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2019年9月19日 (木)

持船城の攻防~徳川家康の甲州征伐

 

天正七年(1579年)9月19日、2度目の攻撃で、徳川家康が武田方の持船城を落城させました。

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持船城(もちぶねじょう=静岡県静岡市駿河区)は、眼下の安倍川(あべがわ)の向こう=北東方面には駿府城(すんぷじょう=静岡県静岡市葵区)と城下町が、そのまま東から南へと転じると駿河湾を見下ろせるという小高い丘の上に建っていたお城です。

その持船城という名前でも察しがつくように、東海道が走る山側に建つ丸子城(まりこじょう=静岡県静岡市駿河区)と対をなすように、海側の要所を守るべく構築された海軍ための城だったのです。

最初にここに城を建てたのは駿河(するが=静岡県東部)守護(しゅご=県知事みたいな?)今川氏(いまがわし)の将で、一時は今川義元(いまがわよしもと)の妹婿=関口親永(せきぐちちかなが=瀬名義広・家康の奥さんの築山殿の父)が城主を務めた事もあったと言いますが、その後、例の桶狭間(おけはざま)(2007年5月19日参照>>)にて義元が亡くなって、こう着状態の信濃(しなの=長野県)から今川攻めに転じた甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)に持船城は奪われ、以後、武田の水軍の拠点になったと言います。

以前、【武田信玄の甲州水軍】のページ>>でも書かせていただきましたが、甲斐に生まれ育ち、おそらく喉から手が出るほど水軍が欲しかったであろう信玄にとって、その制海権を賭けた肝入りの城であった事でしょう。。。持船城という名前も、この頃つけられたとされています。

Tokugawaieyasu600 一方、これまで、祖父が殺され(12月5日参照>>)、父も殺され(3月6日参照>>)、運命に翻弄されながら今川にて人質生活(8月2日参照>>)を送りつつも、先の桶狭間キッカケで地元の岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)へと戻り、独立を果たした三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)(2008年5月19日参照>>)は、領国を平定しつつ、その2年後には西側の隣国=尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)と同盟を結び、自身の領地の東に広がる、現段階では今川に吸収合併されている場所(6月21日参照>>)遠江(とおとうみ=静岡県西部)への進出を画策しはじめました。

で、この家康の動向を見た信玄が、このままだと遠江の次は駿河とばかりに「駿河も家康の物になっちゃうかも!」と、上記の通り、今川攻めに転じたわけですが、そこで、家康の同盟者である信長の嫡男=織田信忠(のぶただ)と自身の五女=松姫(まつひめ=信松尼)の婚約を成立させ、その信長の仲介によって家康と手を組み、大井川以東を武田が、以西を徳川が、それぞれ攻め取る約束を交わし、武田&徳川が連携して、信玄は北から、家康は西から、義元の後を継いだ今川氏真(うじざね)に迫ったわけで・・・話が前後しましたが、上記の「持船城を武田が奪った」のはこの頃ですね。

で、その今川攻めは・・・
永禄十一年(1568年)の12月13日に信玄が氏真の居館である今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市葵区・現在の駿府城)を襲撃(12月13日参照>>)すれば、12月27日に氏真が逃げ込んだ掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)に、家康が攻撃を開始する(12月27日参照>>)という見事な連携プレーだったわけですが、それに激怒したのが、かつて今川義元&武田信玄と自分の3人で甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)を結んでいた相模(さがみ=神奈川県)北条氏康(うじやす)・・・

同盟者としては同じ同盟者である今川を武田が攻撃する事は約束破りですからね。

で、息子の北条氏政(うじまさ)を派遣して武田をけん制しつつ、掛川城攻撃中の家康に近づいた北条氏康は、家康&氏真の仲介に入り、氏政の息子=北条氏直(うじなお)が今川氏真の猶子(ゆうし=契約上の養子)となって今川家の家督を継いて駿河&遠江を支配するという結論で両者を和睦させてしまったのです。

しかし、それには駿河を取る気満々だった信玄が激おこです。

なんせ、家康と連携していたはずが、勝手に和睦して、名目上とは言え駿河が北条の物になっちゃったわけですから・・・

それでも、自力で駿河進行を進める信玄は、
(【大宮城(おおみやじょう=静岡県富士宮市)奪取 】参照>>)
(【蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区)奪取】参照>>)
と実力行使していき、

ここらあたりで、完全に織田&徳川と切れた信玄は、元亀三年(1572年)10月、世に言う西上作戦(せいじょうさくせん)(10月22日参照>>)を開始し、家康の領地を通過・・・12月22日にはご存知、三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)(12月22日参照>>)にて、信玄VS家康の直接対決となりますが、ここで家康は手痛い敗北を喰らってしまいます。

しかし、さらに西へと向かっていた武田軍が、年が明けた元亀四年(1573年=7月に天正に改元)1月11日の野田城(のだじょう=愛知県新城市豊島)(1月11日参照>>)最後に、なぜか再び甲斐に戻ってしまうのです。

ご存知のように、この年の4月の行軍中に信玄が亡くなってしまったのです(4月16日参照>>)

信玄の死を、その2か月後に知った家康は、すぐさま、あの西上作戦のドサクサで武田傘下となっていた長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市長篠)を奪取(9月8日参照>>) ・・・ここから、「遠江⇔駿河間にある武田方の城を一つ一つ自分の物にしていく作戦」を開始するのです。

もちろん、信玄の後を継いだ武田勝頼(かつより=信玄の四男)も黙ってはおらず、家康傘下となったこの長篠城を取り返しに来るのが、天正三年(1575年)5月の、あの有名な長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら)の戦いなわけですが(5月21日参照>>)

その戦いで信長の支援を受けて武田に勝利した家康は、
天正三年(1575年)8月には諏訪原城(すわはらじょう=静岡県島田市)(8月24日参照>>)
12月には二俣城(ふたまたじょう=静岡県浜松市天竜区二)などと、ますます「遠江⇔駿河間にある武田方の城を一つ一つ自分の物にしていく作戦」を継続していく事になるのですが、もちろん、武田も、そうそう簡単には攻略させてはくれず・・・

とまぁ、そのうちの一つが今回の持船城というわけなのですが・・・

最初の戦いは天正五年(1577年)の10月2日

この時は、家康が持船城を攻め、城を守っていた今福丹波(いまふくたんば)三浦兵部(みうらひょうぶ)向井正重(むかいまさしげ)など、招かれて武田水軍に入っていた武将らが戦死したとされますが、城自体は、德川に奪われる事は無かったようです。

2度目は、2年後の天正七年(1579年)9月19日

この時は、德川方の松平家忠(まつだいらいえただ=家康と祖が同じ深溝松平家)牧野康成(まきのやすしげ)らが当目坂(とうめざか=静岡県焼津市)を越えて持船城を奇襲し、三浦兵部や向井正重ら30余を討ち取って、持船城を落城させました。。。って、2回討ち取られてますがな???

実は天正五年の記録は『嶽南史』なる文献で、天正七年の記録は、この時、持船城に撃ち入った松平家忠の日記の記述・・・日記はご本人が書いてるわけですから、この日、持船城を陥落させた事は確かでしょう。

一般的にも、天正五年に1度めの合戦があり、主たる武将が討ち取られたものの、三浦兵部や向井正重が討死したのは天正七年の9月19日であろうという説が有力ではありますが、この時代、敵の武将の顔や名前を知ってる方が珍しいですから、討死した武将の名に関してはちょいと「?」がつくかも知れません。

とは言え、ここで一旦、持船城は徳川の物になったのですが、未だ周辺は武田の勢力範囲であったため、孤立を恐れた家康は、そのまま持船城を維持する事無く兵を退いています。

なので、翌・天正八年(1580年)3月頃には、武田方が城を奪回して大幅修築し、城代として朝比奈信置(あさひなのぶおき)を置いて、德川からの襲撃に備えさせ、家康も掛川城へと戻っています。

それにしても、この2度目の持船城攻撃を仕掛けた天正七年(1579年)9月19日という日付け・・・この4日前には嫡男の信康(のぶやす)を自刃に追い込み(9月15日参照>>)、さらに、その半月前の8月29日には奥さんの築山殿(つきやまどの=瀬名姫)を殺害(8月29日参照>>)している家康さん。。。

戦国の世のならいとは言え、「酷やなぁ」と思いますが、それをやれる人でないと生き残っては行けないのが戦国なのでしょうね~

なんせ、武田信玄の死の翌年の天正二年(1574年)、武田勝頼は、その後継者の役目を果たすべく、父も落とせなかった高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)を落として(5月12日参照>>)信玄の時代より領地を拡大していますが、今回の持船城攻防の翌年の天正九年(1581年)には、逆に、その高天神城を家康に奪われ(3月22日参照>>)武田滅亡へのカウントダウンが始まってしまうのですから、戦国の浮き沈みは激しい・・・

そして、家康による3度目かつ最終の持船城への攻撃が成されるのが天正十年(1582年)2月21日から・・・

そう、あの、織田信長による『甲州征伐(こうしゅうせいばつ)(2月9日参照>>)に連携しての攻撃です。

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(長篠から武田滅亡までの間の)遠江争奪戦関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

天正十年(1582年)正月27日、妹=真理姫(まりひめ)の嫁ぎ先である木曽義昌(きそよしまさ)が、織田方に寝返ったとの情報を得た勝頼は、早速、従兄弟の武田信豊(のぶとよ=信繁の息子)と弟の仁科盛信(にしなもりのぶ)を大手と搦手(からめて)の大将として木曽谷に向かわせ、自らも諏訪上原(うえのはら=長野県諏訪市)へと進出して陣を構え、戦闘態勢に入ります。

もちろん、木曽義昌も、すぐさま信長に援軍を要請・・・信長も、2月3日には、嫡男=織田信忠(のぶただ)を総大将とする主力部隊を木曽岩村(いわむら=岐阜県恵那市)から、朋友の家康を駿河口から、北条氏政を関東口から、それぞれ武田領内への侵攻を命じました。

即座に進発した主力部隊の先発隊が2月6日に滝ガ沢砦(長野県下伊那郡)、14日には信州松尾城(まつおじょう=長野県飯田市)小笠原信嶺(おがさわらのぶみね)を味方につけ ・・・と次々進んで行く中、2月18日に浜松を出発した家康は、2月20日に田中城(たなかじょう=静岡県藤枝市)を開城させ(2月20日参照>>)、 翌・21日には、当目坂で勝利した勢いのまま駿府(すんぷ=静岡県静岡市)を占領すると同時に、そのまま持船城を囲みます。

23日には、竹束(たけたば)で結橋(ゆいはし=堀を越えるための簡単な橋)を作って総攻撃を開始・・・耐えかねた朝比奈信置は27日に降伏し、29日に持船城を家康に開け渡しました。

それと前後して、駿河方面における武田方の守りの主力だった江尻城(えじりじょう=静岡県清水市)穴山梅雪(あなやまばいせつ=信君)織田方に降った事を知った勝頼・・・こうなれば、どうにもこうにも、戦略の立て直しするしかなく、やむなく武田信豊とともに上原を引き上げ、新府城(しんぷじょう=山梨県韮崎市)へと帰還しますが、強い味方であった弟=仁科盛信の高遠城(たかおおじょう=長野県伊那市)も3月2日に落城(3月2日参照>>)してしまいます。

高遠城が抵抗を続けている間に、次の対策を練ろうと考えていた勝頼の予定は狂い、やむなく、建てたばかりの新府城に火を放って、重臣の小山田信茂(おやまだのぶしげ)の居城=岩殿山城(いわどのやまじょう=山梨県大月市)に向かいますが、ご存知のように、これが武田滅亡への最後の旅路となったのです。

一方、この功績により、家康は駿河を得る事になります。

★この先の関連ページ
●【武田勝頼、天目山に散る】>>
●【勝頼の妻・北条夫人桂林院】>>
【武田滅亡後の論功行賞と訓令】>>
【恵林寺焼き討ち】>>
【信長の安土帰陣と息子・勝長】>>
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