« 本能寺の変の余波~前田利家に迫る石動荒山の戦い | トップページ | 七夕と雨にまつわる伝説~脚布奪い星と催涙雨 »

2019年7月 2日 (火)

武田信玄の駿河侵攻~大宮城の戦い

 


永禄十二年(1569年)7月2日 、駿河に侵攻する武田信玄に攻撃されていた大宮城が開城しました。

・・・・・・・

天文十年(1541年)に父=武田信虎(たけだのぶとら)を追放して(6月14日参照>>)武田家の当主となって以来、信濃(しなの=長野県)北東方面に向かって領地を広げるべく戦いにまい進していた(6月24日参照>>)甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん=当時は晴信)は、
Takedasingen600b その背後の脅威を無くすべく、天文二十三年(1554年)に駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)今川義元(いまがわよしもと)相模(さがみ=神奈川県)北条氏康(うじやす)らと甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)を締結し、信濃の村上義清(むらかみよしきよ)らを援助する(4月22日参照>>)越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)と向かい合っておりました。

ご存知、川中島の戦いですが・・・
(1次>>2次>>3次>>第4次>>第5次>>)

ところが、この川中島でゴチャゴチャやってる間に事態は大きく変わります。

第3次と第4次の隙間の永禄三年(1560年)に、尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)が今川義元を葬り去る桶狭間(おけはざま)の戦い(2007年5月19日参照>>)が起こり、以後、織田が力をつけはじめ、逆に大黒柱を失った今川に衰退の影が見え始めて来たのです。

そこで、永禄十年(1567年)8月7日に安曇郡(あづみぐん=長野県大町市&北安曇周辺の地域)仁科盛政(にしなもりまさ)甲信の諸将士から、信玄への忠誠を誓う起請文(きしょうもん=約束事を神に誓う文書)を得た事や、謙信との抗争がこう着状態であった事などで、おそらく北東方面への侵攻に一区切りをつけたか?信玄は新たに駿河への侵攻を画策するのです。

それは、かつての同盟の証として義元の娘を娶っていた嫡男=武田義信(よしのぶ)離縁さえたうえに死に追いやってまでの決断でした(10月19日参照>>)

なんせ、かの桶狭間をキッカケに今川からの独立(2008年5月19日参照>>)を果たした徳川家康(とくがわいえやす)が、西から駿河への侵攻を画策し、すでに三河(みかわ=愛知県東部)を手に入れてしまっていた(9月5日参照>>)わけで、このまま状況を静観していれば、今川の領地のすべてが徳川の物になってしまうかも知れません。

早速、家康の同盟者(清須同盟>>)である織田信長の嫡男=織田信忠(のぶただ)と自身の五女=松姫(まつひめ=信松尼)の婚約を成立させて織田との同盟を結んだ信玄は、翌・永禄十一年(1568年)、信長の仲介によって家康と手を組み、大井川以東を武田が、以西を徳川が、それぞれ攻め取る約束を交わし、二人連携して義元の後を継いだ今川氏真(うじざね)に迫るのです。

ちなみに、この年の4月から、かの謙信は祖父の代からの悲願だった越中(えっちゅう=富山県)平定に動き出し(4月13日参照>>)、9月には信長が第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛していて(9月7日参照>>)戦国の皆々そろってシフトチェンジ?な動きが見えます。

そんな状況の中の12月12日、駿河に侵攻しようとする信玄軍と、迎え撃つ氏真軍が薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)でぶつかり(12月12日参照>>)、押し勝った信玄が翌日に氏真の居館である今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市葵区・現在の駿府城)を襲撃(12月13日参照>>)・・・家臣の寝返り等もあって窮地に立たされた氏真は、やむなく今川館を捨てて掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)へと逃走しますが、その掛川城を間髪入れず、今度は家康が攻撃します(12月27日参照>>)

この掛川城攻防戦は翌年の5月まで続きますが、その間に、この信玄の行動に怒ったのが、あの三国同盟を結んでした北条です。

かつて、この同盟の証として信玄の息子が今川の姫を娶ったと同じく、北条の姫を娶っていたのが氏真で、今回の信玄の襲撃により今川館から逃げねばならなくなった姫は、あまりの急な出来事に輿(こし)を用意できず、氏真と手に手を取って徒歩で逃げるという場面があったようで・・・勝手に同盟を破棄したうえに可愛い娘がこんな屈辱的な目に遭わされたら、北条も激おこになりますがな。

そこで北条氏康は、かの三国同盟に時に娘を嫁に出すと同じく武田へと養子に出していた息子(後の上杉景虎)を、今度は謙信への養子として越後に送って上杉と同盟を結び、年が明けた永禄十二年(1569年)正月、すでに家督を譲っている息子=北条氏政(うじまさ)に4万5千の大軍をつけて出陣させます。

1月18日、氏政は、まずは300人の別動隊を海路で掛川城への援軍として送り込み、主力は信玄の背後を突くべく陸路を蒲原(かんばら=静岡県静岡市)まで進みますが、その先、昨年暮れに抑えられたあの薩埵峠にて1万8千の武田軍に阻まれて先へ進めず、かと言って武田方が打ち勝つという事も無く・・・

これが第2次薩埵峠の戦い(1月18日参照>>)と呼ばれる戦いですが、結局は約4ヶ月に渡り両者が対峙したままのこう着状態が続いた中、掛川城の今川氏真が武田の背後を突くべく信濃への出兵を上杉謙信に要請した事、また、一方の武田信玄も北条の背後を突くよう常陸(ひたち=茨城県)佐竹義重(さたけよししげ)に要請したりした事で、勝敗がつかないまま4月下旬には両者ともに兵を退きあげる事になるのですが、

Surugasinkouoomiya
武田信玄の駿河侵攻・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんな第2次薩埵峠の戦い真っただ中の2月1日、武田信玄は一方で、配下の穴山信君(あなやまのぶただ)葛山氏元(かつらやまうじもと)に、今川配下の富士信忠(ふじのぶただ)が守る大宮城(おおみやじょう=静岡県富士宮市)を攻撃させています。

この穴山信君は穴山梅雪(ばいせつ)の名で知られる武田家の重臣で、しかも信玄の次女を娶っている言わば身内。

もう一人の葛山氏元は、駿河東部の国衆で葛山城(かずらやまじょう=静岡県裾野市)を居とする今川配下の武将でしたが、もともと今川領の国境に位置していた事もあって、今回の信玄の駿河侵攻にともなって武田方に鞍替えした人・・・先にも書かせていただきましたが、多くの武将が、今回の信玄の侵攻によって今川に見切りをつけて武田へと走っていたのです。

しかし、一方の富士信忠は、今回、氏真が掛川城に逃れた後になっても、かたくなに今川派に留まっていた人・・・ 代々、富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)富士大宮司を務める家柄であると同時にこの地の国人領主でもありました。

今回の2月1日の武田方の攻撃でも、見事、武田方を迎え撃ち・・・武田方に多くの死傷者を出す結果をもたらしたため、やむなく穴山梅雪を江尻城(えじりじょう=静岡県静岡市)に残して、武田勢本隊は撤退したのでした。

そんなこんなの5月17日、ここまで攻防中だった例の掛川城が今川氏真から徳川家康へと無血開城され、しかも、それが北条の仲介による物で、その後の氏真は北条で保護される事となり、同時に徳川と北条の同盟も締結されます。

ここに、戦国大名としての今川家は滅亡し、北条氏政の息子である北条氏直(うじなお)が今川氏真の猶子(ゆうし=契約上の養子)となって今川家の家督を継ぎ、駿河&遠江の支配権を保証されたのです。

しかも、6月9日には北条と上杉の間でも同盟が結ばれ、何やら一件落着な雰囲気・・・

「オイオイ、大井川から東はワシのモンやったんちゃうんかい!」
という信玄のツッコミが聞こえて来そうですが、なんやかんやで取った者勝ちの世は戦国・・・上記の氏直の駿河&遠江の支配権もあくまで保証されただけですから、ここは実力行使あるのみ!

この6月17日には、例の北条から離縁して戻されていた長女=黄梅院(おうばいいん)を亡くしている(6月17日参照>>)信玄でしたが、その悲しみも癒えぬであろう1週間後の6月23日、信玄は再び、穴山梅雪を大将に出兵します。

韮山(にらやま=静岡県伊豆の国市)から三島(みしま=静岡県三島市)方面を放火して回った武田の軍勢は、そのまま大宮城へと向かい、城の虎口(こぐち=城郭の出入口)に布陣し、すぐさま攻撃を開始したのです。

しばらくの間、その攻撃に耐えた大宮城ではありましたが、永禄十二年(1569年)7月2日、耐えきれなくなった富士信忠が穴山梅雪に降伏を申し出、大宮城は開城・・・信玄はようやく富士郡一帯を支配下に治める事ができました。

その後、この年の10月には、自身の駿河侵攻を阻む北条を潰すべく、北条の本拠地である小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を攻める信玄でしたが、その守りの固さにやむなく撤退・・・しかし、その帰り道を北条がすかさず攻撃!となる三増峠(みませとうげ=神奈川県愛甲郡愛川町)の戦いについては2007年10月6日のページ>>でどうぞ m(_ _)m

さらに続く12月の武田信玄による蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区)奪取!>>

この通り、完全に徳川との約束事が決別となったうえに、この頃から始まった将軍=足利義昭と織田信長のギクシャク感(1月28日参照>>)が加わって、信長と信玄の関係は最悪状態に・・・

なんせ、元亀二年(1571年)に起こった信長による比叡山焼き討ち(9月12日参照>>)「天魔ノ変化(てんまのへんげ)と激おこした信玄が、
「天台座主(てんだいざす=天台宗のトップ)沙門・信玄」
の署名で信長に手紙を送れば、信長が、ほんじゃ俺はと
「第六天魔王(だいろくてんまおう)・信長」と署名して返信する・・・といった具合ですから。。。
(第六天魔王=仏教世界の六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界)つまり全世界の魔王って事かと)

で、ご存知のように、翌年の元亀三年(1572年)、家康ピンチの、あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)の戦いが勃発する事になります。

●関連ページ
【家康惨敗の三方ヶ原の戦い】>>
【家康の影武者となって討死した夏目吉信】>>
【三方ヶ原後の犀ヶ崖の戦い~平手汎秀の死】>>
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 


« 本能寺の変の余波~前田利家に迫る石動荒山の戦い | トップページ | 七夕と雨にまつわる伝説~脚布奪い星と催涙雨 »

戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

コメント

 武田信玄の家来であったご先祖様の事を調べていて行き当たった茶々様のブログ、すごく楽しいです。茶々様の筆の冴えに歴史上の人物が近くに感じられ、素敵な知り合いが一気にたくさん増えた様な気がします。
 織田信長の年表、一息に読み終えるともったいないので、他の記事を交えながら読み、それでも本能寺の変前夜まで来てしまいました。読み終えたら、昨年ワールドカップロスにもならなかった私が、信長ロスになりそうです。
 私にとって貴重なブログになりました。ありがとうございました。お体に気をつけて、これからも更新よろしくお願いいたします。
 

投稿: イマジン | 2019年7月 3日 (水) 22時53分

イマジンさん、こんばんは~

うれしいコメントありがとうございます。
更新の励みになります。

投稿: 茶々 | 2019年7月 4日 (木) 01時51分

茶々様。
お久しぶりです。

いつもながら、見やすく、分かりやすく、楽しいブログ。

わくわくしながら、見てます〜!

もう、今年も折り返しですね。
早いなぁ(゜o゜;

ちょうど、今日から3連休もらったので茶々様のブログに触発されて山梨旅に行ってきます。

勝頼さんと北条夫人のお墓参りです。
勝頼さんで、是非映画作ってほしいなぁ。

大雨も凄いですけど、これから夏に向けて暑くなりますので体調に気を遣いながら素晴らしいブログの更新お待ちしております。
(°ー°〃)

投稿: 真 | 2019年7月 5日 (金) 09時11分

真さん、こんにちは~

旅ですか~イイですね。。。
梅雨時なので雨が心配ですが、お気をつけて…
楽しんで来てくださいませ

投稿: 茶々 | 2019年7月 5日 (金) 11時28分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 本能寺の変の余波~前田利家に迫る石動荒山の戦い | トップページ | 七夕と雨にまつわる伝説~脚布奪い星と催涙雨 »