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2019年8月26日 (月)

信長の伊勢侵攻~北畠具教の大河内城の戦い

 

永禄十二年(1569年)8月26日、織田信長が伊勢の北畠具教を攻めた大河内城の戦いが開始されました。

・・・・・・・・・

今は亡き第13代室町幕府将軍・足利義輝(あしかがよしてる)の弟である足利義昭(よしあき=義秋)の要請(10月4日参照>>)に応じ、永禄十一年(1568年)9月に、その義昭を奉じて上洛を果たし(9月7日参照>>)義昭を第15代室町幕府将軍に据える(10月18日参照>>)事に成功した織田信長(おだのぶなが)ではありましたが、今のところ実際に支配しているのは、永禄五年(1562年)に守護代の織田信賢(のぶかた)を攻めて統一を果たした尾張(おわり=愛知県西部)(11月1日参照>>)、永禄十年(1567年)に斎藤龍興(さいとうたつおき)から奪った稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・現岐阜城)(8月15日参照>>)を拠点とした美濃(みの=岐阜県南部)の2国のみ・・・

Odanobunaga400a 今回、上洛するに当たって、その行く道を阻んだ近江(おうみ=滋賀県)六角承禎(じょうてい・義賢)(9月13日参照>>)と、事実上畿内を牛耳っていた三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)(9月28日参照>>)を、一応は蹴散らしたものの、引導を渡すほどのダメージは与えておらず、追われた彼らも、未だある程度の兵力を温存したまま・・・

なので翌永禄十二年(1569年)1月に、早速、三好三人衆が動き出して義昭が滞在する本圀寺(ほんこくじ=当時は京都市下京区付近)を襲撃したりなんぞ(1月5日参照>>)・・・ここは、何とか配下の精鋭が守り切りましたが、不安に思った信長は、即座に、彼らの軍資金の出どころでもある(さかい=大阪府堺市)に脅しをかけて支配下に収めたり(1月9日参照>>)、義昭の御所を構築したり(2月2日参照>>)と、京都の守りを固めるのですが、一方で、自身の支配の及ぶ場所を拡大する事も急がねばならない事を痛感するのです。

そんな時、滝川一益(たきがわかずます)の調略によって、未だ支配下に治めていない伊勢(いせ=三重県中部)中部の木造具政(こづくりともまさ)が、兄で国司(こくし=地方官)北畠具教(きたばたけとものり)に背いて織田方につきます。

Kitabataketomonori500a これをキッカケに、永禄十二年(1569年)8月20日、信長自ら北畠討伐を目指しての伊勢侵攻を開始したのです。

その日のうちに桑名(くわな=三重県桑名市)、22日には白子観音寺(しろこかんのんじ=三重県鈴鹿市)、23日には小作(こづくり=三重県津市木造)へ・・・行く先々には、あらかじめ禁制を発給してその安全を確保し、進む軍隊は約8万騎とも10万騎とも言われるケタ違いの大軍でした。

かくして永禄十二年(1569年)8月26日、先陣を任されていた木下秀吉(きのしたひでよし=後の豊臣秀吉)率いる先遣部隊が阿坂城(あざかじょう=三重県松阪市)を攻め立てます。

抵抗を受けながらも、怯まずどんどん激しく攻め立てる織田軍に、「守り切れない!」と判断した北畠の軍勢は、やむなく降伏して城を開け渡して来たので、信長はここに、滝川一益を配備して、自らは、北畠具教・具房(ともふさ)父子の拠る大河内城(おかわちじょう=三重県松阪市)へと向かい、城の東側の山に陣取ります。

そして、その日のうちに町屋を焼き払ったうえで、南側には織田信包(のぶかね=信長の弟)や滝川一益など、西側には秀吉に氏家卜全(うじいえぼくぜん=直元)ら、北方には斎藤新五(さいとうしんご=利治・斎藤道三の末子)磯野員昌(いそのかずまさ)ら、東には柴田勝家(しばたかついえ)森可成(もりよしなり)など・・・万全の諸将らを配置したうえに、城を四方から2重3重の柵で囲み、その柵の間を、前田利家(まえだとしいえ)河尻秀隆(かわじりひでたか)毛利良勝(もうりよしかつ)といった面々に常時巡回させるという完全包囲体制を作り上げたのです。

こうしておいて、まずは9月8日、信長は、稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)池田恒興(いけだつねおき)丹羽長秀(にわながひで)ら3人に
「西の搦(から)め手から夜襲をかけろ」
と命じます。

その命令通り、その日の夜に3隊に分けれた奇襲部隊が夜討ちをかけますが、あいにく、攻撃開始から間もなく雨が降り始め、鉄砲がまるで役に立たず・・・しかも、城兵の反撃も予想以上に激しく、20数名の剛の者を討死させてしまいました。

このため、早速、翌日に信長は作戦変更・・・力攻めを止め、長期を視野に入れた兵糧攻めに切り替えます。

もちろん、さらに包囲を厳重にしたうえに、滝川一益に命じて、周辺の稲も焼き払いました。

ところが、コチラは予想以上に早く決着がつく事に・・・実は大河内城は、あまり兵糧の備えをしておらず、まして先の阿坂城から駆け込んだ者などは、まったくの着の身着のままの状況へ大河内の城へ入ったものですから、籠城から、わずか1ヶ月後には何人かの餓死者が出る状況となり、やむなく北畠具教は和睦の方向へと話を進めるのです。

信長から提示された条件は、大河内城を開け渡し、信長の息子=茶筅丸(ちゃせんまる=後の織田信雄)を具教の娘と結婚させて養子に迎え入れて北畠の後継者にする事。

北畠にとっては屈辱的な条件ですが、もはや、そうするしか無かったという感じだったのでしょうか。。。

かくして永禄十二年(1569年)10月4日、滝川一益らが大河内城へと出向き、城の受け渡しを行って後、北畠具教&具房父子は、笠木(かさぎ=三重県多気郡)坂内(さかない=三重県松坂市)に移りました。

ただし、今回の一連の流れについては、
先の稲葉一鉄らの夜襲が成功して、それが決定打となり開城に至ったという話(『稲葉家譜』『丹羽家譜伝』)や、
また、名門の北畠に織田信雄が入る事を不快に思った将軍=足利義昭の仲介で和睦に至ったという説もあります。

とにもかくにも、ここで一旦、織田に屈した北畠具教ではありましたが、そこは戦国武将・・・のらりくらりとかわしながら、しばらく実権は握ったまま、なかなか信雄に譲ろうとせず、しかも信長と義昭の対立が表面化すると、水面下で反織田派の武将に協力したり、隠居所と称して城を構築しようとしたり、なんやかやと暗躍していたようですが、結局、天正四年(1576年)11月、三瀬の変(みせのへん)と呼ばれる一件によって葬り去られ、北畠は滅亡となるのですが、そのお話は2011年11月25日【三瀬の変…名門・北畠の最後】のページ>>でどうぞm(_ _)m
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2019年8月20日 (火)

朝倉義景が自刃で朝倉氏滅亡~一乗谷の戦い

 

天正元年(1573年)8月20日、織田信長に一乗谷まで攻め込まれた朝倉義景が自刃しました。

・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)の9月に、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛した(9月7日参照>>)織田信長(おだのぶなが)が、その後の再三の上洛要請に応じなかった越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)金ヶ崎城(かながさきじょう・かねがさきじょう=福井県敦賀市)を攻撃したのが元亀元年(1570年)4月の手筒山・金ヶ崎の戦い(4月26日参照>>)

しかし、この時、自身の妹(もしくは姪)お市の方(おいちのかた)を嫁にやって味方につけていたはずの北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)が朝倉に味方した事で、挟み撃ち寸前の危機一髪で、信長はなんとか岐阜(ぎふ)に戻ってこれました(金ヶ崎の退き口>>)

Asakurayosikage500a その報復とばかりに、その3か月後に浅井を攻めたのが、ご存知、姉川の戦い(6月28日参照>>)・・・

さらに、その2か月後には、絶賛敵対中の三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)らとの戦いに石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)が参戦して(9月12日参照>>)各地で一向一揆(いっこういっき)が起こるわ(5月12日参照>>)、浅井&朝倉の残党を比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ=滋賀県大津市坂本)がかくまうわ(9月12日参照>>)武田信玄(たけだしんげん)は上洛の雰囲気を醸しだすわ(12月22日参照>>)・・・

そんな信長の周りは敵だらけ状態な中の元亀四年(天正元年・1573年)2月には、とうとう将軍=足利義昭もが信長に反旗をひるがえします(2月20日参照>>)

その間にもゲリラ的作戦を展開する浅井&朝倉と何度か刃を交える(7月22日参照>>)信長は、この年の7月に槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市槇島町)を攻撃(7月18日参照>>)して義昭を京都から追放した後、8月8日に、浅井配下の近江山本山城(やまもとやまじょう=滋賀県長浜市)の城主・阿閉貞征(あつじさだゆき) 織田方についた事をキッカケに、浅井長政の本拠=小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)主力部隊を投入します。

そこに援軍として駆け付けて来たのが朝倉義景の軍・・・小谷城の北側で展開された戦いで分が悪く、敗走しはじめた朝倉軍を追撃する形で、そのまま越前へと向かった織田軍は、8月13日~14日にかけて刀禰坂(刀根坂・とねざか=福井県敦賀市)で展開された戦いに勝利(8月14日参照>>)し、その勢いのまま朝倉義景が逃げ込んだ疋壇城(ひきだじょう=同敦賀市疋田)へと乱入し、奪い取ります。

ここで3日間、敦賀(つるが)に滞在して、更なる作戦を練った信長は、17日、朝倉の本拠地=一乗谷(いちじょうだに=福井県福井市城戸ノ内町)に向けて出発します。

この間、疋壇を追われた朝倉義景は、わずか5~6騎の従者となり、何度も「自刃しようか」と考えながらも家臣に押し留めらつつ、15日の夕方に何とか一乗谷の館に到着します。

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越前一乗谷朝倉氏遺跡
史跡については【戦国のポンペイ…一乗谷朝倉氏遺跡】のページで>>

あの小谷から、ここ一乗谷に戻るまでの間に、一乗谷守護代の前波吉継(まえばよしつぐ=後の桂田長俊)(1月20日参照>>)をはじめ、朝倉景健(かげたけ=後の安居景健)朝倉景冬(かげふゆ=後の三富景冬)などなど、主だった武将の多くが「形勢悪し」とばかりに、朝倉から織田へと寝返ってしまったのです。

「殿中蕭条(さびしく)女臈(じょろう)も涙に袖を濡らす」『朝倉始末記』
「谷中の老若貴賤(ろうにゃくきせん=老いも若きも身分の高い者も低い者も)は泣き悲しみ上を下へのおおさわぎ…東西南北に逃げる有様も見るに堪えず…」『越前戦国野史』
と、まあ・・・激しく落ち込んで戻って来た義景主従を目の当たりにした家族や近侍たちが…いや、もはや一乗谷中が驚き動揺します。

主だった家臣団が離反した今となっては、この少人数で一乗谷を守る事は難しい・・・

今や数少ない味方である一族の朝倉景鏡(かげあきら)の進言に従い、翌8月16日の午前10時頃、最愛の女性=小少将(こしょうしょう)と彼女との間にもうけた息子=愛王丸(あいおうまる)、母=高徳院(こうとくいん)と、未だ従ってくれるわずかの重臣を従えて一乗谷の館を出た義景は、氏神の赤渕(あかぶち)大明神にお参りした後、景鏡の居城である亥山城(いぬやまじょう=福井県大野市日吉町)へと落ちていくのでした。

その日の午後8時頃、朝倉景鏡とは旧知の間柄である大野の東雲寺(とううんじ=福井県大野市)に入った義景は、翌17日、平泉寺(へいせんじ=福井県勝山市平泉寺町)救援要請の書状を送ります。

しかし手紙を受け取った平泉寺では、一山大衆の協議の結果、「織田軍優勢」と見て織田に味方する事とし、逆に、義景が滞在中の東雲寺付近に放火・・・さらに別動隊が一乗谷にも乱入して、主郭や社寺、家臣団の館などに次々と放火して回り、その炎は三日三晩に渡って城下町を焼き尽くし、朝倉五代の栄華誇り、越前の小京都と呼ばれた一乗谷は焦土と化してしまったのです。

もはや一乗谷に戻る事もできなくなってしまった義景ご一行・・・「東雲寺では防備に不安」と進言する朝倉景鏡に従い、今度は賢松寺(けんしょうじ=福井県大野市泉町)に入りました。

ところが天正元年(1573年)8月20日、早朝の賢松寺に、けたたましく兵の叫び声が響きます。

本来なら義景を守るべき朝倉景鏡の兵が堂内に乱入して来たのです。

最後の最後、景鏡までもが織田に寝返ったのですね。

「織田優勢」の形勢を見て、自分だけは助かろうとした?
と一般的に言われますが、戦国時代の一般常識を考えると、以前【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事…】のページ>>に書かせていただいたような、「血筋を残すための最後の手段」だったのかも知れません。

なんせ景鏡は10代当主=朝倉孝景(たかかげ=義景の父)の弟の子・・・つまり義景の従兄弟(いとこ)なわけで。。。

この戦国武将の一般常識が暗黙の了解となっていたのであれば、今回の景鏡配下の兵の乱入で「最後のの手段」の発動を悟ったであろう義景・・・覚悟を決めた義景は「無念!」と言い残し、その腹を真一文字に割いて、腹から腸(はらわた)をつかみ出し、その血で

七転八倒(しちてんばっとう)
四十年中(しじゅうのうち)
無他無目(たなくじなく)
四大本空(しだいもとよりくう)
「いろんな事があった40年の人生やったけど、結局は、他人も俺も実体もないカラッポな物なんやな」

という辞世の句を襖に書き残した壮絶な最期だったのだとか・・・
(↑切腹した本人が内蔵を…は、実際にはおそらく無理なので軍記物の常とう手段で盛ってると思いますが…)

残された妻子&母は、京都に送られる途中の今庄(いまじょう=福井県南条郡南越前町)付近で刺殺されたと言われ、ここに朝倉は滅亡しました。

この後、朝倉の滅亡で孤立した浅井長政の小谷城を信長が攻めるのが1週間後の8月27日・・・
★参照ページ↓
【小谷城・落城~浅井氏の滅亡】>>
【落城の生き残り~海北友松の熱い思い】>>
【浅井長政・最後の手紙】>>

こうして、いわゆる「信長包囲網」の一角が崩れました。

ちなみに、今回討ち取った朝倉義景や浅井長政らの首に薄濃(はくだみ=漆でかため金などで彩色したもの)を施して、翌年の正月の宴の席で盃変わりにして信長が酒を飲んだというお話は、今では、信長の残忍さを強調するための創作であったと考えられています。

もし「首に薄濃」が事実だったとしても、それは死んだ相手に敬意を表する「死化粧」の一種と思われ・・・それも、先の「親兄弟で敵味方に分かれる話」と同様に、戦国の一般常識を現代の一般常識で考えてしまっては、間違った解釈をしてしまう事になりますので、注意が必要ですね。
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2019年8月14日 (水)

謙信の死を受けて…長連龍が奪われた穴水城を奪回

 

天正六年(1578年)8月14日、上杉謙信の侵攻を受けて奪われていた穴水城を長連龍が奪回しました。

・・・・・・・・

室町時代、足利将軍家からの信頼も篤く、第6代管領(かんれい=室町政権下での将軍補佐)越前(えちぜん=福井県東部)越中(えっちゅう=富山県)守護(しゅご=県知事)でもあった畠山基国(はたけやまもとくに)が明徳二年(元中8年=1391年)に能登(のと=石川県北部)の守護にもなった事で、その次男である畠山満慶(みつのり)が初代の能登守護になって以来、第7代当主=畠山義総(よしふさ)の頃には居城の七尾城(ななおじょう=石川県七尾市古城町)を中心に栄えた城下町が能登の小京都と称されるほどに栄えた能登畠山氏

しかし、名君であったその義総が亡くなって後は家中が乱れ、やがて畠山七人衆(はたけやましちにんしゅう)と呼ばれる重臣たちが力を持ち、畠山の当主は名ばかりとなってしまいます。

さらに、そこに起こる重臣同志の権力争いで徐々に衰退の道をたどる中、天正四年(1576年)、2年前に急死した兄=畠山義慶(よしのり)の後を継いだ第11代当主=畠山義隆(よしたか)も急死して、未だ幼い(5~6歳?)息子の春王丸(はるおうまる)が後を継ぎます。
(ちなにみ、相次ぐ当主の死は、重臣による毒殺とも噂されます…なんせ上記の通り、もはや当主=畠山は名ばかりの状態でしたから)

この時、幼き春王丸に代わって城内の実権を握っていたのが長続連(ちょうつぐつら)綱連(つなつら)父子・・・とは言え、上記のモメまくりでお察しの通り、長続連が実権を握っている=他の重臣たちは不満なわけで・・・

そこをうまく利用したのが、ここんとこ、自身の領地=越後(えちご=新潟県)から南へ南へと侵攻して来ていた上杉謙信(うえすぎけんしん)でした。

★参照ページ
【謙信VS加賀越中一向一揆~日宮城攻防】>>
【謙信が富山へ侵攻】>>
【上杉謙信の飛騨侵攻】>>

難攻不落の七尾城を攻めあぐねた謙信は、七尾城内に疫病が流行して春王丸が亡くなったタイミングを合わせ、お抱えの忍びを使って長父子と敵対関係にある重臣=遊佐続光(ゆさつぐみつ)温井景隆(ぬくいかげたか)らを寝返らせ、天正五年(1577年)9月15日、寝返った彼らに長続連&綱連父子を殺害させて七尾城を手に入れたのです(9月13日参照>>)

Tyouturatatu700 この謙信の七尾城侵攻の際、生まれ育った穴水城(あなみずじょう=石川県鳳珠郡穴水町)にて防戦した長続連の三男=長連龍(つらたつ)は、敗戦を予想した父の命により海路で城を脱出し、謙信と敵対関係にある織田信長(おだのぶなが)のもとに救援要請に向かっていますが、8日後に織田の援軍を連れて戻って来たところ、すでに父や兄、そして長一族の首が浜辺に晒されている状況を見て七尾城の落城を知り、空しく、また安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)へと戻ったとか・・・

その後、9月18日もしくは23日にあったか?無かったか?とされる手取川(てどりがわ=石川県白山市→日本海)の戦い(9月18日参照>>)から、その翌日の9月24日には、上杉家臣の長沢光国(ながさわみつくに)が能登畠山の庶流=松波義親(まつなみよしちか)の籠る松波城(まつなみじょう=石川県鳳珠郡能登町)を落とし(9月24日参照>>)、ここに能登畠山氏が滅亡し、謙信による能登平定が完了したのです。

この年の12月、長沢光国の穴水城・城将をはじめ、自らの配下の者を能登の諸城に配置して、謙信は帰国の途に就きました。

こうして、ただ一人の生き残りとなった長連龍・・・その胸にふつふつと湧き上がるのは、上杉に寝返った彼らへの復讐の念と、一族の恨みを晴らす事でした。

とは言え、心ははやるものの、能登畠山の家臣団が散り々々になってしまった今となっては、何をするにしても、まずは織田の兵力を借りなければどうにもならない・・・

しかし、この頃の信長・・・、
すでに浅井(あざい)朝倉(あさくら)を倒し(8月28日参照>>)、将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を京都から追放して(7月18日参照>>)長篠・設楽ヶ原(したらがはら)武田勝頼(たけだかつより=信玄の息子)を破った(5月21日参照>>)事で、目下の強敵は、今回の謙信と顕如(けんにょ)が扇動する石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)一向一揆(9月12日参照>>)くらいではありましたが、ここに来て、その謙信と本願寺が和睦した(5月18日参照>>)うえに、西の雄=毛利輝元(もうりてるもと=元就の孫)本願寺に味方して支援し、信長は、かなりの苦戦を強いられていました(7月13日参照>>)

しかも、この毛利は、さすがに大国だけあって、本願寺への支援だけでなく、畿内から西へ進もうとする信長配下の者=但馬(たじま=兵庫県北部)攻略中の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)【但馬攻略~岩州城&竹田城の戦い】丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部)攻略中の明智光秀(あけちみつひで)【光秀の丹波攻略戦~籾井城の戦い】ら、中国地方攻略の諸将にも影響を与える(12月1日参照>>)状態なので、信長としては「本願寺+毛利」に手がかかり、なかなか北陸への兵力を割けない状況でした。

実際、自身への支援を求めて来た長連龍に対し、
「今は、中国征伐の時なので、北陸に兵を回す事は困難…北陸への支援については勝家に話してあるので、まずは彼と話し合うように」
と言って聞かせたとの記録もあります。

ご存知のように、この時期の織田政権の北陸担当は柴田勝家(しばたかついえ)ですからね・・・まずは勝家と相談して必要ならば、勝家から信長に支援を要求するというダンドリを踏まねばならないという事です。

一方、雪深い冬の越後に戻った謙信は、春を待ってさらに西へと手を広げるつもりで、北陸はもちろん信濃(しなの=長野県)や関東の諸将にも召集の声をかけ、天正六年(1578年)3月15日を出陣の日と決めて、この大軍で以って北陸制覇に向けての準備を進めていました。

ところが・・・
その出陣直前の3月9日にトイレで倒れ、4日後の13日に謙信は帰らぬ人となったのです(3月13日参照>>)

しかも、生涯女性を寄せ付けなかった謙信には実子がおらず、その養子同志での後継者争いが勃発(【御館(おたて)の乱】参照>>)、もはや上杉家は北陸云々ではなくなってしまったのです。

当然ですが、主君を失った長沢光国以下、穴水城内の士気も下がり・・・あの日「恨みを晴らす!」と誓った長連龍にとっては意外にも早く訪れたリベンジチャンス!となったのです。

そこで、先に言われた通り、北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)へと行って柴田勝家に出兵を願うも、思うように事が運ばなかった連龍は、織田の支援を待つより、自力での穴水城を奪回する決意を固め、以前からの知り合いや浪人たちに声をかけて回ります。

まず、連龍の呼びかけに応じた松平久兵衛(まつだいらきゅうべえ)以下500名ほどが集まり、さらに能登周辺で密かに動いていた伊久留了意(いくろりょうい)らが旧臣=300名の賛同を得、あとは絶好のチャンスとなる「その時」を見計らいます。

もともと、長一族の居城であった穴水城とは言え、ここは一方が谷、二方が海という天然の要害ですから、気を引き締めて・・・

ところが・・・
1度目は、8隻の舟に、それぞれ兵を分乗させて三国(みくに=福井県坂井市)を出港して、能登半島を挟んで穴水城とは反対側になる富来(とぎ=石川県羽咋市)の港を目指して進んだものの、激しい風に邪魔されて、あえなく失敗に終わります。

しかし、天正六年(1578年)の8月に入って輪島(わじま=石川県輪島市)に住む中島藤次(なかじまふじつぐ?)なる人物が3隻の大船を用意してくれた事で、連龍らは再び三国港から富来港をめざして出発・・・今度は無事、富来への上陸に成功します。

かくして天正六年(1578年)8月14日、 目印となる『昇竜降竜の旗』を押し立てて、いかにもヤル気満々な雰囲気を醸しだして、穴水城へと進軍する連龍ら・・・その数は約1000余人に膨れ上がったものの、人員は浪人やら僧やら神主やらか入り混じっていたため、ひとりひとりの装備が揃っておらず、なんだか異様な集団に見えたのだとか・・・

でも彼らは強かった~
連龍らの呼びかけに急きょ集まった烏合の衆のワリには、その士気は高く、またたく間に穴水の守りを撃破して攻め落としました。

また一説には、この時、城将の長沢光国は、七尾城主の鰺坂長実(あじさかながざね)とともに主力部隊を率いて正院(しょういん=石川県珠洲郡)で勃発した一揆の鎮圧に向かっており、城には白小田善兵衛以下、少ない守備隊しかいなかったとか・・・

連龍が狙っていたタイミングは、おそらくコレ・・・つまり、城の守りが手薄なところを一気に落とした~という感じでしょうか?

ちなみに、この間に織田勢も、上杉の後継者争いのドサクサに紛れて越中の奥深くまで侵入しています(【月岡野の戦い】参照>>)

とは言え、もちろん、今回はやむなく城を捨てて逃走した白小田善兵衛も、留守にしていた長沢光国らも、このまま黙っているわけにはいきません。

ほどなく、かの遊佐や温井も大挙して駆け付け、長沢らとともに奪われた穴水城を取り囲みます。

果敢に城外へ撃って出て奮戦する連龍らでしたが、もともとかき集めた手勢だけでは何ともし難く・・・やがて、城内の兵糧も底をつき始めた10月22日、密かに穴水城を脱出した連龍は、石動山(いするぎやま=石川県鹿島郡中能登町)を越え、越中氷見(ひみ=富山県氷見市)から守山城(もりやまじょう=富山県高岡市)神保氏張(じんぼううじはる)のもとへ逃げ込みました。

その後、連龍は、その神保氏張の妹(もしくは娘?)と結婚して両家の縁を固めた後、七尾城の鰺坂を味方に引き入れて能登各地を転戦し、遊佐&温井に対抗していく事になります。

その後の長連龍のお話は(今回と内容がかぶっている部分があり恐縮ですが…)
【長連龍の復讐劇】>>
そして、あの本能寺の変の余波となる
【前田利家に迫る石動荒山の戦い】>>
でどうぞm(_ _)m
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2019年8月 7日 (水)

天正壬午の乱~徳川VS北条の若神子の対陣

 

天正十年(1582年)8月7日、織田信長の死後に起こった旧武田領争奪戦=天正壬午の乱で北条氏直が若御子に着陣しました。

・・・・・・・・

天正十年(1582年)2月9日に始まった織田信長(おだのぶなが)による甲州征伐(こうしゅうせいばつ)(2月9日参照>>)・・・約1ヶ月後の3月11日に天目山(てんもくざん=山梨県甲州市大和町)に追い込まれた武田勝頼(たけだかつより)が自刃(2008年3月11日参照>>)して、ここに甲斐(かい=山梨県)に君臨した武田氏が滅亡しました

その甲州征伐での論功行賞で、滅ぼした武田の旧領を与えられたのは、
甲斐国河尻秀隆(かわじりひでたか)
ただし穴山梅雪の支配地は除き、その代替地として諏訪1郡をプラス
駿河国徳川家康(とくがわいえやす)
上野国信濃国(小県・佐久2郡)滝川一益(たきがわかずます)
信濃4郡(高井・水内・更科・埴科)森長可(もりながよし)
信濃木曽谷2郡木曽義昌(きそよしまさ)に追加
信濃伊那1郡毛利長秀(もうりながひで・秀頼)
岩村(岐阜県恵那市)団忠直(だんただなお)
金山米田島(よねだじま=岐阜県加茂郡)森定長(もりさだなが=長可の弟・蘭丸)
でしたが、ご存知の通り、そのわずか3か月後の6月2日の本能寺(ほんのうじ=京都市中京区)の変にて、かの信長が死亡(2015年6月2日参照>>)します。

上記の中で、その日、信長とともに本能寺にいたた森定長は討死し、嫡男=織田信忠(のぶただ=信長の嫡男)(2008年6月2日参照>>) の拠る二条御所(にじょうごしょ=京都府京都市)いた団忠直も死亡・・・(さかい=大阪府堺市)見物をしていた徳川家康は決死の伊賀越え(6月4日参照>>)で自身の領国=三河(みかわ=愛知県西部)を目指します。

一方、新領地にいた者たち・・・ 上記の通り、わずか3ヶ月間の統治ゆえ、未だ完全に現地を掌握しきれていない状態なので、ここぞ!とばかりに周辺が動き出しため、
蜂起した武田遺臣の一揆によって河尻秀隆は命を落とし(2013年6月18日参照>>)
行く手を阻む相模(さがみ=神奈川県)北条氏直(ほうじょううじなお)に敗れた滝川一益(2007年6月18日参照>>)は敗走・・・

また、危険を感じて所領を放棄した毛利長秀と、鬼の形相で敵を蹴散らしながら行軍した森長可(4月9日参照>>)は、何とか本国へ戻る事ができました。

…って事は、つまりは、旧武田の領地にいた織田の家臣がいなくなったわけで・・・(ちなみに、木曽義昌は、家康と同じく織田家の家臣ではない独立大名なので、身動きは取れませんが、もとの木曽での領地は確保されてる状況です)

…で、この宙に浮いた旧武田領を、近隣の武将=先の相模の北条と越後(えちご)上杉景勝(うえすぎかげかつ)と三河の徳川家康らが奪い合う・・・これが天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)と呼ばれる戦いですが、

その中でも、北条と徳川が相対したのが若神子の対陣(わかみこのたいじん)・・・今回は、その様子を時系列で見ていきましょう(注:少し時間が戻ります)

・‥…━━━☆

まずは、今回の信長横死に、最も早く反応したのは徳川家康・・・上記の伊賀越え>>のページにも書きましたが、家康が本拠の岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)に戻ったのは6月7日とされていますが、すでに、その前日の6月6日の段階で配下の岡部正綱(おかべまさつな)に、下山(しもやま=山梨県南巨摩郡身延町)行き、そこに城を構築するよう命じています。

これは、途中まで行動をともにしながらも、本能寺の知らせを聞いて別行動をとり、当時の6月2日の段階で落武者狩りに遭って命を落とした(3月1日参照>>)武田からの寝返り組=穴山梅雪(あなやまばいせつ=信君)の領地である河内(かわち=同南巨摩郡)を確保せんがための工作で、この素早さには「梅雪を暗殺したのて本当は家康なんちゃうん?」と、現代の歴史好きからの疑いの目が向けられるほどに・・・

同時に家康は、家臣の本多信俊(ほんだのぶとし)らを甲斐に向かわせて河尻秀隆に信長の死を報告するとともに「甲斐は危ないから美濃(みの=岐阜県)に戻るように」と伝えますが、これを「家康が甲斐を奪おうとしている」と見た秀隆は、それに応じず、本多信俊を殺害して甲斐に留まります。

一方、6月11日に信長の死を知った北条では、甲斐に残る武田遺臣たちを一揆へと扇動しつつ、滝川一益に探りを入れ、「北条は織田家と相まみえるつもりは無い」旨を伝えますが、結局は、6月18日に上記の神流川の戦い(かんながわのたたかい)>>にて一益をを小諸城(こもろじょう=長野県小諸市)へと敗走させます。

この間の6月15日頃に、北条からの呼びかけに応じた武田遺臣に、河尻秀隆に殺された本多信俊の配下が接触し、互いに協力して一揆軍が蜂起・・・これまた上記の通り、一揆軍に囲まれた河尻秀隆も神流川と同日の6月18日に死亡>>します。

ここで家康は、本多信俊らの家臣とともに一揆で頑張った旧武田の家臣を自身の配下に加えて掌握すると、旧武田家臣の依田信蕃(よだのぶしげ)(2月20日参照>>)に彼らを率いらせて小諸城へと向わせ、6月26日には滝川一益から小諸城を引き渡させます。

さらに一旦、信長の仇である明智光秀(あけちみつひで)討伐に西に向かう姿勢を見せつつも、かの山崎の合戦(6月13日参照>>)の結果を見てか?、やっぱり浜松(はままつ=静岡県浜松市)へと戻った後、今度は武田の旧領全体を制圧すべく7月3日に甲府(こうふ=山梨県甲府市)に向けて出陣し、7月9日には自身に味方する知久頼氏(ちくよりうじ)らを、北条に味方する諏訪頼忠(すわよりただ)の拠る高島城(たかしまじょう=長野県諏訪市)攻略へと向かわせます。

これを知った北条側・・・この時、川中島(かわなかじま=長野県長野市)方面まで出陣していた北条氏直は、早速、南下して小諸城へと迫り、7月12日に依田信蕃を小諸城から退去させ、この周辺を掌握した後、さらに南下・・・

そこを、「このまま北条を甲斐へ侵入させてなるものか!」と家康は、配下の酒井忠次(さかいただつぐ)を先の高島城へと向かわせ、7月22日から高島城への総攻撃を開始しますが、そこに大軍を率いた氏直がやって来た事から、さすがに兵数の大差を感じ、8月1日、一旦、城の囲みを解いて甲斐新府(しんぷ=山梨県韮崎市)まで退きます。

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若神子の対陣の関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして天正十年(1582年)8月7日氏直以下、北条軍が若神子(わかみこ=山梨県北杜市須玉町)に着陣したのです。

これを受けた家康は8月10日に、布陣していた甲府を出て新府へ移動・・・と一触即発の雰囲気ではありますが、これが「若神子の対陣」と称されるように、ここから80日間に渡って、両者はほぼ動かずに対峙したままの様相となります。

とは言え、この間に一方で、北条氏忠(うじただ=氏直の叔父)率いる北条別動隊が、氏直を援護すべく御坂峠(みさかとうげ=山梨県南都留郡富士河口湖町と同県笛吹市御坂町にまたがる峠)から甲府目指して進軍して来ていました。

氏直主力部隊と氏忠援護部隊・・・「これでは完全に挟み撃ちにされてしまう!」
とばかりに、家康は、8月12日、鳥居元忠(とりいもとただ)水野勝成(みずのかつなり)らが率いる部隊が黒駒(くろこま=山梨県笛吹市御坂町付近)に派遣して氏忠軍を迎撃させます。

これが、予想以上の徳川の大勝となった事で、氏忠援護部隊はその先へ進めず、北条は動きを封じられてしまうのです。

さらに家康は、北条の背後を脅かすべく、下野(しもつけ=栃木県)宇都宮国綱(うつのみやくにつな)と連絡を密にしたり、依田信蕃を通じて、北条側にいた真田昌幸(さなだまさゆき)を寝返らせたり、木曽義昌に所領安堵の約束をして諏訪(すわ=長野県諏訪市)方面への出兵を取り付けたり、北条に属しながらも黒駒の合戦後に静観し始めた高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市高遠町)保科正直(ほしなまさなお)を味方につけたり・・・とにかく、ありとあらゆる手段を使って自身を有利な方向へと導いていくのです。

そして8月21日には、かの甲斐一揆の時に協力して以来、なんとなくの味方?仮契約?状態だった武田家の遺臣たち800余名から、正式な起請文(きしょうもん=忠誠を神に誓う文書)を提出させて正社員雇用・・・なんだか家康さんが、武田の旧領&旧臣を、まるっといただく?てな雰囲気ですね。

そうなると・・・
もはや、甲斐&信濃における北条の勢力範囲は、ここ若神子周辺のみに・・・しかも、この間、両軍には小競り合いは起こるものの、大きく態勢が変動しないままのこう着状態。

いつしか、北条は和議に向けて動き始めます。

この時、徳川との間に入って尽力したのは、今川での人質時代に家康との面識があった北条氏規(うじのり=氏直の叔父)(2月8日参照>>)・・・

一方の家康も、実は信長の息子である織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)織田信孝(のぶたか=信長の三男)から「ちゃっちゃと解決しぃや」の勧告状が届いていたらしく、この状態をあまり長引かせたくはなかったわけで・・・

そこで、対陣から2ヶ月余りが過ぎた天正十年(1582年)10月29日、ようやく北条と徳川の間に講和が結ばれたのです(10月29日参照>>)

その条件は
●甲斐と信濃は家康が、上野は氏直の切り取り次第。
●家康の次女=督姫(とくひめ)が氏直に嫁ぐ。
●今後は北条を離れて徳川に服属する事を表明している真田昌幸の領地は北条の物とし、真田には徳川から代替えの領地を与える。
の三つでした。

一見、「北条は上野だけ?家康の方が得してる?」てな感じに見えてしまいますが、甲斐や信濃には、未だ納得していない国衆もいて、先の依田信蕃なんかは、この後の信濃のゴタゴタで命を落としたりなんかしてますので、逆に上野の支配権がバッチリ確保された事は北条にとってかなりの安心だったのかも・・・

そして、ご存知のように、この三つ目の条件が、後々、ややこしい事になって行くのです・・・が、そのお話は【第1次上田合戦~神川の戦い】で>>

さらにさらに・・・この北条との国境線のゴタゴタは、やがては、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)による小田原征伐(おだわらせいばつ)の引き金となってしまうのですから(10月23日【小田原攻めのきっかけ・名胡桃城奪取】参照>>)、ホント、歴史は巡り巡って永遠に繋がっていく・・・流れを見て行きながら原因→結果を考えていくとワクワクしますです。
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2019年8月 1日 (木)

上杉謙信VS長尾房長&政景~坂戸城の戦い

 

天文二十年(1551年)8月1日、上杉謙信が長尾房長&政景父子の籠る坂戸城への総攻撃を通告しました。

・・・・・・・・

坂戸城(さかどじょう=新潟県南魚沼市)の城主=長尾房長(ながおふさなが)は、越後(えちご=新潟県)守護代(しゅごだい=副知事)を務める越後長尾(ながお)の分家である上田長尾(うえだながお)の6代目当主。

本家の越後長尾家の当主である長尾為景(ためかげ)とは兄弟だったという説もあるものの、一般的には実父が長尾憲長(のりなが)、養父がその弟の長尾景隆(かげたか=つまり房長の叔父)で、越後長尾家の一族ではあったものの、関東管領(かんとうかんれい=室町幕府将軍補佐)越後守護(しゅご=県知事)でもある山内上杉(やまのうちうえすぎ)被官(ひかん=官僚)であったとされます。

そんな中、ここんとこの戦国下剋上で守護代の為景が守護の上杉をしのぐ勢いを見せて来ていた(長森原の戦い参照>>永正の乱参照>>)ものの、一方で越後内での争いにより、為景は天文五年(1536年)に隠居に追い込まれ、嫡男の長尾晴景(はるかげ)が、春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)にて、その後を継ぐ事になります。

しかし、この晴景さん・・・戦いにはあまり向かない穏やかな性格であったようで、ある程度越後の内乱は収めたものの、当時の越後守護=上杉定実(さだざね=晴景の養父)が絡んだ奥州(おうしゅう=東北地方)伊達(だて)の内紛(4月14日参照>>)の影響を受け、なかなか国内の情勢は定まらない・・・

そんな中、仏門に入っていた晴景の弟が還俗(げんぞく=仏門に入っていたいた人が一般人に戻る事)して長尾景虎(かげとら)と名乗って栃尾城(とちおじょう=新潟県長岡市)の城主となって、謀反を起こした黒田秀忠(くろだひでただ)を倒した事から、一部の家臣の間で景虎を当主に擁立する動きが見え始めます。

Uesugikensin500 この景虎が後の上杉謙信(けんしん)です。
(後で養子の景虎が出て来てややこしいので、ここからは謙信の名で…)

当然、家中は晴景派と謙信派、真っ二つに分かれる事に・・・この時、謙信の母=虎御前(とらごせん)の実家である古志長尾(こしながお)の勢力が一族内で強大になる事を恐れた長尾房長は、晴景に味方し、両者一触即発の状態となりますが、ここに上杉定実が仲裁に入ります。

現状は「上杉>長尾」とは言え、なんだかんだで定実は長尾家の主君ですから、とりあえず、このゴタゴタは晴景派が矛を収め、天文十七年(1548年)12月に晴景は謙信と「父子の義」を結んで隠居し、19歳の若き謙信が春日山城主となりました。

とは言え、当然ですが、房長の心の奥底には、多少の不満は残ったまま・・・そんなこんなの天文十九年(1550年)2月、かの上杉定実が亡くなります。

定実には後継ぎがいなかった事から、その死の直後に、謙信は、時の将軍=足利義輝(あしかがよしてる)から、実質的な国主待遇を許可されたのです。
つまり、それは「上杉家に代わって、守護をやれ」という事・・・

ここで、房長の中にあった悶々とした不満が、一気に噴出します。

天文十九年(1550年)12月、房長は息子の長尾政景(まさかげ)とともに、坂戸城に籠って反謙信の旗を揚げるのです。

これを知った謙信は、先手を取って、房長に味方しそうな会津黒川城(くろかわじょう=会津若松市)主の蘆名盛氏(あしなもりうじ)に対し、その家臣である松本右京亮(まつもとうきょうのすけ)に宛てた12月28日付けの書状にて(おそらく味方にならぬよう釘を刺す意味で)房長&政景謀反の報告をします。

こうしておいて、年が明けた天文二十年(1551年)1月15日、謙信は、板木城(いたぎじょう=新潟県魚沼市板木)に本拠を持つ房長方の発智長芳(ほっちながよし)を襲撃します。

発智のピンチを聞きつけた金子尚綱(かねこなおつな)が即座に出陣し板木に向かいましたが、時すでに遅し・・・現地に到着した時は、発智長芳の妻子らが人質として春日山城に連行された後でした。

さらに謙信は、2月14日にも、こんこんと雪が降り積もる中、発智長芳への攻撃に向かいますが、さすがに雪深く、この時は決定打を放つ事はできませんでした。

そんな中、房長&政景父子は、なんだかんだで「謙信には勝てない」と、この春頃から、かたくなな姿勢を緩めて和平に向けて交渉を開始しますが、謙信に許す気配はなし・・・

かくして天文二十年(1551年)8月1日謙信は、坂戸城への総攻撃を通告したのです。

謙信の襲撃計画を知った房長&政景父子は、慌てて誓詞(せいし=忠誠を神仏に誓う文書)を提出し降伏しました。

それでも、許すつもりは無かった謙信でしたが、古くからの老臣たちの助命嘆願があった事や、なんだかんだで同じ長尾の一族である事から、最終的に房長&政景父子を許す事とし、謙信の姉=仙桃院(せんとういん=当時は綾?)が、息子の政景に嫁ぐ事で両者の溝を埋め、今回は一件略着となるのです。

ただし、この政景と仙桃院との結婚については天文五年(1536年)~六年前後という説もあり、その場合は上田長尾家と越後長尾家の関係強化のための婚姻であり、その縁があるからこそ、今回の謀反も許したのでは?と考えられています。

とにもかくにも、謙信にとっては、ここで長尾房長&政景父子を臣下とした事で、長尾家相続以来くすぶっていた一族の中での争いに終止符を打つことができ、憂いなく外へと目を向ける事ができるようになり、この後、わずか22歳で越後を統一する事になります。

一方の房長&政景父子・・・父の房長は、この翌年の天文二十一年(1552年)に亡くなりますが、その後を継いだ政景は、自身もろとも謙信の配下となった上田衆(上田長尾家の家臣)を率いて、越後長尾家の重臣として活躍し、あの弘治二年(1556年)の謙信出家騒動の時にも、必死のパッチで主君を引き留め、何とか思いとどまらせています(6月28日参照>>)

しかし、その8年後の永禄七年(1564年)7月、坂戸城近くの野尻池にて舟遊びをしていたところ、ともに舟に乗っていた謙信の重臣=宇佐美定満(うさみさだみつ)もろとも舟から落ち、溺死してしまうのです(7月5日参照>>)

その7月5日のページに書かせていただいたように、この溺死に関しては、イロイロ言われています。

舟の上でお酒を飲んでいた事から、酔った勢いの事故説もありますが、謙信の命を受けた宇佐美定満による命懸けの暗殺とも・・・どうやら、なんだかんだで越後長尾家と上田長尾家の溝は埋まってはいなかったようで・・・ その因縁は謙信の死後のアレコレを見るとなんとなく見えて来ます。

そうです・・・子供がいなかった謙信が、自身の養子として迎えた上杉景勝(かげかつ)は、この政景さんと仙桃院の子供・・・

謙信亡き後に、もう一人の養子=上杉景虎(かげとら=実父は北条氏康)と後継者を巡って争った御館の乱(おたてのらん)の時、景虎の支援をしたのが古志長尾家で、一方の景勝の配下は当然、実家でもある上田衆なわけですが、ご存知のように、結果的に景勝が勝利し(3月17日参照>>)上杉家の後継者は景勝・・・となる。

なんだか、かつて晴景派と謙信派に分かれた、あの時の古志長尾家VS上田長尾家の代理戦争のよう・・・

ところで、この御館の乱の景勝勝利には、景勝側が、未だ謙信が生きている間に、いち早く春日山城の本丸と武器庫と金蔵を占拠したと、当時、景虎実家の北条と同盟を結んでいて景虎に援軍を出すつもりでいたた甲斐(かい=山梨県)武田勝頼(たけだかつより)寝返らせた事が大きく関わっているのですが・・・

もちろん、御館の乱は上杉家を真っ二つに分けた家中の大乱ですから、その勝因&敗因も色々ありますが、私個人的には、上記の2件が成功した事が景勝勝利につながる、かなり重要度が高い出来事だと思っています。

が、この二つ一大事業をやってのけたのは、実は、景勝直属の上田衆ではい無い人・・・ 春日山城の占拠は、上杉定実の一族の上条政繁(じょうじょうまさしげ)という人で、武田との交渉は越後の北部を領していた新発田重家(しばたしげいえ)だったとされています。

しかし、この戦いの後、上杉家内で大きく出世するのが上田衆だった・・・

そのためか?結局、上条政繁は豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)のもとへと走り、新発田重家は独立を夢見て反旗を翻す事になるのですが、そのお話は【上杉景勝の宿敵~独立を夢見た新発田重家】>>でどうぞm(_ _)m
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