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2019年12月20日 (金)

今川と徳川の狭間で~引馬城の飯尾連龍とお田鶴の方

 

永禄八年(1565年)12月20日、遠江引馬城主の飯尾連竜が駿河にて今川氏真に誘殺されました。

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現在の浜松城(はままつじょう)の場所にあったとされる引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市中区・引間城・曳馬城)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を治めるには重要な城・・・かつて室町幕府政権下で駿河(するが=静岡県東部)守護(しゅご=県知事)であった今川(いまがわ)が遠江の守護でもあったものの、一時は追われて斯波(しば)が守護になっていた事もありました。

それを、その斯波の配下で遠江引馬荘の代官であった引馬城主=大河内貞綱(おおこうちさだつな)を倒して、今川の手に取り戻したのが、北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時:氏親の母は早雲の姉もしくは妹)の尽力によって今川家第9代当主となっていた今川氏親(うじちか)でした(6月21日参照>>)

その時、氏親の命によって、その後の引馬城を任されたのが、今川配下の飯尾賢連(いのおかたつら)だったのです(諸説あり)

で、その今川氏親と「女戦国大名」の異名を取る女傑=寿桂尼(じゅけいに)(3月14日参照>>)の息子が、ご存知、今川義元(いまがわよしもと)で、急死した兄=氏輝(うじてる)の後を継いで、やがては海道一の弓取りと呼ばれる大物になるわけですが・・・

これまたご存知のように、1番天下に近いと言われていたノリノリ真っただ中、未だ尾張(おわり=愛知県西部)の一武将であった織田信長(おだのぶなが)の奇襲によって永禄三年(1560年)、桶狭間(おけはざま=愛知県名古屋市&豊明市)(2015年5月19日参照>>)に倒れてしまいました。

Imagawauzizane400 総大将が討ち取られた・・・という事は、当然、その周囲にいた重臣や傘下の大物たちの多くも討ち取られたわけで、これは、急遽、亡き義元の後を継ぐ事になった今川氏真(うじざね)にとっては大打撃!

しかも、この桶狭間のドサクサで今川の人質だった徳川家康(とくがわいえやす)三河(みかわ=愛知県東部)岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市康生町)に入って独立(2008年5月19日参照>>)した事で、今川傘下だった西三河が徳川の勢力圏内に・・・

ただ、この家康が、今後も今川と仲良くしてくれるんなら波風立たなかったわけですが、実際には、その逆・・・2年後の永禄五年(1562年)に信長と同盟を結んで(1月15日参照>>)、完全に今川から離反というより、敵対を表明します。

もちろん、それは家康だけでなく、義元というカリスマ大黒柱の急死は、次々と傘下の武将の離反を生んでしまうのです。

なんせ、「今川が駿河と遠江を支配」と言っても、そこには、もとから地元に根付いている国人領主も多くいて、彼らは、現段階で力を持つ今川家に対して「寄らば大樹の陰」で傘下に納まっているだけで、腹の底では今川のやり方に不満を抱えた者もいたわけですから・・・

あの桶狭間の2年後の永禄五年(1562年)には、家康とコンビを組む信長も尾張の統一(11月1日参照>>)を果たして遠江&その西側はは完全にヤバし!ですし、駿河の北には甲斐(かい=山梨県)の大物=武田信玄(たけだしんげん)がいるわけですから、このまま今川に留まるのかどうか・・・皆々悩むところです。

そんな中の一人が、かつて引馬城を任された飯尾賢連の孫で引馬城主の飯尾連龍(いのおつらたつ・ 致実・能房)でした。

一説には連龍の父=飯尾乗連(のりつら=つまり賢連の息子)は、かの桶狭間で義元とともに命を落としたうちの一人だとか・・・連龍が家督を継いだ年数はハッキリしませんが、上記の通り、お父さん亡き今は、まぎれもなく引馬城主なわけです。

で、その連龍が永禄五年(1562年)頃から、どうやら織田&徳川方についたようで・・・

これを知った今川氏真は、早速、今川傘下の井伊(いい)の家臣である新野親矩(にいのちかのり)らに命じて引馬城を攻めます。

これを受けた連龍は、飯田(いいだ=静岡県静岡市)まで出てきて迎え撃ち、かなりの激戦となりますが、勝負は着かず・・・この時、周辺の寺々でも、今川につく者と伊尾につく者に別れて戦闘となり、飯尾派だった頭陀寺(づだじ=静岡県浜松市)では堂舎の多くが焼かれたと言います。

しかし、どうしても飯尾連龍が許せない氏真・・・いや、許せないというよりは、ここをシッカリ押さえておかないと、周囲にも示しがつがないし、さらに離反者増えちゃいますからね。

なので永禄七年(1564年)9月、再び、新野親矩に3千の兵をつけ、引馬城を攻撃させるのですが、これが、引馬城を落とすどころか、飯尾方が放った矢に当たって、大将の新野親矩が討死する事態に・・・(新野親矩の死亡日については、この翌年の開城の時という説もあり)

とにもかくにも、結局、引馬城を落とせなかった氏真は、連龍とは一旦、和睦する事とし、とりあえず、今回の戦いは落ち着きました。

ちなみに、
先にも書かせていただいたように、この時は引馬城だけではなく、同時期に複数の遠江の武将(二俣城の松井や犬居城の天野など)「今川か?徳川か?」で揺れ、各地で合戦が起こったわけですが、この一連の戦いは「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)と呼ばれます。

しかし、氏真は、これで終わりにはしなかったのです。

永禄八年(1565年)12月20日、あらためて飯尾連龍を自身の駿府城(すんぷじょう=静岡県静岡市)に呼びつけ、面会の準備のため城内二の丸に入った連龍を襲撃し、殺害してしまったのです。

氏真の講和は偽りだった・・・これに怒った引馬城内に残っていた飯尾の家臣たちが、そのまま引馬城に籠城して今川に抵抗しました。

あくまで伝説の域を出ない話も含まれていますが、この、主君亡き後の引馬城籠城の中心となったのは連龍の奥さんであるお田鶴の方(おたづのかた=椿姫)であったとか・・・

このお田鶴の方のお母さんは今川義元の妹もしくは義妹の娘という事なので、つまりはお田鶴の方は今川氏親&寿桂尼さん夫婦の孫であり今川氏真とは従兄弟になる完全に今川の人であったわけですが、この時は、亡き夫の遺志を継いて引馬城に籠り、この後、家康が遠江へ侵入して来る永禄十一年(1568年)まで、引馬城を守り抜いていたと言います。

しかし、その永禄十一年(1568年)は運命の年・・・

今川との同盟を勝手に破棄して駿河を狙いはじめた武田信玄が、織田信長の仲介で、家康とタッグを組んで今川領に侵攻し始めるのです。

信玄が12月12日の薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)の戦い(12月12日参照>>)から、翌13日には氏真の本拠である今川館(静岡県静岡市葵区)を攻撃(12月13日参照>>)して、氏真を掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市掛川)へと追いやると、

同時に家康が、その掛川城を攻撃すべく、井伊谷三人衆を味方につけて遠江に入る(12月13日参照>>)のですが、この時、掛川城へ近づくべく、家康は引馬城の明け渡しの要求をしたのです。

しかしお田鶴の方は断固拒否・・・自ら防戦の指揮をを取って度々撃って出ます。

しかし、所詮は多勢に無勢でどうにもならず・・・最後は、自ら甲冑をまとい長刀を持って敵陣に斬り込み、壮絶な最期を遂げたと言います。

後に、彼女の死を惜しんだ家康の正室=築山殿(つきやまどの=瀬名姫←お田鶴の方の義理の従兄弟)が、彼女の住まい跡に建立された塚に100本余りの椿を植えて供養した事から、このお田鶴の方は椿姫とも呼ばれているのだとか・・・

こうして12月18日に引馬城に入った家康は、そこを拠点として12月27日から掛川城への攻撃を開始し、翌・永禄十二年(1569年)5月にようやく開城・・・敗れた氏真は奥さんとともに、奥さんの実家である北条氏政(ほうじょううじまさ)を頼って相模へ逃れる事になります(12月27日参照>>)
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