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2019年7月26日 (金)

当方滅亡!~上杉を支えた名執事=太田道灌の最期

 

文明十八年(1486年)7月26日、主君=上杉定正の命により、太田道灌が暗殺されました。

・・・・・・・・

太田道灌(おおたどうかん=資長)戦国初期に登場する屈指の名将です。

そもそもは、初代の足利尊氏(あしかがたかうじ)が、自身の地元が関東でありながら、南北朝の動乱やら何やらで京都にて室町幕府を開く事になり、そうなると、足利家のトップである将軍は京都におらねばならないため、その間、留守となった地元=関東の支配を誰かに任せねばならない・・・

Asikagakuboukeizu3 ←足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

そこで尊氏は自身の三男の 義詮(よしあきら)に将軍職を譲り、その弟の四男=基氏(もとうじ)を地元を支配する鎌倉公方(かまくらくぼう)として関東に派遣し、以来、義詮の血筋が将軍を、基氏の血筋が公方を、代々継承していったわけですが、その公方の補佐役が執事(しつじ)・・・後に関東管領(かんとうかんれい)と呼ばれる役職で、それを交代々々で歴任していたのが両上杉家(うえすぎけ)=惣領家が山内上杉(やまのうちうえすぎ)と言い、分家が扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)です。

ところが、やがて「京都の将軍家とは距離を置いて、関東は関東でやっていきたい!」と考える第4代鎌倉公方=足利持氏(もちうじ)が登場・・・それを時の将軍である第6代=足利義教(よしのり)が何とか鎮圧しますが(永享の乱>>)(結城合戦>>)、その後、持氏の遺児の足利成氏(しげうじ)次期公方を勝手に名乗って関東で大暴れ・・・そのために、幕府から任命された新たな公方が鎌倉に入る事ができないという事態に・・・

そうなると、ここで何とか関東をまとめなければならないのが、最初っから公方の補佐として関東にいる両上杉家なわけですが、そんな扇谷上杉家の執事だったのが太田道灌です。

Ootadoukan600 幼き頃からその天才ぶりはズバ抜けていて、その優秀さを心配した父=太田資清(すけきよ)が、
「障子は直立してこそ役に立つけど、曲がって倒れてたら役に立たんのやぞ」
(↑「過ぎるほどの才能をまっすぐに良い方向へ使え」という意味)
と忠告すると
「障子はそうですやろけど、屏風はまっすぐやと立ちません。屏風は曲がってこそ役に立ちます」
と言い返して父を黙らせたとか・・・

なんと、生意気な憎ったらしい子供・・・と思いますが、成長した道灌は周囲から反感を買う事は少なかったのだとか・・・思うに、本当に頭が良くて、周囲から見ても別格なんでしょうね~もう、そんじょそこらの人じゃ太刀打ちできないくらいの差があるとか…たぶん。

長禄元年(1457年)には、そんな自称公方らから関東を守るべく江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を構築し(4月8日参照>>)扇谷上杉家のため、八面六臂の活躍をする道灌・・・

中でも特筆すべきは、この後の時代の手本となるような足軽(あしがる)の扱い方・・・

以前書かせていただいたように、大乱を聞きつけて近隣の農村から集まって来る喰いっぱぐれた農民くずれや無頼の輩・・・いわゆる雑兵(ぞうひょう)を雇い入れ、鎧も兜も身に着けず刀も槍も持たないまま軽装で大量に自軍に参加させ、これまでの一騎撃ちスタイルから、互いに集団戦で戦う、まさに、私たちが思う戦国合戦スタイルに劇的に変化させたのは、あの応仁の乱で東軍総大将となった細川勝元(ほそかわかつもと)ではありますが(3月21日参照>>)、この勝元の時代は、なんだかんで、ただただ集団でワーワーやるだけの烏合(うごう)の衆でしかなかったのです。

それを、統率のとれた組織編制をして、大河ドラマ等で描かれるような足軽集団にしたのが道灌と言われています。

『太田家記』には、道灌が作ったとされる
♪小机は まづ手習ひの 初めにて
 いろはにほへと 散り散りになる ♪
という戯れ歌が書かれているのですが、

この小机というのは、道灌の良きライバルである長尾景春(ながおかげはる)小机城(こづくえじょう=神奈川県横浜市)の事・・・

この景春の長尾家は、代々、山上上杉家の執事を務める家柄ですから、扇谷上杉家執事の太田道灌とは、まさに同じ立場の人だったのですが、その長尾家の後継者の決定に主君の山上上杉家が介入して来た事で、それに不満を持った長尾景春が反旗を翻した。。。この時、道灌はちょっと景春の気持ちが理解できる雰囲気で、それ察した景春が道灌を自軍に誘う場面もあったようですが、やはり道灌は主君を裏切れず、結局、その良きライバルを攻める事になるのですが・・・
【江古田・沼袋(東京都中野区)の戦い】参照>>
【武蔵・用土原(埼玉県深谷市)の戦い】参照>>

この時に、上記の歌を繰り返し、呪文のように口ずさませながら、足軽たちの士気を高めるとともに、太鼓の音の代わりに、それぞれの隊に一斉にタイミングを合わせる行動を取らせて攻撃を仕掛け、勝利に導いたのです。

今で言うなら、ラジオ体操のピアノと掛け声みたいな感じ?
あのピアノとリーダーの掛け声があるからこそ、公園に集まった人たちは、同じタイミングで同じ動きをするわけで・・・これにより、烏合の集団だった素人戦士の足軽たちが、まさに軍隊へと変貌したわけです。

おかげで、いつしか分家の扇谷上杉が惣領家の山内上杉をしのぐ勢いを示すようになるのです。

しかし、この道灌のあまりの優秀さが、文字通り、命取りとなります。

文明十八年(1486年)7月26日、道灌は、相模糟屋(かすや=神奈川県伊勢原市)にある主君=上杉定正(うえすぎさだまさ)の招きを受けます。

江戸城から上杉邸まで、距離にして約50kmほど・・・その労をねぎらうように風呂を勧められ、やがて出ようとした、その時、定正の命を受けた曽我兵庫(そがひょうご)なる武将が太刀で斬りつけ、道灌を暗殺したのです。

道灌は倒れながら、「当方滅亡!」と一言叫んだのだとか・・・

「当方滅亡」とは、
「俺のいない上杉家は滅びるぞ!」
という意味です。

一般的には、そのあまりの優秀さに、定正が「いつか取って代わられるのではないか?」との不安にかられたため殺害に至った・・・とされています。

ただし『北条記』では、定正が道灌討伐のために糟屋へと出陣したのを、迎え撃った道灌が、馬上にて槍に突かれて落とされ、
♪かかる時 さこそ命の 惜しからめ
 かねてなき身と 思い知らずば ♪
「はなから、(自分は)この世にはいない物やと悟ってるから、こんな時でも命推しくはないんや!」
との辞世の句を残して首を取られた・・・つまり、合戦での討死だとされています。

また、別の史料では糟屋の洞昌院(とうしょういん=公所寺)で殺害されたとの記録もありますが、かの『太田家記』では、この洞昌院は道灌が荼毘に付された場所とされていて、現在も、隣接する境内に道灌の胴塚と伝えられる塚があります。

さらに、近くの大慈寺(だいじじ)にも道灌の首塚とされる塚があって、江戸時代の太田家は、お参りの際には、この両方の墓所に参詣していたと伝えられていますので、暗殺にしろ、討死にしろ、道灌は斬首されたという事なのかも知れません。

それから何年後かに上杉定正は、
「道灌は、江戸城を堅固にして上杉顕定(あきさだ=山内上杉家当主)に歯向かおうとしたので、俺が度々注意しててけど、言う事聞かへんから成敗した」
てな内容を手紙に書き残していますが、これは、あくまで定正の言い分・・・

ただ、先の江古田・沼袋>>用土原>>のページにも書かせていただいたように、道灌自身も両上杉家に対し、少々の不満があった事も確かだし、分家の定正が惣領家の山内上杉家に気をつかっていた事も確かで、「いつしか惣領家に分家が取って代わるのではないか?」道灌の強さに脅威を抱いていたのは、直接の主君である定正ではなく上杉顕定の方だったかも知れませんね。

果たして・・・この後、
長尾景春という執事を失った山内上杉家と、太田道灌という執事を失った扇谷上杉家は、同族で激しく争う事になり、やがて、そのゴタゴタの合間を縫って関東に勢力を伸ばし始めた北条(ほうじょう)によって、道灌の予言通り、扇谷上杉家は滅亡する事となるのです【戦国屈指の夜襲で公方壊滅~河越夜戦】参照>>)
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2019年7月20日 (土)

上杉朝定VS北条氏綱~難波田憲重の松山城風流合戦

 

天文六年(1537年)7月20日、上杉朝定の拠る武蔵松山城を北条氏綱が攻撃した松山城の戦いがありました。

・・・・・・・・

現在の埼玉県にあった武蔵松山城(むさしまつやまじょう=埼玉県比企郡吉見町)

その誕生は、応永三年(1396年)もしくは六年(1399年)に扇谷上杉氏(おおぎがやつうえすぎ)家臣の上田友直(うえだともなお)によって築城されたと考えられており、あの新田義貞(にったよしさだ)鎌倉攻め(5月22日参照>>)の際に、ここに駐屯したとも言われますが、あくまで、それは言い伝え・・・

なんせ、武蔵(むさし=東京都&埼玉県と神奈川県の一部)比企丘陵(ひききゅうりょう=埼玉県東松山市・比企郡滑川町・嵐山町・小川町付近)の東端に位置し、南北・西の三方に川を従えた天然の要害地にある松山城。

おそらくは、東の下総(しもうさ・しもふさ=埼玉県&東京都の東部と千葉県北部・茨城県南部)、北の上野(こうずけ=群馬県)から武蔵を守る目的で構築された最前線の城であった事がうかがえ、その時代々々において、度々の関東支配を狙う武将たちによる争奪戦が繰り返された場所だったのです。

特に、文明十八年(1486年)に、活躍し過ぎな部下だった太田道灌(おおたどうかん)を恐れた主君=上杉定正(さだまさ・扇谷)が、その道灌を殺害(7月26日参照>>)してからは、山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)との抗争が激化し、度々、この地が合戦場所となっていました。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

ちなみに、この「山内&扇谷」という両上杉家は、室町幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)が、もともと地元が関東であるにも関わらず、将軍は京都にいなければならないため、次期将軍を三男の 義詮(よしあきら)に譲り、その弟の基氏(もとうじ)に地元を支配すべく関東に派遣して鎌倉公方(かまくらくぼう)と称した、その鎌倉公方の補佐役=執事(しつじ=後の関東管領)を代々務める家柄でした。

とは言え、山内と扇谷では山内が本家なため、関東管領はほとんど山内上杉家から出ていたのですが、ここに来て、その太田道灌の活躍により(5月13日参照>>)扇谷上杉が力をつけつつあったわけなのですが・・・

しかし、この両者がゴチャゴチャやってる間に、その間をすり抜けて自力で小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)奪取して、徐々に関東における勢力範囲を伸ばしはじめていたのが北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎宗瑞)でした。

永正十三年(1516年)には、新井城(神奈川県三浦市)を落として(7月13日参照>>)相模(神奈川県の大部分)一帯を北条が制覇した事で、危機感を抱いた両上杉家が、和睦して対抗していますが、大永四年(1524年)には、早雲の後を継いだ北条氏綱(うじつな=早雲の長男)江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を奪われ、当主の上杉朝興(ともおき=定正の養孫)河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)に逃亡する場面もあったとか・・・

そんなピンチな上杉朝興は、甲斐(かい=山梨県)守護(しゅご=県知事)武田信虎(たけだのぶとら)の息子=晴信(はるのぶ=後の信玄)に娘を嫁がせて同盟を結んで、その力を借りながら戦いますが、残念ながら江戸城奪回を果たせぬまま天文六年(1537年)4月に死去・・・息子の上杉朝定(ともさだ)が後を継ぐ事になります。

ところが、この息子の朝定が未だ13歳という若さ・・・当然ですが、かの北条氏綱が、この好機を見逃すはずはありません。

朝興の死から3ヶ月後の7月15日、河越城の南西に位置する入間郡(いるまぐん=現狭山市内)付近までやって来た北条氏綱勢と上杉朝定勢が衝突・・・敗れた朝定は、やむなく河越城を捨て、家臣の難波田憲重(なんばだ・なばたのりしげ=善銀)の守る松山城へと逃げ込んだのです(7月15日参照>>)

かくして天文六年(1537年)7月20日松山城に駒を進めた北条氏綱勢に対し、残党をかき集めて体制を立て直した難波田憲重が撃って出ます。

合戦の勝敗については・・・
いくつかの文献で、北条方の激しい攻撃に耐えきれずに松山城は陥落し、上杉朝定は山内上杉憲政(のりまさ)を頼って上野平井城(ひらいじょう=群馬県藤岡市)へ逃れ、勢いに乗じた北条方が、その後、近隣の町屋をことごとく焼いた・・・と記されたりしているのですが、一方で、難波田憲重らの奮戦によって松山城を死守したという話もあります。

一般的には、この戦い以降、かの河越城を失った上杉朝定が、松山城を居城とし、河越奪回、いや、なんなら江戸城奪回を夢見て、松山城に大幅な拡張工事をしたと・・・つまり、難波田憲重らの奮戦によって北条勢を撃退したとの見方がされています。

Nanbadanorisige500a で、この時のエピソードとして語られているのが「松山城風流合戦(まつやまじょうふうりゅうがっせん)です。

北条勢を撃退した難波田憲重が城中へ取って返そうとした時、未だ攻撃中の寄せ手側から山中主膳(やまなかしゅぜん)なる武将が進み出て
♪あしからじ よかれとてこそ 戦はめ
 なにか難波田(なばた)の 浦崩れ行く ♪
と一首の和歌を詠みます。

「おいおい、どうしたんや!難波田は戦わんと逃げ帰るんか?」
城中へ戻ろうとする憲重を挑発して聞いて来たのです。

すると憲重は、古今和歌集の中の一首を引用して
♪君おきて あだし心を 我もたば
 末の松山 波もこえなん ♪
と返します。

上記の通り、この歌は古の歌集にある歌で、本来は、
「君をほっといて浮気するなんて、あり得へん」
という恋の歌です。

歌の中の「末の松山」とは、現在の宮城県多賀城市付近にあったとされる山なのですが、それが、とても高い山なので、そこを波が越えて行くなんて事はあり得ない・・・なので、古くから、そのあり得ない事の例えとして「末の松山、波もこえなん」という言い回しが使われていたのですね。

今だと何でしょ?
「天地がひっくりかえる(くらいあり得ない)みたいな言い回し?

それとも、
くりぃむ上田さんの「センターフライがファールになる(くらいあり得ない)とか、
フット後藤さんの「隠れミッキーが前面に出て来る(くらいあり得ない)てな例えツッコミみたいな感じかな?

とにもかくにも、つまりは
「主君をほったらかして目先の勝負に挑むような事は、俺の中ではあり得へんねん」
という自らの忠誠心を現すのに、古今和歌集の歌を、それも、今戦っている場所=「松山」というフレーズの入った歌を使ったという事です。

なんという教養!
なんというカッコ良さ!

あまりにカッコ良すぎて、さすがに、「それは、末の松山を波が越えるくらいありえん話やろ!」とツッコミたいところではありますが、ここはカッコ良さに免じて、そんな戦国ロマンに浸るのもアリかと・・・

とは言え、ご存知のように、この9年後、北条のスキを突いて河越城を奪回しとうした上杉朝定が、逆に奇襲をかけられて、その命までも落としてしまう、河越夜戦(かわごえやせん)(4月20日参照>>)・・・戦国三大奇襲の一つに数えられる、この有名な合戦において扇谷上杉は、滅亡し、このカッコイイ難波田憲重も、その戦いで亡くなってしまいます。

一説に、難波田憲重は戦いの最中に井戸に落ちて死んだとされ、ちょっとカッコ悪い死に方のようにも言われますが、戦いの最中の井戸・・・ですからね。

普通に歩いてて落ちたわけでは無いですし、もし、そうだったとしても、松山城でのカッコ良さとで「プラマイ0」・・・いや、若き主君を、それも、チョイ落ち目の主君に忠誠を誓い、支え続けたその姿は、引いて余りある名将ではないかと・・・

ところで、今回の河越夜戦の一件で北条に開け渡された松山城・・・この城を奪回するのは、この難波田憲重の娘婿で、かの太田道灌の曾孫太田資正(すけまさ・三楽斎)…と、歴史の流れはとめどなく続いていきますが、

そのお話は2011年9月 8日=【道灌のDNAを受け継ぎ軍用犬を駆使した智将・太田資正】でどうぞ>>
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2019年7月14日 (日)

織田信長の鉄甲船の堺入港を阻む雑賀衆~丹和沖の海戦

 

天正六年(1578年)7月14日、織田信長が建造した鉄甲船を含む7隻の大船が、堺の港に到着しました。

・・・・・・

去る永禄十一年(1568年)、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛を果たした(9月7日参照>>)織田信長(おだのぶなが)ではありましたが、やがて、幕府の権威回復を夢見る義昭と天下布武を掲げる信長の間に亀裂が入り始めます。

Odanobunaga400a そんな中、元亀元年(1570年)6月に信長に敵対する越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景あさくらよしかげ)北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)との姉川(あねがわ=滋賀県長浜市)の戦い(6月28日参照>>)が勃発すると、

時を合わせるかのように、かつて畿内を追われていた三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)らが野田福島(のだふくしま=大阪府大阪市)で挙兵(8月26日参照>>)・・・

さらに、その野田福島に石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市・現在の大阪城)を本拠とする本願寺顕如(けんにょ)が参戦(9月12日参照>>)した事で、各地の本願寺門徒による一向一揆(いっこういっき)も蜂起します(11月21日参照>>)

浅井朝倉の残党を比叡山(ひえいざん)が匿うわ(9月12日参照>>)
甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)は上洛の兆しを見せるわ(12月22日参照>>)
しているうちにかの足利義昭が挙兵(7月18日参照>>)・・・

信長に敗れた義昭が安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)のもとに身を寄せた事から、この西国の大物も信長の敵になる間に、信玄が病死し(4月16日参照>>)、浅井朝倉を倒すものの(8月28日参照>>)、信玄の後を継いだ息子=武田勝頼(たけだかつより)とも敵対関係(5月21日参照>>)は継続中。

そんなこんなの天正四年(1576年)5月、なんだかんだで10年にも渡る信長VS本願寺の石山合戦の中でも、屈指の激戦&直接対決となった天王寺合戦(てんのうじかっせん)が展開されます(5月3日参照>>)

しかも、その5日後には、これまで長年敵対していた越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)石山本願寺と和睦し、この越後の大物も信長の敵に回り(5月18日参照>>)、世に言う信長包囲網も真っ盛り状態。
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参考=信長包囲網(長島一向一揆バージョン)
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

さらに、この7月には、海から、石山本願寺に兵糧を送り込もうとする瀬戸内の村上水軍(むらかみすいぐん)を要した毛利軍と、それを阻止しようとする織田軍の木津川(きづがわ)口の海戦(7月13日参照>>)で、織田方は手痛い敗北を喰らい、まんまと兵糧を運び込まれてしまいます。

籠城戦で、籠城する側の補給路が確保されてしまっては、囲む側もしんどい・・・そこで信長は、配下の者の中でも海系に強い滝川一益(たきがわかずます)九鬼嘉隆(くきよしたか)らに、村上水軍に勝ち、木津川の河口をふさいでしまうような大きな軍船の建造を命じます。

ご存知、鉄甲船です。

『信長公記』には、「1隻が滝川一益が建造した白舟(白木の船)で、残りの6隻が九鬼嘉隆が建造した黒光りの大船」と記されていますので、この嘉隆の建造した6隻がいわゆる鉄甲船かと思われますが、さすがに、6隻もの鉄の船はムリなような・・・この『信長公記』の記述も公家の日記の伝聞のような雰囲気ですので、6隻のうちのいくつか(鉄製は1隻だけだったかも?)だったようにも思いますが、実際に船を見た人のいくつかの記録を踏まえると、鉄はともかく、その大きさ&豪華さはトンデモない物だったようです。

・・・で、この新しく建造された7隻の大船が、順風を見計らった天正六年(1578年)6月26日、建造場所だった伊勢(いせ=三重県北中部)浦を出て、紀伊半島沖を大阪湾目指して出発したのです。

これは捨て置けぬ石山本願寺・・・7月8日付け、坊官(ぼうかん=寺の責任者の秘書みたいな?)下間仲之(しもつまなかゆき)の名で以って紀州諸浦門徒中宛ての命令を発します。

「近日中に信長の大船が紀州沖を回航するとの情報が入ったので、これを浦々にて迎撃せよ!」

この紀州諸浦門徒というのは「和歌山県の海岸沿いに住む本願寺門徒」という事ですが、今回の場合は主に紀ノ川下流域に住む土着の人々の集団のである雑賀(さいが・さいか)の事だと思われます。

なんせ彼らは、先の天王寺合戦や木津川口の戦いでも大活躍していて「大元の本願寺より、先にコッチを潰さな!」とばかりに、前年=天正五年(1577年)2月から、まともに信長の攻撃を受けてましたから・・・(2月22日参照>>)

とは言え、その2月22日>>にも書かせていただいたように、彼ら雑賀衆も一枚岩ではなく、信長に敵対する者もいれば味方になる者もおり、その生活も、農民からの歩兵であったり漁民や海上輸送民からの海兵だったり形態も様々でしたから、それを踏まえると、今回の場合は「信長に敵対する雑賀衆のうち戦闘艦となる大船や漁船を持つ者」宛て…という感じになると思います。

同じく『信長公記』では、かの6月26日に信長の大船が出発したところ、
「雑賀や丹和(たんのわ=大阪府泉南郡岬町・淡輪)の浦々から、その行く手を阻止せんと数をも知れぬ小舟が矢や鉄砲を放ちながら四方を取り囲んで攻撃して来たものの、指揮を取る九鬼嘉隆は、はじめ、山のような大船に従う味方の小舟に、わざと敵を近づけておいて、適当にあしらいながら、やがて7隻の大船の大砲を一度ににぶっ放した事で、敵の小舟が一斉にダメージを受け、それ以降は近づく事さえできず…やがて天正六年(1578年)7月14日、船団は何事も無かったかのように堺の港に入港した」
とあり、それを「丹和沖の海戦」と称しています。

Tannowaokikaisen
丹和沖海戦の関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この文章だけ読めば、さも海戦が6月26日にあったかのように思ってしまいますが、上記の通り、石山本願寺が雑賀衆らに出兵を要請するのが7月8日なので、海戦は、おそらく、それ以降・・・

なんせ、(先にも書きましたが…)彼らは、普段は漁師であり運送業者であって、常に戦闘準備をしてる常備軍ではありませんので、織田方の動きを見て自ら出兵するはずはなく、本願寺からの要請あってこその迎撃であったはずですから・・・

なので、海戦があった日付は、あくまで7月8日以降で、港に到着する7月14日以前という事になります。

また、場所においても、「丹和沖」…というのは、少々考え難いです。

それは、室町初期の足利尊氏(あしかがたかうじ)の時代から長きに渡って、この淡輪の地の領主を務めていた淡輪氏の当主=淡輪徹斎(たんなわてっさい・隆重?良重?)は、早くから信長についており、かの木津川口の戦いにも織田海軍の一員として参戦し、その後の雑賀への攻撃にも織田方として参加しています。

つまり、今回の雑賀の出兵に丹和の浦々が協力する事は、たぶん無いし、そうなると、敵の真っただ中である丹和の沖に、雑賀衆がわざわざ出向いて攻撃を仕掛けるとは考え難いわけで、おそらく海戦のあった場所も、もう少し南の加太(かだ=和歌山県和歌山市)雑賀崎(さいかざき=同和歌山市)であったと思われます。

しかも、この丹和の海戦にて雑賀衆を撃破した鉄甲船を含む船隊が、その直後、淡輪に入港して小休止した記録も別資料に残っていますので、やはり、場所は、加太より南のあたりだと・・・それこそ、雑賀衆だって、自分たちに地の利…いや海の利?がある場所で戦った方が有利ですからね。

また、揺れる船の上から、周辺の小舟に向かって大砲ぶっ放して命中するほどの精度があったのか?否か?の疑問も残りますが、こういう場合、当たる当たらないより、小舟に向かって大砲をぶっ放す事こそが有益で、「それでビビらせる事ができれはOK!」という感じだったのでしょう。

ちにみに、信長はコレ以前にも、琵琶湖を渡るための大船を建造してます(おそらく将軍=義昭をビビさせるため?)が、それも1度しか使ってません(7月3日参照>>)

とにもかくにも、今回の海戦で敵を蹴散らした大船は、2か月半後の9月30日に広く公開され(9月30日参照>>)、華麗な大船の完成に大喜びの信長は、この年の11月に、再びの石山本願寺との海戦=第2次木津川口の戦いに挑む事になります。

そのお話は11月6日の【信長VS石山本願寺~第2次木津川口海戦】>>でどうぞm(_ _)m
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2019年7月 7日 (日)

七夕と雨にまつわる伝説~脚布奪い星と催涙雨

 

今日、7月7日は七夕ですね。。。

ご存知の七夕の伝説は・・・
「天帝の娘・織女が天の川のほとりで、毎日まじめに機織をする姿を見て、川の西に住むこれまたまじめな牽牛と結婚させた所、恋にうつつをぬかし、まったく機織をしなくなってしまったため、怒った天帝が織女を川の東に連れ戻し、年に一度の七夕の夜にだけ会う事を許した」
という織女(しょくじょ)牽牛(けんぎゅう)の お話です。

もともとは中国のお話で、日本には奈良時代頃に伝わり、もともとから日本にあった伝説と相まって今に至り、一般的に織女を織姫(おりひめ)、牽牛を彦星(ひこぼし)と呼んだりします。

このお話のおおもとは、天の川を挟んでいる「こと座」「ベガ」「わし座」「アルタイル」という星が、この7月7日頃に最も美しく見えるところから生まれた伝説ですが、残念ながら現在の日本(新暦なので…)では、この7月7日が梅雨(つゆ)の季節である事から、雨になる事が多く「雨になると二人は会えない」という悲しい結果となり、この7月7日の降る雨の事を催涙雨(さいるいう)・・・つまり、「会う事ができずに悲しむ、織姫と彦星の涙なんだ」なんて言われたりもします。

ロマンチックですね~

ロマンチックついでに、この7月7日の前日に降る雨の事は洗車雨(せんしゃう)と呼ばれ、
「せっかく洗車したのに雨降ったやないかい!」
とお父さんがお怒り・・・ではなく、

雨で埃を洗い流したキレイな牛車で、彦星が織姫を迎えに行く・・・という美しい光景が展開されるとか・・・

てな事で、本日は、七夕と雨にまつわる昔話を…

主に、四国&中国地方に伝わる『脚布奪い星』(きゃふばいぼし)というお話です。

・‥…━━━☆

その昔、織姫は、7月7日に雨が降ると彦星に会えなくなってしまうので、何とか雨を降らさないよう、天に住むたくさんの天女たちに頼み込みました。

もちろん、タダで・・・というワケにはいきません。

地獄の沙汰も・・・いや、天国だって金しだい(なのか?)

・・・で、織姫は、自らの機織りのウデを活かして、その天女たち一人一人に
脚布(きゃふ=腰巻の事)を織って7月7日までに届ける」
という約束をします。

あれ、うれしや!これから毎年7月7日には新品の勝負下着で過ごせるやないの!
と天女たちも、その約束を快諾。。。

それから、織姫は一所懸命、寝る間も惜しんで機織りにあけくれましたが、どうしても1枚だけ、天女の数に足らないまま7月7日を迎えてしまいます。

そんな事は知らない天女たち・・・
7月7日になって、天の川で水浴びをしていた二人の天女たちのうちの一人が、水からあがってサッサァ~と脚布を取ろうとしたところ、少し遅れたもう一人が
「いやん、ソレ、私にチョーダイよ~」
腰巻無いと、あがれませんから・・・

「アカンて!コレ、私のやんか~」
とケンカになってしまいます。

結局、この日、少し遅れて脚布を手にできなかった天女・・・彼女は、雨を降らす役目のお星様だったのです。

脚布が手に入らなかった天女はウェ~ンと泣き続けて、その涙が雨となり、残念ながら、この日の夜は雨が、それも、いつもの倍の量が降りました。

以来、雨降らし役の天女が脚布を手にできた年は晴れ、手にできなかった年には雨が降るのだとか・・・もちろん、雨が降った日は、織姫&彦星の年に一度の逢瀬イベントも雨天中止となってしまう事になります。

この脚布を奪い合う天女の星は、ちゃんと天の川のそばに見えているのですよ。

・‥…━━━☆

というお話です。

この話に登場する脚布を奪い合う二人の天女の星は、「さそり座」「μ(ミュー)「ζ(ゼータ)の事だそうで、二つ並んでまたたく小さな星が、いかにも天女らしく肉眼でも見えるのだそうです(茶々は乱視なので見えません)

に、しても、昔は星が綺麗に見えたんだろうなぁ~ という事と、その星の位置や動きに、ステキな、あるいはオモシロイ様々なお話を、昔の人は考えだしていたんだなぁ~ とつくづく・・・

Beautifulharmonytanabata

今夜は、令和初の七夕の夜・・・
美しいハーモニーを奏でる時代を思いつつ、星に願いをかけましょう!

★七夕関連のお話…
【日本の七夕伝説~天稚彦物語】>>
【星月夜の織姫~大阪・池田の民話】>>
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2019年7月 2日 (火)

武田信玄の駿河侵攻~大宮城の戦い

 


永禄十二年(1569年)7月2日 、駿河に侵攻する武田信玄に攻撃されていた大宮城が開城しました。

・・・・・・・

天文十年(1541年)に父=武田信虎(たけだのぶとら)を追放して(6月14日参照>>)武田家の当主となって以来、信濃(しなの=長野県)北東方面に向かって領地を広げるべく戦いにまい進していた(6月24日参照>>)甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん=当時は晴信)は、
Takedasingen600b その背後の脅威を無くすべく、天文二十三年(1554年)に駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)今川義元(いまがわよしもと)相模(さがみ=神奈川県)北条氏康(うじやす)らと甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)を締結し、信濃の村上義清(むらかみよしきよ)らを援助する(4月22日参照>>)越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)と向かい合っておりました。

ご存知、川中島の戦いですが・・・
(1次>>2次>>3次>>第4次>>第5次>>)

ところが、この川中島でゴチャゴチャやってる間に事態は大きく変わります。

第3次と第4次の隙間の永禄三年(1560年)に、尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)が今川義元を葬り去る桶狭間(おけはざま)の戦い(2007年5月19日参照>>)が起こり、以後、織田が力をつけはじめ、逆に大黒柱を失った今川に衰退の影が見え始めて来たのです。

そこで、永禄十年(1567年)8月7日に安曇郡(あづみぐん=長野県大町市&北安曇周辺の地域)仁科盛政(にしなもりまさ)甲信の諸将士から、信玄への忠誠を誓う起請文(きしょうもん=約束事を神に誓う文書)を得た事や、謙信との抗争がこう着状態であった事などで、おそらく北東方面への侵攻に一区切りをつけたか?信玄は新たに駿河への侵攻を画策するのです。

それは、かつての同盟の証として義元の娘を娶っていた嫡男=武田義信(よしのぶ)離縁さえたうえに死に追いやってまでの決断でした(10月19日参照>>)

なんせ、かの桶狭間をキッカケに今川からの独立(2008年5月19日参照>>)を果たした徳川家康(とくがわいえやす)が、西から駿河への侵攻を画策し、すでに三河(みかわ=愛知県東部)を手に入れてしまっていた(9月5日参照>>)わけで、このまま状況を静観していれば、今川の領地のすべてが徳川の物になってしまうかも知れません。

早速、家康の同盟者(清須同盟>>)である織田信長の嫡男=織田信忠(のぶただ)と自身の五女=松姫(まつひめ=信松尼)の婚約を成立させて織田との同盟を結んだ信玄は、翌・永禄十一年(1568年)、信長の仲介によって家康と手を組み、大井川以東を武田が、以西を徳川が、それぞれ攻め取る約束を交わし、二人連携して義元の後を継いだ今川氏真(うじざね)に迫るのです。

ちなみに、この年の4月から、かの謙信は祖父の代からの悲願だった越中(えっちゅう=富山県)平定に動き出し(4月13日参照>>)、9月には信長が第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛していて(9月7日参照>>)戦国の皆々そろってシフトチェンジ?な動きが見えます。

そんな状況の中の12月12日、駿河に侵攻しようとする信玄軍と、迎え撃つ氏真軍が薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)でぶつかり(12月12日参照>>)、押し勝った信玄が翌日に氏真の居館である今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市葵区・現在の駿府城)を襲撃(12月13日参照>>)・・・家臣の寝返り等もあって窮地に立たされた氏真は、やむなく今川館を捨てて掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)へと逃走しますが、その掛川城を間髪入れず、今度は家康が攻撃します(12月27日参照>>)

この掛川城攻防戦は翌年の5月まで続きますが、その間に、この信玄の行動に怒ったのが、あの三国同盟を結んでした北条です。

かつて、この同盟の証として信玄の息子が今川の姫を娶ったと同じく、北条の姫を娶っていたのが氏真で、今回の信玄の襲撃により今川館から逃げねばならなくなった姫は、あまりの急な出来事に輿(こし)を用意できず、氏真と手に手を取って徒歩で逃げるという場面があったようで・・・勝手に同盟を破棄したうえに可愛い娘がこんな屈辱的な目に遭わされたら、北条も激おこになりますがな。

そこで北条氏康は、かの三国同盟に時に娘を嫁に出すと同じく武田へと養子に出していた息子(後の上杉景虎)を、今度は謙信への養子として越後に送って上杉と同盟を結び、年が明けた永禄十二年(1569年)正月、すでに家督を譲っている息子=北条氏政(うじまさ)に4万5千の大軍をつけて出陣させます。

1月18日、氏政は、まずは300人の別動隊を海路で掛川城への援軍として送り込み、主力は信玄の背後を突くべく陸路を蒲原(かんばら=静岡県静岡市)まで進みますが、その先、昨年暮れに抑えられたあの薩埵峠にて1万8千の武田軍に阻まれて先へ進めず、かと言って武田方が打ち勝つという事も無く・・・

これが第2次薩埵峠の戦い(1月18日参照>>)と呼ばれる戦いですが、結局は約4ヶ月に渡り両者が対峙したままのこう着状態が続いた中、掛川城の今川氏真が武田の背後を突くべく信濃への出兵を上杉謙信に要請した事、また、一方の武田信玄も北条の背後を突くよう常陸(ひたち=茨城県)佐竹義重(さたけよししげ)に要請したりした事で、勝敗がつかないまま4月下旬には両者ともに兵を退きあげる事になるのですが、

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武田信玄の駿河侵攻・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんな第2次薩埵峠の戦い真っただ中の2月1日、武田信玄は一方で、配下の穴山信君(あなやまのぶただ)葛山氏元(かつらやまうじもと)に、今川配下の富士信忠(ふじのぶただ)が守る大宮城(おおみやじょう=静岡県富士宮市)を攻撃させています。

この穴山信君は穴山梅雪(ばいせつ)の名で知られる武田家の重臣で、しかも信玄の次女を娶っている言わば身内。

もう一人の葛山氏元は、駿河東部の国衆で葛山城(かずらやまじょう=静岡県裾野市)を居とする今川配下の武将でしたが、もともと今川領の国境に位置していた事もあって、今回の信玄の駿河侵攻にともなって武田方に鞍替えした人・・・先にも書かせていただきましたが、多くの武将が、今回の信玄の侵攻によって今川に見切りをつけて武田へと走っていたのです。

しかし、一方の富士信忠は、今回、氏真が掛川城に逃れた後になっても、かたくなに今川派に留まっていた人・・・ 代々、富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)富士大宮司を務める家柄であると同時にこの地の国人領主でもありました。

今回の2月1日の武田方の攻撃でも、見事、武田方を迎え撃ち・・・武田方に多くの死傷者を出す結果をもたらしたため、やむなく穴山梅雪を江尻城(えじりじょう=静岡県静岡市)に残して、武田勢本隊は撤退したのでした。

そんなこんなの5月17日、ここまで攻防中だった例の掛川城が今川氏真から徳川家康へと無血開城され、しかも、それが北条の仲介による物で、その後の氏真は北条で保護される事となり、同時に徳川と北条の同盟も締結されます。

ここに、戦国大名としての今川家は滅亡し、北条氏政の息子である北条氏直(うじなお)が今川氏真の猶子(ゆうし=契約上の養子)となって今川家の家督を継ぎ、駿河&遠江の支配権を保証されたのです。

しかも、6月9日には北条と上杉の間でも同盟が結ばれ、何やら一件落着な雰囲気・・・

「オイオイ、大井川から東はワシのモンやったんちゃうんかい!」
という信玄のツッコミが聞こえて来そうですが、なんやかんやで取った者勝ちの世は戦国・・・上記の氏直の駿河&遠江の支配権もあくまで保証されただけですから、ここは実力行使あるのみ!

この6月17日には、例の北条から離縁して戻されていた長女=黄梅院(おうばいいん)を亡くしている(6月17日参照>>)信玄でしたが、その悲しみも癒えぬであろう1週間後の6月23日、信玄は再び、穴山梅雪を大将に出兵します。

韮山(にらやま=静岡県伊豆の国市)から三島(みしま=静岡県三島市)方面を放火して回った武田の軍勢は、そのまま大宮城へと向かい、城の虎口(こぐち=城郭の出入口)に布陣し、すぐさま攻撃を開始したのです。

しばらくの間、その攻撃に耐えた大宮城ではありましたが、永禄十二年(1569年)7月2日、耐えきれなくなった富士信忠が穴山梅雪に降伏を申し出、大宮城は開城・・・信玄はようやく富士郡一帯を支配下に治める事ができました。

その後、この年の10月には、自身の駿河侵攻を阻む北条を潰すべく、北条の本拠地である小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を攻める信玄でしたが、その守りの固さにやむなく撤退・・・しかし、その帰り道を北条がすかさず攻撃!となる三増峠(みませとうげ=神奈川県愛甲郡愛川町)の戦いについては2007年10月6日のページ>>でどうぞ m(_ _)m

さらに続く12月の武田信玄による蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区)奪取!>>

この通り、完全に徳川との約束事が決別となったうえに、この頃から始まった将軍=足利義昭と織田信長のギクシャク感(1月28日参照>>)が加わって、信長と信玄の関係は最悪状態に・・・

なんせ、元亀二年(1571年)に起こった信長による比叡山焼き討ち(9月12日参照>>)「天魔ノ変化(てんまのへんげ)と激おこした信玄が、
「天台座主(てんだいざす=天台宗のトップ)沙門・信玄」
の署名で信長に手紙を送れば、信長が、ほんじゃ俺はと
「第六天魔王(だいろくてんまおう)・信長」と署名して返信する・・・といった具合ですから。。。
(第六天魔王=仏教世界の六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界)つまり全世界の魔王って事かと)

で、ご存知のように、翌年の元亀三年(1572年)、家康ピンチの、あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)の戦いが勃発する事になります。

●関連ページ
【家康惨敗の三方ヶ原の戦い】>>
【家康の影武者となって討死した夏目吉信】>>
【三方ヶ原後の犀ヶ崖の戦い~平手汎秀の死】>>
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