣を引き払い、西近江路を避けて若狭(わかさ=福井県西部)方面から琵琶湖(びわこ)の西岸を抜けるルートをひた走ります。

一方、柴田勝家(しばたかついえ)明智光秀(あけちみつひで)池田勝正(いけだかつまさ)らが率いる総勢6万の本隊(←盛ってるっぽい)は、信長の旗をド真ん中に守りつつ、堂々と本来の近江方面へ向けて撤退を開始します。

これを迎え撃つ浅井長政は、地の利を持つ本願寺門徒が示す要所に軍を配置して、信長と雌雄を決すべく構え、やって来た本隊に向けて鉄砲をお見舞いしますが、やがて、その本隊に信長がいない事を知って、
「どうやら、他の道で逃げたようだ」と察し、
ならば、戦うはムダと判断して、そのまま兵を退きます。

この間に手勢3千人(ホンマかいな?)で以って金ヶ崎に留まっていた秀吉は、残った彼らに向かって、
「俺は、ここで朝倉の大軍相手に稀代の武功を挙げ、先輩たちをアッと言わせたるねん」
と言って、その作戦を伝えます。

おそらく大軍を率いてやって来る義景は、もはや夜の10時を過ぎた今、到着後すぐに戦いを仕掛けて来る事は無いだろうと、まずは蜂須賀正勝(はちすかまさかつ=小六)又十郎(またじゅうろう)兄弟に千人を与えて城から離れた(敵をおびき寄せる予定の)道筋に伏兵として隠し、次に堀尾吉晴(ほりおよしはる)らの諸将に500人を付けて、それぞれに松明(たいまつ)と紙で作った旗らしき物を持たせ周辺の山や谷に放ち、合図に応じて一斉に松明に火をつけて旗を照らしつつ徘徊するよう手はずを整えます。

さらに浅野長政(あさのながまさ)に500人を付けて周辺の山々でかがり火を焚き、いかにも大軍がいるように見せ書けるよう頼み、秀吉自身は千余人で以って、城の前面にて構えます。

そこへ、3万5千余騎(←同じく盛ってるっぽい)を率いた朝倉義景が金ヶ崎城周辺に到着・・・しかし、まわりは日暮れはとうに過ぎた暗闇。

その中を遥かに望めば、左右の山におびただしい数の陣がかがり火を焚いて夜営中、
「さては、未だ信長は退いてはいなかったか?」
と思うものの、さすがにこの闇夜では大軍の統率も取り難く、味方の人馬の疲れもあり、朝倉勢も、この近くにて夜営をすべく陣を構えます。

「朝倉が夜営を敷いた」
との知らせを聞いた秀吉は
「計画どおり」
とほくそ笑みつつ、その夜も更けた頃・・・「今だ!」
とばかりに、まずは自身が1500人で以って朝倉の陣営を襲撃します。

朝倉勢が驚いて迎え撃つところに、秀吉の合図にて、四方の山々に隠れていた諸将の軍勢が一斉に松明に火をつけて鬨(とき)の声を挙げると、昼間のように明るくなる中で数え切れぬほどの旗が翻るさまは、まるで大軍が忽然と目の前に現れたかに見え、さらに驚く朝倉軍は、たちまち崩れ、散り散りに敗走していくのです。

そこをすかさず斬りこんで、あたりは瞬く間に屍の山と・・・

もちろん、中には冷静な将もいて、
「慌てるな!敵は小勢や。味方同士で同士撃ちするな!」
と声かけますが、もはや大勢がパニック状態になっている中では崩れていく一方です。

そこを何とか逃げ出せた者にも、前方に待ち構えていた蜂須賀隊が斬って入る・・・そうなると、もはやどうしようもなく、大軍は総敗軍となって、それぞれに落ちて行くのが精いっぱい。

やがて白々と夜が明けると・・・
「…敵を討つ事八千余人、味方の手負い一人もなく…」(『絵本太閤記』談)
(さすがに、これ↑は盛り過ぎか?)
3千余兵は威風堂々と引き取った・・・と、、

・‥…━━━☆

と、まぁ、さすがに秀吉側の死傷者ゼロな点は、話半分どころか、話4分の1くらいな盛り感満載ですが、ご承知の通り、この時の信長が無事この窮地を脱した事は事実ですし、琵琶湖の西を行った信長に対し、越前から近江にかけての敗走の道で、織田軍の殿が頑張った事は確か・・・

また、永禄六年(1563年)から続いていた若狭の武田(たけだ)氏との戦い(8月13日参照>>)の影響で、この頃の朝倉軍はかなり疲弊していたとも言われ、そこに、相手が大軍と言えど、殿軍が奮戦できる余地があったのかも知れませんね。
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2019年4月22日 (月)

戦国の幕開け~細川政元による将軍交代クーデター「明応の政変」

 

明応二年(1493年)4月22日、室町幕府将軍を足利義稙から足利義澄に交代させる細川政元によるクーデター「明応の政変」が決行されました。

・・・・・・・・

もともと、応仁の乱の原因の一つである室町幕府将軍の継承問題・・・(5月20日参照>>)

応仁の乱の時は、当時、子供がいなかった第8代将軍=足利義政(あしかがよしまさ)が、出家していた弟=足利義視(よしみ)を、わざわざ還俗(げんぞく=出家した人が俗世間に戻る事)させてまで、次期将軍に…と約束したにも関わらず、その直後に正室=日野富子(ひのとみこ)との間に男子=後の足利義尚(よしひさ)が生まれたために、話がややこしくなって・・・

もちろん、それだけではなく、代々管領(かんれい=将軍の補佐)を受け継いでいた三管領家(細川・斯波・畠山)のうち斯波(しば)畠山(はたけやま)の後継者争い(1月17日参照>>) や、やっぱり次代の家督を巡ってモメていた各地の武家や同じ領地を取り合ってた武将同士がそれぞれに分かれて縦ラインでくっついて~みたいな、様々な要因があるわけですけどね。

とにもかくにも、色んなところの色んなモメ事が合体しつつ10年以上に渡って行われた応仁の乱は、東軍の総大将であった細川勝元(ほそかわかつもと)&西軍の総大将だった山名宗全(やまなそうぜん=持豊)の両巨頭の死(3月18日参照>>)を以って下火となり、それぞれの息子である細川政元(まさもと)山名政豊(まさとよ)によって和睦交渉が成され、第9代将軍は義政の実子=義尚が継ぐ事で落ち着きました。
(それぞれの武家の争いには、まだまだ続く物もあります(12月12日参照>>)

ところが、その後を継いだ息子=義尚が、幕府に歯向かうの六角氏討伐にあたっていた近江鈎(まがり)(12月2日参照>>)の陣中にて25歳の若さで病死(3月26日参照>>)・・・しかも、未だ後継者ももうけておらず・・・

Asikagakuboukeizu3 ●足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

で、8代将軍の嫁で亡き9代将軍の生母である富子の要望もあって、結局、義視の息子の足利義稙(よしたね=義材)が10代将軍を継ぐことに・・・なんせ、義視の正室は富子の妹なので、つまりは甥っ子ですから、以前はモメたものの、なんだかんだで息子の代わりは彼しかいないわけで・・・

とは言え、将軍就任の当初から、この義稙の将軍には反対の意を示す者も少なからずいたのです。

なんせ、現在、政権の中枢にいる人たちは、あの応仁の乱では義視&義稙父子とは敵の立場にあった人たちなわけですから、今回、義稙が将軍に就任するとなると、当然、その応仁の乱直後に義稙とともに逃げ隠れしていた側近たちもついて来る事になるわけで、今度は逆に、自分たちの地位が彼らに取って代わられる事になるかも・・・

すでに3度の管領を経験している細川政元も、その一人・・・しかも、あの応仁の乱時代には、細川とともに管領を継ぐ立場にあった斯波氏と畠山氏が、ともに乱後も続きっぱなしの後継者争いに目いっぱいで自ら衰退の道をたどり、三管領家のうち、 もはや幕府の中枢にいるのは自分とこの細川のみ・・・

そこで、幕府内政権を掌握すべく動く政元は、まずは延徳三年(1491年)に九条政基(くじょうまさもと)の息子をわずか2歳で養子に迎え、細川家の後継ぎが代々名乗る聡明丸(そうめいまる)を名乗らせます。

摂関家のおぼっちゃまを細川家の養子に迎えるというのは初めての事で極めて異例ですが、彼の母親が、足利義政の弟である足利政知まさとも)の奥さんの妹だった事から、その足利政知との関係を重視しての養子縁組だったわけです。

 この足利政知は、第6代の将軍=足利義教(よしのり=義政の父)の時代に中央幕府に歯向かった鎌倉公方足利持氏(もちうじ)(2月10日参照>>)に代わって、正式な鎌倉公方として東国に派遣された人物(戦乱で鎌倉に入れなかったため堀越に御所を設け堀越公方と呼ばれる)で、彼の三男である潤童子(じゅんどうじ)は次期公方に予定されていたのです。

そして、政元が次期将軍に推していたのが、政知の次男である足利義澄(よしずみ=清晃)・・・
つまり、
将軍=義澄に、
その弟が鎌倉公方、
そこに母親が姉妹同志
(=従兄弟)の聡明丸が管領細川家を継ぐ
という政権の構図が政元の中にあったわけです。

しかも、ここに来て幕府は、先の将軍=義尚と現将軍=義稙、この2人の将軍を要しても、近江(おうみ=滋賀県)にて反発する六角高頼(ろっかくたかより)という一武将すら、まともに制する事ができないという、将軍の体たらくを露見させてしまいます(12月13日参照>>)

 なのに将軍=義稙は、明応二年(1493年)正月、畠山義豊(はたけやまよしとよ=基家)討伐のため、河内(かわち=大阪府東部)出陣の大号令を各大名に向けて発するのです。

これは、例の応仁の乱以来モメている畠山氏の家督争い(7月12日参照>>)の一方(畠山政長側)の味方を幕府=将軍がする事になるわけで・・・

政元が反義稙派を着々と集める中、さすがの日野富子も、ここに来て政元の側につく中、先の六角との戦いの時には将軍=義稙ベッタリだった大物=赤松政則(あかまつまさのり)に自らの妹を嫁がせて(3月11日参照>>)味方につけた政元は、いよいよ、将軍すげ替えクーデターを決行します。

Hosokawamasamoto700明応二年(1493年)4月22日の夜、例の河内に出陣した義稙に随行せず、京都に留まっていた細川政元は、 留守中の義稙の将軍職を廃し、僧となっていた義澄を還俗させて保護し、第11代将軍として擁立したのです。

さらに、義稙の関係者の邸宅や寺院を襲撃して京都を掌握・・・金に物を言わせて朝廷も味方につけていますが、さすがに将軍宣下までは受けられず、この時は官位を授かるのみに留まりましたが・・・

その後、翌閏4月、義稙らの籠る正覚寺(しょうがくじ=大阪市平野区加美)を政元配下の上原元秀(うえはらもとひで)らが率いる4万の軍勢が攻撃します。

一方の義稙側には、同行する畠山政長(はたけやままさなが)の地元=紀州(きしゅう=和歌山県)から援軍が駆け付けるはずでしたが、コチラは(さかい=大阪府堺市)に集結していた政元方によって行く道を阻まれて進めず・・・結局、援軍が望めない事を知った政長が閏4月25日に自害した事で、義稙は投降を決意し、その後、政元らによって幽閉されました。

ここに、細川政元によるクーデター「明応の政変」は完結したのです。

しかし、世の中、そう思い通りにはいかない物・・・

実は、この政変の2年前の延徳三年(1491年)、父=足利政知の死を受けた長男の足利茶々丸(ちゃちゃまる)弟の潤童子とその母を殺害して、事実上の堀越公方になっていたのです。

彼=茶々丸は、一説には、素行が悪く乱暴者だったため、父=政知の命令によって幽閉されていたとも、我が子を次期公方にしたい潤童子の母親によって幽閉されていたとも言われますが、とにもかくにも、何かの事情で廃嫡(はいちゃく=後継者から除外される事)されて20歳過ぎても元服すらさせてもらえずに牢獄に閉じ込められていた茶々丸が牢番を殺害して脱獄&実力行使で、堀越公方の座を弟から乗っ取ったわけです。

なので、将軍&公方&管領後継者を、自身の思い通りに構成する政元の思惑は、この政変の時点で、すでに消えていたわけですが、それはそこ、「将軍さえ思い通りなら、何とか修正可能」と、まだ思っていはず・・・

ところがドッコイ、政変から、わずか半年後の明応二年(1493年)10月、この茶々丸の堀越館が伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき=北条早雲)に襲撃され、堀越公方が事実上滅亡してしまうのです(「伊豆討ち入り」10月11日参照>>)

ご存知のように、その後の北条は、これキッカケで約100年に渡って関東を牛耳る事に・・・くわしくは【北条・五代の年表】で>>

一方の政元・・・政変の翌年に、無事、義澄の将軍宣下はなされるものの、事態はヤバし・・・やむなく政元は、文亀三年(1503年)に細川家の支族である阿波(あわ=徳島県)細川家から養子を迎えて、その子に細川家の通字(とおりじ=その家系に代々受け継がれる字)である「元」のつく細川澄元(すみもと)を名乗らせ、先の聡明丸を澄之(すみゆき)と名乗らせる・・・つまり、聡明丸=澄之を後継者から外したわけです。

あ~あ┐( -"-)┌ 、自ら後継者争いフラグを立てちゃいましたよ~

わずかの間に大きく狂ってしまった政元の幕府掌握計画・・・やがて成長した義澄は自身の思う政治をやろうとして政元との間がギクシャクし始める中、澄元の出現によって追い払われた感が拭えない澄之派の家臣によって、永正四年(1507年)6月、細川政元は暗殺され、細川家は見事なまでの後継者争いに突入してしまうわけです(8月1日参照>>)

 さらに、澄元&澄之に加え、もう一人の養子であった細川高国(たかくに)も入って三つ巴の後継者争い様相を呈する中、翌永正五年(1508年)には、この混乱の乗じて幽閉先から脱出した前将軍=義稙が、周防(すおう=山口県)大内義興(おおうちよしおき)の支援を受けて上洛して将軍の座を・・・と、世はまさに戦国の幕開けへと向かっていくのです。

★その後の流れ
【船岡山の戦い】>>
【腰水城の戦い】>>
【等持院表の戦い】>>
【神尾山城の戦い】>>
【桂川原の戦い】>>
【東山・川勝寺口の戦い】>>
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2019年4月17日 (水)

秀吉VS勝家の賤ヶ岳前哨戦~滝川一益・峯城歌合戦

 

天正十一年(1583年)4月17日、柴田勝家と羽柴秀吉が戦った賤ヶ岳の戦いの前哨戦で、滝川一益の腹心・滝川儀太夫が守る峯城が開城されました。

・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き後に、織田家家臣筆頭の柴田勝家(しばたかついえ)と、山崎で主君の仇を討った羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)との間で信長の後継を巡って起こった争い=賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦い・・・

信長の死から、ここまでの経緯は下記↓関連ページでご覧いただくとして…
●本能寺の変>>
●山崎の戦い>>
●清洲会議>>
●秀吉演出の信長の葬儀>>
●長浜城の戦い>>
●長島城の戦いが始まる>>
●亀山城の戦い>>
●勝家が福井を出陣&秀吉が佐和山に着陣>>
Sizugatakezikeiretu

簡単な流れとしては……
信長亡き後の清須会議(きよすかいぎ=清洲会議)で織田家後継者が嫡孫の三法師(さんほうし=後の織田秀信)に、その後見人に信長次男の織田信雄(のぶかつ・のぶお=北畠信雄)と三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)が就任するも、納得いかない信孝が岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)に籠城して反発したので、秀吉が、信孝を推す勝家の支城である長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を陥落させると、同じく信孝推しの滝川一益(たきがわかずます)が、自身の居城=長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)を拠点に伊勢(いせ=三重県南東部)周辺の秀吉傘下の城を奪ったので、秀吉は城を奪還すべく伊勢方面に出陣して転戦するのです。(←今ココ)

Sizugatakezensyounagasimazyou2 ●←賤ヶ岳前哨戦
 長浜城の戦いの位置関係図

クリックで大きく(背景地理院地図>>)

こうして、
天正十一年(1583年)2月、総勢7万5千の大軍で三方向から北伊勢に入った秀吉軍の実弟=羽柴秀長(ひでなが)&甥の羽柴秀次(ひでつぐ)らが、滝川一益の甥=滝川儀太夫(ぎたゆう=益重?益氏?)の籠る峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)を包囲したのです。
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秀吉は川崎村(かわさきむら=三重県亀山市の北東部)に本陣を置いて、ネズミ一匹通さぬように柵で以って城を囲み、堀を埋め、2月16日には城下一帯に火を放って執拗に攻め立てますが、峰続きの天然の要害に囲まれた峯城は、なかなか落ちそうになく、攻め手が近づけば、籠城側は貯めに貯めた糞尿をまき散らして追い払う・・・どちらにも決定打が無いまま小競り合いばかりが続きます。

そんな中、戦線がこう着状態となったある日・・・籠城側から一首の狂歌(きょうか=滑稽な社会風刺や皮肉などを盛り込んだ短歌)が送られて来ます。

♪上野(こうずけ)の ぬけとは鑓(やり)に 会いもせず
 醍醐の寺の 剃刀(かみそり)をとげ ♪
これは、秀吉軍の一人として参戦していながら、未だ大した働きをしていなかった織田信包(のぶかね=信長の弟)に対し、彼がかつて醍醐寺(だいごじ=京都府京都市伏見区)の近くに屋敷を構えていた事を皮肉って
「上野介(こうずけのすけ=信包の事)君は、ヤリやなくて坊主にするためのカミソリを研いどいた方がえぇんちゃうん?」
てな事を歌った物・・・

こういう場合、当然、言われっぱなしにはしておけませんがな!

で、寄せ手側からは中尾新太夫(なかおしんだゆう)なる武将が出て、
♪春雨に 峰々までも くずれ落ち
 つれて流るる 滝川の水 ♪
「峯城が落ちるんと同時に滝川儀太夫も一巻の終わりやっちゅーねん」
と返したのだとか・・・

まぁ、この『峯城歌合戦』の話は、地元に伝わる昔話・伝説の域を越えない話なのでアレですが、この峯城周辺で、1ヶ月近くに渡るこう着状態が続いた事は確か・・・

とにもかくにも城の攻略を1番の目標とする秀吉は、お得意の干殺し(ひごろし・ほしごろし=兵糧攻め)の持久戦法を続ける一方で、金堀り衆にトンネルを掘らせて 土塁(どるい=土制の堤防)近くまで進み、盛んに城内を威嚇します。

しだいに飢えていく城内・・・そんな中、去る3月3日に、この峯城と同時攻撃されていた佐治益氏(さじますうじ=滝川益氏?)が守る亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)が落ちた(3月3日参照>>)というニュースが入って来たのです。

そこを、すかさず投降を促し、和平交渉に入る秀吉・・・

「もはや万策尽きた」と感じた滝川儀太夫は、天正十一年(1583年)4月17日、ついに峯城の開城を決意し、今回、秀吉とともにこの戦いの指揮を取っていた織田信雄に、城を明け渡したのでした。

いやはや、もし、この時代にスマホがあって、峯城の儀太夫と湖北に進んだ柴田勝家と連絡をとっていたら・・・もう、ワクワクしますね~

そうです。。。携帯の無い時代、おそらく峯城の城内には、秀吉の動きも、勝家の動きも伝わっていなかったのでしょう。

この時、一旦、湖北方面に戻っていた秀吉は、この峯城陥落の前日の16日に信孝の籠る岐阜城に向かいますが、大雨で長良川が渡れず、やむなく大垣(おおがき=岐阜県大垣市)に留まっていたのですが、実は一方の勝家の方も越前を出て準備万端整えていたのです。

この3日後の4月20日に、勝家は湖北=賤ヶ岳にて秀吉軍に向けて戦闘を開始・・・

そして自軍のピンチを知った秀吉が慌てて、不眠不休で西へと向かう・・・ご存知『美濃の大返し』(4月20日参照>>)となるわけです。
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2019年4月12日 (金)

主君からの独立に動く宇喜多直家~天神山城の戦い

 

天正三年(1575年)4月12日、浦上からの独立を画策する宇喜多直家が挙兵しました。

・・・・・・・・・

長きに渡って中国地方を二分していた山陰の雄=出雲(いずも=島根県東部)尼子(あまこ・あまご)と、山陽の雄=周防(すおう=山口県の東南部)大内(おおうち)を倒して西国の雄となった安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)・・・はじめは、その毛利の要請によって畿内(きない=山城・大和・河内・和泉・摂津の5か国)より西へと進出しはじめた尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)でしたが、元亀二年(1571年)に、その元就が亡くなって、その後を孫の毛利輝元(てるもと)が引き継ぐ頃には、世に言う「信長包囲網」が敷かれて周囲は敵ばかり。

さらに、信長に京都を追われた第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)が毛利に身を寄せた事から、完全に敵対関係になる両者・・・

信長の命を受けた羽柴秀吉はしばひでよし=後の豊臣秀吉)但馬(たじま=兵庫県北部)を、明智光秀(あけちみつひで)細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らに丹波たんば=京都府中部・兵庫県北東部)丹後(たんご=京都府北部)を平定するようになって来ると、御大の毛利との間に挟まれた形となる備中(びっちゅう=岡山県西部)やら備前(びぜん=岡山県東南部)やら但馬(たじま=兵庫県北部)やら播磨(はりま・兵庫県南西部)・・・とにかく、そのあたりの諸将は、これまでの領地の取り合いに加え、その身の置き所も模索せねばならないわけで・・・

Ukitanaoie300a そんな中、備前天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)浦上宗景(うらがみむねかげ)の家臣でありながら、主君に匹敵するほどの力をつけていた宇喜多直家(うきたなおいえ)は、事実上の備中の覇者となっていた三村家親(みむらいえちか)(2月15日参照>>)を暗殺してさらに力をつけ、主家=浦上からの独立を画策して毛利に近づきます。

一方の浦上宗景は、主家を凌ぐ勢いを持つようになった直家を恐れ、信長を頼ります。

おりしも今は、備中兵乱(びっちゅうひょうらん)(6月2日参照>>)と呼ばれる一連の戦いが繰り広げられている真っ最中・・・そこで、まず直家は、流浪の身となっていた浦上久松丸(ひさまつまる)を自身の居城=岡山城(おかやまじょう=岡山県岡山市)に招いて保護します。

…というのも、そもそもは、
現在の当主である浦上宗景の父=浦上宗村(むねむら)が享禄四年(1531年)に細川管領家(ほそかわかんれいけ=室町幕府管領を代々受け継ぐ細川家)の後継者争いに巻き込まれて亡くなって(11月12日参照>>)、未だ幼き長男(つまり宗景の兄)浦上政宗(まさむね)播磨室山城(はりまむろやまじょう=兵庫県たつの市御津町・室津城)にて浦上家を継いだのですが、その兄弟が成長して後、兄と不仲になった宗景が天神山城を築いて離反し、備前の地を横領したといういきさつがありました。

しかもその後、浦上と敵対していた赤松政秀(あかまつまさひで)が政宗の息子の清宗(きよむね)の婚礼の席を襲撃して父子を殺害し、清宗の花嫁になるはずだった黒田職隆(くろだもとたか)の娘を、その弟の誠宗(なりむね・あきむね)の嫁として迎えて、これを浦上の後継ぎとしたのですが、さらにその後、その誠宗を宗景が暗殺・・・つまり、宗景の浦上当主の座は兄一家から奪った物だったわけで……

で、その誠宗の遺児が、上記の久松丸・・・つまり、直家は主家を討つ=謀反ではなく、あくまで「久松丸が正統な跡継ぎである」と主張して宗景の追放を目論んだわけです。

天正三年(1575年)1月、毛利と敵対する美作三浦(みうら)氏との戦い(1月22日参照>>)に参戦する事で毛利の傘下である事=宗景からの離反を明白にした直家は、その年の4月、ついに宗景打倒に動き出します。

天正三年(1575年)4月12日、天神山城の支城の1つである日笠頼房(ひかさよりふさ)の守る青山城(あおやまじょう=岡山県和気郡和気町)を攻略しようと城下にて野戦を展開しますが、この時は日笠勢の勢いに阻まれて撤退・・・

以後5月~7月にかけて、両者の配下の城を巡って、いくつかの小競り合いがあり、ともに取ったり取られたりとなりますが、この間、本家本元の天神山城が堅固な山上に築かれた山城で「ただ単に力攻めしても味方の損失が大きくなるだけ」と察していた直家は、得意の調略で以って城内にいる一部の重臣を味方にすべく誘うと同時に、周辺の国衆にも根回しして天神山城を徐々に孤立させていくのです。

やがて、例の備中兵乱(びっちゅうひょうらん)で毛利と戦っていた松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市)が5月に陥落し、翌6月には城主の三村元親(みむらもとちか)が自刃し(6月2日参照>>)周囲との連携も断たれた天神山城は完全に孤立してしまいます。

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天神山城合戦・位置関係図

↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなのある夜(日付については諸説あり)・・・
その日は天神山一帯に、とてつもない風が吹き荒れたのです。

こんな日を待っていたのが、すでに直家に同調している天神山城内の内応者・・・かねてからの計画通り、城内のあちこちに火を放つと、強風にあおられてたちまち燃え上がり、城中は瞬く間に大混乱となります。

この、火が上がるのを待っていた直家が、それを合図に一斉に天神山に攻め登ると、未だ宗景に忠義を貫く譜代の家臣らが応戦しますが、残念ながら次第に討ち取られ、その大半を失ってしまいます。

しばらくは、その様子を見ていた浦上宗景でしたが、敗戦が濃くなる中で側近に勧められ、山の背後から尾根伝いに益原(ますばら=岡山県和気郡和気町)へと脱出し、片上(かたかみ=岡山県備前市)から播磨へと逃走・・・

そこに隠れ住みつつ、幾度か上洛して、お家再興を図るべく信長に謁見するも支援は得られなかったとか・・・

あるいは、一族の浦上景行(かげゆき)が城主を務めていた富田松山城(とだまつやまじょう=岡山県備前市東片上)に籠城しつつ、天正五年(1577年)から天正七年(1579年)にかけて、天神山城奪回に撃って出るも敗戦したとか・・・

あるいは、ほとぼりがさめた頃に姫路城(ひめじじょう=兵庫県姫路市)黒田如水(じょすい=官兵衛孝高・職隆の息子)の保護を受けた後、黒田家の筑前(ちくぜん=福岡県西部)転封にともなって福岡へ行き、そこで80余歳にて病死したとか・・・

浦上宗景のその後については複数の説がありますが、いずれも大勢の変化はなく、結果的に、この天神山城の戦いにて浦上も事実上の滅亡となります。

一方の宇喜多直家は・・・
彼にとっては、この天神山城攻めは、あくまで浦上を追放するための戦いであり、城自体は戦略的価値がなかったと見え、ほどなく城は廃城となり、直家が備前全土の覇者となります。

とは言え、
ご存知のように、直家にとっては毛利との蜜月も浦上追放のためだったようで・・・

勢いづいた信長配下の秀吉が三木城(みきじょう=兵庫県三木市)にやって来る(3月29日参照>>)天正六年(1578年)頃には、今度は信長の傘下に鞍替えして毛利と戦う事になるのですが、そのお話は【宇喜多VS毛利の作州合戦】>>でどうぞm(_ _)m
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2019年4月 8日 (月)

ほぼ満開!枚方~渚の院跡の桜と在原業平

 

枚方は、京阪電車の御殿山駅近くにある「渚の院跡」に行ってきました~
ちょうどが見頃でした。

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渚の院跡(京阪・御殿山駅より徒歩10分)

「渚の院」「桜」と言えば、やはり『伊勢物語』ですよね~

『伊勢物語』は、むかし男ありけり・・・で始まる 平安初期に成立したとされる歌物語。

この物語の主人公である「男」は、物語の中では誰とは特定されないものの、かなりの史実が含まれている事から、平安一のモテ男=在原業平(ありわらのなりひら)であろうというのが定説です。

在原業平は、第51代=平城(へいぜい)天皇の孫にあたりますが、弟の嵯峨(さが)天皇に皇位を譲った後に復権を願って事を起こしてしまった(9月11日参照>>)ため、平城天皇の皇子である高丘親王(たかおかしんのう=高岳親王)(1月23日参照>>)阿保親王(あぼしんのう=業平の父)も失脚・・・当然、その息子である業平もエリートコースから除外される事になります。

しかし、その後、嵯峨天皇の孫にあたる文徳(もんとく)天皇が第55代天皇として即位した事から、その第1皇子であった惟喬親王(これたかしんのう)に仕えていた業平にも復活のチャンスが訪れたかに見えたものの、時の権力者である藤原(ふじわら)藤原明子(あきらけいこ)が生んだ惟仁(これひと)親王が、わずか生後8ヶ月にて皇太子に据えられ、後に、わずか9歳で第56代清和(せいわ)天皇として即位(12月4日参照>>)してしまう・・・つまり、惟喬親王も失脚してしまったわけです。

そんな惟喬親王の別荘だったのが「渚の院」です。

現在の京阪電車の御殿山駅から枚方市駅あたりは、この平安時代には「禁野(きんや)と呼ばれる一般人立ち入り禁止の皇室専用の狩り場で、若き日の業平も惟喬親王のお供をして、度々狩りに訪れた場所でしたが、皇位継承の争いに敗れた惟喬親王は、失意のまま隠遁生活に入り、この渚の院に来ては、狩りをするでもなく、お酒を飲みながら和歌など詠む日々を過ごしていたのだとか・・・

そんな頃の一場面を語るのが『伊勢物語』第八十二段『渚の院』です。

Isemonogatari82a700 「むかし、惟喬の親王と申す親王おはしましけり…(中略)…いま狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし」

渚の院にやって来た惟喬親王は、「ここの桜は事に美しい」と、一行はその桜の下で集い、歌を詠む事に・・・

そばにいた右馬頭(うまのかみ=朝廷の馬係・官職)
♪世の中に たえてさくらの なかりせば
 春の心は のどけからまし♪
「この世に、桜という物が無かったら、春でも心静かにしておれるのに…」
(桜があるから、もう咲いたか?散ったか?と心がソワソワするんや)
と詠むと、

そばにいたもう一人が
♪散ればこそ いとど桜は めでたけれ
 憂き世になにか 久しかるべき♪
「散るからこそ桜は良いんです。いつまでもある物や無いからこそ…」
と詠んだ。。。と、

『伊勢物語』では、この『渚の院』の場面で歌を詠んだ人を「右馬頭」と呼び、「その名前は忘れた」と、あえて名を明かしませんが、前後の関係から見て、当然、この右馬頭は在原業平の事です。

なぜ、わざわざ名を明かさないのか??

もちろん、作者の真意は藪の中ですが、私としては、この時のこの歌に詠まれている「桜」が単に、そこに咲く「桜」を意味しているのでは無いからではないか?と推測しています。

以前、業平さんのご命日の日に書かせていただいたページ(5月28日参照>>)で、清和天皇のもとに嫁ぐ予定の藤原高子(こうし・たかいこ)を略奪したり、藤の花を愛でる酒宴の席で「藤の花にちなんで、藤原家の繁栄を歌に詠んでくれ」と言われたのに「思った事はそのまま口にしないほうがいい」という意味深な歌を詠んだり・・・と、「藤原氏によってはじかれたであろう業平の、ささやかな抵抗が垣間見える」とさせていただきましたが、

その感じでいくと、この歌も・・・
「それが無ければ静かにしていられる物」は、桜ではなく「後継者争い」では無かったか?と・・・

だからこそ、詠んだ人物を特定しなかったのかな?…と思うのです。

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渚の院跡

惟喬親王の別荘だった渚の院の場所には、その後、観音寺というお寺が建立されますが、明治の廃仏毀釈により廃寺となり、現在は、その梵鐘だけが残ります。

訪れる人も少ないこの場所に、今年もひっそりと咲く桜・・・
遠い昔に思いを馳せつつも、何やら時が止まったようにも見えました。

Nagisanointizu ←渚の院跡への地図
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

 
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2019年4月 4日 (木)

六角と浅井の代理戦争~大溝打下城の戦い

 

天文十八年(1549年)4月4日、浅井の援軍を得た海津政元が、海津政義の拠る大溝打下城を攻めました。

・・・・・・・・

これまで何度か登場しておりますが、中世の頃の近江(おうみ=滋賀県)は・・・

第59代宇多天皇(うだてんのう)の流れを汲む宇多源氏(うだげんじ)で、平安時代から鎌倉時代に活躍した佐々木信綱(ささきのぶつな)の子孫たちが勢力を誇る場所でありました。

ご存知の江南(こうなん=滋賀県南部)六角氏(ろっかくし)江北(こうほく=滋賀県北部)京極氏(きょうごくし)、さらに大原庄(おおはらしょう=現在の彦根市・長浜市付近)大原氏(おおはらし)・・・そして琵琶湖の北西付近を牛耳っていたのが六角や京極と同じく佐々木氏を先祖に持つ高島氏(たかしまし)でした。

その高島氏を中心に朽木氏(くつきし)永田氏(ながたし)平井氏(ひらいし)横山氏(よこやまし)田中氏(たなかし)、そこに別系統の山崎氏(やまざきし)を加え高島七頭(たかしましちとう・たかしましちかしら)と呼ばれる彼らが西近江に君臨していたのですが、

やはりここも、例の応仁の乱のゴタゴタで(10月28日参照>>)、その力関係が微妙に変わって来た六角&京極&浅井の影響を受けてしまうのです。

以前書かせていただいたように、応仁の乱の真っただ中でお家騒動が勃発した京極氏は(8月7日参照>>)自ら衰退の道をたどり、いつしか京極家の家臣であった浅井亮政(あざいすけまさ)に仕切られるようになり(3月9日参照>>)、それを快く思わない六角定頼(ろっかくさだより)と対立・・・

そして、もはや将軍家でさえ手を焼く存在となって(12月13日参照>>)来る六角氏は、さらに領地を増やすべく高島方面へと進出していくのですが、当然、この六角氏の侵攻をヨシとしない京極&浅井とは更なる対立を生む事になって行きます(4月6日参照>>)

そんな中、天文十一年(1542年)に亮政が亡くなった事を受けて、息子の浅井久政(ひさまさ)の時代になって7年後の天文十八年(1549年)、大溝打下城(おおみぞうちおろしじょう=滋賀県高島市勝野)海津政義(かいづまさよし)浅井から六角に寝返ろうとしている事を、海津城(かいづじょう=同高島市)海津政元(かいづまさもと)が久政に報告して来たのです。

そもそもは京極の配下だった海津氏・・・それが、ここのところの京極の失速で、そのまま浅井の配下となっていたのですが、先の浅井亮政によって、甥である政元が海津城にて筆頭とされていた事に、叔父の政義が不満に思っていると聞きつけた六角配下で志賀(しが=滋賀県志賀町付近)を牛耳る佐々木義時(ささきよしとき)が、政義に声をかけたのです。

Utiorosizyou位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

『浅井三代記』によれば・・・
小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市)にて、この報告を受けた久政は怒り心頭・・・早速、配下の浅井政澄(まさずみ)赤尾清定(あかおきよさだ)らに800余騎をつけて海津に派遣したのです。

天文十八年(1549年)4月4日、浅井の援軍を従え、先鋒として打下城に押し寄せた海津政元隊・・・迎える打下城も、すでに佐々木の援軍を得ており、城を撃って出た事で、両者は源氏浜(げんじはま=高島市新旭町)にて合戦となります。

その後、2~3日に渡って両者はぶつかりましたが、なかなか決着がつかず・・・お互いに勝敗が見えない中にも、やや打下城側が優勢であった事から、4月10日になって浅井勢は引き上げ、海津城へと戻りました。

そして4月14日に体制を立て直して出陣・・・再び打下城へと迫りますが、しばらく引き付けた後、絶好のタイミングを見計らって城から撃って出た500余騎の佐々木勢に押されて、浅井勢はまたもや敗退してしまいます。

ちょうど、その頃、伊黒城(いくろじょう=高島市高島)新庄俊長(しんじょうとしなが=法泉坊俊長)という者が仲裁に入ってくれました。

 俊長が政義に対してその思いを聞いてみたところ
「そもそも、浅井家には恨みは無い。。。けど、なんで俺が政元の下に付かなアカンねん!
下になるのは嫌や!と思てた所に佐々木から声かけられて……つい」
との事・・・

「ほな、海津政元の配下やなくて、直接、浅井久政の配下になったらえぇやん」
と俊長さん、見事な回答・・・

以後、政義は浅井の配下となり、この後、何度六角氏が誘っても、浅井を離れる事は無かったのです。

一方、このゴタゴタに関与した佐々木義時は、「亮政の置き土産に付け込んで同族同士を争わせようとした人物」として、その後、高島一帯の諸将から総スカンを喰らったのだとか・・・

やがて、この近江の地に、室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(まさもと)息子たちによる後継者争いが持ち込まれ、その争いの中心人物であった細川晴元(はるもと=澄元の息子)の配下である三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)が頭角を現しはじめ、六角・京極・浅井、ともに戦国後半戦の波に呑まれていく事になります。

●その後の出来事・関連ページ
【江口の戦い】>>
【三好VS六角の志賀の戦い】>>
【菖蒲嶽城の戦い】>>
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