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2019年6月26日 (水)

本能寺の変の余波~前田利家に迫る石動荒山の戦い

 

天正十年(1582年)6月26日、本能寺の変での織田信長の死を受けて、能登での前田利家支配に反発する石動山天平寺衆徒による一揆=石動荒山の戦いが起こりました。

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天正十年(1582年)6月2日、ご存知のように京都の本能寺(ほんのうじ)にて、織田信長(おだのぶなが)が、すでに家督を譲っていた嫡男=織田信忠(のぶただ)とともに死亡します(2015年6月2日参照>>)

この時の信長は、すでに天下に1番近い男とは言え、未だ配下の武将たちは、3ヶ月前に切り取ったばかりの武田(たけだ)領地(3月24日参照>>)維持管理や未だ従わぬ者との交戦に翻弄していたので、信長横死の知らせを聞いた諸将は、すぐでも京都に向かい、仇となった明智光秀(あけちみつひで)を討ちたいところではあったものの、なかなか思うようには動けなかったわけで・・・

北陸柴田勢魚津城の攻防>>
中国羽柴勢備中高松城の水攻め>>
甲斐河尻秀隆(かわじりひでたか)武田残党&甲州一揆>> 
上野滝川一益(たきがわかずます)神流川の戦い>>
信濃森長可(もりながよし)東濃制圧戦>> 
美濃の=稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)本田・北方合戦>>

また、当日、本能寺の1番近くにいて1番早く異変を知った徳川家康(とくがわいえやす)は、わずかの側近しか連れていなかったため、決死の伊賀越え(6月4日参照>>)で領国へと戻り、その後は自身の領地拡大を狙って天正壬午の乱へ突入>>
ま、家康は信長の家臣ではなく、あくまで同盟者なので…

そして、ご存知のように・・・
そんな中でいち早く合戦を休止して(6月4日参照>>)中国大返しで以って畿内に戻り(6月6日参照>>)、四国方面への出兵の準備中だった信長三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)丹羽長秀(にわながひで)らと合流して、6月13日の山崎の合戦(6月13日参照>>)にて光秀を敗走からの死亡に追いやったのが、羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)だったわけです。

一方、上記の通り、北陸にて越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)と交戦中だった柴田勢・・・上杉配下の魚津城(うおずじょう=富山県魚津市)を陥落させたのが、本能寺の変の翌日の6月3日で、その異変の一報を知ったのが、さらに翌日の6月4日でした。

上杉謙信(けんしん)亡き後の後継者争いのゴタゴタ(3月17日参照>>)があったため、信長サイドに越中(えっちゅう=富山県)奥深くまで侵入され(10月4日参照>>)、今回の魚津城攻防戦でも、援軍として近くまで行ったものの、結局、静観するしかなかった景勝ではありますが、「信長が死んだ」となれば話は別・・・その混乱に乗じて侵撃に転じるやも知れませんから、先の魚津城攻防戦に参加していた織田政権の北陸担当の面々も、うかつに領地を離れられず、むしろ今以上に防備を固める事に力を注がねばならなくなっていたのです。

織田政権下のでの北陸方面担当は、北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)柴田勝家(しばたかついえ)を筆頭に、七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)前田利家(まえだとしいえ)富山城(とやまじょう=富山県富山市)佐々成政(さっさなりまさ)金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市)佐久間盛政(さくまもりまさ)などなど・・・

Maedatosiie 『高徳公親翰』なる史料には、この時の前田利家が、
「山崎の合戦にて逆臣の光秀が討たれた事は、まことにめだたい事ですが、当地では浪人が一揆の準備をしているとの噂があったので僕は光秀討伐には参加できませんでした」
的な事を、柴田勝家に報告している事が記録されています。

そう、この時、信長死亡のドサクサで一揆を起こしたのが、かねてより能登(のと=石川県の能登半島)にて利家に反発していた石動山天平寺(いするぎざんてんぴょうじ=石川県鹿島郡中能登町)の衆徒でした。

一揆方は、かつて、能登守護であった畠山(はたけやま)氏の内紛の際に上杉に寝返った事で(9月13日参照>>)、逆に信長を味方につけた長連龍(ちょうつらたつ)によって七尾城を追われ(10月22日参照>>)、その後、上杉領内に亡命していた旧畠山の重臣の温井景隆(ぬくいかげたか)三宅長盛(みやけながもり)兄弟と、そのゴタゴタで一族を失った遊佐景光(ゆさかげみつ=遊佐続光の孫?)らに、
「速やかに援軍を出してくれたら、コチラもお宅らをお助けしまっせ」
と声をかけます。

もちろん、彼ら兄弟にとっては失地を回復するまたとないチャンスですから、この船に乗らない手はありません。

Isurugiarayamanotatakai
石動・荒山の戦い位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして天正十年(1582年)6月23日早朝、上杉景勝の計らいにより、越後の兵・約4千騎(3千とも)を借りた温井らは、海路から越中女良浦(めらのうら=富山県氷見市女良)に上陸し、その日のうちに石動山天平寺へと入り、翌日から早速(とりで)の構築に取り掛かりました。

砦が構築されたのは、七尾街道で芹川(せりかわ=同鹿島郡中能登町)から氷見(ひみ=富山県氷見市)へと抜ける国境にある荒山(あらやま)の北に位置する四方が崖に囲まれた要害の地で、天平寺の南西1kmほどの地点にあり、寺を守るには完璧な場所でした。

とは言え、さすがに、すぐさま完璧な砦が構築できるわけではないですので、この温井らの行動を知った前田利家は、翌日の6月24日付けで、柴田勝家と佐久間盛政宛てに援軍要請の手紙を送り、砦が完成する前に叩く事に・・・

早速、この要請を受けた佐久間盛政が6月25日に兵を率いて出陣して芹川付近に野営すると、前田利家も七尾を出陣して石動山と荒山の中間地点にある芝峠(しばとうげ=同鹿島郡中能登町)に布陣します。

こうして準備を整えた翌日の天正十年(1582年)6月26日、そうとは知らぬ温井勢が一揆の衆徒らとともに荒山砦の修築に石動山を出て来たところに、一気に攻撃を仕掛ける前田軍・・・混乱した一揆軍は、温井&三宅の軍団は石動山へ、遊佐の率いる軍団は荒山の要害へと逃げ込んで体制を整えようとしますが、これが、お察しの通り、前田サイドから見れば、完全に一揆軍を分断した形となったわけです。

これを知った佐久間盛政は、チャンス!とばかりに一斉に荒山砦に向かって攻撃を開始します。

至近距離で銃弾が飛び交う激しい戦いとなる中、温井景隆&三宅長盛兄弟は壮絶な討死を遂げ、天平寺衆徒で「今弁慶」と呼ばれていた猛者=般若院(はんにゃいん)は、まさに弁慶(べんけい)の如く無数の矢を受けて倒れます。

こうして形勢不利となっていく一揆勢・・・温井配下の者には「もはやこれまで!」と自刃する者も出る中、一部の衆徒は石動山目指して逃走しますが、これらの大半は、すでに石動山方面の守備を固めていた拝郷家嘉(はいごういえよし=織田政権の大聖寺城主)によって討たれてしまいました。

一方、早朝に一揆勢の分断に成功した前田利家は、かの長連龍や配下の奥村永福(おくむらながとみ=前田家臣)らを率いて石動山へと進み、仁王門から侵入して天平寺を急襲します。

護摩祈祷中だった僧侶らが驚いて逃げ惑う中、数百人を撫で斬りにする地獄のような光景だったとか・・・

さらに、討ち取った千余りの首を山門に並べたうえ、利家配下の伊賀の忍びによって堂宇(どうう)に火がかけられ、石動山は全山焼亡し、それはまるで、信長の比叡山焼き討ちのようだったと伝わります。

とは言え、これにて前田利家による能登の支配は確立されました。

また一説には、この時、援軍としてやって来ていた佐久間盛政は、実はこのドサクサで利家を背後から攻めて能登を奪い取るつもりでいたので、それを防ぐために長連龍が寺に火を放った・・・てな話もありますが、その話が記されているのが『長氏家譜』という連龍サイドの文献なので、おそらくは、この戦いにより、利家と長連龍との関係が強固な物になって、この後、連龍&その子孫は前田家の家老として加賀藩を支える事になるという、後日談ありきの創作ではないか?とされています。

と、まぁ、ここまで名前だけ登場して本人様が出て来なかった柴田勝家・・・ご存知のように、今回の合戦の翌日が、あの清須会議(きよすかいぎ=清洲会議)(6月27日参照>>)なので、援軍の手配はしたかも知れませんが、勝家自身は、清須会議への準備に勤しんでいたか?と思われます。

ドラマ等では、本能寺からの秀吉の光秀討伐の後は、話が清須会議に飛ぶ事が多いですが、冒頭に書いたように、甲斐や信濃etcそして今回の荒山と、複数の争いが一斉に起こっています。

信長の死が、かなりの混乱を与えていた事がわかりますね。
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コメント

勝家とその与力の軍事力と面子は頭一つ抜けてるし、皆んな美濃尾張の衆で固めてますからね。現地採用した椎名も潰してますし。
強すぎる反面、勝家としては統制に苦労したでしょう。本社からの出向社員、多すぎ!って

投稿: | 2019年7月13日 (土) 01時38分

こんばんは~

そうですね。。。
信長は、やはり武田と上杉を脅威に感じていたでしょうから、コッチ方面に優れた武将を置いて警戒していたかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2019年7月13日 (土) 04時47分

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