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2019年8月26日 (月)

信長の伊勢侵攻~北畠具教の大河内城の戦い

 

永禄十二年(1569年)8月26日、織田信長が伊勢の北畠具教を攻めた大河内城の戦いが開始されました。

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今は亡き第13代室町幕府将軍・足利義輝(あしかがよしてる)の弟である足利義昭(よしあき=義秋)の要請(10月4日参照>>)に応じ、永禄十一年(1568年)9月に、その義昭を奉じて上洛を果たし(9月7日参照>>)義昭を第15代室町幕府将軍に据える(10月18日参照>>)事に成功した織田信長(おだのぶなが)ではありましたが、今のところ実際に支配しているのは、永禄五年(1562年)に守護代の織田信賢(のぶかた)を攻めて統一を果たした尾張(おわり=愛知県西部)(11月1日参照>>)、永禄十年(1567年)に斎藤龍興(さいとうたつおき)から奪った稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・現岐阜城)(8月15日参照>>)を拠点とした美濃(みの=岐阜県南部)の2国のみ・・・

Odanobunaga400a 今回、上洛するに当たって、その行く道を阻んだ近江(おうみ=滋賀県)六角承禎(じょうてい・義堅)(9月13日参照>>)と、事実上畿内を牛耳っていた三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)(9月28日参照>>)を、一応は蹴散らしたものの、引導を渡すほどのダメージは与えておらず、追われた彼らも、未だある程度の兵力を温存したまま・・・

なので翌永禄十二年(1569年)1月に、早速、三好三人衆が動き出して義昭が滞在する本圀寺(ほんこくじ=当時は京都市下京区付近)を襲撃したりなんぞ(1月5日参照>>)・・・ここは、何とか配下の精鋭が守り切りましたが、不安に思った信長は、即座に、彼らの軍資金の出どころでもある(さかい=大阪府堺市)に脅しをかけて支配下に収めたり(1月9日参照>>)、義昭の御所を構築したり(2月2日参照>>)と、京都の守りを固めるのですが、一方で、自身の支配の及ぶ場所を拡大する事も急がねばならない事を痛感するのです。

そんな時、滝川一益(たきがわかずます)の調略によって、未だ支配下に治めていない伊勢(いせ=三重県中部)中部の木造具政(こづくりともまさ)が、兄で国司(こくし=地方官)北畠具教(きたばたけとものり)に背いて織田方につきます。

Kitabataketomonori500a これをキッカケに、永禄十二年(1569年)8月20日、信長自ら北畠討伐を目指しての伊勢侵攻を開始したのです。

その日のうちに桑名(くわな=三重県桑名市)、22日には白子観音寺(しろこかんのんじ=三重県鈴鹿市)、23日には小作(こづくり=三重県津市木造)へ・・・行く先々には、あらかじめ禁制を発給してその安全を確保し、進む軍隊は約8万騎とも10万騎とも言われるケタ違いの大軍でした。

かくして永禄十二年(1569年)8月26日、先陣を任されていた木下秀吉(きのしたひでよし=後の豊臣秀吉)率いる先遣部隊が阿坂城(あざかじょう=三重県松阪市)を攻め立てます。

抵抗を受けながらも、怯まずどんどん激しく攻め立てる織田軍に、「守り切れない!」と判断した北畠の軍勢は、やむなく降伏して城を開け渡して来たので、信長はここに、滝川一益を配備して、自らは、北畠具教・具房(ともふさ)父子の拠る大河内城(おかわちじょう=三重県松阪市)へと向かい、城の東側の山に陣取ります。

そして、その日のうちに町屋を焼き払ったうえで、南側には織田信包(のぶかね=信長の弟)や滝川一益など、西側には秀吉に氏家卜全(うじいえぼくぜん=直元)ら、北方には斎藤新五(さいとうしんご=利治・斎藤道三の末子)磯野員昌(いそのかずまさ)ら、東には柴田勝家(しばたかついえ)森可成(もりよしなり)など・・・万全の諸将らを配置したうえに、城を四方から2重3重の柵で囲み、その柵の間を、前田利家(まえだとしいえ)河尻秀隆(かわじりひでたか)毛利良勝(もうりよしかつ)といった面々に常時巡回させるという完全包囲体制を作り上げたのです。

こうしておいて、まずは9月8日、信長は、稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)池田恒興(いけだつねおき)丹羽長秀(にわながひで)ら3人に
「西の搦(から)め手から夜襲をかけろ」
と命じます。

その命令通り、その日の夜に3隊に分けれた奇襲部隊が夜討ちをかけますが、あいにく、攻撃開始から間もなく雨が降り始め、鉄砲がまるで役に立たず・・・しかも、城兵の反撃も予想以上に激しく、20数名の剛の者を討死させてしまいました。

このため、早速、翌日に信長は作戦変更・・・力攻めを止め、長期を視野に入れた兵糧攻めに切り替えます。

もちろん、さらに包囲を厳重にしたうえに、滝川一益に命じて、周辺の稲も焼き払いました。

ところが、コチラは予想以上に早く決着がつく事に・・・実は大河内城は、あまり兵糧の備えをしておらず、まして先の阿坂城から駆け込んだ者などは、まったくの着の身着のままの状況へ大河内の城へ入ったものですから、籠城から、わずか1ヶ月後には何人かの餓死者が出る状況となり、やむなく北畠具教は和睦の方向へと話を進めるのです。

信長から提示された条件は、大河内城を開け渡し、信長の息子=茶筅丸(ちゃせんまる=後の織田信雄)を具教の娘と結婚させて養子に迎え入れて北畠の後継者にする事。

北畠にとっては屈辱的な条件ですが、もはや、そうするしか無かったという感じだったのでしょうか。。。

かくして永禄十二年(1569年)10月4日、滝川一益らが大河内城へと出向き、城の受け渡しを行って後、北畠具教&具房父子は、笠木(かさぎ=三重県多気郡)坂内(さかない=三重県松坂市)に移りました。

ただし、今回の一連の流れについては、
先の稲葉一鉄らの夜襲が成功して、それが決定打となり開城に至ったという話(『稲葉家譜』『丹羽家譜伝』)や、
また、名門の北畠に織田信雄が入る事を不快に思った将軍=足利義昭の仲介で和睦に至ったという説もあります。

とにもかくにも、ここで一旦、織田に屈した北畠具教ではありましたが、そこは戦国武将・・・のらりくらりとかわしながら、しばらく実権は握ったまま、なかなか信雄に譲ろうとせず、しかも信長と義昭の対立が表面化すると、水面下で反織田派の武将に協力したり、隠居所と称して城を構築しようとしたり、なんやかやと暗躍していたようですが、結局、天正四年(1576年)11月、三瀬の変(みせのへん)と呼ばれる一件によって葬り去られ、北畠は滅亡となるのですが、そのお話は2011年11月25日【三瀬の変…名門・北畠の最後】のページ>>でどうぞm(_ _)m
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