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2019年11月24日 (日)

岩村城奪回作戦~秋山虎繁VS織田信忠

 

天正三年(1575年)11月24日、武田方の秋山虎繁に奪われていた岩村城を奪回した織田信忠が岐阜へと帰還しました。

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永禄十一年(1568年)9月に足利義昭(あしかがよしあき)を奉じての上洛を果たし(9月7日参照>>)、その義昭を第15代室町幕府将軍に据えて(10月18日参照>>)以来、事実上、京都を制した形になっていた織田信長(おだのぶなが)ではありましたが、その後、徐々に義昭と信長の距離間が遠くなるわ(1月23日参照>>)琵琶湖(びわこ=滋賀県)周辺では越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)+北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)連合軍とのドンパチが始まるわ(6月19日参照>>)、それキッカケで上洛の際に散らした三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)は戻って来るわ(8月26日参照>>)、その三好に石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)顕如(けんにょ)が賛同して(9月14日参照>>)全国の本願寺門徒に一揆の蜂起(ほうき)を呼びかけてアッチャコッチャで一向一揆(いっこういっき)が始まるわ(長島一向一揆)(近江一向一揆>>)、浅井&朝倉の残党を匿う比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ=滋賀県大津市)に文句言うたら反発して来るわ(9月12日参照>>)、と周囲敵ばかりの大忙し・・・いわゆる『信長包囲網(のぶながほういもう)です。

そんなこんなの元亀三年(1572年)10月、いよいよ甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん=晴信)が動き出します。

かねてより、将軍=義昭から信長の討伐&上洛を呼びかけられていたし、天台座主(てんだいざす=延暦寺の住職)覚恕(かくじょ=後奈良天皇の皇子・法親王)の甲斐亡命のもととなった例の比叡山焼き討ちに信玄自身がメッチャ怒ってた事もあって、自ら2万5千の大軍を率いて躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた=山梨県甲府市古府中)を出陣し、世に言う西上作戦(せいじょうさくせん)(2008年12月22日参照>>)を開始したのです。

Akiyamatorasige700a この時、信玄本隊が飯田からほぼ天竜川に沿って南下し青崩峠(あおくずれとうげ)を越えて侵攻する(一言坂>>)(二俣城>>)のと同時に、家臣の山県昌景(やまがたまさかげ)遠江(とおとうみ=静岡県西部)から(10月22日参照>>)秋山虎繁(あきやまとらしげ=晴近・信友)美濃(みの=岐阜県)方面から徳川家康(とくがわいえやす)の領する三河(みかわ=愛知県東部)への侵攻を任され、武田の別動隊として各地で諸城を落としつつ転戦していて、秋山虎繁が攻略した城の中の一つが岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市岩村町)でした。

この岩村城は、鎌倉時代の昔から岩村遠山(とおやま)が治める城でしたが、すでに、この城の重要性に気づいていた信長の父=織田信秀(のぶひで)が、城主の遠山景任(とおやまかげとう)妹を嫁がせて懇意にしていた中で、この年の8月に景任が子供を持たないまま病死してしまった事から、信長が自身の息子=御坊丸(ごぼうまる・信長の四男か五男で後の勝長または信房)を養子として送り込んで継がせていたので事実上、織田の城となっていたのでした。

この岩村城を、この秋ごろから囲んだ秋山勢でしたが堅固な城はなかなか落ちず・・・この時、御坊丸はまだ6歳の幼子だったので実際に城内を仕切っていたのは遠山に嫁いだ信秀の妹=おつやの方(おゆうの方・お直の方)だったのですが、ジワジワと攻めて来る秋山虎繁は、なんと!戦場でおつやの方に求婚。。。
「俺と結婚してくれたら、城も命も助ける」と・・・

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信玄の西上ルートと周辺広域図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この武田方の動きに、信長も森長可(もりながよし)らの猛将を先鋒に約2万の軍勢で以って対抗しますが、小競り合いはあるものの決着はつかず・・・やがて3ヶ月余りの籠城の末、年が明けた元亀四年(1573年)3月2日、おつやの方は虎繁の条件を呑んで岩村城を開城(3月2日参照>>)・・・信長の息子=御坊丸は養子という名の人質として甲斐に送られてしまいました。

この状況に、激おこの信長ではありましたが、ご存知の通り、この間に、あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市)(三方ヶ原>>)(犀ヶ崖>>)から野田城(のだじょう=愛知県新城市)攻防戦(1月11日参照>>)武田はどんどん西へと進んで行きますし、あの将軍=義昭がいよいよ信長に反旗を翻す(2月20日参照>>)しで、ここンとこの信長は、アチコチに兵を分配しなければならなかったわけで・・・

ところが、そんな中、その野田城攻防戦を最後に、それまで西へ向かっていた武田軍が甲斐へと戻って行きます。
そう、ご存知のようにこの元亀四年(1573年・7月に天正に改元)4月12日に信玄が病死したのです(4月16日参照>>)

その遺言により「3年隠せ」とされた信玄の死は、意外に早く周囲にも知れ渡る事になり、徳川家康は、このスキに武田方の長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市長篠)を奪ったり(9月8日参照>>)なんぞしているのですが、

信長の方は・・・
7月には、あの義昭がまたまた挙兵するし(7月18日参照>>)、あの浅井&朝倉との決着もあるし(8月20日参照>>)、もちろん本願寺門徒との一向一揆も継続中ですし(10月25日参照>>)、奈良の松永久秀(まつながひさひで)は裏切るし(12月26日参照>>)・・・で、信長は対武田にあまり兵を割く事ができず、この後しばらくは、信玄の後を継いだ武田勝頼(かつより)明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)を奪ったり(2月5日参照>>)高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)を陥落させたり(5月12日参照>>)して武田の健在ぶりをアピールする事になるのですが、

しかし天正三年(1575年)5月、先の信玄死のドサクサで家康に奪われていた長篠城を武田勝頼が取り返しに来る事で勃発した有名な長篠設楽ヶ原(したらがはら)の戦い(5月21日参照>>)織田&徳川の連合軍で勝利した信長は、
「ようやく時が来た!」
とばかりに、この年の11月、嫡男=織田信忠(のぶただ)に2万の兵をつけて岩村城奪還に向かわせ、自らも1万の兵とともに後詰(ごづめ=本隊の後方に待機する予備軍)として鶴ヶ城(つるがじょう=岐阜県瑞浪市土岐町・神箆城・国府城・高野城)に着陣します。

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岩村城奪回戦と恵那郡十八砦の位置関係図
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

もともと戦略的に重要な場所である岩村城含む恵那(えな=岐阜県南東部)周辺には、武田方からの侵攻を阻止すべく、織田や遠山によって「恵那郡十八砦」と呼ばれる砦や出城が形勢されていたのですが、ここンとこの勝頼の勢いで、この時点では、それらはすっかり武田の砦になってしまっていて、岩村城奪回を任された信忠は、まずは、これらの砦から攻略しなければならない・・・

と思っていたところ、今回の「織田の大軍が来たる!」の一報により、浮足づいた守備兵らが、かの岩村城に集結してしまったため、各砦に残されていたのは「強い主君ならどっちでもイイ」あるいは「もともとは織田の配下だった」って感じの美濃出身の者が中心で、織田軍が近づくとアッサリと砦を放棄したり寝返ったりする者ばかり・・・信忠隊は、ほとんど無傷のまま、予想外に素早く周辺の砦を取り戻し、秋山虎繁の立て籠もる岩村城へと向かう事ができ、この状況を見た後詰の信長も一旦岐阜へと帰還します。

一方、敵軍に迫られた岩村城からの救援要請を受けた武田勝頼は、早速、軍を率いて伊那(いな=長野県南部)まで来ますが、おりからの大雪に阻まれて、それ以上進めず・・・

織田軍の包囲によって補給路を断たれ、援軍も望めなくなった岩村城は、この窮地を脱するべく、11月10日、水晶山(すいしょうやま=岐阜県恵那市岩村町)に布陣していた織田軍に夜襲をかけます。

地の利が無い場所で夜間に襲撃された事で、ここに布陣していた織田方はアッという間に散り々々にされてしまいましたが、勝ちに乗じた岩村城方が、さらに進撃しようとすると、そこに織田方の河尻秀隆(かわじりひでたか)をはじめとする救援隊が駆け付け、見事な戦いぶりで大将格21人のほか多数の城兵を討ち取り、やむなく出撃した城兵は城内へ退却・・・戻れなかった者も周辺の山中へと逃げて行きました。

織田軍大将の信忠は、岩村城の堅固な構えを踏まえて、それでも力攻めをせず、厳重な包囲網を維持しつつ兵糧攻めを続けますが、当然、やがて兵糧も尽き、城内の兵たちの疲れもピークの達した頃、織田方の塚本小大膳(つかもとこたいぜん)のもとに城内からの使者がやって来て、
「城兵の命を助けてくれるなら開城しても良い」
と申し出て来たのです。

そこで、
「大将3名が岐阜まで来て謝罪するなら…」
という条件で、11月21日、秋山虎繁以下大島杢之助(おおしまもくのすけ)座光寺為清(ざこうじためきよ)の3名が捕らえられて岐阜へと送られ、岩村城は開城となりました。

かくして天正三年(1575年) 11月24日、奪還に功績のあった河尻秀隆を岩村城に置き、織田信忠は岐阜へと戻ったのでした。

ところが・・・
岐阜に到着した秋山以下3名は、即座に長良川の河原にて磔刑(たっけい=はりつけの刑)に処せられてしまいます。

これは、信長が、息子を武田の人質に差し出しおきながら自らはちゃっかり(←否、苦悩の末だとは思うが)奥さんに納まってたおつやの方に怒り心頭だったから・・・なんて事も言われますが、

別の説では、先の徳川家康の長篠城奪取の際(再び9月8日参照>>)に武田の人質となっていた奥平信昌(おくだいらのぶまさ=当時は貞昌)奥さんと弟を、有無を言わさず磔刑に処した事に対する報復とも考えられています。
(世は戦国ですから、信長だけではなく武田も色々ヤッちゃってます)

しかし、「岐阜に出向いての謝罪=その後は許されるかも」と思ってい岩村籠城組の面々は、
「約束と、ちゃうやないかい!」
怒り爆発し、再び戦いが勃発するのですが、もはや岩村の残党に成すすべなく、次々と討ち取られ・・・おつやの方の親衛隊として最後まで岩村城にて仕えていた遠山七頭衆をはじめとする勇将たちも討死、あるいは自決して果てたと言います。

この結果を耳にした武田勝頼は、仕方なく甲斐へと引き返して行きました。

ちなみに、秋山虎繁らと前後して捕らえられたとされるおつやの方も、同じく長良川の河畔で磔刑に処せられますが、よほど信長は怒っていたのか?血縁のある未だ20代とおぼしき彼女を逆さ磔にしたのだとか・・・
(設楽ヶ原の時の鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)のような逆さ磔>>だったら…と想像するとコワイ)

この後、この11月の末に嫡男の信忠に織田家の家督を譲った(11月28日参照>>)信長は、翌天正四年(1576年)2月に安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)の構築に着手します(2月23日参照>>)が、

一方の敵側には、今まさに日本海側を越前の目前の越中富山(とやま=富山県富山市)まで侵攻(3月17日参照>>)して来ていた越後(えちご=新潟県)の大物=上杉謙信(うえすぎけんしん)が、信玄亡き後の穴を埋めるように『信長包囲網』に加わり(5月18日参照>>)、信長と本願寺との戦いも激化していくのですが、そのお話は【織田信長の年表】>>のそれぞれのページで・・・

また、先の岩村城の落城で甲斐に送られた信長の息子=御坊丸は、このあと10年くらい甲斐で人質生活を送り、信長のもとに戻って来るのは武田が滅亡する寸前の頃だとか・・・そして、それからほどなく、あの本能寺の変が起き、御坊丸こと織田勝長(おだかつなが)は、父ちゃん&兄ちゃんとともに命を落とす事になります(4月4日参照>>)
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コメント

地図を見る限りでは岩村城跡は私鉄の駅から近いですが、山間部だから駅からでもかなりの山道ですね。
先日、この私鉄がテレビで取り上げられていました。

さて、信忠らの生母と言われる生駒吉乃さん。
来年の大河ドラマでは誰が演じるんでしょうか?

投稿: えびすこ | 2019年12月 3日 (火) 10時40分

えびすこさん、こんばんは~

最近の大河は「奥さんは一人」的な演出が多いですからね~
濃姫が出る以上、吉乃さんは影が薄い感じに描かれるんでしょうか?

投稿: 茶々 | 2019年12月 4日 (水) 03時09分

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